事実は小説より奇なり-19:圧倒的に知名度が低いGRD S73
日本ではまだしも、海外では圧倒的に知名度が低い(と思われる)GRD S73。1971年にGroup Racing Developments:GRDとして設立された英国のRacing car contractor。
Team LotusがF-1に専念するため、市販用レーシングカー製造部門が閉鎖され、その部門で働いていたスタッフの大部分がこの新たなcontractorに移動した。
Race関係者として有名な森脇基恭は1969年に大学を卒業し、HONDAに入社、ホンダ技研研究所に配属されたが、同社を退社し渡英、GRDに入社した。
同社でchief designerとなりF-3マシンを設計、ヨーロッパ各国でチャンピオンマシンとなった。
1972年、生沢徹は富士GC用にGRD S72(後述)を購入し戦った。当時の富士スピードウェイはバンクを含めた6kmのコースで1.6kmの長いストレート後に30度バンクを走るためシャーシが路面に接触する問題があった。
GC73の設計者小野昌朗がGRDのレースカーを日本の富士GC向けに設計したワイドトレッドでカウルも別物のGC74は77年に生沢徹・79年に中嶋悟を年間チャンピオンに押し上げた。
なおwikiでは上記の様になっていたが、識者からの指摘で、GC74Sはノバエンジニアリングの宮坂メカニックの努力の賜物と知らされた。確かにその様な記載もみたことがあったので訂正 2023.12.17
・SIGMA MC73、Le Mans にはMazdaのロータリーエンジンを搭載し、鮒子田弘・P. Dal Boと共に挑戦した。GRDや後述のGC74と比べると、6kmの直線を走るためトレッドが狭い。Le Mans用に製造されたMC73はスポーツカーの規定を反映し、シャーシは左右対称で富士用の燃料タンクも右側に偏ったであったものを元の設計に戻したとされている。
・次のモデルは2020年6月に購入した、Tim Schenken / Dave Charltonが1973年のKyalami 9hで駆ったLucky StrikeカラーNo.7のGRD S73、その戦績は不明である。
これが最初で、以後はいつ購入したか不明、大手のモデルメーカーは広告案内後6ヶ月程で販売されるが、このモデルのTrofeu(Tr)はポルトガルのメーカー、1品種が150台の生産数と少量、他の大手メーカーと異なり発売時期や種類が一定せず6台が発売された後、2022.06.03に最後の案内がされて既に1年半、残る2台が不明で意を決して文章とした。
・次のモデルは22.03.01頃に案内のあった、SEIKOがスポンサーとなっているTr製のNo.5 GRD S73、名前かニックネームか会社名か分からないが「Lumaro」と書かれ1973年の3rd Vila do Conde に参戦した様だがこれも戦績不明。
・3番目に届いたモデルは22年4月に案内の出た、1974年の5th Targa FlorioにG Galimberti / P.G. Mussaが駆った白地にNo.43のGRD 74S、エンジンカバーが外れ直列4気筒のエンジン及びラムパイプを見ることができる。
このモデルから台座の文字が74Sとなり、前モデルまでのS73から変わっている。
・4番目に届いたモデルは22年の5月に案内が出た、1975年、1st Vila do Condeに参戦し優勝したCarlos Santosが駆った茶色のカラーでNo.5のGRD 73S、戦績不明でドアに貼られたNo.の下地が白と黒に分かれている。
・5番目のモデルは、22年7月案内の1981年、2nd Rampa da Lagos Azulに参戦したErnesto Nevesが駆った白地にNo.29のGRD 73S、エンジンカバーが外れ直列4気筒のエンジン及びラムパイプを見ることができるが、これも戦績不明である。
・6番目のモデルは、22年8月案内の1978年、Ritsonas Hill Climbに参戦したMakis Saliarisの駆ったMarlboroカラーにNo.が書かれていないGRD 73S、Hill Climbならエンジンカバーを外したほうが良さそうだが、戦績不明である。
7番目と8番目は後述。
・生沢徹とGRD S74(GC 74)、前述生沢が富士GCに参戦した車。車体は他の GCカーよりトレッドが広い、ノバエンジニアリングの宮坂メカニックが工夫を重ね競争力のある車に仕上げたもの。更に74年の富士 GC最大の事故後、バンクを含むコースは廃止、4.3kmのコースはワイドトレッドシャーシがマッチ、74年は年間ライキング3位を獲得した。生沢の戦績は皆様ご存知の様に富士GCでは1973年SIGMA GC73で1974年からGRD S74を駆り活躍、75年最終戦には由良拓也のムーンクラフトがカウルをモディファイしたがスペアエンジンなしの環境が足を引っ張りランキングは4位であった。76年はスペアエンジンを入手しGC初優勝を達成したが、年間ランキングは2位であった。1977年には優勝は1回だが3位が2回に4位2回で、星野一義を1点差で上回り富士GCシリーズチャンピオンとなった。
これが生沢の長いレースキャリアの中で獲得した唯一の年間タイトルであった。
・編集後記
最初に書いた様に、新モデル案内が出てから1年半を過ぎても2台のモデルが購入できずに諦めの境地。念の為(海外の冊子にはこの2台のモデルが販売されているし、eBayでは既に中古を含めて出品されている)国内の種々の店のHome Pageを見ると既に完売となっている店があった。そこで予約した1軒に電話してみると、自分を含めて2人分のモデルが未入荷が判明、調査を依頼した。
日本国内の販売代理店は大手の国際貿易、日本の大手販売店はこの問屋を通して入手し販売しているが、2社とも未だ未入手との事で、予約票は今も継続して店で保管している。それでは国内に出回っている少数は、他の伝手で入手しているモデルらしい。「こんなの有りか?」と思ってもトミー等のモデルと異なり希望者は少数で「こんなのも有る」らしい。
それでは7番目のモデルは以下の案内があった。このモデルを見て購入意欲が湧いたが。
もう一台はこれ、8番目に紹介された最後のモデル。
GRDの趣味人は国内にも数人いるらしい。年に1回開催される横浜大桟橋会場で行われるホビーフォーラムで出品されFace Bookに掲げられたモデル(生沢徹の駆ったS72)の写真を提示した、相原修氏が細部まで作り込んだ逸品、惚れぼれする出来だ!
番号の付け方は多くがS73とSが先になっているが、Trのモデルは73S(表題の写真参照)となっている(とは言うものの、上述案内文ではS73ではあるが)。この違い、1973年のモデルがS73で1974年以降のモデルが73S、この変更された理由は文献が無いので不明。
もう一つ、1981年に走ったNo.29は73年製の73S、1974年の74Sは比べてみると同じ車の様に感ずるが(74Sは先端にスポイラーが付いているが)、モデルでは唯1台の74S、この番号の車が有ったのか、単なる記載ミスか不明(モデルの台座や箱書きの間違いは結構なモデルに見ることができる)。
モデルを改めて臨んでみると結構なデータを得ることができ(書籍では後姿が写っていない物が多いが、それも解消される)、蘊蓄を垂れる(爺さんは蘊蓄好き)のに結構な材料となる。
いずれ種々が判明した時にここに訂正文を載せる予定としている。 2023.12.16
2023.12.17 一部改変
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