異能β-3 テキサスの白い怪鳥-4 翼を広げた怪鳥Chaparral 2Eと2F
1966年から始まったCan-AmにJ-HはChaparral 2Eを開発して臨んだ。エンジンは5.36ℓのまま、その最大の特徴は巨大なウイングとサイドラジエーター。Chaparral 2Eと言えば予選では早いがフィニッシュが難しいため1勝しかしていない。しかしその1勝は圧倒的、DVDや各種の本でそれを確認することができる。
このウイングはアメリカの特許庁に申請され、そこにGMのエンジニア名があることから、GMの協力関係は間違いない。(見出しの写真、1/43 TSM製)
66年にH-Sが引退したため、もう1台にはP-H(No.65)がステアリングを握り、第4戦のLaguna Secaで、2Eで唯一の優勝を飾った。以後、ポールポジションは取れても勝利を得る事はなかった。
1967年、耐久レースは2Dの他に新たに制作されたChaparral 2Fが登場した。スタイル的には今までの車とはまるで似ていない、この角ばったスタイルは空力を安定に導き、下方に空気の潜り込みを阻止する役目を狙ったともいえる。また、ノーズのラジエーターの部位に整流板を置き、車体下面の気流コントロールも目的にした様だ(現在では可動付加物は禁止されている)。フロント前輪の前にラゲージスペースを設け、一悶着を起こしているが、これも認められている。
ウイングは2Eを踏襲し、黒の支柱で動かすためのダンパーが見える。エンジンは7ℓで、GMの協力によりシリンダーブロックがアルミで鋳造されている。ドライバーはP-Hと新たにMike Spence(M-S)が加わっている。
この年、最初は2Dとの2台で、その後は2Fの2台でレースを戦っている。この大きな車で曲がりくねったTarga FlorioやNürburgringにも出場している。戦績は1967年 最終戦のBOAC 500マイル(804kmになるが実際は6時間で終了)で優勝(初完走)している。最後のレースは1台だけ出場しP-HとM-Sがステアリングを握った。 1968年からは排気量の上限が3リッターとなり、2Fは走れず。
P-Hはこれを最後に引退、彼は最後のレースに優勝できたことを非常に喜んだ。
Chaparral 2E・2Fとも優勝は1回づつしかない。こんな優勝回数にも関わらず、人気のある理由はイノベーターたる所以からきていると言ったら言い過ぎか。
その後のレース界に影響を与えた高いウイングやサイドラジエーター、さらに孤軍奮闘の戦いは日本人の琴線に触れる姿勢であり、フリークとなって高価なモデルを収集するのは致し方ない。
追加
2024.01.06、遂にSparkがLe Mans100周年のため、Le Mansを走った全車をモデル化するらしく、2F 2種と2D 1種を計画、その中でNo.8号車が発売、筆者はminichampsとSparkの比較を記載した。興味のある方は「事実は小説よりも奇なり-20:Spark製Chaparralー1」をご一読願いたい。
2024.01.06一部追加