従軍慰安婦問題の本質(12)
「本稿」の題目である「従軍慰安婦問題の本質」公表はその間,連続ものとして記述するには少し空いてしまったが,今日はその12回目の記述となる。本稿の初出は2014年8月13日であり,さらに2年ほど前に更新し,2021年9月29日に公表されていた。しかし,掲載していたブログを移動していたため,現在2023年9月12日の改訂まで未公表の状態にあった。
さて,この回の主題は,こういう文言を充ててその名称とする。
従軍慰安婦問題が歴史に存在した事実すら認めたくない安倍晋三や中川昭一など自民党極右がいた。彼らは,ただ没論理な態度だったというよりは,ひたすらもともと無論理であったために,「世襲政治屋たちのねじれにねじれていた虚妄の愛国心」がかえって,世界のなかでの「この国を埋没させていく」帰結しかもたらさなかった。この事実はよく噛みしめておくべき日本独自(?)の問題であった。
※-1 安倍晋三が壊したのは日本の為政だけでなく「この国の海外における評価(評判)」でもあったが,いまではそれこそ「しらぬが仏」になっているアベのことゆえ,日本の国民・市民・庶民にとってははた迷惑どころか,この「子どもの裸の王様」はまさに「亡国・国辱の首相」であった
a) 国際政治の次元と日本国内政治の次元は,前者を「てても広い自然界」,後者を「そのごく一部だけの『井の中の蛙』」に,それぞれたとえてみたらいい。
双方のあいだには,先進国同士の場合であったとしても,絶対的な格差が介在し,隔縁していたかのような様相を呈している。
そうした事情のなかで,日本側では故・安倍晋三的な「従軍慰安婦問題」に対する闇雲な否定論が幅を利かしていた時期にあっては,それは,どこまでも国内事情に合せたリクツとして通用したに過ぎない。
しかし,日本だけでなく海外においても,従軍慰安婦問題をともかく全面的に亡きものにしておきかったのが《安倍晋三式に異様な戦時体制観》であった。また,この「世襲3代目の政治屋」は,なぜか,実現などできない〈戦前回帰〉を画策してきた。それがために「戦後レジームからの脱却」を試みるさい邪魔ものだった「従軍慰安婦問題」は,絶対に叩きつぶしておく必要性を感じていた。
要は,戦前・戦中のこの国を「美しい国」であったことにしておかねば,戦前に回帰したかった安倍晋三の欲望に対して相対的に確保されるべき正統性(正当性?)は,望むべくもなかったからであった。
b) 旧・大日本帝国という歴史的な枠組のなかでの話となる。
従軍慰安婦問題をめぐっては,強制(性)がなかったとか,あるいはそれには〈広義の強制〉と〈狭義の強制〉があったなどいったふうに,後出しジャンケンでしかありえない恣意的な概念規定は,当初から「従軍慰安婦問題の〈歴史の事実〉」に関する議論を妨げたどころか,日本の近現代史のなかからこの問題を完全に抹殺したかった安倍晋三なりの欲望が反映されていた。
最近,芸能界における日本的な大醜聞としてだが,ジャニーズ事務所の創設者であったジャニー喜多川(1931-2019年)が,それこそ半世紀以上も長い期間,所属していた男性(男子)芸能人たちに対して「性加害行為」を,それも常習にしてきたという「驚くべきも恐ろしい事実」が,あらためて発覚していた。
補注)また,アメリカの有名な元映画プロデューサー,ハーヴェイ・ワインスタイン(Harvey Weinstein,1952年3月19日- )は以前,ジャニー喜多川が犯してきた性犯罪に類似した事件を起こしており,これが発覚して世界中の関心を呼ぶ大問題になっていた。
前後関係で時期を調べてみると,ジャニー喜多川の性加害行為(これは男性タレントに対するそれ)は,ワインシュタインのその行為よりも,だいぶ後れて発覚することになった。基本的には,その相手(被害者)が男性であれ女性であれ,同様な「性犯罪行為」が多数回反復されていた。
ハーヴェイ・ワインスタインは,大学在学中に創設した映画プロダクション「ミラマックス」を成功させ,アメリカ映画界においてきわめて大きな影響力をもった。ところが,2017年に過去に犯してきたその性暴力事件とその隠蔽工作が発覚して逮捕,現在収監されている。
c) 日本の場合,ジャニー喜多川が生前に長期間にわたりさんざん犯してきたそうした性的犯罪が記録されていた。しかし,なぜかいまとなってもまだ,既存の大手紙やテレビキー局は,喜多川の事件を積極的にとりあげ批評(報道機関として事実を指摘し,批判も)する気配が,基本姿勢として希薄である。
なぜかとなれば,実はいままで,ジャニーズ事務所とは共存共栄の相互寄生的な関係性を,きっぱり断ち切れないでいたのが,大手のマスコミ・メディアであったからである。
ジャニー喜多川は過去,半世紀以上も「その特別な犯行」を継続してきたところは,あたかも暗黙の了解であったのか,これをマスコミやメディア側が深刻に受けとめたうえで,咎めることもなく黙過されてきた。というのは,それなりに「経済合理的な目算」あるいは「リクツでは説明しきれない打算」が,双方の間柄には共有されていたからなのか(?)と,いったごとき推察も可能であった。
d) つぎにかかげる『毎日新聞』朝刊2面に掲載の,2023年9月9日の「土記」と9月12日の「火論」における論説を,画像資料をもって紹介しておく。
とくに9月9日「土記」のほうには,「帝国」「帝国主義」「帝国臣民」という用語を当てるかたちで,21世紀のいまに発覚して社会を騒がせているジャニーズ事務所前社長の「糞尿にまみれた性犯罪歴」を問題視していた。
ともかく,この2点の論説を読んでほしい。つづけて本ブログ筆者の意見を述べる。
とくに9月12日(今日)の「火論」が,こう述べていた点が関心を惹く。
しかし,『週刊文春』のたった一誌だけが7月から8月いっぱいまで,しかも孤軍奮闘のかっこうで,岸田文雄内閣の木原誠二官房副長官(この副長官は3名いるがその筆頭格)が,配偶者の関係で殺人事件(いまは時効がない)に抜き差しならぬ関与をした疑惑がもたれる事実を,執拗に報道しつづけてきた。
にもかかわらず,この官房副長官の支援がなければなにひとつ「国家最高指導者」としての任務が遂行できない首相としての岸田文雄は,その疑惑の事件をそのまま闇の中に封印しておくつもりであり,ひたすら無視を決めこんでいる。
e) 毎日新聞社の立場,それも過去における「ジャニーズ事務所にかかわった類似の問題」を『サンデー毎日』なども取材・追跡し,報道・公開したという見解そのものは,今回の『週刊文春』に対する援護射撃にはなっていないし,単なる後追いのかぼそいいいわけにしかなっていない。
今回,少なくとも大手紙傘下の週刊誌であるならば,『週刊文春』とは共同戦線ぐらいは組んで,毎日新聞社もジャニー喜多川とその芸能事務所の問題を,ありのままに報道すべきであったが,実際には具体的になにもなされていなかった。
なにやかやいおうがいうまいが,結局は「過去の思い出話」に類していたわけだが,「ジャニーズ喜多川の性的嗜好」から,刑法犯罪的な犯罪行為をこうむった多くの芸能関係の男子若者たちが「その後の人生において背負わされた苦悩の問題」に対して,現在からであっても,なにか積極的な応援ができていたかといえば,残念ながらなにもない。
f) 2022年2月24日「プーチンのロシア」が始めたウクライナ侵略戦争の背景には,「ロシアのプーチン」は民主主義の制度にしたがい大統領に「なんども選出されてきた」とはいえ,実質面では帝政ロシアの大きな尻尾を引きずったあの国の実質面は,まさしく独裁制国家体制となんら変わりなく,いわば帝国主義の強権政治路線がいまもなお進行中である。
そうした世界の情勢も存在するなかで,日本は先進国とはもはや呼ばれうる資格を喪失した政治事情のなかで,結局はイギリス国営放送BBCから日本へ直接飛ばされてきた「ジャニーズ事務所」と「喜多川」への批判を,まことにみっともなかったが,ただ聞かされるだけの始末にあいなっていた。
要するに,自浄作用など期待できないできたこの日本の政治社会の実態が定着していた。すなわち,それは,21世紀におけるこの国家構造の基本特性になっていた。
現在,首相の座を占める岸田文雄という人物は,以上に言及した問題そのものに取り組もうとする関心よりも,ただ自分がいかに長く総理大臣をやっていられるかという欲望しか自覚できていない。その程度のちまちました「世襲3代目の政治屋」の1人に,一国の経営を任せることは冒険だという前に,もとより危険に満ちていた。しかも実際にその危険が前面に大きく出て立ちはだかる前に,自民党政権としての岸田文雄内閣を芟除しておかねばなるまい。
岸田文雄は以前,小学生に首相の仕事はなんですかと聞かれ,その立場から「内閣として人事をすること」を第1に挙げたというから,この首相は最初から政治屋失格の烙印を押されたも同然である。
g) 経営学者というよりは文明評論家とみなされてよかったピーター・F・ドラッカーは『現代の経営』(The Practice of Management,1954年)の冒頭部分で,企業の経営者の職務をつぎの3つに分けて説明していた。
註記)ドラッカー “同書” の日本語訳からの引用は,野田一夫監修・現代経営研究会訳『現代の経営-上』ダイヤモンド社,昭和40〔1965〕年による。
一国の最高指導者にとってまず第1に挙げられるべき,もっとも基本的な任務は「国家の運営」である。ところが岸田は,バカ正直に第2と第3の仕事(職務)を担当させる国会議員(など)を決める手順じたいが,自分が総理大臣である立場からして一番関心のあることだと,質問された子どもたちに対して答えた。
この「世襲3代目の政治屋」,やはり政治家などやる資格が最初から全然なかったことが,いまさらながらだったが,完全にバレた。
同じ「世襲3代目の政治屋」の安倍晋三は,「ロシアのプーチン」とは27回もの会談を重ねていたというけれども,その結果は「北方領土」をほぼ完全に回復不可能にしただけの外交成果(つまり負の)を残しただけである。
そして,いまは岸田文雄がこの日本国をさらに順調(?)に破壊しつつあるのだから,国民・市民・庶民たちから観たこの「自国」指導者は,ある意味,「地獄への水先案内人」みたいな「世襲3代目の政治屋たち」に映ることは,当然であった。
※-2 林 博史・渡辺美奈・俵 義文『「村山・河野談話」見直しの錯誤-歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』かもがわ出版,2013年4月が安倍晋三らの盲動を「恥ずべき衝動的な行為」(3頁)と形容していたが,むしろ彼らは意図して確信する「錯誤の実践」を推進させたに過ぎない
ここからの記述はつぎの要点4つを主軸として展開していきたい。
a) 前 論
本日 〔とはここでは2021年9月29日のことで,この日,配達された『朝日新聞』朝刊10面「オピニオン」欄に,つぎの投書が採用されていた。
本(旧)ブログの諸記述を更新・改訂中である筆者にとっては,最近とりあげている「従軍慰安婦問題」そのものにとって,まさに打ってつけの意見が,この朝刊に寄せられていたことになる。
以上,およそ安倍晋三の第2次政権になってからというもの,実に,あれこれと “現象させられてもきた” 「政治領域における〈いいかえゴッコ〉」に向けた批判が提示されていた。
安倍晋三は「モリ・かけ・桜,案里」のどのひとつをとっても,それだけでもって内閣総辞職になるほかない汚職事件を連ねてきた。彼の政治家(政治屋)としての存在は,全面否定されて当然であった。
彼本来の資質からして,私物化政治(この国を死物化ささせるそれ)しかなしえなかった資質ゆえ,そのたっぷり備えていた「政治屋としても3流であった程度の加減」は,いまとなって回顧してみても本当に,まざまざと落胆させられた。
2020年代になってからも,どうにも救いようのない日本政治の過程が,安倍晋三第2次政権の後遺症として継続するなかで,安倍晋三たちの手によって実現がめざされたひとつの政治目標として,「従軍」「慰安婦」という「歴史の事実」そのものを,可能なかぎり雲散霧消(撃滅)させようとした「意図」だけがめだっていた。
彼らはその「意図=目的」を追求することによって,日本という国が本来(?)「美しい国(!)」であるはずの「姿」が,確固なものとして登場させうるかのように妄信した。実際は,この従軍慰安婦問題などとはまったく別次元の要因・影響によって,日本という国は確実に後進国化,つまり「発展下降国」の道にはまりこんでいた。
安倍晋三らが心から忌み嫌い,ともかくなんとかしてでも歴史の記録から抹消(削除)しておきたかったのが,この従軍慰安婦問題の全容であった。われわれはなにゆえ,それほどまでアベ君がそうした政治精神を抱いていたのかという論点を,本日における記述の中心に据えて議論してみたい。
b) 従軍慰安婦問題を直視したくなかった(あるいはできなかった)安倍晋三君など
この記述でとりあげるのは,林 博史・渡辺美奈・俵 義文『「村山・河野談話」見直しの錯誤-歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』かもがわ出版,2013年4月である。
この本を読みはじめたところ,安倍晋三という人物は日本の政治屋としてならば,もともと戦争責任とは無縁の立場であって,それからは遥かに遠い「非歴史的な感覚の持ち主」であった点が,いまさらのようにあらためて教えられた。
今日〔この記述の初出は2014年8月13日であり,その更新は2021年9月29日であった〕は,最初に,本書に対するレビューを紹介しながら若干の議論をおこなっておきたい。
補注)なお,従軍慰安婦問題が靖国問題に直結している「歴史の事実」に関しては,最新作〔当時の〕,田中克彦『従軍慰安婦と靖國神社-一言語学者の随想-』角川書店,2014年8月が,創作的な新視点から議論していた。こちらの本については,その存在だけをしらせる程度だけの言及となる(末尾で若干触れるが)。
ともかく,林 博史・渡辺美奈・俵 義文『「村山・河野談話」見直しの錯誤-歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』に対して送られていた「アマゾンにおける書評」〔とはいえないものもあるが〕に聴いてみたい。5件のレビューが出ていたが,☆5つを付けた満点が4件,☆1つでだけの最低点が1件であった。
補注)今日(ここでは2021年9月29日の時点のことだが,この日になると同書に対するアマゾンのカスタマレビューは,9点に増えていた。その後,本書に対するレビューはたいして多くは寄せられていなかった。ただし,つぎにつづく本文の記述は,2014年8月13日時点までのものしかとりあげていない。
本書が発行されてからまだ4カ月も経っていなかった時の話となるが,☆1つの評価が最初に登場していた。
1) 『バカの壁,By popo_anyo』2014/3/18,のレビュー。☆1つ。
読む価値ありません。
自分たちの意見を検証なしにただただいいっぱなし。
どこぞの国をみているようです。
補注)「どこぞの国」とは「いったい,どこぞ(?)」と問いなおしておく必要のあるコメントである。「バカの壁」を奈辺にみいだすかが問題となる。
2)『河野は,A級戦犯,By Halekulani』2014/4/21,のレビュー。☆5つ。
宮沢〔喜一〕首相をはじめ,河野〔洋平〕,村山〔富市〕は,A級戦犯されるべき人物です。
補注)このレビュー者,☆の与え方を間違えた様子である。☆1つのはずがこのように,逆に☆5つをつけてしまったらしい。多分,うっかりしてしまい,☆1つのところをさかさまに,5つめまでクリックを入れていたらしく思える(それとも冗談的に故意にそうしたのか?)。また,ここで使われたA級戦犯ということばは「俗用」であって,専門的な定義とはなにも関連がない。
3)『一部の史料の問題をあげつらう愚を撃つ, By モチヅキ(名古屋市)』2014/5/5,のレビュー。☆5つ。
本書は,日本の戦争責任資料センター研究事務局長,日中韓共同歴史編纂委員会共同代表,「女たちの戦争と平和資料館」事務局長が2013年に刊行した,安倍政権批判の本である。
第1に,東京裁判で処刑された被告はA級のみならずB級=通常の戦争犯罪でも訴追されている。
第2に,「狭義の強制」の有無で従軍慰安婦の問題性を論じると,拉致問題でも問題視できないケースが生じてくる。
第3に,従軍慰安婦の問題性については,日本政府が条約で受諾している戦犯裁判判決でも,最近の日本の判決でも,日本兵の証言でも事実認定がされている。戦前の判決でも同様の事例を有罪とした判例があるが,日本軍や警察は業者がやったようにみせかけて黙認している。
第4に,戦前の日本のように,国家が慰安所経営の細部にまで介入した事例はまれである。
第5に,安倍首相は保守というより極右であり,在特会からの支持も含め,彼の極右人脈が本書では詳細に紹介されている。
第6に,本書では現在まで続く性暴力不処罰の連鎖を断つために,加害者処罰まで含めた国際機関・各国議会からの批判を紹介するが,これについては私は留保を付したい。
以上のような本書の内容は,一部の証言や史料だけをとくにあげつらい,全体としての史料をみずに,村山・河野談話の批判をおこなう安倍政権の問題性を,多面的に証明している。
最近,当該の本すら読まずに政治的意図から虚偽のレビューを書く事例がよくみられるが,本書をまず読み,そこで挙げられている史料をきちんとすべて読みこむことが,議論の出発点となろう。
さて,本ブログ筆者の意見で語ってみる。
前掲,1) と 2) のごときレビューは,完全に無知・蒙昧にもとづいた意見である。基本的にものをしらず,それでいてひどく恣意的な観方ばかりを,前面に押し出していた。
それに対して,この 3) のレビューは,安倍晋三という政治家が「保守というより極右」である特性:資質を指摘していた(⇒林・渡辺・俵『「村山・河野談話」見直しの錯誤-歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』においては,38頁に該当する記述がある)。
つまり,現在の自民党〔プラス・下駄の雪的・コバンザメ政党〕政権のことをとらえて,1933年以降のドイツ・ナチスと酷似していると指摘し,かつ心配までする識者がすでに多くいる。この心配は単なる杞憂ではない。もっとも,当時のナチスといまの自民党の性格がまったく同じであるとは,とてもいえないが。
補注)本日,2023年9月12日時点になったところでは,上の段落の心配は現実のものになっていた。日本維新の会「代表:伸幸」はまさしく,その悪例の見本であった。この人は「立憲民主党を叩きつぶしてやる」などと粗暴な発言までしていた。そこまで粗暴な言動が止まらないならば,政党ではなく反社集団である「維新の会」だとみなされて当然であった。
【参考記事】
だが,現在の自民党は大勢の国会議員を擁していながら,昔の自民党のように理念や主義に関して幅があり,かつ柔軟性もある政党ではなくなっている。子どもっぽい世襲議員や,勉強不足のコチコチ頭の女性議員も含めて,全体的に単一的に画一化された政治集団である点を,一大特徴にしている。
自民党はいまや,エキセントリック(極端に狭量で偏屈・奇矯)な政党になりかわった。しかも,党首(総裁-ここでは元首相の安倍晋三のことであったが)自身が「幼稚と傲慢」(これは小沢一郎評であるが,本ブログ流にいえば「幼稚と傲慢・暗愚と無知・欺瞞と粗暴」と羅列しうる資質をアベにみいだしている)の極致に至ったかのような,いうなればその代表・見本になれる人物であったからには,はた迷惑だといって済まされるわけなどありえなかった。
21世紀のいま,「ミニ・ヒトラーまがい」の人物(これには菅 義偉前首相のことも含めて)が日本の政治の頂点に存在してきた。いまやこの事実は「日本の恥」であると同時に,「アジアから世界までの大恥」を含意するようにまでなっている。安倍晋三は,母方の祖父岸 信介の政治理念をみならっているつもりらしいが,この政治志向じたいが疾うに “時代錯誤であった事実” に気づいたことがない。これが晋三の抱えていた最大の難点であったことになる。
敗戦という大事件をはさんで,つまり時代を前後して気をつけてみておくべき,日本を囲んできた国際政治環境には重大な質的な違いが生じていた。当時(昔)と現在(いま)とを比較して,日本政治を囲む国際環境じたいの変容を指摘すれば,まずなんといってもこの日本国内には,米軍基地がいまだに占領軍よろしく存在していることが挙げられる。すなわち,〔いまでは故人だが〕安倍晋三(ら)をいつでも牽制できる「宗主国の軍事基地」が,この日本本土に配置されている。
ある意味では安倍晋三も,自身の気持ちとしては否定したくてたまらないこの国の現状そのものが存在するのだが,かといって,けっして撤去できるはずもない「戦後レジーム」=「堅固とした日米安保条約体制」=「在日米軍基地の厳在」という国際政治の基本枠組は,彼の政治運営をガチガチに固定させる最大の基本要因であった。
ましてや,現首相の岸田文雄君の立場になると,在日米軍の存在など完全に「空気そのもの化」しているらしく観察できる。すでに「属国日本」である国家体制は盤石……。
4)『「錯誤」である証拠がこんなにあるとは,By チキンハート』2014/5/6,のレビュー。☆5つ。
「村山談話を否定して新しい談話を出す」「河野談話を否定して新しい談話を出す」,安倍氏がこう公約して総裁選を逆転勝利したとき,再び安倍政権の誕生が近いことをしった。第1次安倍政権以来,右派論壇と右翼政治家,ネトウヨたちのあいだで,村山と河野談話を破棄する策謀がくすぶり,蠢いていたからである。
談話の見直しは,日本の過去の歴史認識に対する錯誤である。いやそれは錯誤というよりも半ば意図的な捏造ではないだろうか? そしてそれは日本を世界のなかで孤立させてしまうだろう。こうした危機感のなかで,本書は書かれている。
第1章,作者の林 博史氏は歴史辞典の編纂も手がけている,近現代専門の著名な歴史学者である。アジア・太平洋戦争全般に著作があるが,とくに吉見義明氏とともに,黎明期からの「慰安婦」研究の専門家としてしられている。その林氏が安倍首相の2007年の「狭義の強制性を裏づけるものは出ていない」という答弁に,直接反論している。
林氏によると,
1 オランダ政府が1994年にまとめた報告書にはスマラン,マゲラン,フロレスなどの「狭義の強制性を裏づけるもの」があるという。この文書は日本にも送付されているから,政府がしらないわけがないのだが。
2 アメリカ軍がグァムでおこなった戦犯裁判記録。
3 東京裁判で提出された証拠書類のボルネオ島のポンテアナックでの海軍特別警察隊の「強制収容」。
4 東京裁判でモア島で住民を殺害したさいに女性を強姦し慰安婦にした証拠書類。陸軍中尉の供述書。
5 東京裁判で桂林での強制売春事例。
6 日本の裁判所の事実性の認定 山西省裁判。
など,安倍氏の「狭義の強制性を裏づけるものは出ていない」という答弁に直接反論できるという。このすべてが公文書である。こうして並べてみるとたしかに「河野談話の見直し」は,大きな錯誤といえるであろう。
以上の話題は今日(ここでは2014年8月時点の話)のものであった。
そして,当時話題になっていた集団的自衛権の憲法解釈を変更するさい,安倍晋三が示した具体例の場合も,そのほとんどが現実的な事例とはなりえないものであり,どだいアメリカ〔軍〕側がハナから相手にしない想定ばかりであった。
それでも安倍晋三は,集団的自衛権の必要性がりっぱに説明されていると,独りよがりに確信していた。この首相の論法はいつもながらハチャメチャであった。
だが問題は,この程度の知(痴)的水準での説明であっても,日本の庶民次元に対しては通用するものがあった。いうなれば,日本の庶民たちが現実の内政・外交に関してもちあわせている理解水準は,その程度でしかない点が問題であった。
「あの首相がいて,この国民がいる」などといわれてしまったら,国民諸氏=日本国のレディス&ジェントルメンは唖然かつ昂然となって,ただちに怒っていいはずであった。
ところが,そこまでいかずに,なんとはなしに「ネトウヨ・レベル」に調和するほかない感覚水準で応じ,妥協していた。
それなので国民側は,安倍晋三君の,あの見当違いの〈ていねいにしっかりした・デタラメばかりの説明〉にたやすく感応する始末になっていた。
一国の首相が国民の知的水準が少しでも上がるように自分の努力を傾注するのではなく,むしろ,傾国の恐れの方向に導くための為政にいそしんできた。
安倍晋三が2020年9月16に首相の座を離れてからというもの,依然かわりばえのしない日本の政治がつづいてきたなかで,2022年7月8日になるとこの人が「統一教会・2世」の山上徹也に狙撃され落命する。
安倍晋三自身はそれまで,当人の立場としては大まじめに「国家・国民ためになること」を実行しているつもりであった。
林 博史はとくに,安倍晋三の論法でいくと,「従軍慰安婦の問題」に関する『強制を認めない考え』は,北朝鮮による日本人「拉致問題」にもブーメランのように戻ってくる,「安倍首相の認識はとんでもないこと」だと指摘している(14頁を参照)。
5)『本書をガイドとして,さらに調査研究を進めることができる著作である。By 山田 進(仮名) (山形県山形市)』2014/5/18,のレビュー。☆の記入はなし。
本書の目次は,つぎのとおりである。
もっとも,林 博史・渡辺美奈・俵 義文『「村山・河野談話」見直しの錯誤―歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』に対して,このような推奨がなされたところで,ネトウヨ・レベルの人たちには馬耳東風である。
彼らは自分の立っている立場は絶対に既定であって,「それ以上(以外)には聞く耳などもたない」。だからいってみれば,かつてドイツ・ナチスが勃興したのちは,地球規模で人類史に不幸がもたらされたではないかと,いまさらにように「第三帝国の興亡史」に注意を喚起せざるをえない。
独善,独断,専断,傲岸,唯我独尊,夜郎自大の政治姿勢は,これまでの安倍晋三の自民党政治によって,十二分にかつ赤裸々に演じられてきた。
問題は国民の側における “政治意識のありよう” にあった。
単に衆愚の具現者である側に居つづけ,しかも無意識にもそれに甘んじ立場に終始するのか,それとも,政治の基本を左右する有権者の立場を生かすための能動的な努力をおこなえるのか,という問題意識になる。
〔すでに故人になっているが〕安倍晋三に,仮にだが「ヒトラーと同じこと」を徹底的やらせてみなければ,この日本(国)・日本人・日本民族は,彼の本性が判らないままだったのかもしれない。
まさか起きるわけはないと思うが,1945年8月的な現象が再帰する事態を望んでもいるのか。関連させて突如断わっておくが,いま〔当時,平成〕の天皇明仁がひどく心配していたものも,実はそのあたりにあったのである。
平成天皇と安倍晋三とはある意味「犬猿の仲」であった。
c) 在日米軍基地の現実をみたくなかった安倍晋三など
1) 天皇陛下万歳
2013年4月28日のある式典に参加した平成天皇が退席・辞去するさい「万歳三唱」をしたのが,当時,安倍晋三主張とその一族郎党であった。
天皇はそのとき,ただちに「迷惑であるという表情」さえ顔に浮かべることができない苦しい立場にあった。しかも,そのときに彼は自分の感情を少しでもみせるわけにもいかない状態で,その表情から読みとれるものを他者に悟られないように,自分のその感情を抑えていたと察する。
しかし,そのときの平成天皇夫婦の心中に発生していた気持は,おそらく「煮えくりかえっていたもの」があったはずである。つぎの画像資料に関しては,そうした解釈をあえてくわえた「註記の説明」を記入してある。
この画像は,2013年4月28日に執りおこなわれた沖縄返還記念式典において,予定には組まれていなかった万歳三唱が,ゲリラ的に叫ばれた瞬間を撮ったものである。
要は,天皇夫婦の表情をよくみつめてみたい。どのような気持だったのか? だから,彼は80歳の誕生日を機会にとらえて,こう主張していた。
前述においては「2013年4月28日のある式典」(「主権回復の日」式典)に触れていたが,この行事のなかでは,当初の予定には組まれていなかった『天皇陛下万歳』の声が上がっていたのである(前掲写真)。
翌年(ここでは⇒),2014年の4月28日はこの記念式典は見送られていた。「沖縄との摩擦」(それも自民党政権とのこと)を避ける狙いがあったと説明されている。
「天皇の国事行為」にもとづく具体的日程にかこつけては,「天皇の政治利用」を沖縄問題に関しておこなったのが(前述の万歳三唱のこと),あの安倍晋三第2次政権であった。しかし,だからこそ,その「2013年4月28日の式典」は,沖縄からの反発を買うだけに終わっていた。
2) 不沈空母「日本国」
それというのも,沖縄県の軍事的な政治環境は,いまもなおな,実質的にはほとんど変わっていないからである。日本はいまもなお,アメリカ軍のための不沈空母であり(中曽根康弘元首相の発言・形容)つづけている。沖縄県はその先鋭的な場所である。
この空母の仕様を変更しようとする企画は,普天間基地を辺野古に移転させようとする程度にしか具現されていない。在日米軍基地のための「代表的地域である沖縄県」の敗戦後は,1972〔昭和47〕年5月15日,本土(日本)に復帰したといえ,その後も基地の県としての実質はなにも変わらない。
密約付きでの沖縄県の本土への復帰であった。この事実は,この密約作成当時の首相佐藤栄作がノーベル平和賞を受けた事実によって,なおさら沖縄の人びとに大きな不信感と絶望感を与えるだけであった。
補注)若い人だとしらない場合があるかもしれないが,佐藤栄作は岸 信介の実弟であるから,安倍晋三との血縁関係はとても近い。佐藤は密約でもて大ウソをついていた。安倍晋三がよくウソをついていたときと同じように,である。
沖縄県内において基地の移転が実現したとしても,これではなにも変わりない。いったいいつになったら,米軍基地が沖縄県からなくなるのか? アメリカへの「自国の属国状態」は,日本政府にとっては直視したくない「国政と外交とに共通する〈敗戦後的な歴史〉の問題」の焦点である。
補注)日本の政治学者で米日軍事同盟関係を専門とする人のなかで,いったいいつになったら沖縄県の基地がなくなるかと答えられる者はいない。なぜか? 日本は実質アメリカの属国だからである。
敗戦後になって,沖縄=日本の全域に設置されていた米軍基地の現実的な様相は,「昔の戦争」問題が現在にまでにもたらしつづけている「系列・必然としての米日軍事同盟の具体的な現象」である。
だから,あの大戦争の過程のなかで同時並行的に営まれていた「従軍慰安婦問題」だけはせめて,「過去における軍事問題に関する具体的な記憶」として残っていてほしくないのである。
敗北してしまったあの大戦争に関する〈記憶の系列〉につらなっている因縁でいえば,現在において日本国中に存在する米軍基地の現実と,時間差を保持しつつもその裏側にへばりついていたかのような「歴史の記憶:従軍慰安婦問題」とは,実は,もとから同じしとねに仲良く枕をならべていたのである。
21世紀まで継続している米軍基地の姿容は「忘れるとか・忘れないとか」いった次元の現実ではないものの,敗戦以前までにおける「従軍慰安婦問題」の記憶は,けっして思いだしたくない記憶でしかない。当然のこと,当事者はもう必死になってそれを否定するほかない。
3) 白井 聡『永続敗戦論-戦後日本の核心-』太田出版,2013年3月(価格,税込¥1,836-)の新聞広告
この本の広告が今日〔2014年8月13日〕の『朝日新聞』朝刊に出ていた。本書の内容説明はこうなっている。以下に目次も添えておく。
日本国の領土の上にはどっかりと,アメリカ合衆国の軍事基地がのしかかっている。その配置図をみると,まる日本を完全に黒子としてあやつっている関係が,容易にかつ確実に推理できる。
【参考画像資料】
この画像資料は ,表題にあるが「米軍肩代わりの日本版海兵隊 東アジアの緊張下で進む日本全土の米軍基地化」『長周新聞』2017年11月4日,https://www.chosyu-journal.jp/shakai/5551 から借りたものである。
この記事の本文からはとくに,つぎの段落を引用しておく。これはごく一部分に関した指摘である。
在日米軍司令部と第5空軍司令部のある横田基地には,航空自衛隊の中核である航空総隊司令部と関連部隊が移転し,日米の共同統合運用調整所を設置した。調整所は米軍と自衛隊間の情報共有や共同運用強化を図る部署だ。航空自衛隊も司令部ごと,米空軍司令部の指揮下に入っている。
そして海軍は米第7艦隊の原子力空母が横須賀を母港化しており,米第7艦隊司令部,在日米海軍司令部と海自の自衛艦隊司令部がすでに一体化している。陸・海・空すべての米軍司令部が自衛隊を直接指揮する体制が米軍再編で整ったといえる。
安倍晋三が自分の観念:情念のなかでのみは,一気に撤去したい〔できる?と思いこんでいた〕らしい,しかも,白井 聡にいわせれば「戦後日本のレジームの根本をなすもの」である「永続敗戦」は,安倍のそうした願望・妄想などとはいっさい無頓着に,いまもなお厳然と〈永続〉しつづけている。
それでも安倍晋三は「戦後レジーム」を必死になって否定している。だが実は,そのなにひとつも否定できていないことは,上の地図からも一目瞭然である。
そもそも,在日米軍基地はなんであるのか?
20世紀から今世紀にかけてそれが有してきた,日本国にとっての「歴史的な含意」は,なんでありうるのか?
しかして,今後はどうなりうるのか?
4)「2013年4月28日のある式典」(前出した「主権回復の日」式典)において,「万歳三唱」を浴びせられた平成天皇の「本当の気持」が奈辺にあったかなど,いっさい理解も察知もできないのが,安倍晋三という「幼稚で傲慢」な政治家の本来的な限界であった。
米日間におけるとくに軍事面関係の各種問題は,それも敗戦した日本国にとって特殊に意味のある問題として,あれこれ生まれてきた。だが,そこに現実にはめこまれている制約や限界に対してとなると,安倍晋三もまた,なにひとつまともにとり組むことができないでいた。
日本政府は軍事同盟関係面においてはまさに,実質,米軍の麾下にあるとしか観察できない。
それでもただ,アジア方面にかかわる歴史問題,具体的にいえばそのひとつである「従軍慰安婦の記憶」についてだけは,安倍晋三は自分の力で完全に抑えこみ,否定し,抹消できると勘違いしていた。
こちらの歴史問題に関していえば安倍は,そうした問題状況に関して自分が「しっかりとていねいに説明する場面」があったのに,いつもそれから逃げていた。
アメリカとはまともに口さえ訊けなかった日本の黄嘴政治家が,アジアに向けてはひたすら横柄で傲岸な態度でものをいう。母方の祖父岸 信介は敗戦後首相になってから,アメリカのエージェントたるべき役割をも果たしてきた。
だが,安倍晋三の場合は,それに相当する仕事をアメリカから与えられるほどの度量というか容量をもちあわせていなかった。ただ黙って盲従して甘受するか,それともみずから声を挙げて協調することが,彼にとっては「唯一できる本当の仕事」であった。
つまり,その程度の実力・容量しかない3流政治家(政治屋)という評価が,安倍晋三には以前から下されていた。危なっかしくてみていられない世襲3代目政治家であった。
そもそも,自分自身がたずさわっている政治の意味や,国内・国外に関連を与えている自分の発言のもつ意味あいなどを,まともに感知するための基礎的な理性・知性・感性のすべてを欠落させていた。
このような国家指導者をいただいていた日本国民は,自国の将来をただ危惧するほか手がなかったのか?(いまとなってはこの答えは出ているが,ここでは論じない)
補注1)その安倍晋三君だが,本日(ここでは,2021年9月29日に実施された自民党総裁選では高市早苗を一押しに応援し,自分がいままで重ねてきた国家犯罪的な悪業の数々(「モリ・かけ・桜・案里など」)が,白日のもとに晒されることないようにするために,必死になっており,あわよくば,自民党内の「キングメーカー」となる基盤を造ろうとしていた。
高市早苗を売りこむために安倍晋三はすでに,SNSを利用する宣伝作戦のために3億円は投入したという〈確かな筋〉からの情報もあった。この嫌らしく聞きづらい「押しつけがましく図々しい宣伝ぶり」ときたら,みなウンザリしていた。そのために安倍晋三は当時,すでに「撃ち方止め」の合図を数日前に指令したと聞く。
安倍晋三が用意できているその資金の出所は主に,首相の時代に外遊をなんどでもおこない,そのさい訪問国に贈るODA援助などのためのこの国の予算から「3%ほどくすねる慣習」を介して蓄積してきた金子のごく一部だといわれている。
注記)後方の2つの段落は,ユーチューブ『一月万冊』に出演している佐藤 章(元朝日新聞記者)の解説にもとづく記述に依拠した。
補注2)なお 「自民党総裁選 2021」については,この記述を書いている最中(直前)にしったのが,この報道である。
「【速報中】岸田文雄氏が新総裁に 自民党総裁選,決選投票を制する」asahi.com 2021年9月29日 15時52分,https://digital.asahi.com/articles/ASP9X6QGHP9XUTFK021.html?iref=comtop_7_02
※-3 もうろくしたかのような田中克彦「靖國神社と慰安婦問題」論
前段途中で,田中克彦『従軍慰安婦と靖國神社-一言語学者の随想-』角川書店,2014年8月という本を挙げておいた。当時,この本を読み終えていたところであり,実は,この田中克彦が結論あたりで奇妙な発言をしていた点が引っかかっていた。
それは,自分にみえないものしか議論しないインテリの姿勢の語りであった。もうろく気味にも映る老人に特有の「偏倚(へんい)した発言」だけが突発した論調を感じた。それにしても得心のいかない見解を披露している。
たとえば,こういっていた。
この歴史理解はけったいな話法を駆使していた。通常,日本側の兵士は靖國神社に合祀されていても,朝鮮人をはじめそのほかの外国人の慰安婦,そして日本人の慰安婦も靖國には祀られていない。
筋道として話をしたかったのであれば,とうていいっしょにはできない話同士をごたまぜにするのは,問題の本質:ありかを必要に不透明にさせ,要らぬ謬論を誘引する。要はミソクソの戯れ言が,公刊された本のなかで,不注意問以前に気軽に語られている。
マルクス主義の論調に載せていうのは,カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルス『共産党宣言』1848年が “Proletarier aller Länder vereinigt Euch!” (「万国のプロレタリアート,団結せよ!)と叫んだということであった。
だが,靖國神社が兵士を英霊として受けいれていても,慰安婦も同じに受けいれているのではない。田中克彦のような解釈・意見は,不適切のきわみである。老境の饒舌とみなされてよい,その脱線した,あるいは断線したかのごとき錯乱な筆法。
だいたい,日本軍将兵の夫や息子が妻や母に慰安婦の話を率先して語ったという「話」は,聞いたことはない。そうだといってもいいほど聞かない。しかもこれは,その彼女らのお世話になっていた彼らの話である点は,当然に踏まえている。
「慰安婦に感謝」ということばに至っては,『河野談話』ですらを認めない,いまどきの日本の〔政府の反動的な教導に煽られてもいる〕世論のなかで,いかほどに実効性のある提案になりうるか? 浮世離れした軽率な発想であった。
軍が基本から関与し,管理させた慰安婦施設でのことであるゆえ,兵士はその利用料金は払ったのだという反論も,あらためて当然のごとく出てくるはずである。だが,ここで公娼の問題と混同を起こしたら,従軍慰安婦の問題はまともに理解できなくなる。
もっとも,従軍慰安婦には「足抜けできる方法がなかった」。将兵は生きて帰れる希望はあった。慰安婦でも敗戦後,なんとか故郷に生きかえることができた者であっても,帰った場所に自分の人生を埋もらせておくほかない運命になっていた。
彼女らがカミングアウトできた時は,戦争が終わってから半世紀近くが経っていた。その後の彼女たちがどのような運命をたどっていったかを解明する文献・資料は,その大多数についてからして,ほとんどみつかっていない。
そうした歴史を強いられてきたのが従軍慰安婦たちの戦後である。かといって,関連する資料・記録がみつからないのではない。吉見義明がこの分野を研究した先駆者であった。永井 和や林 博史も手堅く学術的に解明している。
なかんずく,兵士と慰安婦とは同じ戦場に生きていたとしても,それぞれを囲む公的な生活環境条件,人生の方向性は最初からまるで異なっていた。
田中克彦の本の論旨は興味深いものを提示してはいるものの,真綿ならぬ〈ぼろきれ〉で歴史のなにかを包装(=隠匿)したかのような基調になっていた。
ひたすら実証的には論じないままに,「自己の現前」(5頁)だけの問題とみなして発言を果たしたところで,問題の本質まで透徹した議論に到達することはできない。
田中克彦『従軍慰安婦と靖國神社-一言語学者の随想-』は,手慰みのごとき書物であった。歴史の感覚を消滅させる駄本といえなくもない。
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