日米貿易摩擦
1970年代から日本の集中豪雨型輸出が批判を浴びる
米国からの批判の中、自主規制などでこれに対応
1969年「鉄鋼」1972年「繊維協定」1977年「カラーテレビ」1981年「自動車」1986年「半導体協定」→しかし貿易黒字は減少せず
貿易摩擦が起きた品目
60年代「繊維」
70年代「鉄鋼、カラーテレビ、工作機械」
80年代「自動車、半導体」
日米貿易摩擦の主要事件時系列
1980年代からアメリカは日本の輸出超過、輸入超過を受け、日本への非難「ジャパンバッシング」を強める。
1986年、中曽根内閣の諮問機関「国際協調のための経済構造調整研究会」が、貿易摩擦是正のため内需拡大、市場開放、金融自由化を報告書にまとめる。これは前川レポートと呼ばれる。
1980年代から日米貿易摩擦は激化し、日米の貿易不均衡を是正すべく、日米間で経済協議が行われる。
1986年には日米半導体協定が合意。急速な成長を遂げた日本の半導体産業に対してその成長を制限する内容で、米国は自国の軍需産業への安全保障上の脅威としてとらえていた。
1987年には、レーガン大統領が日本のダンピング(不当廉売)を理由に日本製のパソコンとカラーテレビなどに異例の100%の制裁関税を賦課した。
1989年に開催された「日米構造協議」では、米国は両国の経済構造まで変化させようとしており、特に日本の「大規模小売店舗法(大規模小売店の出店規制)」が非関税障壁となっているとして取りざたされ、のちに法規制の緩和へと向かうことになる。
次に1993年の日米包括経済協議では、米国側が具体的な数字目標を要求。日本の経常収支の黒字を三年後にGDPの2%以内に削減するなどを合意した。
しかし、日本も自動車部品の数値目標は譲らず、1995年の「日米自動車交渉」に持ち込まれることとなる。
日米自動車交渉の中で強気な態度をとった米国に日本は譲らず、すると米国は「米国包括通商法第301条」で規定されている、いわゆる「スーパー301条制裁」をちらつかせはじめる。
これは米国が不正取引慣行国を指定し、それを改善しない場合報復措置をとれるというもので、米国は実際に日本に対し、WTO(世界貿易機関)で協議するとともに、日本の高級車に100%の報復関税を課税すると発表する。
しかし日本も米国の制裁措置がWTOのマルチラテラリズム(多国間主義)に反するとしてWTOの紛争処理手続きを開始、結局その時は米国が制裁を取りやめることとなる。
その後、中国の台頭や日本のバブル崩壊によって日本への脅威論が収まると、日米貿易摩擦は一時解消され、ジャパンバッシングのような社会問題も沈静化していくこととなる。
現在は米中貿易摩擦が発生しており、特にEV産業などへの過剰政府投資が市場の不均衡を生じさせているとして、米国は是正を求めている。