子供の頃のトラウマ

ずっと昔小学生の頃、私はあまり要領の良い子供ではなかった。担任の先生で年配の女教師の言われた事を理解出来ずいつも叱られる毎日であった。今考えるとそんなに先生の機嫌を損ねほどの事はしていなかったと思うが、先生の感に触る子であったのだろう。今思うと相当ヒステリーな女教師であった。
いつも教室の後ろに立たされながら、お前のこれが悪いあれが悪いとネチネチ言われ私は心が折れる想いでいた。(もうとっくに折れていたのかもしれないが)
この頃は"立たされる"."正座をさせられる","ビンタをされる"はそんなに問題になる事ではなかった、親も我が子が悪さをするから叱られるくらいに考えていたから学校に押しかける事もなかった。それほどのどかな時代であったと思う。
ある時、いつもと変わらず先生に叱られて立たされていた。もちろんビンタもあった。どんな事が問題であったかは覚えていないが、女教師が激昂し私を含む数名を立たせていた。
その際"自分の事ができない者に他人の事ができるのか!"と言われた。
きっと誰かが失敗をした事に意見を言ったのだと思うが、その事に対して"お前たちが意見を言う立場にないだろう"と責められたのだろうかと思う。
私は今でもこの言葉が記憶から離れない、人の役に立つ事をしていても自分にはこれをする立場にあるのか?自分の事はできているのか?と考えてしまう。
事あるごとにこの言葉が思い出されて何をするにも二の足を踏んでしまう。
全てがこの言葉に関係するわけではないと思うが心の中のストッパーになっているだろう。
私はこの事があってから、常に自分に自信がない人生を送っている。明らかに社会人としての役割ができないくらい自信がないのである。
これを読んで頂いている皆さんはこの"自分の事ができない者に他人の事はできない"と言う言葉をどう思われるでしょうか?どう解釈しますか?
私はこの言葉を思い出す時、間違っているようには感じない、自分の事をきっちり片付けてから他人の事に取り掛かる方が良い。これは当たり前の事を言っているように感じている。しかし世の中に出て社会人として働いていると、自分の事が100%できていなくても仕事として他人の役に立つ事をしている、この事を考えるとこの言葉は間違っているとも思う。
この言葉について私はほとんど判断ができない、心の中でブレーキをかける何かがあるのだろう。
きっと一生この言葉の呪縛から抜ける事はできないだろうと思う。

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