異能β-5 あっと振り向くバックシャンCheetah Riverside
東京で最初にオリンピックが開催された1964年、巷ではボーリング場やモデルカーレーシングのサーキットが雨後の筍のごとく林立した。その頃はまだプラモデルが元となる1/24モデルカーが主体であったが、翌年辺りからもっと軽いクリアボディが輸入され、本邦でもそれを真似して種々のモデルが作られた。
その中で好みのボディはショートホイルベースでワイドトレッドの車(FT-16というマブチモーターをサイドワインダー形式で2器を並列に並べる)でコーナーリンクが速くてガイドから外れ難い車に仕上がった。これがCheetah Riversideと名付けられたモデルであった。この頃の車の特徴は車体後部をカム理論で導きだされたコーダトロンカ形状が主であったが、Cheetahは丸く一寸尖った形状であり、所謂バックシャンであった。
今所有しているCheetahは15台、大河ドラマで言うなら「地井他殿の13台+2」、今回どの様な順序で記載しようかと思っていたが、Race Resultsをみて、のべ89レースの年代別とRiversideの別名の由来も推理した。
最初の1台はSpark(SP) 1/43 1963年製のNo.の付いていない「Cheetah Aluminium 1963」、Cheetah最初の2台はアルミニウム製でその後はグラスファイバー製のボディとなった。63年のResultsには10月13日の200 mile Riversideに参戦、No.58で名手Bob Bondurantの名がある。エントラントはBill Thomas/John Grow、結果はDNAで、とりあえずエントリーしたが、予選でトラブルでもあったか。この頃はJerry Titusがテストドライバーをしていたらしい。
1964年2月15日の250 mile Daytona(Daytona Continental 24時間とは異なる)にSPのNo.14 Ralph Salyerが駆った青いモデルがある。このレースには他に2台のエントリーがあるが、No.14は13位で終了したことが記されている(他の2台はDNS とDNF)。
モデルを見ると、右のドアにテープで目張りがしてある。Cheetahは最初に展示用の車として製作され、その後レースに供されることになるが、鋼管スペースフレームは剛性が弱く、歪んでガルウイングドアが開くことがあり目張りが必要となった。(以後その対策としてオープン化〈Cro-Sal〉された)。Cheetahは直線で馬鹿っ早く、コーナーでグシャリ、まるでホットロッドの様だとも言われた。
同年4月13日にはNational Open PhoenixでDon Jensenが駆ったNo.8のMarsh Models(MM)の赤いモデルがある。1/43のCheetahは青山のMake Upで初めて見たのが最初、Cheetahモデルは探しに探していたので当時は結構な金額であったがすぐ様購入したのは言うまでもない。なおこのモデルは次のRiversideとLaguna Secaにも出走しているが何もDNAとDNFであった。
この同じNational Open PhoenixにはNo.58、テストドライバーであるJerry Titusの赤いモデル(SP)も出走し、24位で完走している。彼は7戦に出場しているが、良い成績は残せていない。
このNo.8と No.58は4月26日のUSRRC Riversideと5月3日のUSRRC Lagna Secaに揃って出走しているが、何もDNA・DNFであった。
No.26は前述250 mile Daytona でNo.14を駆ったRalph Salyerの車(SP)(Cro-Salと名付けられオープン仕上げ)、11戦で優勝との記載資料もあり、最も成功したCheetahともいわれている。しかし、Race Results に記載されているNo.26は、3戦(No.不明のものを入れると4戦)で以下の様になっている。1964年6月21日のSCCA National Road Americaと同年8月2日のSCCA National Lynndale Farmsと同年9月27日のDivislonal Greenwoodの3レースで1位と書かれているが、其々の他のレース結果をみると1位は全部他人名が書かれていて、優勝していない様だ(あるいは戦績に残らないクラス分け〈65年Sebring12hのChaparralの様な〉での優勝か)。結局、元資料のRace ResultsでRalph Salyerは64・65年で20戦に出場し、1位5回、2位2回、3位2回の戦績を残している(5戦でNo.25を付けていた様だ)。オープン仕上げは軽量化と風圧でのドアの開きと暑さ対策でも有利なためか。
No.33はMike JonesのClarence Dixon Cadillac Inc.、1964年10月11日の200 mile Riversideに出場した車の1/18(Replicarz)と1/43 (SP)のモデル。このレースには他にNo.36のJerry Titus(チョロQ)、No.58のBill Cantrell(MM)、No.81のAlen Grant(SP)の4台が揃って出場しているが、何もDNA・DNFであった。この多数出場をしてRiversideの別名が付いた様だ。
No.17は1965年6月5日のPlayer’s 200 Mosportに参戦したGary GoveのBardahl Lubricant Ltd.と書かれたモデル(MM)、箱書きでは64年となっているが、64年のNo17はElva Mk-7であり65年が正解、結果は8位であった。
No.64はBudd Clusserathの車と思われる、eBayのオークションで落札したが、誰が何処での記載がなく、Race ResultsのNoでの検索である、この車は66年と70年にSam Coingが参戦したが大した戦績は残せていない。
プラモデルは半世紀以上前に作った、COXの1/24モデルカーレーシング(今のスロットカー)モデル、その頃はCheetahの写真は殆ど無く、自分の好きなNo.47を付けて作ったもの、テールライトが4個あるので、ストリートバージョンとも考えられるが、COXとCheetahのステッカーが当時を思い起こす。
残りの赤と黒の2台は更に小さい、紙粘土の成形で作られたような品。あるホビー会場で展示されていてCheetahフリークであるがために購入したにすぎない。チョロQ(この手としてはかなり高額)と言いこの粘土細工と言い(品の割に高額)フリークは死ななきゃ治らないか(じゃ、もう時機だ)。
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