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異能β-10:    LotusはやっぱりGreenじゃなきゃ

 最近(23.03.18)入手したモデルは1/43のLotus 49、No.5はJim ClarkがDutch GPでこの車の初出場・初優勝を遂げたモデル。

 Lotusは好きなメーカーだが、世の習いとはいうもののゴールドリーフカラー以後の車は今一好きになれない(JPSは一寸好きだったが、1台も持っていない)。

 ここで、入手しているGreen Lotusを供覧した。(一部は白や赤)

 日本で一般にLotusの名が知れる様になったのは、1963年の第1回日本GPで優勝した車があるからだろう。

 Lotusの創始者であるColin Chapmanはモノコックボディーやベンチュリーカーをレースカーに取り入れた異能βである。 
 そこで、彼の功績を称え、初期のLotusを供覧した。

 モデルのLotus 23は2台共 Spark(SP)の製品(国際貿易からの特注品)、No.2は後にLotusの監督になったPeter Warrの車、彼は1982年にC. Chapmanが急逝すると、マネージャーとしてLotus Teamを指揮した人物。No.3は3位となったArthur Owen(モデルの台座にはArtherとなっているが、eではなくuが正解の様だ)、ヒルクライムのチャンピオンとの記載もみるが、このレースではJaguar EやAustin-Healey 3000で他クラスのレースにも参戦している。

1/43 SP製 手前は1回日本GPでの優勝車、奥は同3位の車

 Lotus 23は1962 年から 63 年にかけての FIA グループ 4 レース専用に設計された車。
 最初のレースは62年5月のNürburgring 1000km。1.5ℓ Cosworthエンジンを搭載して参戦したがエキゾーストパイプの破損でリタイアとなった。
 62年のLe Mansでは前面投影面積がルールに合わないとの理由で一時参戦を却下され、この様なみっともないフロントウインドウで参戦したが、スペアタイヤの格納で一悶着、結局以後のLe Mans参戦はChapmanの死後まで行われなかった。

1/43 SP製 No.84:Nürburgring 1000kmの車、No.47:Le Mans参戦車

 モデルは両者ともSP、No.84は最初にNürburgring 1000kmを走った車、今の様なロールバーが無いのが当時は普通であった。No.47はLe Mansに参戦した車、この様な規定による改造は63年のChaparral-1にも見られる。みっともないが面白い。(note:異能β-3 テキサスの白い怪鳥-1 Chaparral 以前 参照)

 Lotus 30を最初に見たのは65年のCar Graphic 4月号(Lotus 23も同様、そもそも雑誌でスポーツカーを見たのはそれが最初)、走っている姿も写真に出ていて、格好良いなと感じたが、30はレースカーとしては米国の一部での活躍しかない(というか、Jim Clarkが乗ってこその速さ)。その後のLotus 40はタミヤのスロットカーが出たので火が着いたかという言わば際物だが、自分的には好きな車だった。
 モデルは1/43でSP以外には見ない(1/18ではテクノモデルスからでている)。そのモデルもLotus Greenに黄色のラインとマフラーが素敵、A.J. Foytの乗った30は色が異なり入手していない。

1/43 SP製 手前のNo.15が30、奥のNo.8が40 マフラーの場所、ロールバーの形等に違いをみる

 次はフォーミュラーカーモデル
 C. Chapmanは「勝つこと!」をポリシーに戦い、それに必要な車の作製に渾身を掲げた。
 LotusのシングルシーターはType 12とType 16が最初とされ、いずれも50年代後半に発表された。60年代初めにCooperの始めたリア(ミッドシップ)エンジンでシングルシーター車にデザインを変更し、Type 21でグランプリ初優勝を飾った。

 Lotus 25は初のモノコックシャーシでF-1の概念を変えた車、外壁が構造材になるので丈夫で軽い。それと空気抵抗を最小にするべく、水平に近い姿勢が保てる様な形、サスペンションはType 21から始まったインボードタイプ等、エンジンはType 12から使用している市販のCoventry Climaxで出走99回に14勝して、1963年のシリーズチャンピオンとなった。

1/43 解説は本文中

 モデルは63年のJ.Clarkの No.8 と64年のNo.4のPeter Arundell。No.8はイタリアのBrumm Model(BM)の製品、イタリアのMonza GPの優勝車、その記念としたのか。No.4は大手のSPのモデル。P. Arundellはこのレース後事故で重傷を起し、その後66年まで走れなかった25での最後の車。モデルは断然SPの方が出来が良い。

 F-1ではLotus 25後はLotus 33。Lotus 25の究極の進化系で1.5ℓF-1では最高のレースカーとされている。しかし、64年は、初期にクラッシュし、修理に2ヶ月かかることから25で戦うことが余儀なくされた結果(終盤33で参戦したが、良い成績は残せず)。
 65年Clarkは、GP全10戦の内9戦に参戦し6勝(モナコはインディと同日でインディ優勝:後述)、33では5勝(フランスGPは25で優勝)シリーズチャンピオンとなっている。

1/43 No.1はJ.Clarkが駆ったLotus 33、No.18はM.Spenceが代理No.2となったモデル

 モデルは右がSPの製品でがMike Spenceが駆った33、P. Arundellが負傷で出場できずM.Spenceが代理No.2のモデル。左はBMの製品。33を探していた時(この頃、eBayは知らず狭い東京の中でしか探せなかった)蒲田のモデル屋で発見し、取り敢えずの1台ということで入手したが、資料を見て65年でNo.1を付けていたのはドイツGPだけと知りそのモデルと分かった。

 66年F-1は規定改定でエンジンが3ℓとなり、初期の頃LotusはCoventry Climax の2.0ℓエンジンを使用せざるを得なくて、良い成績は残せていない。それでもLotus 43はBRMのH16エンジンの提供があり期待が寄せられたが、エンジンは大きく重く複雑で破損が多くClarkがUS GPで優勝できたのは奇跡の様なものであった。

1/43 3台ともSP製 No.1は唯一の優勝車、手前のNo.8は67年の南アGPでGraham Hillが駆った43、
奥のNo.4はP. Arundellが駆った最後の43

 ところで、これらのモデルを見ていて、ハテナと感じるドライバーが目につくPeter Arundellだ。彼は64年、期待の新人として、その年の開幕4戦中3戦で3位2回、4位1回とClarkをサポート、7月の始めに重傷を負い、No.2の地位をMike Spenceに渡すことになった。しかし、66年負傷が癒えた彼が再びNo.2に着いたのだから実力は認められていた様だ。
 モデルを集めだし、60年代のF-1、特にLotusを探していた。Lotus25なら当然Jim Clarkなのだろうが、こんなのは既に売り切れ。探しに探して見つけたのが64年のFrench GPのP. Arundellの車、これはP. Arundellが最初にF-1本戦に出場した時の63年モデルと同じ。Lotus 43のP. Arundellは66年に彼が43で出場した最後のGPのモデル(予選でClarkのエンジン破損でP. Arundellの車に乗りついだ)、以後はClarkがその車を使用。P. Arundellは33で戦い、US GPで6位入賞するもその年でF-1から撤退し、69年に完全引退した。

1/43 奥はSP製の43、手前はBM製の25

 閑話休題、Lotus 43の後釜はLotus 49、新しい3ℓF-1エンジンの開発までお蔵入りであった車。その49はFord から開発費の提供を受けたCosworthが新たに開発したFord cosworth DFV engine を搭載すると、見違える様に走り、初出場・初優勝を飾り、その後は一般に市販され、F-1通算155勝を挙げている。

 モデルは2種、一つはこの試みの元となった、発売早々のSP、J.ClarkがオランダGPで初出場・初優勝の車モデル、素晴らしい仕上がりだ。もう一台はかなり以前に入手したそのJ.Clarkが最後に乗った67年の南アGPの車、Sun Star Modelsという初めて目にした珍しいメーカーの製品、比べてみると、エンジンやリアサスペンションの作りが雑であるが、それも一興として持っている。その2台を見比べて欲しい。

1/43 奥はSP製、手前は珍しいSun Star Models製
1/43  Sun Star Models製エンジンのラムパイプの向き、リアサスペンションの取り付け位置
1/43 SP製、エンジンのラムパイプはこちら向きが正解、サスペンションも大分異なる

  LotusはF-1の他にもフォーミュラカーがある、それがIndyの歴史を変えたLotus 29Lotus 38
 1962年、Dan GurneyがF-1GPで初めて採用されたモノコック・フレームのLotus25を見たことから始まった。
 その高い競争力に大排気量のエンジンをのせれば、Indy優勝も夢でないと考え
C. ChapmanをIndyに招待した。

 Ford FairlaneのV8 Engineは375HP、対するOffenhauser Engine(Offy)は400HPであった。Lotusは重量が100kg以上軽く、最高速は落ちるものの、コーナーリングスピードで上回り、タイヤの摩耗も少なく有利であると考えられ、63年のレースではLotusはJim ClarkとD. Gurneyがステアリングを握った。(note:事実は小説より奇なり-11  世代交代の1963年Indy 500 より一部引用)
 レースはParnelli JonesとJ. Clarkの一騎打ちとなった。残り100マイルの時点でP. Jonesが首位にいたが、J. Clarkが段々と差を詰め交代は時間の問題と見られていた。しかし残20周でP. Jonesの車からオイル漏れ、これにより路面が滑りやすくなり、J. Clarkもスピードを落とさざるを得なかった。当然ブラックフラッグが振られるものを思われていたが、オフィシャルは様子をみることにし(アメリカ人を優勝させたかったらしい)、遂にP. JonesがIndy初優勝となりJ. Clarkは2位に終わったが、観衆はいずれLotusが優勝すると思った。
モデルは英国のSMTS製、SMTSは珍しいあるいは際物が多いが、だからこそモデルが集められる。

1/43 SMTS製の29と単行本の写真

 64年のIndyにはLotus 34で参戦、No.6のClarkは予選1位であったが決勝は47周サスペンショントラブルにより24位で終了した。

1/43 SMTS製

 65年はLotus 38によりIndy 500参戦(同日に行われたF-1 Monaco GPを欠場)した、予選2位でスタートし(予選1位はLotus 34に乗った前年優勝のA.J.Foyt)優勝、同じレースにパーネリジョーンズはLotus Teamの34の改造型で臨み予選5位、決勝2位であった。

1/43 J.Clarkが駆った3台、No.82がIndy 500初優勝のモデルSP製
1/43 SMTS製65年のLotus34(改)、左横のタンクと後部形状が64年製とは異なる(参考モデル)

 最後は一般車モデル
 大手販売店のKid BoxがSparkに依頼、記念品として300台程作らせた物。
 1/43 Lotus Elan S1 British Clubman Style 1962と題し、KID BOX 30th. Anniversary Model 。ロータスグリーンが良く似合うElan、ある催事場で入手したもの。(note :異能β-8  競争しない車たちより一部引用)

1/43 SPによるKID BOXからの特注品

参考文献
林 信次 F1全史 1961-1965 [充実の葉巻型1.5ℓ時代/クラークとロータスの蜜月] ニューズ出版 平成9年6月20日、東京

林 信次 F1全史 1966-1970 [3リッターF1の開幕/ホンダ挑戦期の終わり] ニューズ出版 平成7年3月20日、東京

TEAM LOTUS THE FORMULA CARS    William Taylor Coterie Press Ltd UK 2011

TEAM LOTUS THE INDIANAPOLIS YEARS  Andrew Ferguson Haynes Publishing UK 1996

林信次 INDY 500 1911-2017 三樹書房 2018


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