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石原なんでも通信 No.19 (歌川広重と 讃岐)
今回は讃岐にはいかにも関係なさそうな「東海道五十三次」で 有名な歌川広重をとりあげます。
歌川(安藤)広重(1797-1858) といえば、その代表作は 「東海道五十三次」。
江戸の定火消の同心の家に生まれましたが、幼い頃から絵心が勝り、
1823年には家督を譲り、絵師に専念しました。
当初役者絵から始め、その後美人画をやりましたが目が出ず、1828年師匠の死後風景画に専念したことより大いに売れて一挙に時代の兆児と
なりました。
「広重ブルー」とも言われる「ブルー」の彩色(舶来の顔料「ベロ藍」) でも有名です。
『広重ぶるう』と題する梶よう子さんの小説も必読で、NHKにて特集ドラマとして製作されました。
1. 歌川広重と讃岐
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まず注目すべき点は、広重の代表作 「東海道五十三次」の12番目の 宿場町、「沼津」の図。
その中の中央の男の人が背負う大きな天狗の面。
この男は讃岐の「金毘羅」参りの途上で天狗の面を金毘羅大権現に奉納するつもりです。
金毘羅信仰の中興の祖である「金剛坊」がなくなる直前(1613年)にご神体を守り抜くと誓って「天狗」となったという伝説から金毘羅での天狗 信仰が始まったとのことです。
江戸時代、街道の整備や街道筋の宿場町の発展、「伊勢参り」や 「金毘羅詣」などの流行より、一般の人々にとっても、旅はどんどん身近なものになっていました。広重がわざわざ天狗の面を担ぐ男を描いたのも、
いかに「金毘羅詣」が一般的になっていたかということの表れです。
2.広重と丸亀
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1837年、広重は40歳の時に京、大坂から讃岐の丸亀に旅行したという記録が残されています。
丸亀市立資料館にある上の「日本湊尽讃州丸亀」の図。
丸亀は当時、金毘羅さんの門前湊として栄えていましたが、
帆船がひしめく様子が描かれています。
以前、このなんでも通信でも紹介した丸亀港に今も残る「太助灯籠」。
今も残る船着き場に江戸在住の人々(千人講)が浄財を出し合って
1838年に完成しました。灯籠の側面には寄進者や世話人、1357名の名前が
並びます。
実は広重も「歌川廣重」の名前でしっかり刻まれています。
3.広重と金毘羅さん(象頭山)
「六十余州名所図会」、1853年~56年にかけて製作された広重晩年の作。全図とも画面は 縦長、前景を大きく描き、遠近を強調、斬新な構図となっています。
四国もそれぞれの国で一か所ずつ取り上げられていますが、讃岐は
「象頭山遠望」。
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名所画のプロである広重の目にも、「象頭山」の遠景は印象的で国を代表 する光景に映っていたということですね。
ついでに四国の他三国の図としては阿波の「鳴門の風浪」、
伊予の「西條」、土佐の「海上松魚釣」 何れも「海」と「山」です。
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伊予は西條の街と四国最高峰「石鎚山」の組み合わせです。
実際に見える光景ではないですが石鎚山の偉大さが強調されて
います。土佐は「松魚(かつお)」釣りです。
四国の名所、名物は今も昔も変わらないですね。