異能β-3 テキサスの白い怪鳥-2 Chaparral-2から本領発揮
Chaparralというと、Innovator(革新者)が代名詞になるくらい、革新的な技術が網羅された車。それらのメカニズムは現在のマシーンにも大きな影響を持っている。
2AはFRPモノコックフレーム、オートマチック・ギアボックスという新しいメカニズムを酷使した車である。FRPフレームは現在のカーボン・コンポジット・フレームの先輩に当たるし、オートマチック・ギアボックスは現在のF-1に用いられているメカニズムの原型で一般車のオートマチックとは異なる。
Chaparral-2は単なる2と2Aに分けている文献も多数見受けられる(Car Graphic〈CG〉のSports car Profile Series 4 Chaparralでは全て2Aで統一)。63年のミッドエンジン配置の自前の車を2、ノーズ両端のフィンの有るものを2Aとしている文献もある。
4ℓから始まったミッドエンジンはその後5.36ℓとなった。Chaparral-2(No.5 1963年10月、Riversideで行われたL.A.Times GPは予選1位、決勝DNF)は前年同様にノーズが高い位置にあり、初期にはノーズリフトの原因となった(初期の日産R380のノーズと同様な形)、種々の本ではSnowplow(除雪機)と揶揄された。
1963年のシーズンは大きな活躍は出来なかった。まだ空力・ハンドリング・サスペンション等で不具合が発生、高いポテンシャルを見せたもののLaguna Secaの3位が唯一の戦績であった。
翌64年、フロント回りが一新され、低いノーズでリフトを解消、後部にスポイラーが装着され、走行安定性が大幅に改善された。
この年、これまでライバルだったRoger Penske(R-P)がチームに加わり、ドライバー・後にマネージャーとなった。Chaparral 2はUSRRC(米国ロードレース・チャンピョンシップ)の第2戦で初優勝している。この頃Chaparralは色々改造されている。各バンクから独立して出ているマフラーが集合されたり(しかし効果は無かったらしく元の独立タイプに戻された)
この頃、オートマチックトランスミッション(今のオートマとは異なったシステム)が採用されたりしている。(上の写真の両車輌はシャーシNo.2A001で同じ車だがNeとMMではマフラー形状が多少異なり、マフラーパイプのエンジンからの出方はNeが正しいところをみると、形状も太いNeがより正確な様に思われる)
12月には、この頃最も高額賞金だったNassauでNo.6のR-Pが優勝している。
65年は最も成功した年である。3月のSebring 12hで総合優勝した。ちなみに1965年の12hで優勝したChaparralは2と紹介されている(CGでは2A)。
6月にはノーズ左右にスポイラーが追加され、独特な風貌を見せている。9月にはラジエーターの熱風が直接ドライバーに当たらない様なトンネル状のダクトが、フェンダー上側にはルーバーが追加されている。見出しの写真(AUTOart製)
同年10月、FRPに代えてアルミ合金のモノコックを採用したChaparral 2C(2Bという車はない、協力関係にあったGMがGS IIbという車を開発していて、その関係ともいわれている)がデビューした。モノコックの重量が半分になり、競争力が倍増した。この2Cはボディー後半に可変式のスポイラー(J-Hはこれをフリッパーと呼んでいた)を装備し、後に2Aも同様な改造を行なっている。
同年12月のナッソー・スピードウィークでは2Aと2Cが揃って出場している。このレースはCG誌に紹介され、Chaparralが一般に広く知られる様になったのだ。なお、この2Cはマフラーが2Aと同じ独立型と、集合しボディー内を通って後部パネルから排出されるNassau型があり、3レースに出場し独立型の1回が初出場・初優勝となっている。
この年Chaparralは22戦に出場し16戦で優勝、USRRCでは全9戦で8勝を挙げ、J-Hは6勝している(しかし、2リッター以下のクラスでGeorge Follmerが6勝を挙げ、総得点でJ-Hを2点抑えてシリーズ・チャンピョンになっている)。