昔の家族の話
嫌いな人にはまず近寄らないわたしだが、それが叶わないのが母親だ。 正直、彼女とわたしの関係は渋い。
年始の挨拶で数か月ぶりに顔を合わせても、もちろん渋いまま。
相変わらずの息苦しさを提供してくる彼女。
「家の片付けをしているから、あなたの物で必要なものは持って行って」に対して 「必要なものはもう置いてないよ?」 と返したわたし。 それに対して 「子どもの頃のアルバムも?写真もたくさんあるのに??」 と言ってくる。
そこにわたしは息苦しさを感じてしまう。
だってそう言われてしまうと、それらを「必要なもの」と思えない自分に非があるように思わされてしまうから。
そういうふうに、わたしは育てられた。
母親が絶対的に正しく、彼女と意見が異なった時に間違っているのは常に自分であると。
彼女が成績の良かったわたしで自尊心を満たしていたことには気づいていたから、それを利用してわたしは家を出た。
もしわたしの成績が振るわなかったら、どうだったろう。
仲良し母娘を装って、毎月一緒にカフェに行って彼女の愚痴を全て肯定したりして、彼女から自分の身を守っていたかもしれない。
自分の好きよりも母親の好きで自分を塗り固めて生きたかもしれない。
いずれにせよ、子どもの頃のアルバムを欲しいと思わない大人に育つことになっただろうなとは思う。
子どもに対して、わたしはどうか?
彼から呼吸のしやすさを奪ってはいないか?
彼が必要ないと判断したものを、必要でしょうと押し付けるような息苦しさを与えていないか?
そう、振り返るきっかけをくれる人。
彼女が他人だったならな。
相性が悪いんだよね、と距離を置けば済むのに。
そのことに対してとやかく言われることはないのに、親子となると
「話し合えばわかる」
とか
「それでもあなたのことを大切に思っているんだよ」
とか言ってくる人がいるのはなぜだろう。
もちろん同じように母親もわたしに対しての不満を感じていることだろう。
よその娘さんはもっとこまめに帰ってきて、お茶を飲みながら話し相手になってくれたり、一緒にお買い物に行ってくれたりするのにな、と。
直接その不満をぶつけられることはないとわかっている。
父のいる前でそれは絶対に言わないし、わたしは父抜きの場で彼女とふたりきりになることはしないからだ。
片付けは彼女が納得しなかったので、日を改めてまた行かねばならない。
こちらの結論は変わらないけれど、時間を費やすという形で譲歩したことを見せる作戦。
「もう必要なものはない」と、そのまま押し切っても良かったな…と今もう既に後悔している。