多様性を受け入れる時代へ - 脳科学と個性の探究
発達障害と定型発達の境界
発達障害とか定型発達みたいなのが言われていて、じゃあその人の行動ってどこまで定型でどこまでが特性なのか、個性なのかって結構議論になりますよね。脳科学的には、だから3つフィルターがあって、インプットのフィルターと予測のフィルターとアウトプットのフィルター3つがあるから、それぞれ3つも変数があったら誰一人同じになるわけがないよねって考えると、みんな違って当たり前なんですけど、どれぐらい基本的特性があって、定型発達みたいのがどうやって定義できるのかっていうのは結構議論ですね。
どうやってそれを査定するんだっていうことで、結局じゃあIQテストみたいになってくるわけだよね。でもIQテストは別に唯一絶対の指標じゃないし、発達障害とIQは関係ないんですよ。だから例えば重度のADHDだからといって知能が低いわけではないっていうことだよね。そこは勘違いしてはいけないんですね。なので、IQテストは確かによくできてるテストだけど、その人の特性を測るっていう意味ではまた違うわけですね。
それは歴史の繰り返しで、じゃあその人間の定型発達を測るテストを誰かが発明したとして、結局それって人を選抜するために使われることになるよね。だから、やらない方が良くて、人と人は全然違うんだっていう方向に行った方がいいと思うんだよね。ちょっと科学の思考を諦める感じだけど、本質主義をやめようっていうことだよ。
本質主義と構成主義
なんか本質主義と構成主義ってのがあって、世の中の考え方にね。本質主義っていうのは、物事にはちゃんと本質があって、みたいな。脳科学で言えば、脳の中には恐怖を司る回路がありますとか、心理学でいえば基本情動理論っていうのがあって、こういう顔してたら悲しいし、こういう顔してたら嬉しいし、みたいなのが本質があるんだ、みたいな情動のね。そういうのは古典的で、もうそういう本質主義みたいなやめよう。