20世紀半ば在日朝鮮人を北朝鮮という地上の地獄に送りこんだ国際政治の残酷な仕打ちは,いったいどこの誰に責任あるのか?
※-1 前提の知識-「在日朝鮮人の帰還事業」という奇妙な表現
a) 在日朝鮮人の帰還事業とは,1950年代から1984年にかけておこなわれた在日朝鮮人とその家族による,日本から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への集団的な永住帰国あるいは移住である。
主に1959年から1967年にかけて,「朝鮮」籍約60万人弱のうち,北朝鮮に永住帰国したのはおよそ9万3000人(うち,北朝鮮に渡った『日本人妻』は約1831人)であった。
北朝鮮では帰国事業(귀국사업)と呼び,在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が推進した運動という側面からは帰国運動(귀국운동)または帰還運動(귀환운동)と呼ばれた。
朝鮮総連と対立関係にあった,大韓民国(以下,韓国)系の在日韓国人団体である在日本大韓民国居留民団の立場からは,北送事業(북송사업)と呼ばれる。
註記)以上はウィキペディアの解説を借りた記述である。留意したい内容にかかわる表現については太字にしておいた。
その歴史的な経過と現状は,21世紀のいまとなって回想するまでもなく,旧大日本帝国の「旧〈韓国・朝鮮〉の植民地支配」の歴史の顛末になっていたものだが,
「敗戦後史における日本政府」の,1952年4月28日までは,それまで同じ「帝国臣民」であって,天皇陛下からは「八紘一宇」のもと「一視同仁」のあつかいを受けていたはずの朝鮮人たちの立場だったから,戦争中においては「1億火の玉」の一員にもなって戦争に協力し,さらに具体的な実例を挙げれば,特攻隊員になって出撃していき玉砕した朝鮮人たちも大勢いたし,また朝鮮人のなかからは軍人として将官にまで昇りつめた者もいないわけではなかった。
だが敗戦後になると多くの日本人たちは,そんなこんなであった在日朝鮮人(しばらくすると韓国人と呼ぶようになる彼ら・彼女らも増えていく)の存在は,敗戦直後,闇市などで暗躍し,ただ暴力的な集団として乱暴狼藉のかぎりを繰り返したとしてのみ以外,理解しようとしなかった。
敗戦直後の日本社会は,荒廃しきった当時の政治・経済情勢となっていたなかで,闇市業にたずさわったのは,なにも朝鮮人(そして中国人もいたが)だけのことでなく,総体的に観察してみれば本来,その中心勢力が日本人たちであった事実じたいは否定できなかった。
敗戦した日本を占領した米軍は,マッカーサーを最高司令官とした連合国軍のGHQ(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers → 連合国軍最高司令官総司令部,簡単には General Headquarters →総司令部)を置き,占領政策を施行することになった。なお,一部地域においては英軍も占領軍にくわわっていた。
b) 以上のごとき,敗戦後のいわば「昭和20年代史の実相」は,ごく粗っぽく描写するが,つぎのような時系列の表現にできるかもしれない。
⇒「敗戦直後の日本全体は荒廃し,混乱していた」:昭和20年代前半。
⇒「朝鮮戦争が勃発し,隣国日本に千載一遇の好景気がもたらされ,日本経済は起死回生的に息を吹き返した」:昭和20年代後半
⇒「朝鮮戦争が停戦した5~6年後あたりから,在日朝鮮人の実質〈国外追放〉に相当する北朝鮮への送還に関係組織・団体が前向きに協力しだし,〈北送事業〉が開始することになった」:昭和30年代前半
⇒「その後,21世紀にまでも負の遺産として残存しつづけている,以上の北朝鮮への送還事業がもたらした不幸・不運,その塗炭の苦しみは,東アジア地域に広がってその爪痕を残すまでになっている」:21世紀のいまの時期にもなお尾を引く
⇒「以上のように歴史的に変動してきた実情の軌跡のなかには,日本政府が当時すでに〈国際法の常識的な処遇〉であった手続を,意図的に完全に無視して適用しなかった事実,
すなわち,かつての帝国臣民である在日朝鮮人から〈日本国籍を恣意的に剥奪した史実〉が記録されていた」,昭和20年代のその前半とその後半,およびそれ以降「現在まで」を概観して述べるとしたら,
在日外国人のうちの在留資格である「特別永住」は,戦前・戦中から日本本土に居住していた植民地出身の「外国」人とその子孫にだけ,なぜか「特別」に付与されていた法的な資格であって,きわめて変則的・特例的な措置であった。
その特別在留資格を有する在日外国人のうちでも,とくに2世以下,3世,4世などは,必然的に随伴した事情として観察できるところだが,現実的には漸減していく「外国国籍の日本国居住民」である。
しかし,理屈のうえでは,両親のうち片方がこの特別永住の資格をもつ外国国籍人の場合,この子どもは「特別永住資格」も有することになるので,この資格が「半永久的になくならない可能性」が「ただちにはなくならない」といえなくはない。
以上の記述についてはさらに,あれこれ関連する議論が当該の専門領域からなされている。それら分析・考察をとりあげ言及することにしたら,キリがなくなるので,とりあえずほんの少しだけ,前段までのように説明してみた。
c) 北朝鮮への在日朝鮮人送還の問題は,すでに関連する専門家たちの研究業績が提供されてきている。だが,問題がすでに半世紀以上が経った現時点においてとなれば,その本当の原因を創作(画策・企図)した当事者は,換言すると20世紀半ばに起こされたこの大量人数の送還事件の犯人は,いったいどこの誰だったのかという点に関心がもたれていた。
筆者の書棚には,菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業-「壮大な拉致」か「追放」か-』中央公論新社(新書版),2009年があったので,まずこの本をとりだしてみたところ,つぎの新聞の切り抜き2点が見返しにはさんであった。その1点には,次段の記述中に登場する明治大学教員の氏名が言及されていた。
本日のこの記述に関連してネット上を検索してみたところ,文部科学省の「科学研究費助成事業(科学研究費補助金)研究成果報告書」2012年5月15日現在,川島高峰「研究成果の概要(和文)」が,つぎのごとき研究成果を報告していたことが分かった。
なお,菊池嘉晃は大著『北朝鮮帰国事業の研究-冷戦下の「移民的帰還」と日朝・日韓関係-』明石書店,2020年がある。
※-2 在日韓国人系新聞紙に掲載された関連の意見
1) 「帰国にあらず在日同胞の北韓への “北送こそ妥当” 上」『民団新聞』2023年12月13日3面,https://www.mindan.org/upload_files/newspdf/20231213shinbun16-48-52.pdf の紹介
▼-1 北韓を断罪した東京高裁の判決
在日同胞と日本人の配偶者合わせて9万3400人が北韓へ送られてから〔12月〕13日で64年。これまでは「帰国運動」「帰国事業」が定説だったのに対し,コリア国際研究所の朴 斗鎮所長は「北送」こそ妥当だと主張する。
▼-1 北韓を断罪した東京高裁の判決
北韓政府と朝鮮総連の「地上の楽園」という虚偽宣伝で,在日同胞9万3400人(日本人妻・夫を含む)が北韓へ送られてから64年が過ぎた。この送置作業は,人権侵害として日本で裁かれて来なかったが,ようやく犯罪として裁かれる日が訪れようとしている。
2023年10月30日,北韓からの4人の脱出者が,北韓政府に1人1億円の賠償を求めた控訴審判決で,東京高等裁判所の谷口園恵裁判長は,
「北朝鮮政府が,事実と異なる情報を流布して北朝鮮へ渡航させ,出国を許さず留置させることにより,居住地選択の自由を侵害し,事前の情報と異なる過酷な状況で長期間生活することを余儀なくさせた」
と指摘し,虚偽の情報の流布と北韓での留置を一体の犯罪と断定した。
また国交のない北韓に「主権免除」は適用できないとして日本の裁判所の管轄権を認め,東京地裁に審理を差し戻した。この判決は「日本の裁判所で北韓の人権侵害を追及する可能性をひらく」画期的判決だ。
一審の東京地裁では,北韓の虚偽行為を認定したものの,不法行為を
1 虚偽の情報・宣伝で渡航させた
2 北韓から出国させずに留置した
に分け,1 については「除斥期間」を,2については「主権免除」を適用し,日本の裁判所に管轄権はないとしていた。
▼-2 「帰国」ではなく北韓への送置
「帰国」ではなく北韓への送置については,2014年2月に公表された「北朝鮮における人権に関する国連調査委員会(COI)最終報告書」でも,国際刑事法上,「国際社会全体の関心事であるもっとも重大な犯罪」,「人道に対する罪」に該当すると認定されている。
こうした,国際人権機構の認定やこのたびの日本高裁の判決は,北韓への送置を,在日同胞の自主的意思による「帰国」であるかのようにされてきた見方を覆すものである。
多くの研究者,ジャーナリスト,マスコミは,これまで厳密な調査・検討もおこなわず,北韓と朝鮮総連が流布した「帰国運動」「帰国事業」との用語をそのまま使用していたが,そのような用語使用には再検討が必要となった。
筆者〔朴〕も,「帰国事業」「帰国運動」との用語に違和感をもちながらも,2008年に上梓した『朝鮮総連-その虚像と実像-』(中公新書ラクレ)で,他の研究者,ジャーナリストマスコミなどと同じように「帰国運動」「帰国事業」などと表現した。未熟であったことを認めざるをえない。
しかしその後の研究で,この用語は被害を受けた大部分の在日同胞の立場からは,とても受け入れられる用語ではないとの結論に至った。「帰国運動」「帰国事業」との用語は,北韓と朝鮮総連が,北韓の統一戦略に在日同胞を動員する狙いを隠蔽するために流布させた心理戦用語だったからである。
北韓は,日本共産党から在日共産主義者への管轄権をえて(1955年に朝鮮総連が結成された),北韓の対韓国戦略における朝鮮総連の位置づけを確定させた(1958年)のち,日本政府の思惑を利用して,大々的に在日同胞の利用に乗り出したのであるが,その本質を隠蔽するために「帰国運動」「帰国事業」との用語を活用したのである。
では,この「帰国運動」「帰国事業」用語をどのような用語に置きかえるべきなのか?
今後の研究を必要とするが,筆者はいまのところ,これまで民団が使用してきた「北送(北韓への送置)運動」「北送事業」との用語が妥当ではないかと考えている。この運動・事業の本質を簡潔に表現し,その欺瞞行為と犯罪性を感覚的に訴えることができるからだ。
しかし「北送」用語の使用で注意しなければならない点がある。それは「北送」という用語には,送りこんだ主犯が誰なのかが明記されていないことだ。一部ではこの事業を日本政府が日本赤十字社を通して主導したとして「日本主犯説」を主張する人達もいる。
しかしそれは的外れといえる。主犯は明らかに北韓とその下部組織の朝鮮総連である。
もちろん,日本政府にも在日同胞を「追い出したい」との動機(閣議了解別紙2「閣議了解に至るまでの内部事情」)があったことは確かだ。そうした点で責任を免れることはできない。
また「地上の楽園」宣伝に同調し「運動」を盛り上げ,被害を拡大させた当時の日本の政党・社会団体,マスコミの責任も重い。とくに「日朝協会」の責任は重大といえる。
2)「在日同胞の北韓への “北送こそ妥当” 下」『民団新聞』2023年12月27日3面,https://www.mindan.org/upload_files/newspdf/1227_shinbuns10-29-45.pdf の紹介
▼-1 「北送」時の国籍 北韓でなかった
在日同胞の北韓への送致を「帰国」ではなく「北送」とするべき理由は,その犯罪性にあるだけではない。法的にも「帰国」との用語は間違っている。
解放後,日本における韓半島出身者の国籍は,韓半島が日本の植民地であったために複雑な経緯をたどった。それが明確にされたのは,1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効時に公布・施行された日本の外国人登録法によってだった。
このとき韓国籍を申請した同胞は,大韓民国が,建国(1948年8月)と同時に公布した憲法条項と国籍法で,朝鮮半島に戸籍を置いてきた人びとを(国内外の居住を問わず)すべて国民とするとしていたことで,そのまま大韓民国国民となった。
他方,当時多くの在日同胞は,韓国の李 承晩政権を敵視する北韓系団体の扇動にあおられ,大韓民国(韓国)籍を取得せず,朝鮮半島出身者を意味する「朝鮮」を国籍欄に残した。
民戦は,それを北韓国籍と主張したが,なんら法的根拠のない恣意的主張
だった。
補注)「民戦(みんせん)」とは「在日朝鮮統一民主戦線(재일조선통일민주전선)」の略称で,在日朝鮮人が1951年に結成した組織である。日本に居住する朝鮮人を「南北問題」として分裂・混迷化させる策術を推進した。
〔記事に戻る→〕 1948年9月に成立した朝鮮民主主義人民共和国(北韓)には,国籍法がなかった。北韓で国籍法が制定されたのは1963年だ。憲法のなかに国籍条項が入ったのは,それよりも遅く1992年になってからだった。
したがって北送が始まった1959時点で在日同胞を北韓国民とする法的根拠は,まったくなかったのである。北韓に渡った在日同胞の中には,心情的に北韓を支持し,外国人登録国籍欄の「朝鮮」を北韓国籍と信じ「帰国」と叫んでいた人たちもいたが,法的には北韓国民ではなかった。
▼-2 北韓の「策略」を覆い隠す「帰国」
しかし,日本ではこれまでほとんどの研究者,ジャーナリスト,マスコミが厳密な調査検証もせず,「帰国(帰還)運動」「帰国(帰還)事業」との用語を使い,それを北韓主導の心理戦用語とみる視点はほとんどなかった。
たとえば,テッサ・モーリス・スズキ氏の研究や朴 正鎮氏の研究が代表的だ。テッサ・モーリス・スズキ氏はその著書「帰国事業の影をたどる『北朝鮮へのエクソダス』」で,在日同胞の北送を帰国事業とし,「在日同胞が日本から北韓に脱出した」との側面を強調した。北朝鮮の犯罪を浮き彫りに
はしなかった。
日本赤十字社と国際赤十字社とのやり取りや日本外務省の資料を豊富に発掘し,新しい視点を与えたが,北韓の対韓国戦略との関係を深く掘り下げなかったために,日本政府責任論に傾いた傾向がみられた。
韓国からの留学生で,現在,津田塾大学で教鞭を取る朴 正鎮氏も『帰国運動とは何だったのか』との本を共同編集するなかで「帰国運動」「帰国事業」の用語を多用した。多用しただけでなく,この問題に対する視点も間違えた。
彼は,1955年における北韓外相 南 日 の「声明」に異常にこだわり,在日同胞の北送(朴 正鎮氏は帰国と主張)事業が,北韓による「日朝国交正常化」への足がかりとして分析した。
しかし,当時,北韓の金 日成首相は,日朝協会の畑中理事長に「国交正常化は急がない」と朴 正鎮氏の主張とは正反対の発言を行っている。彼はまた,北韓が在日同胞を誘引した動機として,
「一般にいわれているような北朝鮮側に労働力誘引の動機はなかった」とし,その根拠に「千里馬作業班運動」を上げた。この解釈は的外れ以外のなにものでもない。
そればかりか彼は,「帰国(北送)実現への模索を『策略』と批判するのは,当時の実情を無視した一面的な見方であろう」と主張しながら,「結果的に非人道的な行為の責任を現視点で問うのは危険だ」と主張し,暗に北韓を擁護する主張までおこなった。
この主張は,今回の東京高裁判決ともかけ離れた主張といえる。
こうした在日社会をしらない,韓国から日本に留学してきた「学者」の分析が,在日同胞への十分な取材もおこなわず,大手を振ってまかり通るのは,筆者を含めたわれわれ当事者にも責任がある。北送問題の研究を第3者に任せ,十分な研究をおこなってこなかったからである。
(以上で,朴 斗鎮引用終わり)
最後に,北朝鮮の問題について深い関係をもっていた元『しんぶん赤旗』の記者,萩原 遼についてその死を追悼的に語った人の発言を紹介しておく。
なお,『民団新聞』にはつづけて,2024年1月1日7面に「北韓『帰国事業』に法の光,東京高裁判決 過去史再検討迫る 山田文明(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会)理事」が掲載されていた。
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