石原なんでも通信 令和6年度 No.5を お届けします。
今回のタイトルは 「菅原道真と讃岐」です。画像の菅原道真像はウィキペディアより。
「天神様」とも呼ばれる菅原道真、今から1,050年も前のことになりますが、 886~890年の間、讃岐国司として現在の坂出市府中町にあったとされる讃岐国府に赴任されました。(菅原道真は845年京生まれ、903年大宰府で没)
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、宇多天皇の親政「寛平の治」(在位:887-897)を支えた一人であり、醍醐天皇(在位:897-930)時代には 従二位右大臣にまで上り詰めましたが、政敵 左大臣藤原時平の讒言により、太宰府へ大宰府外帥として左遷され現地で没しました。後に天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神様として親しまれています。
1.菅原道真の讃岐国司赴任は「左遷」?
886年、讃岐守(讃岐国司)を拝任し、任国へ下向することとなりました。道真はこの任が「左遷である」と言われていることが残念であると述べて おり、度々悲しみの意を表していたとの文献が残っています。でも、讃岐の国司になることが果たして「左遷」だったのでしょうか?
上の地図のように、当時は「律令制」の下、全国の「国」が面積、人口
戦略的重要性などの観点から、5つの範ちゅうに分けられていました。
それぞれのレベルに応じて、派遣される国司の官位のレベルも決められて いたようです。「讃岐」は「上国」の一つでした。
道真が41歳で「讃岐守」の任を受けた時の官位は「従五位下」 、 「上国」の「国司」は通常「四位」が任命されるとの事で、都からの距離といい、道真が嘆いたようなランクを落とされた「左遷」でなかったことは間違いありません。但し、道真の力を恐れた政敵が道真を都から遠ざけたと いうことなのでしょう。
2.当時の「讃岐国府」跡
現在の坂出市府中町にあります。最寄り駅はJR 「讃岐府中」駅。上の写真の様に国府跡として石碑も建てられています。
一帯の発掘作業が継続して行われており、2020年には国の「史跡」にも指定されました。今後さらに当時の様相がはっきりしてくると思われます。
古代の讃岐は今の坂出辺りが中心だったんですね。
今の坂出市林田町に国府の外港(国府津)があり、国府は少々
内陸に入った三方を小高い山に囲まれた場所にあったようです。
国分寺跡も国府跡の東方にありますが、この位置関係も
頷けます。国府跡から歩いていける場所に多くの人が讃岐で
一番という「がもううどん」もあります。辺り一帯は今は
静かな農村地帯、「栄華の跡」を感じ取ることは難しいですが、
「うどん探検」と合わせ散策されてはいかがでしょうか?
3.天神信仰
この機会に天神信仰についてちょっと調べてみましょう。
「現代・神社の信仰分布」(国学院大学)によれば、信仰別 神社 ランキング(全国の神社数)Top 5 は以下。天神信仰は堂々第三位。
(こんぴら信仰は14位です。)
信仰 神社数 総本社
1. 八幡信仰 7,817社 宇佐神宮
2.伊勢信仰 4,425社 伊勢神宮
(3.天神信仰 3,953社 北野天満宮、太宰府天満宮)
4.稲荷信仰 2,970社 伏見稲荷大社
5.熊野信仰 2,693社 熊野三山
(参考: 14.こんぴら信仰 601社 金刀比羅宮
香川県にも天満宮は200以上あると言われています
一番有名なのは、国府跡にも近く、菅原道真公の官舎の跡に建てられたと
いわれる滝宮の「滝宮天満宮」(瀧宮神社そば)でしょうか。
高松市中心部にも番町5丁目に「中野天満神社」があります。鉄筋 コンクリート造なので、どうもしっくりしませんが、往時は2,000坪の社地を持つ大神宮 だったようです。
生駒の殿様時代にこの地に奉還されたようですが、松平初代頼重公が厚く 信仰し、社殿、社地を大きく広げたとのこと。片原町商店街から路地を入ったところにひっそり佇む高松市内最古の天満宮である「華下天満宮」を通称「古天神」と呼ぶのに対し、「中野天満神社」は「大天神」と呼ぶとのこと