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反骨の社会科学者-渡辺銕蔵
※-1 昔,渡辺銕蔵という東京帝国大学経済学部に在籍していた社会医科学者がいたという「歴史の記憶」
この小考で議論するのは「戦争に反対した〈体制派の〉経営学者」がいたのだが,それも天下の東大経済学部の教授であった人物である。しかも,この渡辺に関して「社会科学者の戦争観」をめぐって議論してみたい。
1) 気骨の社会科学者〈渡辺銕蔵〉
渡辺銕蔵『自滅の戦い』中央公論社,昭和63年という a) 中公文庫がある。この本は解説の記述まで入れると,文庫本だが,448頁もの分量がある。
渡辺銕蔵は別に,箱入り3冊セットで定価3万5千円もする自伝著書を,自由アジア社という出版社から発売していた。この自伝3著は,b)『激動の日本』昭和43年,c)『激動の日本(続編)』昭和51年,d)『自滅の戦い』昭和57年(昭和22年初版・修文館。前掲『同名』はこの再版)を収めている。
ここに参照・紹介する話は,昭和19〔1944〕年2月時点において渡辺が,太平洋=大東亜戦争に日本帝国が勝てるみこみがない事実を宴席で話題にしたところ,これが当局に密告されてしまい,逮捕・起訴・裁判の結果「有罪」判決を受けた事件である。
その戦争中における「渡辺の受難劇」においては,本ブログがすでにとりあげてきた話題=「日本本土空襲」にかかわる話題が,基本的に実質の内容にもなっていた。
2) 渡辺銕蔵の紹介
以下においては,渡辺の著作,a)『自滅の戦い』昭和63年から,中篇「反戦苦闘十余年」の,11「一茶寮舌禍事件-投獄」と12「最後のもがき」を参照・引用するが,b)『激動の日本』昭和43年の第1部「大陸発展より敗戦へ」の,5「一茶寮舌禍事件-投獄」と6「最後のもがき」も同文であること断わっておく。
さきに,渡辺銕蔵(わたなべ・てつぞう)〔以前には渡邊鐵藏と表記〕の履歴を紹介しておく(つぎの写真は b)『激動の日本』昭和43年より)。
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1885〔明治18〕年大阪に生まれ,1910〔明治43〕年東京帝国大学法科大学政治学科卒業(首席で卒業し,銀時計を恩賜される),同年文部省の特派で英・独に留学,1914〔大正3〕年東京帝国大学法科大学助教授,1916〔大正5〕年 同教授,のちに経済学部の独立にともない,同学部教授。
1927 〔昭和2〕年東京帝大経済学部を辞し,東京商業会議所(翌年に東京商工会議所)の書記長(のちの専務理事)に就任。また,新設された日本商工会議所の専務理事も兼任した。1936〔昭和11〕年から1937〔昭和12〕年まで衆議院議員,1938〔昭和13〕年,渡辺経済研究所を設立,「資料」「調査」を次々と発行し,反戦活動を展開。
戦後,1946〔昭和21〕年東宝社長に就任,のちに会長となり,東宝争議の一方の当事者としてもしられる。1980〔昭和55〕年に94歳で没。
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渡辺の著書は多数ある。ここでは,『欧州戦争と独逸の食料政策』有斐閣,大正5年,『英国の労働組合運動』岩波書店,大正13年,『反戦反共四十年』自由アジア社,昭和31年(前掲 b)『激動の日本』昭和43年は,この再版)などにくわえて,経営学・経済学の文献3冊,『商事經營論』修文館,大正11年,『工場經營論』清水書店,大正15年,および『産業合理化』日本評論社,昭和5年も挙げておくことにする。
渡辺は大正時代,東京帝大「法科大学商業学科→経済学部商業学科」で経営学の基礎講座を講義していた。筆者は,この渡辺銕蔵の経営学説をとりあげ論究したことがある。
※-2 帝国自滅の戦いに対して渡辺銕蔵は自滅せず
昭和19(1944)年3月23日午前7時ころ,大阪憲兵隊准尉春木谷裕が東京憲兵隊の人に案内されて,突如青山の渡辺宅を訪問した(渡辺 a)『自滅の戦い』昭和63年,341頁)。
翌朝大阪に着き,取調べが開始された。
昭和19年2月19日午後,大阪北区の一茶寮という所で渡辺が,近畿地方の無尽会社を集めて貯蓄奨励の協議会を開き,その終了後午後5時ころからの晩餐会の席上で,酒杯のあいだに同席者の質問に答えて,いろいろ戦局に関して話したことが問題になったのである(342頁)。
何日もかかってできあがった調書は検事局に提出され,検事が憲兵隊にきて2日ほど私を尋問して,検事の聴取書ができあがった。検事がもっとも問題にしたのは,大本営の戦果発表に誤謬があることを,私がアメリカ海軍主力艦の撃沈数に例をとっていったことである(343頁)。
渡辺はこう指摘したのである。「米国巡洋艦の撃沈数に関する大本営発表に至っては滑稽というべきほど過大になっている。彼我の飛行機損害の発表も常識外れの宣伝的虚偽の発表である。これでは国民の士気を鼓舞するというよりは,むしろたんに一般国民のみならず,政治家も,軍部自体も戦果および戦局の判断を誤る虞れがある」(343-344頁)。
--なお,本ブログ筆者は「日本全土空襲中の国民の士気」という表題をかかげて論じたことを思いだしたが,その記述は現在未公開の状態なので後日,復活再掲することにしたい。
渡辺の記述にもどろう。つぎは,空襲に関係する話となる。
「それで私は日本を焦土となすことより救い,国家と国民の敗戦損害を最小限に止めたいと考えていた故に,独逸が屈伏した場合,または九州が爆撃を受け始めたならば,その時は国民中9千9百9十9万9千9百9十9人が,戦争を継続すると頑張っても,最後の百人が冷静に判断をして戦局を終結せねばならぬと言ったのである。これが最も検事の気に入らなかったのであると思われる」
【参考画像】 -戦争中に出稿されていた広告の一事例(これは雑誌のなかに掲載されたもの)-
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現在のその社名は株式会社テイチクエンタテインメント
「葬れ!」と敵対した相手に実は「葬られたのが旧大日本帝国」の顛末
いまの日本国はその「米の舎弟・子分格」の立場に甘んじている
このままいつまでも21世紀を行軍していくつもり?
「検事はどんな場合でも一億決死で行かねばならぬと言う。私は否,少なくとも輔弼の責任のある者やその他少数の識者は冷静に判断せねばならぬと主張する」
「翌日もまた検事が憲兵隊へ来て卓をたたいて一億決死を怒鳴る,私は頑として少なくとも百人が考えねばならぬと頑張る。この点がすなわち最も検事局が問題を重視した所以であることが後に感ぜられた」(344頁)。
補注)本ブログ筆者はたびたび関連する記述のなかで指摘してきた,それも当たりまえである「歴史の記憶」,戦争中に「一億火の玉」などと必死の形相で叫ばれたこの文句は,日本人の人口7千万人ほどに対してさらに「朝鮮人と台湾人」のおよそ3千万人を足していた事実を踏まえており,当時までの大日本帝国と植民地とを併せた総人口を土台にしての標語であった。
その3千万人が敗戦後史のなかで,それも日本国内に居住していくことになった「一部分の彼ら・彼女らの存在:65万人」は,こんどは人口7千万人からは再び,完全に無縁の他者:よそ者集団とみなされることなった。あげくのはて,法務省のある官僚はこういいはなった。
「外国人は煮て食おうが焼いて食おうが自由」
いまどき,そのような発言を法務省の入国在留管理庁(入管庁)の幹部が吐いたら世論に厳しく批判され,更迭を余儀なくされる。しかし,その人物は,60年も前の1965年に,外国人は「『煮て食おうと焼いて食おうと勝手』なのである」(こちらが正確に引用した文言)と,責任ある立場からだったが,確信をもって放言したのである。
法務省の入国参事官の立場から本当に,本気でそのように断言したのであるからには,この見解の立場が日本政府の正式な外国人「観」であり,出入国管理において外国人のあつかい方を,バカ正直にも告白していたことになる。
その国家官僚であった人物の氏名は池上 努,その本の書名は『法的地位200の質問』京文社,昭和40(1965年)の167頁において,あからさまにそう言明していた。その論拠とされたのは,入管法に盛りこまれた「法務大臣の裁量」であった。
ここで,渡辺銕蔵の本題に戻る。太平洋戦争中,それも戦局はすでに日本がほぼ完全に不利になっていた時期,昭和19(1944)年2月段階での話題であった。
「日本に於て期待されている英米の弱点と称するもの十数項目を挙げて,これらすべて日本人が独り定めの自己満足,もしくは自己欺瞞的条件に過ぎざることを説明し,したがって日本に勝算のまったくないことは言うまでもなく,
もし米国のボーイングB29もしくはコンソリデーテッドB32〔引用者の註記,後者は太平洋戦争末期に登場したアメリカ軍最新鋭の爆撃機〕が適当の基地を得て,九州その他日本本土の爆撃を開始するか,
あるいは日本本土より千五百キロ以内に米国が空軍基地を設定して爆撃を開始し,これらの基地を日本が覆滅すること能わざるときは,燃え草を並べた都市を有する日本はまったく戦争にならず,勝敗など問題外なることを明確に説明した」(346頁)。
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さて,1944〔昭和19〕5月26日,渡辺の裁判に下された「判決」の主文のみ紹介する(351頁)。
被告人ヲ懲役1年ニ処ス
但本裁判確定ノ日ヨリ3年間右刑ノ執行ヲ猶予ス
渡辺いわく,「この事件は日米戦争に際して如何に暴虐な言論弾圧が下されていたかの実情を知る好個の範例となるものと信ずる」(350頁)。
渡辺の理屈は,面白く,こうもいう。
「公判廷で裁判長から天皇の御名によって聞かれれば,真実の話をせねばならぬ。それではもはや一茶寮事件ではない,憲兵隊や裁判所で真実を流布することになるのだ。私は喜んでそれに応じたのだ。
検事は戦果の真否や戦局の真相やことに交戦各国の戦力などについては,普通人以上に何事をも知るはずがない。わざわざ下阪した有数の専門家である私から直接詳しい真実の話を聞く機会を得たのであるから,検事は啓蒙されたことを喜ばねばならぬはずである。
私は喜んで聞いているものだと信じていた。それを起訴するなどとはもっての外のことである」(355-356頁)。
「思想事件で累を蒙った或る大学教授が検事を『ひとでなし』と批評したが,私も全然感を同じうした」
結局,「敗戦後の昭和20年10月17日,神嘗祭の日の特赦によって私も刑を赦免された。当日の新聞紙によれば,そのさい赦免されたものは百数十万人であるとのことである。
私もこの百数十万分の1として赦免を受けたのであるが,私は自己の赦免について考えるよりは,よくもこれほど多数の国民が特赦され得る程度の罪に座していたものとまった吃驚した。それがすべて天皇の御名によって裁判され,投獄されていたことを考えて愕然とした」(360-361頁)。
※-3 天皇の御名という修辞にまつわるその「マッチとポンプ」的なご都合主義
1944〔昭和19〕年2月の時点でそのように,戦争の推移に関する真相を宴席で語ってしまった渡辺銕蔵であった。けれども,「撃ちてし止まぬ」「戦争態勢の日本帝国」のなかで,あえて戦局に関する真実を披露したら必然的に自分の身におよぶだろう危険を,まったく予期していなかったわけではあるまい。
当時の状況であれば,自分の生活および自身の滅亡にもつながりかねない「危険な話」を,「有数の専門家として」自信をもって,ごく少数の人たちだけに内輪の話として語ったはずだったけれども,即刻密告されていたのである。
渡辺は1944〔昭和19〕5月26日,当該の裁判において「非国民としての有罪判決」を下された。しかし,それから10カ月も経ったころの日本全土には,B29による都市絨毯爆撃攻撃が本格的に開始され,彼の警告が現実のものになっていった。太平洋=大東亜戦争に対する渡辺の,あまりにも「当然な警告=空襲の恐ろしさ」が現実化したのである。
渡辺銕蔵は,なかんずく〈体制派の社会科学者〉であった。なにせ,東京帝大法科大学(1919年以前の大学名)を首席で卒業し,天皇から銀時計を恩賜されたである。ところが,この渡辺が「戦争の真相」を語り「日米戦争必敗論」を説いたのである。そうして,真実を語ってしまったこの「元東京帝大教授・東京商工会議社所専務理事」も,「天皇の御名によって」裁判にかけられ,「有罪の判決を下された」のである。
しかしながら,敗戦から約2カ月後の神嘗祭〔天皇家の祭祀のひとつ〕の日になると,渡辺が戦争中に犯して,罰せられた,罪は特赦されていた。すなわち「昭和天皇は,渡辺を罪人にしたり,その罪を帳消しにしたりした」のだから,ずいぶん一貫していない「御座からの数々の聖断」を記録していた。
結局のところ,以上のようにけっこうな反骨ぶりを,すこぶるたくましい精神をもって披露してきた渡辺鐵蔵の立場ではあったものの,「日本帝国」という「政治体制の本質」を,社会科学者の立場・思想をもって完全に剔抉しえていたわけではなかった。
そこにこそ,渡辺銕蔵において回避不能だった《昭和思想史的な限界》がみてとれる。マルキストたちとは明確に識別しうる行動の奇跡を残した。マルキストたちはとみれば,戦争中にまだ生き残っていた人びとは,鎖につながれていて,敗戦後に解放されるまでしばらく待たされた。
1945年10月4日であった。GHQは人権回復の指令を発令した。これを受けて10月10日午前10時,府中刑務所から徳田球一,志賀義雄,そして朝鮮人共産主義者のリーダーで,不屈の闘士金 天海らの出獄が決定した。日本共産党再建の中心的役割を担うことになる共産党第1世代が府中刑務所から,出獄の時を迎えることになった。
※-4 渡辺銕蔵と金 天海
金 天海についてはウィキペディアに,その人物像を書いたつぎのような段落がある。渡辺鐵蔵の発言と比較考量しながら,また敗戦直後における日本の政治社会の状況をも念頭に置いて聞いてみるのもよい。
--同〔1945〕年10月10日,寺尾五郎が豊多摩刑務所から出所し,400人(多くが朝鮮人)が寺尾を出迎えた。寺尾ら400人は,数台のトラックに「歓迎・出獄戦士・万歳」と書かれた幕を貼り付け,トラックに分乗して府中刑務所に向かった。
補注)寺尾五郎は在日「韓国」人を,北朝鮮に「北送した」極左の人物であった。当時,日本側にとっては右側に人間たちが大喜びすることとなっっていた,かつて帝国臣民であった在日朝鮮人たちのうち,およそ9万3千人(北朝鮮に渡った『日本人妻』も約1,831人いた)を,金 日成が独裁的に支配する「凍土の共和国」に放りこむといったごときに,結果としても非常に残酷な仕事をした人物であった。
〔ウィキペディアに戻る→〕 その10月10日,徳田球一,黒木重徳,志賀義雄,金 天海,山辺健太郎ら16人が,府中刑務所から出所した。寺尾五郎ら400人が出迎えた。
府中刑務所前で,徳田と志賀が挨拶し,天皇制の打倒と人民共和国樹立を目標とすることを宣言した。金 天海は,「日本帝国主義と軍閥の撲滅」「天皇制の廃止」「労働者農民の政府樹立」「朝鮮の完全独立と民主政府の樹立」を訴えた。
その後,出獄した政治犯は,アメリカ軍のトラックで,陸軍中野学校跡の兵舎に連行され,連合国軍最高司令官総司令部からの事情聴取を受けた。出獄歓迎の群衆2000人は,芝田村町(現・西新橋)の飛行館(現・航空会館)で,「出獄同志歓迎人民大会」を開催し,新橋と銀座に出て,デモをおなった。
補注)なお寺尾五郎は,1945年 6 月(当時満洲国の)チチハルで憲兵隊
に逮捕されたのち, 東京九段・憲兵隊総司令部留置場に移送されていたが,敗戦の日以後は,警視庁特高課により豊多摩刑務所の「未決の独房」 に収監されていた。
「旧日帝支配層⇔戦中反体制派寺尾五郎」⇔「朝鮮人たち」とでも整理したらよさそうな,「完全に異質同士」であったけれども,「ないところにはないが,あるところにはあった」その「呉越同舟的ながらも,麻糸のようにもつれ,錯綜していた」「敗戦後における政治過程をめぐる特定の社会相の形成ならびに動向」が想像できる。
〔記事に戻る→〕 1945年10月15日,日比谷公会堂で在日本朝鮮人連盟が結成され,日本各地から代表4000人が集まった。結成時の綱領は
「新朝建設に献身的努力を期す」
「世界平和の恒常的維持を期す」
「在日同胞の生活安定を期す」
「帰国同胞の便宜と秩序を期す」
「日本国民との互譲友誼を期す」
「目的達成のために大同団結を期す」
の6項目だった。
金 天海は,その最高顧問に就いた。韓 徳銖(後の在日本朝鮮人総連合会議長)は神奈川県本部委員長に就任した。同年11月,朴 烈が秋田刑務所から出所した。その後,朴 烈は新朝鮮建設同盟を結成し,のちに在日本大韓民国居留民団(略称は民団,後の在日本大韓民国〔居留〕民団)の民団長になった。
同年11月16日,在日本朝鮮人連盟の左翼化に反対した在日朝鮮人の青年が集まり,朝鮮建国促進青年同盟(略称は建青)を結成した。町井久之(本名は鄭 建永。のちの東声会会長,東亜相互企業社長,釜関フェリー社長)は朝鮮建国促進青年同盟東京本部副委員長となった。(後略)
以上のウィキペディアからも参照してみた敗戦直後史は,戦時中から諸事情・諸経緯にまでさかのぼり詮索しないことには,わかりにくい諸経過がいろいろあった。
前段で法務省の官僚が,敗戦から20年が経った1965年であっても,もっぱらチョウセンジン(かつての帝国臣民たち)を念頭においてだが,外国人は「『煮て食おうと焼いて食おうと勝手』なのである」と,責任ある立場からそのようにいいはなった「過去の記録」は,けっして20世紀においてだけのものではなありえない。
歴史は繰り返されるのだなどとしたり顔で,問題を片付けるわけにはいくまい。
【参考記事】 -『HUFFPOST』の記事からから2点紹介する-
本日のこの記述に戻っていえば,渡辺銕蔵という天皇から銀時計をもらえていた東大卒のきわめて優秀な人物が,はたして,以上のごとき日本社会の底辺に溜まっていた民族差別問題にまで円滑に自分の視点を移しえていたのか,という関心事を惹起させてくれる。
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