社会科学者の研究方途,たとえば旧大日本帝国時代に中国東北に建国させた「満洲国」と経済学・経営学などの場合
※-1 昔,満洲国というカイライである日本の子分「国」があった
戦前,1932年3月1日,大日本帝国は侵出していた中国の東北地域に「満洲国」という国を建国した。この満洲国は一般的にはつぎのように説明されている。
付記1)冒頭にかかげた山本安次郎の写真は,京都大学大学文書館 所蔵資料検索システム, https://kensaku.kua1.archives.kyoto-u.ac.jp/shozou/?c=detail&sno=i600013903 から借りた。
付記2)本稿の初出は2008年3月,更新が2014年3月25日であったので,その後さらに9年以上も経ってから,再更新をおこなうための改筆もおこなっている。
満洲国は,満洲事変(1931年9月18日)により日本軍が占領した満洲,内蒙古,熱河省を領土として,1932年2月16日に成立させた国家であった。要は日本の傀儡国家であった。
その政体を観ると,「傀儡政権・立憲君主制・一党制・二重君主制」がその特徴になっていた。通貨を「満洲国圓」に定めた。
首都は当時,新京市となづけていたが,いまの中国の「長春市」に置いていた。国土の面積は98万4200 km² と広く,現在日本の37万8000平方km² の 2.6倍(も)あった。
満洲地域にはそれなりに以前から,高等教育機関が存在しなかったわけでない。そのなかで1938年5月,満洲国の首都・新京にあった国務院直轄の国立大学「建国大学」が開学されていた。
この「建国大学」(略称は建大)は,敗戦によってわずか8年の歴史しか残せないまま,一気に廃学うきめに遭った。とはいえ,その存在は「満洲国」に特異な建学の事情もあって「知る人ぞ知る」相応の成果も残したといえなくはない。
建国大学の創設の理念や目的について,ここではあえていっさい触れないが,参考文献紹介もかねている末尾のアマゾン通販に挙げている書物を,どれか参照してもらえれば幸いである。
ところが,建国大学は1945年8月敗戦によって満洲国が崩壊したのに伴い閉学する。それまで,高い倍率を勝ち抜いた学生を9期生まで受け入れ,約1400名が在籍した。
その教育課程は前期と後期それぞれ3年ずつの6年制を採っていたゆえ,敗戦までにこの課程を修了し卒業できた学生は,1943年と1944年の春に卒業した2期に属する者たちにかぎられた。
以上,「満洲国」とそこに存立していた「建国大学」に,以上のように言及してみたのは,最近はそれほど話題にならなくなったけれども,以前であれば,たいそう関心が向けられた『1940年体制』という標題をめぐり,それ相応に関連づけられるべき歴史的な関心事になりえたからである。
「戦時体制期における日本」の政治経済問題は,その満洲国という名をもった「カイライ国家のありよう」にまでも深くかかわっており,それゆえ,双方に「国家」間において密接に関連する問題が広く存在していた史実が,徐々に解明されてきた。
この記述においては,経済学や経営学の分野に関係した満洲国関連の話題が取り上げられるので,現在の時点から回顧する『1940年体制』という「歴史上の節目の部分に留意しつつ,以下の論及となる。
※-2 社会科学者の研究方途として実在した「満洲国」の歴史的な意味
中山伊知郎(1898年-1980年)は,有名な近代経済学者である。中山は昭和54〔1979〕年,自伝的な回想録『わが国 経済学』(講談社文庫)を公表していた。
中山の,この『わが国 経済学』は,こう述べていた。
経営学者山本安次郎も,かつて日本帝国のカイライ国家だった「満洲国」における統治・支配を,こう認識していた。
戦前・戦中に,旧満洲-満洲国で働き,実力を付けた人士が日本に戻り,さらに活躍してきたという戦中・戦後の歴史が,数多く挙げられる。日本国の元首相安倍晋三の母方の祖父岸 信介は,その代表格であった。
敗戦後,A級戦犯に指定された岸であったけれども,その後の冷戦構造のために急転した日米関係のなかで命拾いをし,かつては「鬼畜米英」と憎称した敵国〈アメリカ〉の意を汲んで行動する政治家となっていた。
2022年7月8日,「統一教会・2世」の山上徹也が安倍晋三を銃殺した事件は,首相暗殺という大事件であったが,岸 信介の代からは,つぎの図解のような因縁が生まれていた。したがって,このあたりには,なんらか特定の因果が確実に形成されていたと推定しても,なんら不思議ではない背景が,歴史的に展開されていた。
※-3 野口悠紀雄と小林英夫
戦争が終わるととも一気に崩壊した「満洲国」という存在が,当時の日本帝国,あるいは現在に至るまでの日本国に対して,歴史的にどのような含意=関連性を有していたのか。昨今,社会科学の研究分野ではとくに,その種の問題が大いに注目されてきた。野口悠紀雄『1940年体制』(東洋経済新報社,1995年。新版2002年)は,日本の「戦時体制が戦後に連続したこと」(16頁)を強調した著作である。
2007年11月,吉川弘文館から財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』が刊行されていた。本書は本文編と資料編からなるが,本文編「満鉄四十年史」は原田勝正(和光大学名誉教授,日本近代政治史・鉄道史)が担当・執筆していた。
小林英夫『「日本株式会社」を創った男-宮崎正義の生涯-』(小学館,1995年)は,旧「満洲国」を,こう語っている。
「1940年代に作られたシステムが戦後に引き継がれ,戦前活躍した人物が戦後復活した例は数多い」
「歴史を詳細にみると戦争中の1940年代に作られたというよりもそれ以前に具体化されていた事例が驚くほど多い。しかもそれは日本本国というよりも当時半植民地もしくは事実上の植民地だった『満州国』で実施されていた事例が多い」
「『満州国』が『実験国家』と称されるゆえんである」。
「『1940年体制』の骨格をなす『総力戦体制』は,日本に先行していち早く『満州国』で実現された」
「日本で1940年代に展開された生産力拡充計画も物資動員計画も,そのスタートは『満州国』にあった。したがってそれに付随する諸立法も,日本に先行して『満州国』で立案され実施された」(以上,同書,2-3頁)
経営学者山本安次郎の場合は,このような問題意識が「学問次元にまで高められず,戦後体制にそのまま移行していった」点に疑問が生じていた。山本は敗戦直前にソ連が参戦したさい,根こそぎ動員に応じたために事後,シベリア抑留を体験するはめになった。まさしく,この生死の境をさまよわせられる体験をしたのであった。
だが残念なことに山本安次郎は,自身の「個人の問題」と帝国の「体制の問題」をみずから紡ぐための「社会科学的な問題意識」を,まっとうに用意できていなかった。そのため,野口悠紀雄や小林英夫の議論とはまったく異なった「戦後の描写」に終始し,単なる「旧満州国賛歌」となるほかなかった「自説:経営理論の構想」⇒公社企業論の構想に固執しつづけた。
※-4 再び,中山伊知郎について
中山伊知郎は,前掲『わが国 経済学』のなかでさらに,こう記述していた。
社会科学者のなかには,初め理論学者として出発しながら,年老いて社会学にいったり,広い意味での人文科学に出ていく人が少なくない。パレートがそうであるし,ウィーザーもそうであるし,現に活動している人ではハイエクがそうである。
ハイエクが『資本の純粋理論』から『自由の論理学』に関心をうつしたのは,なかでも目ざましい変わりかたで,かつてのハイエクを知る人々のあいだでは少な からず惜しまれている。少なくとも私どもが若いころは,そういう変化は年齢のせいで,理論的な推理力が失われたからだといわれていた。
しかし,自分が年をとったからいうわけではないが,どうもそうではないらしい。経済学などというもともと人間に近い学問には,経験を重ね,歴史から学ぶところが多ければ多いほど,やがて広い意味での社会学・人間学に発展していく必然性があるらしい。
たとえばシュムペーターの体系が,1908年の『理論経済学の本質と主要内容』から1942年の『資本主義・社会主義・民主主義』まで,あたかも小さい川が流れるままに方々の水を集めて大きな川になるように発展していったのは,その適例である。
シュムペーターは,その間に1912年に『経済発展の理論』を刊行しており,発展というものが,一方で「新結合という理論的な内容」,他方で「技術革新という歴史的な内容」,それを合わせてもっていなかったら,その体系が大河のような成長をみせることはなかった(以上,同書,23-24頁)。
※-5 吉武尭右(吉武孝祐,会計学者:経営分析論専攻)
だいぶ以前のことだが,お弟子さんをとおして,吉武尭右(よしたけ・ぎょうゆう)という大学の先生をしった。この先生は,東大経済学部出身,住友本社に勤務したのち,大学教員になった人である。この先生の著作を年代順に列記する。
『經營能率分析-経営分析の根本問題-』ミネルヴァ書房, 1957年。
『原価分析-日本資本主義企業分析の一指標-』有斐閣, 1961年。
『経営診断-企業批判の新しい眼-』三一書房, 1961年。
『経営の見かた考えかた』有紀書房, 1963年。
『科学的経営分析』中央経済社, 1966年。
◇『考える経営学-経営学は人間学である-』雄渾社, 1968年。
◇『企業分析の哲学-会計計算思考からの脱皮-』同友館,1979年。
◇『いま企業に問われるもの-管理主義思考からの脱皮-』同友館,1982年。
◇『企業分析の指標-伝統的信用分析からの脱皮-』同友館,1982年。
◇『仏教による経営革新-ビジネスに人間性を求めて-』ソーテック社,1987年。
実は,中山伊知郎がさきに説明した「社会科学者の研究方向」に関して発生するところの「変質した学問の発展ぶり」,いいかえれば「経済学などというもともと人間に近い学問には,経験を重ね,歴史から学ぶところが多ければ多いほど,やがて広い意味での社会学・人間学に発展していく必然性がある」その実例を,この吉武尭右(孝祐)の著作一覧にもみてとることができる。
本ブログ筆者は,吉武堯右の著作一覧を介して,そういってみたいのである。
前段の文献案内一覧において「◇印」を付けた吉武の著作は,社会科学者の研究展開に発した「その種の発展の必然性」を明証していた。吉武は,中国が市場経済化の方途を打開する意向を固めた時期,この中国を訪問したことがある。
そのさい,前掲文献のうち「◇の付いていない著作」に関する「教授を乞われた」のだが,本人の関心は「◇の付いた著作」の領域に完全に移動していたため,「日中間の関係者・識者」間において「双方の話じたい」が噛みあわなかったということである。
しかしながら,社会科学者の研究展開においてその関心が広がり,深まり,歴史や社会,人間のほうに向かうことは,「専門馬鹿」とも称される学者商売においてであれば,ある意味においては,たしかな「転換=脱皮」を意味する「ひとつの発展方向」だと解釈していけないことはない。
吉武いわく,日本はいわゆる「経済大国」ではない。「企業大国」にして「経済小国」である。あるいは「商売一流,経済二流の国ニッポン」である(『仏教による経営確革新』1987年,22頁)。
2014年のいま〔あるいは2023年のいま〕,以上の吉武堯右の発言はあらためて聞くまでもなく「至言」あつかいされてもよい発想を内在させていた。一方で,私企業のトヨタ自動車は--ここれは2014年3月時点での話で--当時,営業益2兆4千億円を上げていた事実けれども,他方で,国家財政における現状の年金問題は非常にきびしく逼迫した状況に追いこまれていた。
補注)その後もトヨタ自動車の業績はますます高利潤を上げてきたが,この会社の繁栄が国民経済・労働経済のなかの人びとの生活水準向上に,ただちにはつながらないところが,いまとなっては,日本の産業経済・企業経営の実態としてはその矛盾的な状況を正直に表わすといってよい。
【付 記】 この記述は2008年3月中に記述されていたが,6年後のいまにおいても陳腐化しない中身がある。トヨタの業績はものの見事に回復したが,これには円高の影響が,大雑把にいって半分はあり,その質的な意味は異なる。
いまの日本,「経済二流どころか,現に3流まで格落ち」している。商売が下手になっている。かといって政治がまともにできているかといえば,現在の首相岸田文雄はキシダメノミクスなどと,アベノミクス(アホノミクス)ばりに小バカにされる,国家経済の運営しかできていない。
というかこの「世襲3代目の政治屋」であった岸田文雄は,首相になった自分を双六の上では頂点に到着したかごとき気分に浸っているだけで,国民生活の繁栄を配慮しようとする問題意識のかけらすらもちあわせていない。
理念なき政治家は存在理由がない。首相の座に就いただけで,自身の満足度をこれ以上,上げていく心づもりのない「世襲3代目の政治屋」は,政治の世界から即座に隠居したらよい。
---------------------------
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?