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北朝鮮帰国事業問題に深く関与した日本赤十字の行跡(2)
※-1 「本稿(2)の論題」は,敗戦後日本史における「北朝鮮帰国事業問題」を日本赤十字の歴史的足跡として検討する
a) ところで,この記述全体を最初に公表したときは,その「年そのもの」が何年であったかはさておくとして,実は,3月1日という日付に書かれていた点に,若干こだわる言及をしてみたい。
付記)冒頭の画像の人物は坂中英徳。文中に登場するのでここでは紹介しない。
補記)「本稿(2)」はつぎのリンク先住所を受けているので,できればこちらを先に読んでほしいところと希望する。
上で触れた日付「3月1日」は,近現代日本史において,いったいどのような出来事や事件が記録されてきたのかと振り替えてみると,けっこうあれこれと興味深い「歴史の記録」が刻まれていた。
といったごとき関心をもって,ともかくこの「3月1日」という暦上の特定の日付に起きていた,それも「歴史的にめだった事件」を抽出してみようと思いついた。
以下の列記は,本ブログ筆者なりにかなり恣意的になるけれども,ごく粗っぽく,この「3月1日」という日付そのものに関してだが,それもここでは,「日本とアジア諸国との関連」でどのような「歴史の記録」があったか,若干だが,確かめてみたものである。
つぎに,そのいくつかの年における「出来事・事件」を抜きだしてみる。
1905〔明治38〕年 --日露戦争,奉天会戦が行われる(3月10日まで)
1919〔大正8〕年 --日本統治下の朝鮮で3・1独立運動が起こる。
1932〔昭和7〕年 --満洲国の建国が宣言される。
1934〔昭和9〕年 --満洲国で帝政を実施し,清朝最後の皇帝・溥儀が満州国皇帝となる。
1942〔昭和17〕年 --第2次世界大戦・バタビア沖海戦で日本海軍が連合軍艦隊に勝利し,インドネシア方面の連合軍艦 隊は壊滅する。日本軍がジャワ島に上陸。
1945〔昭和20〕年--日本の大審院が1942年におこなわれた翼賛選挙における鹿児島2区の選挙結果を無効とする判決を下す。(鹿児島2区選挙無効事件)
1976〔昭和51〕年--韓国で金大中らが民主救国宣言を発表。
これら抜き出してみた「3月1日」に注目するときに読みとれる,それも「日本歴史の〈大きな流れ〉」に関していえば,ある程度,予備的な知識をもっている人は,「歴史というものの推移」のなかに,あたかも意図的にしこまれたごとき,この「3月1日」という日付にまつわって発生していた「特定の政治的な嫌らしさ」を感得するかもしれない。
というのは,国際政治の領域における問題になるが,主に明治以来の大日本帝国史の盛衰をめぐる舞台の現実相,これを換言すれば,ある意味では「なにかがあるいは誰か」が「やったり・やられたり(殺ったり・殺られたり)」してきた,それなりに当たりまえに,かつ露骨に意味深長でもあった東アジア政治史的な相互関係史が,その日付「3月1日」においてはなぜか,いくつもの目立つ「歴史の出来事や事件」となって発生していたからである。
国際政治関係のなかでの話になっているが,なぜか,わざとらしく〈歴史的な諸因果〉がこめられて意図的に操作されたのかと思わせるほどに,特定の〈日付〉をもってする〈政治・外交的なさや当て行為〉が発生していた。
補注)敗戦後史における「占領国アメリカ(連合軍の実体)」が「敗戦国日本」に対して実際にしかけた,その種の「イヤミな日付取り」はたとえば東京裁判によってA級戦犯として裁かれた東條英機が,当時皇太子であった明仁が15歳になった誕生日,1948年12月23日に処刑された一例からだけでも十分に汲みとれる。
〔本文事に戻る→〕 韓国の元大統領金 大中のように(前段引用枠のなかには「1976年--韓国で金大中らが民主救国宣言を発表」という項目があったが,この年はまだ朴 正熙が大統領であった時期),この3月1日という日にちを,「自身の政治活動において期待したい効果」にむすびつけようと思念したごときの,特定の政治的意図を読みとることも可能であった。
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後列には高円宮憲仁夫婦
=『日本経済新聞』2018年8月25日朝刊 =
以上のようにも述べられる「3月1日」という日付は,とくに韓国では旧大日本帝国時代による植民地時代,民衆が独立運動を起こした1919年(日本では大正8年)のその「歴史に記録される3月1日」となるゆえ,かくべつに大きな意味をもたらされる月・日である。
b) さて,以上のごとき日付の話題に触れたところからいきなり,本日におけるこの記述の本題に飛ぶことになる。
あの「北朝鮮という救いようのない全体主義独裁国家」に関しては,たとえば本記述の論題に関係する文献の1冊に,坂中英徳・韓 錫圭・菊池嘉晃『北朝鮮帰国者問題の歴史と課題』新幹社,2009年が挙げられる。
この本は,21世紀のこの時期になってもはや十二分にといっていいくらい,その実相が明らかになった「北朝鮮への在日朝鮮人送還」事業の意味を,歴史回顧的に分析・批判している。
すなわち,坂中・韓・菊池『北朝鮮帰国者問題の歴史と課題』は,20世紀半ばに形成された「日本赤十字社幹部-朝鮮総聯-北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)」という「最悪の三角関係」の構成が,在日朝鮮人に対する〈歴史的な大不幸:無惨な悲劇〉をもたらした事情を解明している。
補注)現在の2024年になっては,つぎのごとき関連する研究成果も公刊されているので,アマゾン通販の情報を借りて紹介しておきたい。坂中英徳らの本も挙げておく。
※-2 坂中英徳・韓 錫圭・菊池嘉晃『北朝鮮帰国者問題の歴史と課題』2009年
この坂中・韓・菊池『北朝鮮帰国者問題の歴史と課題』は,「1959〔昭和34〕年12月14日-その日から北に向かった在日朝鮮人とその日本人妻,子らの苦難の道が始まった」「その輪郭がみえてきた現在,市民として,いまなにができるのか,問われている」という問題意識をもって執筆されている。
目次はこうなっている。
1 北朝鮮帰国者問題の本質(坂中英徳)
第1章 北朝鮮帰国者問題の本質に迫る
第2章 「坂中論文」の展開と帰国者問題
第3章 帰国者の後悔と苦悩の日々
第4章 日本人妻
第5章 日本に残ったコリアン
第6章 帰国者問題は「人道移民問題」に発展する
第7章 もうひとつの拉致問題
第8章 帰国者の日本への長い道
第9章 日本に戻った帰国者
第10章 人道移民支援センター
2 日本人妻・志津子(韓 錫圭)
3 帰国運動・帰国事業と帰国者の「悲劇」
第1章 帰国事業はなぜ始まったのか
第2章 北朝鮮の戦略と帰国者の「悲劇」
北朝鮮帰国事業関連年表
資料1 外務省文書「閣議了解に至るまでの内部事情」 1959年2月13日
資料2 金 日成同志との会談記録(1958年7月14,15日),金 日成同志との会談記録(1958年8月12日)
著者のうち坂中英徳[サカナカ・ヒデノリ]は,1945年生まれ,1970年慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程を修了,法務省に入省。入国管理局入国在留課長・名古屋入国管理局長・東京入国管理局長などを歴任,2005年に退職。
同年8月外国人政策研究所を設立,法務省在職時から現在まで在日韓国・朝鮮人の法的地位問題など一貫して在日外国人問題,外国人政策にとり組んできた。その経験と見識にもとづき,今後50年間で1000万人の移民を受け入れる「日本型移民国家構想」を提唱している。
坂中英徳・浅川晃広『移民国家ニッポン-1000万人の移民が日本を救う-』日本加除出版,2007年は,「南米日系人を使い捨てる産業国家日本」という関連から議論をしていた。
この坂中・浅川『移民国家ニッポン-1000万人の移民が日本を救う-』は,この題名どおりであって,日本の今後=衰退と滅亡への道を予防・除去・救済するには,移民として外国人千万人を受けいれるべきと主張していた。
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真摯に考え行動してきた人物である
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2010/12/r00016011/
坂中英徳は,北朝鮮帰国事業によって在日朝鮮人の夫とともに「帰国」した日本人妻の深刻な様相にも注目しつつ,今後「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)」の動静について予測しておかねばならない〈国家崩壊〉に備えて,その
a)「日本妻の帰国」や
b)「元在日朝鮮人〈帰国〉」,
c)「北朝鮮からの難民受入」などを
いまから覚悟しておく用意を強調していた。
つぎに,韓 錫圭[ハン・ソクキュ]は,1930年代後半,関東で在日朝鮮人2世として生まれ,高校卒業後に就職できなかったが,戦後,北朝鮮への帰国運動を展開する朝総聯傘下の在日本朝鮮青年同盟に誘われて加入し,6カ月間,朝鮮語と社会主義祖国に対する教育を受け,専任活動家として働いたのち,自身も北朝鮮に帰国した。
帰国後は,朝鮮中部の炭鉱都市に配置され,無煙炭運搬用のトラックの運転手として働いた。2003年,日本から「帰国」した人びとと日本人家族の実情を世界にしらせ,なんらかの対策を立てて欲しいとの一心で,脱北を敢行。
また,菊池嘉晃[キクチ・ヨシアキ]は,1965 年東京に生まれ,早稲田大学第一文学部を卒業し,1987年に読売新聞社入社,地方支局・社会部・地方部・週刊誌『読売ウイークリー』担当などを担当し,北朝鮮・韓国関連の取材に携わってきた。1994~1995年,韓国の成均館大学大学院に留学,2000年にまとめた「北朝鮮帰国事業に関する論文(韓国語)」で修士号を取得。
※-3 在日朝鮮人「北朝鮮帰国事業」を立案,企図したのは誰か?
1) 北朝鮮帰国事業に関係する主な著作
本ブログは,坂中・韓・菊池『北朝鮮帰国者問題の歴史と課題』2009年12月について,前段に触れた以上にはくわしく紹介できない。別途の機会をもちたい。ここで触れるのは,同書のなかで菊池が挙げている関連の文献,つぎの「☆印の3冊」である。
注記)坂中・韓・菊池『北朝鮮帰国者問題の歴史と課題』198頁。
☆-1 高崎宗司 朴 正鎮編著『帰国運動とは何だったのか-封印された日朝関係史-』平凡社,2005年は,北朝鮮にとって帰国運動は日本への接近・対日国交正常化を狙ったものと主張する。
☆-2 テッサ・モーリス‐スズキ,田代泰子訳『北朝鮮へのエクソダス-「帰国事業」の影をたどる-』朝日新聞社,2007年は,在日朝鮮人の北朝鮮「大量帰国」は,在日朝鮮人の排出を意図した日本側が北朝鮮よりも積極的であって,「日本の官僚,自民党の政治家,日本赤十字社の働きから始まった」という論者の著作である。
☆-3 張 明秀『謀略・日本赤十字-北朝鮮「帰国事業」の深層-』(五月書房,2003年)は,北朝鮮帰国事業の主体となった日本赤十字社による「日赤陰謀論」を提唱する。
2) 張 明秀『謀略・日本赤十字-北朝鮮「帰国事業」の深層-』五月書房,2003年
そこでとくに,この張『謀略・日本赤十字-北朝鮮「帰国事業」の深層-』に言及してみる。本書のカバーに巻かれた帯には「日赤が仕掛けた在日朝鮮人,追放の罠」と謳われている。
この張の議論を紹介するまえに,モーリス‐スズキ,田代泰子訳『北朝鮮へのエクソダス-「帰国事業」の影をたどる-』がいうところ,すなわち「日本,北朝鮮,韓国,米国,ソ連,中国,そして赤十字」などが,第2次大戦後における国際政治の「冷戦下,それぞれの思惑が絡みあい,「帰国事業」は始まり,歴史は隠蔽された」という〈巨視的な観点〉を背景に踏まえておきたい。
なかんずく「日本と北朝鮮の関係にいまも影を落としつづける」のが,北朝鮮帰国事業である。この「歴史の真相が明らかに」されておくべき重要性があるとすれば,とりわけ日赤が日本政府に代わって,対北朝鮮当局との交渉窓口となった事実に留意する必要がある。
とくに張『謀略・日本赤十字』は,結論部でこう記述している。
日赤,なかでも井上〔益太郎〕外事部長は,さぞかしにんまりしていたことであろう。井上が「中共及共産党関係特殊事務総括」の肩書で外務省アジア2課の嘱託をしていた1954(昭和29)年から企てていた在日朝鮮人の集団的帰国,つまり生活保護適用者6万人の追放計画が,朝鮮総聯と日本共産党,日朝協会などによって実現の運びとなったからである。
ある日本共産党の幹部に,この話をしたことがある。彼は「それでは,われわれは,日本政府の1人の官僚の手の平で踊らされていたということではないか」と驚いたが,まさにそのとおりであった。
金 日成,日本共産党書記長・宮本顕治,朝鮮総聯議長韓 徳銖,そして私〔張〕を含めた総聯の幹部や活動家たち,それから萩原 遼ら日本共産党員たちは皆,日赤井上外事部長の操り人形であった。
しかしもちろん,朝鮮総聯と日本共産党のキャンペーンだけで,十万人近い在日朝鮮人が北朝鮮へ渡ったのではない。社民党に党名をあらためた日本社会党,そして自民党の議員たち,日本の権力層全体がこの煽動にくわわっていたといえる(213頁)。
張はただし,「今日,北朝鮮帰国者問題で直接の責任が明確な朝鮮総聯は,いっさい口を閉ざしいる」(214頁)と,批判することも忘れていない。
とはいうものの,1910年に大韓帝国を植民地にし,支配・統治してきた大日本帝国は,その後「朝鮮」と国名を換えさせた「現在の韓国〔大韓民国〕と北朝鮮〔朝鮮民主主義人民共和国〕」から,歴史必然的に日本に大挙流入してこざるをえなかった人たちを,敗戦後になると一転して一気にやっかい者あつかいしだし,そのあげく一貫して,朝鮮半島〔韓半島〕に追いかえそうとしてきた。
補注)以上の指摘は,21世紀の現時点になお執拗に妥当する日本政府の基本姿勢として,なお根強く脊髄的な反応形態として残存している。最近の報道ではたとえば『東京新聞』2024年6月15日は,つぎのように関係する記事を掲載していた。
以下にその全文を紹介するこの記事は,日本国民側でそれほどしられていない内容であるので,あえてそっくり引用してみる。
♭ 不注意や病気でも永住資格を失うなんて…改正入管難民法で 日本は本当に「外国人材に選ばれる国」になるのか? ♭
=『東京新聞』2024年6月15日 06時00分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/333632 =
技能実習に代わる外国人材の受け入れの新制度「育成就労」を創設する改正入管難民法などが〔2024年6月〕14日,参院本会議で自民,公明,日本維新の会,国民民主党などの賛成多数で可決,成立した。立憲民主党,共産党,れいわ新選組は反対した。3年以内に施行され,政府は2027年にも新制度を始める方針だ。
技能実習では職場の変更が認められず,搾取されたり失踪したりする人が続出。このため,新制度は1~2年後に同じ業務で職場を変える「転籍」を認める。育成就労の期間終了後は,技能の習熟度が高く最長5年働ける「特定技能1号」に移行しやすくするようにし,技能を高めながら長期に働けるようにする。
一方で,政府は「将来的に永住者の増加もみこまれる」との理由で,外国人の永住資格の取り消し要件を拡大。納税や社会保険の支払いを滞納した場合などには永住許可を取り消すことができる規定を設けた。
【用語説明】 永住資格〔とは〕10年以上日本に在留する人や,日本人と結婚した配偶者,高度な技能や知識をもつ人などが取得できる在留資格。昨〔2013〕年末時点で89万人。
取得者のうち最も多いのが中国籍の33万人で,フィリピン籍(13万人),ブラジル籍(11万人),韓国籍(7万人)と続く。旧植民地である朝鮮半島と台湾の出身で,1945年9月以前から日本に住む人と子孫が取得できる「特別永住資格」は,今回の取り消し制度の対象外となる。
補注)この在日韓国籍人(など)に対する「特別永住資格」の特質は,いまひとつ釈然としないあつかいであった。もともと帝国臣民として旧日本国籍にしておきながら,その後,勝手にその国籍を剥奪していたせいか,多少の良心の呵責であったのか,この「本来特別などではない」「特別永住資格」を,いまでは4世・5世にまでなっている当該世代を含むその「特別永住資格」とは,実に奇妙かつ奇怪な「在留資格」のひとつであった。
そもそもその特別永住資格をもつ在日韓国人や中国人(台湾人)は,日本に入国した事実は,歴史的な経緯上なかったのだから「特別にオマエたちには永住資格を認めたのだ」というリクツじたいが,そもそもヘリクツの域を出ていなかった。
以上の批判は,国際法上,日本の敗戦時点ではすでに確立・認定されてたい当該人びと(外国人?)に対する事後の処遇の方法であった事実を踏まえてくわえたものであるゆえ,前段のごとききびしい批判に反発する人がいる場合は,そのあたりの国際法が教える「常識次元の予備知識」の存在を,いまさらだが指摘しておかねばならない。
〔記事本文に戻る ↓ 〕
◆-1 新制度は資格取り消し対象を拡大
外国人の永住資格の新たな取り消し制度と技能実習に代わる「育成就労」を設ける法律が,当事者らの反対を押し切るかたちで成立した。日本社会は外国人抜きでは回らなくなっているが,「選ばれる国」としての魅力は低下する懸念がある。
「永住者の生活と人権を脅かす」。在日韓国人の団体「在日本大韓民国民団(民団)」は〔2024年6月〕6日,国会前で法律への反対集会を開いた。横浜中華街の中国人たちでつくる「横浜華僑総会」も5月に声明で「深刻な差別だ」と反発した。
永住資格は日本に10年以上住む人らが取得でき,従来は1年超の実刑が確定した場合などを除いて取り消されることはなかった。新制度は取り消しの対象を拡大し,税金や社会保険料の滞納や,入管難民法の義務違反も剝奪の根拠になる。
◆-2 当事者から悲鳴「あまりに過酷」
条文があいまいなため入管当局の裁量が大きく,不注意による在留カードの不携帯や病気で税金が払えない場合も取り消される懸念が指摘される。「在留カードを財布に入れ忘れただけで永住資格を失うなんて,あまりに過酷」。18年前に来日した米国籍の女性ソラナ・ミツさん(44歳)は,反対集会で訴えた。
補注)ここで「あまりに過酷」だと批判された在留資格に関した在留外国人の悲鳴は,実は「40年ほど前であれば」,前段に触れてあったいまは「特別在留資格」の保持者であっても,まったく同様に処遇されていた条件であった事実を,ここで強調しておく必要がある。
この付近の問題ついては,在日韓国人系の新聞紙が関連する「弁護士の批判」を掲載していたので,後段にその意見を紹介する。
〔記事本文に戻る ↓ 〕
岸田首相は法改正の必要性について,一部永住者の税金未納を指摘して「地域住民との間で不公平感を助長する」と説明。だが,入管行政に詳しい指宿昭一弁護士は「日本人と同じように延滞税の徴収や差し押さえをできる。在留資格まで奪うのは過剰で差別的な制裁だ」と指摘する。
新設される「育成就労」制度についても,批判が根強い。劣悪な就労環境でも業種によって最長2年は転籍を禁じ,日本語や職業能力試験にも合格しなければならない。「過酷な職場ほど勉強時間もなく転籍しにくい」(共産党の仁比聡平氏)という矛盾を抱える。
◆-3 8年間も家族を帯同できない
育成就労の3年間に加え,そこから一段階上がった「特定技能1号」の5年間も合わせて計8年間は家族を帯同できない。
首相は「外国人材に選ばれる国にする」と繰り返すが,横浜華僑総会顧問の曽徳深(そう・とくしん)さん(84歳)は「人材の(モノとしての)『材』に重きを置きすぎで『人』を見失っている。人として尊重する迎え方が必要だ」と訴えた。
つぎにかかげておく
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これは前年末比14万8645人で 4. 8%増加
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さきほど,南米系日系人に対する日本政府のそれこそ「血も涙もない」ような「その後における」あつかいか方,つまり,人間労働力が足りなくてたいそう困っている時期には,日系人だから「血が特別に濃くつなっている人たち」だからという理由で,大甘も大甘でそれこそついでに偽日系人まで大量にホイホイ入国させておきながら,
いまどきの日本,すでにすっかり落ち目の段階になっていて,しかも少子高齢社会の様相が深刻なまで深まってもおり,したがって,労働力も非常な不足状態である現状の労働経済事情のなかで,ともかくこんどは,国外追放も考慮した出入国在留管理庁なりの,「永住資格」に関した政策変更を基本にする法律を成立させていた。
こうなると,もともと外国人である人びとの永住資格であっても,なにかちょっとした不履行・違反があれば,「もうオマエら要らない,出ていけ」という寸法になっていた。過去に強調されていた南米日系人の「血のつながりウンヌン」などは,完全にまったくのご都合主義であったし,この日系人の場合は,ただ単に入国させる理由として「その血」の近さを利用(善用ならぬ悪用)していただけであった。
だから,もともと外国人である人びとに対した,今般の法務省出入国在留管理庁の法律変更(成立)は,そこにチラチラみてとれる「手前勝手ぶりとズサンさ」を,通奏低音のごとき基本姿勢として確実にうかがわせていた。
だいたい,いまどきの日本で人口の減少が加速化している段階に突入しているにもかかわらず,外国人がより長期的に永住化していく現状を踏まえていてでも,ともかくなにか微罪(税金のたとえば健康保険料の遅延・不払い)を理由に,これ幸いとばかり国外追放をチラつかせる手法は,稚拙というか時代遅れの典型的な対処法である。
最近は「在留資格」に関しては『特殊技能』という〈項目=いいわけ〉を立てて,外国人労働者の移入を促進する手立てに用意した(⇒今回の制度は,深刻な人手不足の状況に対応するため,一定の専門性・技能を有し,即戦力となる外国人を受け入れる制度だと説明されている)が,
そもそも,いまでは「落ちこぼれの先進国」(本当のところは「先進失格国」)となってしまっている日本に,そのような在留資格を新しく設けてみたとところで,そして,現状のごときひどい人不足を補填しようにも,
もはや賃金水準では魅力などない国民経済の実力になっているこの国の実情ゆえ,あえて断わっておくならば,すでに「おまいう」という段階になっていた現状,これをゆめゆめ忘れるべきではない。
けっして「スゴイ日本」ではなくなっている事実を,すなおに認識しておく余地があった。
3) 在日韓国人系の機関紙『民団新聞』2024年5月8日は,ある弁護士の批判として,以上のごとくに問題性ありありの「永住資格」あつかいに関して,小さな理由をほじくりだしてはそれを剥奪しようとするという政治当局の「尻の穴の小ささ」を,つぎのように批判している。
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ここではつぎの「外国人登録者数統計」をみておきたい。ウィキペディアに出ている統計図表である。1960年から韓国・朝鮮籍が減少していた事実は,北朝鮮への在日駆り出し的な移住政策が功を奏していたからであった。
全体的にみて1990年代以降,韓国・朝鮮籍の人口統計そのものが減少しているのは,すでに,日本国籍を取得してきた『在日』が大勢いた事実を示しているし,日本人との婚姻によってその子どもたちは,ほぼ日本国籍を選択しているゆえ,であった。
特別永住という在留資格も基本的には,いずれなくなっていくものであるが,当分はなくならない。
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だがこのような在留資格を設けていた法務省の政策そのものが本来
国際法の無視・非常識を教えていた
話を戻す。北朝鮮への「帰国(?)事業」という日本の歴史に記録された《国家意思での残虐性》は,いまとなって回想するに,あたかも「天に唾した」がごとくとなって,「北朝鮮帰国日本人(脱北者日本人妻およびその家族)」の問題,おまけにといってはなんだが,「北朝鮮による日本人拉致問題」などとかたちをかえ,日本に向け逆流してきた。
補注)「特別永住」という「在留資格」は本来,「あるはずもないそれ」であったが,まあ苦肉の対策というか,いまもなお〈羊頭狗肉〉の旧自国人に対する敗戦後処理のゴマカシであったのが,この「特別永住」。
もとよりなんら特別ではありえない在留資格を,わざわざイチジクの葉っぱよろしくと形容したつもりか,それも「特別に設けていたところ」が,なんとも皮肉でかつ便法のやり口でしかなかった。つまり,中途半端な「在日韓国人系の旧日本人」に対する在留資格の「特別な設置」であった。
この記述,「本稿(2)」もようやく結論部に近づいた。
※-4 日本国は総力を挙げて10万人近くもの在日朝鮮人を,彼らの生まれ故郷ではない北朝鮮「地域」に追放した
1)日赤の役割
朝鮮総聯の幹部たちの責任が,まずもって非常に重大であった。それこそ歴史的な大犯罪を推進させてきたのが「北朝鮮帰国事業」であった。しかしまた,それと同時に,
日本国側の各政治勢力や「天皇の配偶者」を名誉総裁に戴く日本赤十字についていえば,とくにこの日赤は,国際的組織として本来有する理念・目的から逸脱し,
かつて,自国が植民地にした国家・地域からこの国に流れこんでこざるをえなかった在日朝鮮人たちに対する『冷酷無比な〈北朝鮮(実質は異境の土地)への追放政策〉』を,企画し実現させるという「国際犯罪的な政治行為」を実行してきた。
ところで『ウィキペディア辞典』を参照すれば,日本赤十字はこう解説されている。
日本赤十字社(にっぽんせきじゅうじしゃ)は,1952〔昭和27〕年に制定された日本赤十字社法(昭和27年8月14日法律第305号)によって設立された特殊法人である。社員と呼ばれる個人参加者の結合による社団法人類似組織である。日本において赤十字活動をおこなう唯一の団体であり,略称を「日赤(にっせき)」という。
また,在日朝鮮人の帰国運動が開始されたのは,早くは1953年7月のことであった。
1954年1月に「日本赤十字(日赤)」は「北朝鮮残留日本人引き揚げを朝鮮赤十字界(朝赤)が援助してくれれば,在日コリアン〔 註記)ただし当時は,このような〈在日コリアン〉という表現:呼称は使用されていなかった〕の北朝鮮帰国を日赤が援助すると打電(しかし,翌1955年後半まで事態は進展せず)」していたという。
注記)坂中・韓・菊池『北朝鮮帰国者問題の歴史と課題』〔北朝鮮帰国事業関連年表〕,322頁参照。
2)在日日本人たちの役割-在日朝鮮人の追放万歳?-
その後,「朝鮮総聯と日本共産党のキャンペーン」を契機に実現した「北朝鮮帰国事業」については,日朝間には国交がなかったゆえ,その代わりに交渉窓口となった日赤が「喜こび勇んで」,しかも「必死になって」「在日朝鮮人〔9割9分以上が韓国=南側の出身者である〕」を「北朝鮮に送還する」仕事にとりくんできた。
日本国の関係筋も,日赤のその仕事が「在日朝鮮人」の「体のいい国外追放政策」を意味したからには,与野党を問わず協賛・連携しつつ積極的・意欲的にとりくむことになり,もののみごとにその狙いを実現させることができた。ところが,この成功の事績はいまでは反転させられ,結局,日朝間における事後の歴史に大きな打撃を与え,いつまでも消しがたい傷跡を残したままである。
3)寺尾五郎の罪過
訪朝記者団『北朝鮮の記録-訪朝記者団の報告-』新読書社,1960年は,日本の各新聞社の記者が北朝鮮を訪問し,日赤による在日朝鮮人帰国〔という名の送還〕事業のために,大いに宣伝し,貢献する記述を残していた。同書は「歯の浮くようなお世辞」にまみれた本であった。もっともいまとなって,その歯が全部抜け落ちてしまったような結果だけがめだつが……。
社会主義者の寺尾五郎は,『38度線の北』新日本出版社,1959年,『朝鮮・その北と南』新日本出版社,1961年,『朝鮮問題入門』新日本出版社,1965年などの,やはり「北朝鮮はすばらしい」との宣伝を著述していた。
なかでも『朝鮮問題入門』は1965年までの時点で,北朝鮮は「8万人からの在日朝鮮人が帰国し,いたれりつくせりの国家の手厚い保護のもとに,なに一つ不自由ない生活にはいれる社会」と,事実にもとづかない完全なるウソを記述していた。
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寺尾五郎は本当は,いわば「地獄からの使者」であった。寺尾は天使がささやくように,在日朝鮮人と在日日本人たちに向けて「北朝鮮は地上の楽園である」と,完全なにせ宣伝をばらまいていた。彼は,歴史に特記されるべき悪行のために,北朝鮮と日本の双方のためにする発言を記録していた。
北朝鮮へ在日朝鮮人を送還した事業は,日本国内における「左・右両陣営の共同作戦」であって,その「協力体制による展開」を実現させていたとあらためて定義しておく必要がある。
金 賛汀『北朝鮮建国神話の崩壊』筑摩書房,2012年は,そのあたりに関しては,こういう結論を語っていた。
「虚構に満ちた北朝鮮現代史を恥ずかしげもなく大々的に宣伝するのは,北朝鮮が金 正日一族により支配されている独裁国家であり,彼らの権力の掌握と支配を正当化する拠り所をその虚構の歴史に求めているからである」(380頁)。
こちら側もこちら側ならば,あちら側もあちら側であった。ただし,最近における「彼我の国家体制における政治特性」,つまり独裁制的な造りは,なぜか近親性を感じさせているゆえ,なおさらのこと,とても嫌な雰囲気を醸しだしてもいる。
4) 地獄への道は善意で舗装されていた
要は「地獄への〔客観的な〕道〔の整備〕は善意で〔主観的に〕舗装されている」実例が,在日朝鮮人を故郷ではない北朝鮮に送還した日本国側の作為によっても,そのまたひとつが歴史的に追加されていた。
下にかかげる左側の表紙画像(アマゾン通販から借りたもの)は,小島晴則編『幻の祖国に旅立った人びと-北朝鮮帰国事業の記録-』高木書房,2014年と,もう1冊の小島の編著である。
これらの本の中身は「善意が精いっぱいに示されてきた」なかで実行された「敗戦後における在日朝鮮人〈幻の祖国〉への追放史」のうちでも,「善意の立場」側に立った事実を,のちになってからとはいえ,その「罪と罰」の恐ろしさを反省せざるをえなくなった小島晴則自身が,いまからでもいいから,日本・日本人の立場から深く反省をうながすために制作した書物であった。
また,同じくアマゾン通販から紹介するつぎの表紙画像は,前川惠司『夢見た祖国(北朝鮮)は地獄だった』高木書房,2012年のものである。「地上の楽園」といわれたけれども,本当は「地獄の国」であったその姿を教える書物である。
以上,当時における北朝鮮の人民たちが,金王朝の超独裁政権のもと,奴隷社会とおぼしき実社会のなかで生きていたところへ,敗戦後もようやく経済を回復しだしたこの日本から,北朝鮮に向かい移民のように移住させられるハメになった在日朝鮮人たちは,それこそ地獄の底に投げこまれる目に遭わされるために現われたことになった。
5) 絶望の祖国(?)到着
彼らは日本海を渡る船旅で北朝鮮に港に近づいた時点で,その港に出迎えてくれたその人民たちの様相(風采・姿形)がよくみえるようになった瞬間,「オレたち・わたしたちは人生の転換:希望に失敗し失望させられた事実を悟った」という。
くわえてその後においても,けっして大げさではなく,北朝鮮に送還(北送)された彼ら・彼女らの悲惨な生活状況に関しては,同情しても同情しきれないほど,多種多様な悲惨と不幸が襲ってきた。
北朝鮮に自分の家族や親類が移動した者がいる在日朝鮮人の縁者たちは,貧しい彼らの生活状況にあっても,余裕のあるかぎり仕送りの金銭と物財を段ボール箱に詰めこんでは,何回でも送っていたというが,その中味が途中で「中抜きされる」のは当たりまえであったという。だから,そのなかに隠したかたちで送るための現金(円札)は,段ボール箱の底の部分に工夫をして隠すことにもしたとも聞く。
日本でも昭和20年代は,たとえば青森県からリンゴ一箱が木箱(いわゆる当時でいったリンゴ箱)の荷物として,東京都まで送られてくる場合,途中で半分近くものリンゴが,しかもアンコ〔充填用保護材に利用されている籾殻のこと〕のなかから,みごとに抜かれていたこともよくあったから,人ごとの話ではなかったが,これはあくまで敗戦後史の日本における一時期限定の,特殊な話題であったので念のため。
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