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ゆとり⇔会話の好循環で円満に繋がる

会話をしていて気づいたこと。
「でも~」って言葉は相手の世界を否定する言葉なんだ。。。
今さらという感じだけれど、あまりピンと来ていなかった。

現在、今後の人生の方針を模索中の私。一人で考えると思考のぐるぐるループになりがちなので、1つキーワードが出てくるとそれについて夫を相手にとりとめもなく話しをする。

先日、私はいつものように自分の考えを夫に話していた。すると、夫が「でも~」と話し出した。このパターンはこれまでもしばしばあって、そのたびに私はひどく動揺する。頭をガーンと殴られたようにフラフラとなってしまっていた。先日も同じ状態に陥って、ようやく気が付いた。「でも」という言葉が否定を示すのだということを。

私は感覚派の理系で、夫は理論派の文系。ちょっとややこしい。
理系の割に言葉を適切に使えていないらしく、夫からよくダメだしを受けるほど。そういう無頓着なところもあってか、「でも~」が会話の中で果たす役割にあまり気づけていなかった。

こういうはっとした気づきを私は夫に共有せずにはいられない。
そこで、私は「でも~」という言葉で自分の世界を拒絶されたように感じたこと、そして、相手の世界に対して「でも~」という言葉を使ってはいけないのではないだろうかと思うことを話した。

人はそれぞれの世界を持っている。
「でも~」と言ったとき、それは相手の世界を否定して、自分の世界(価値観)を押し付けようとしていると感じる。相手の価値観と違うときは、「なるほどね~。私はこういう風に考えているけど、そういう世界もあるね。」でよくないのかなと。

人は自分の世界をとても大切にしている。
だからこれを否定されたとき、悲しくなるし、度を越してしまえば、争いが生じるのではないだろうか。共感できなかったとしても、積極的に否定をしないという選択ができればもう少し諍いや争いは減るのではないだろうか。

ただ、このためにはゆとりがないと難しいかもしれない。
ゆとりがなければ、「でも~」という言葉が相手を否定する言葉だから使うのは慎重にしようなんて相手を気遣うことすらできないかもしれない。
ゆとりがなければ、相手の言葉を勝手に解釈してしまい、間違った会話のキャッチボールを続けてしまうかもしれない。
ゆとりがなければ、相手の言葉の真の意味に気づかず、表面的な意味だけを受け取って間違ったアドバイスや指示をしてしまうかもしれない。
ゆとりがなければ、会話を遮ってしまい、話しすらきかなくなってしまうかもしれない。

今は、タイパ重視になってきているけれど、話し合いには十分すぎるくらいに時間をかけるべきだと思う。
伝えたいことが出たときにきちんとそれぞれの想いや考えを伝えあっておければ、掛け違いは生じにくくなるだろうし、文句や不満も減ると思う。スタート時の溝をできるだけ小さくしておけば、時間が経過してもその溝はそこまで開かず、スタート時の溝が大きければ大きいほど、時間の経過とともに加速度的にその溝は広く・深くなっていくように経験上、思う。

と考えながら、会話がうまくできていれば、ゆとりも出てくるだろうから、まるで鶏が先か、卵が先かの議論みたいだなと思う。

すべての国のすべての人が相手を思いやれるゆとりを持てる世の中になりますように。

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