関東大震災「問題」を再考する(3)
「関東大震災『問題』を再考する(3)」は,関東大震災直後,帝国臣民の大衆たちが朝鮮人を何千人も殺してしまった記憶は,やはり夢心地が悪かったという話題を,さらに詰めた議論となる。
なお「本稿(3)」の初出は2009年9月5日,更新を2021年8月31日にくわえ,本日さらに改訂作業をおこなっている。本日に書き下ろした内容をさきに公表するかたちになっている。
註記)冒頭の画像資料は後段に紹介する文献から借りた。
【参考記事】-官房長官みずからウソをつく国-
※-1 工藤美代子・加藤康男夫妻の完全なる「ウソを充満させた本」は,その虚偽ばかりであった内容を,藁(わら)をもつかむ気持ちで信じてきた一般大衆もいたからには,この2人は物書きとしては無作法という以前に失格であった
工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』産經新聞出版,2009年という「虚偽で塗り固めた完全版の」とでもいうべき「ウソ満載の本」があった。しかもこの本はのちに,ほとんど同一の中身でもって,工藤の配偶者(夫:加藤康男)を著者に入れかえ,同名の『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』ワック,2014年として再刊していた。
最初の発行元が産經新聞傘下だった点が,そもそもからして,いかにも示唆に富んでいた。しかし,関東大震災直後に発生していた朝鮮人を中心に,中国人や日本人でも反体制派(社会主義や無政府主義を信奉する人びと)までを大量に殺戮してきた,つまり,20世紀の日本近代史に残る一大事件を「真実ではなく虚偽だ」と決めつけた工藤夫婦の「偽本」は,彼ら自身がみずから筆を折るくらいの責任を生んでいた。
さて,次段に紹介するNHKの番組のなかにも若干,映像として出てきていたが,当時(1923年)の言論機関としては唯一重要であった新聞紙が,完全にデタラメに報道をおこない,朝鮮人が「放火をするのだ」とか「井戸に毒を投入した」とか「徒党を組んで進軍してくる」とかいった被害妄想を「真実:事実」であるかのように,完全に嘘を庶民に伝えていた。
補注)NHKの前身に当たる社団法人東京放送局が日本初のラジオ放送を開始したのは,1925(大正14)年3月22日であった。この日を記念して3月22日は“放送記念日”に制定されている。
にもかかわらず,とくに工藤美代子は『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』産經新聞出版,2009年という偽本をもって,前段のごとき新聞報道の完璧ともいっていいくらいの虚偽そのものを,あたかも「〈真実〉の〈事実〉であるか」のように書いた。
彼女〔とその夫〕が本当にそう信じて書いていたとしたら,この夫妻は物書きとしては失格であった。というのは,2009年になる相当以前から,この『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』が記述していたごとき内容は,話しにもならないデタラメであった点はすでに,既知に属した分明に過ぎたことがらであったからである。
補注)つぎにかかげる画像資料は山田昭次の本の表紙カバーであるが,ここに写っている当時の『読売新聞』1923〔大正12〕年10月21日の紙面に報道されていた〈内容〉は全部が全部,誤報,しかも官製のそれも混淆されていたものばかりであった。
工藤美代子はこうした当時の新聞紙が報道した虚報をすべて事実と,勝手にみなしたうえで,自分のその本を書いたのだから,初めから嘘を材料にウソで固める記述しかしていなかった。当人がそれでも本気でそう信じてかいていたとしたら,だから物書き失格だと断定した。
彼女は,初歩的な誤謬を抱えていた以前に,なにかの意図があって『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』を制作(?)したことになる。トンデモ本である評価をくわえるとしたら,その意味では一級品であった。
ともかく,歴史修正主義というにはあまりにも稚拙で嘘まみれの本であっても,つまり,工藤夫婦が世間に向けて放った《大ウソ》であっても,他方で,一般大衆の心理的な次元においてならば,それなりに需要があった。
この工藤美代子のお話にもならない悪説としての虚偽満載のぞっき本が,日本人の精神をさらに病んだ状態にさせる火付け役になっていた。
さて,つぎに参照するのは『週刊金曜日』の表紙2点であり,2022年11月18日号と2023年6月16日号を画像で紹介する。
「善良で純朴な人間がなぜ虐殺者になった」かといえば,歴史を現在の地点から大正の時代にまでいきなりさかのぼらせ(タイムスリップさせ),あえて関連づけながらその因果を説明するとしたら,工藤美代子夫婦のごとき作家が虚偽だけで固めたフェイク本が,作為でもって日本社会にばらまかれた結果がその一因になっていた。そのように類推して説明することも不可能ではない。
21世紀のいま,日本は「落ち目の過程」にはまりつつある状況下,あらためて強調しておく必要があったのは,時代の状況のなかでは,いとも簡単に流されやすい庶民(当時ならば帝国臣民)のその時々の気分であった。
※-2 NHKの番組案内( https://www.nhk.jp/timetable/ )より,昨日の2023年8月30日夜,午後7時30分から57まで (27分),つぎの放送があった
a)「クローズアップ現代 集団の“狂気”なぜ ~関東大震災100年“虐殺”の教訓~」NHK「総合テレビ」〔の解説を以下に聞く〕
関東大震災から間もなく100年,当時起きた朝鮮人などの “殺傷” の深層に迫る。目撃証言が記された作文集や “ある事件” に挑む映画監督・作家の森 達也さんを独自取材。
出演者ほか〔などは,以下のとおりである〕
【出演】 映画監督・作家…森 達也
【キャスター】 桑子真帆
【語り】 中井和哉
【詳細】 そこには “殺傷” に関する目撃証言がつづられていた。関東大震災から間もなく100年。今年,存在が明らかになった当時の小学生の未発表作文集のなかに,朝鮮人などの殺傷に関する記述が多数含まれていることが分かった。
当時なにが? 独自取材で迫る。映画監督・作家の森 達也さんは,かつて千葉県福田村で起きた日本人が朝鮮人に間違えられ殺害された事件に注目し,映画化に挑んだ。なぜ集団はパニックに陥り残虐な行為は起きたのか
なお,この番組のなかに,ほんの少しだけ登場させた小池百合子都知事については,彼女の得意な意見をわずかにいわせるだけで済ませていた。
ところで,昨日 2023年8月29日の記述,「本稿(2)」で言及してあったが,
・関東大震災に罹災し,死んだ人びとも,
・流言蜚語に惑わされて,いいかえれば,国家側の作為によって流布されたデタラメな情報を信じて「帝国臣民たちに殺された朝鮮人」たちも,
・それにくわえて当時,けっこうな数(正確なそれ)はいまだに判明しえないけれども,このNHKの番組が焦点を当てた日本人自身のように,ただし朝鮮人と誤認されて殺された人びとたちも,
大震災の被害者となって死んだのだから基本は同じだといいたい小池百合子の口調は,完全に間違えていた。ここでは,つぎのようにたとえて説明しておく。
・色の3要素は認めるが,しかしその色の明度(白黒的なそれ)しかみとめず,各色の存在とその彩度は認めないのが,色というものに関する理解だという例えで説明できるように,彼女のいいぶんは無理筋であったからこそ,存分に通してきたヘリクツである。
b) 小池百合子が東京都知事になったのは2016年8月2日であった。この年において9月1日が来たとき彼女はまだ,関東大震災時に朝鮮人が大量に逆殺された記録をめぐっては,どのように実際に対応するか決めることができていなかった。間に合わなかったのである。
ところで,内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者,およそ10万人の1から数パーセントと推測している。
補注)だから,1%だと1千人,3%なら3千人。数%とは最大で何%まで考えていいのか?
この「10万人の1から数パーセントと推測」する計算にしたがう場合,関東大震災朝鮮人虐殺事件における犠牲者数は,現在でもまだ正確な犠牲者数が不明であるだけに,論者の立場により,推定犠牲者数に数百名~約6000名と非常に幅広い差をもって集計されている。
吉野作造が調査し,算出したその朝鮮人犠牲者数が2613人であったから,このあたりを標準にしてこの数値を落ち着かせたいとする「日本側の思惑」が,前段の強く出ていたのが,前段の推定範囲とされた「虐殺による死者は震災による犠牲者,およそ10万人の1から数パーセント」という推定の提示であった。
歴史学者の山田昭次が,こう指摘していた。
上海の大韓民国臨時政府機関紙『独立新聞』の金 承学社長が,1923年11月5日付で報道した朝鮮人調査団報告書の6661人説が不正確な数字である原因は,官憲の被害隠蔽に原因があったと指摘したのは,それなりに考慮に値する事由たりうる。
日本人側がなるべく少なめに虐殺された朝鮮人の数を計上したければ,対して朝鮮人側はより正確に,そして余すところなく,その数を調査・把握しようとした点は当然である。もちろん,誇大に表現しようとする立場とまったく無縁だともいえない。
また,関東地方の各地において福田村事件のように当時,数人から数十人の単位で虐殺された朝鮮人の被惨殺者のすべてが把握されているとは,いまもまだいえないままであり,事実の集計に関した信頼性に絶対の保証があるなどと議論すらかなわないでいる。
※-3 今回のNHKのこの番組のなかでは,つぎのように『朝日新聞』が報道した現在の野田市長による発言に言及していた
東京都知事小池百合子が2017年9月以降,毎年明示してきた態度とは好対照とみなせる態度を,2023年になってだが突如明確にしたのが,福田村事件の当地である野田市の首長であった。
ある意味でいえば小池百合子は非常に冷酷・無情な女性知事であった。ハンナ・アーレントにいわせたら,百合子のことをなんというか? この彼女なりに「凡庸な▲だった」と形容しておけばよいか?
★ 福田村事件で野田市長が悼む 「今後も人権教育を継続」★
=『朝日新聞』2023年6月22日 11時00分,https://www.asahi.com/articles/ASR6P7T94R6NUDCB00V.html =
関東大震災直後の1923年9月,福田村(現野田市)で香川県から来た行商の9人が殺害された福田村事件について,野田市の鈴木有市長は〔2023年6月〕20日の市議会で「被害に遭われた方たちに対し,謹んで哀悼の誠を捧げたい。人権問題の正しい理解と認識を深められるよう今後も継続して人権教育,啓発に取り組む」と答弁した。
小室美枝子氏=市民ネット=の一般質問に答えた。鈴木市長は「当時の社会情勢の混乱,流言飛語など複合的な要因が重なって起きた事件と考えますが,いかなる理由があっても人の命を奪うのは最大の人権侵害。二度と繰り返してはならない」と話した。市によると,市長が議会で被害者に弔意を示したのは初めてとみられるという。
福田村事件は1980年代に香川県の元高校教諭らの調査などで明らかになった。野田市内では2000年に市民グループが発足した。今年は事件から100年になる。
〈福田村事件〉〔とは〕,関東大震災から5日後の1923(大正12)年9月6日,千葉県福田村(現野田市)の利根川河畔で,香川県の被差別部落から来た薬の行商団15人のうち,幼児や妊婦を含む9人が福田村と田中村(現柏市)の自警団に殺された。
震災後,「朝鮮人が略奪や放火をした」とのデマが広がっていたなかで,聞き慣れぬ方言を話す一行が朝鮮人と決めつけられて襲われ,遺体は利根川に流されたという。自警団の8人が有罪となったが,恩赦で釈放された。
1980年代に香川県で真相究明が始まり,殺害を免れて帰り着いた行商団の生存者から聞き取った証言の記録が残されている。震災〔後〕80年の2003年,野田市の現場近くに「追悼慰霊碑」が建てられた。朝鮮人差別や行商への偏見,よそ者への排他意識などに群集心理も重なり,事件が起きたと分析されている。
なお,野田市における関東大震災時の朝鮮人虐殺「事件」は,簡単に市側がその事件を受けとめる態度を提示したとはいえなかった。この点は,NHKの千葉放送局が昨年の2022年10月19日,「都圏ナビ ちば WEB 特集 99年前の悲劇 知られざる福田村事件 差別を乗り越えるには」という放送が触れていた。こちらでも,森 達也監督へのインタビューがなされていた。
この番組は全部紹介しないで,肝心な段落のみ引用する。
昨年(2022年)の番組だったので,こう話を始めていた。「99年前の悲劇 知られざる福田村事件 差別を乗り越えるには」という話題から始めていた。
◆-1 追悼の祈り
今年(2022年)9月6日,千葉県野田市にある霊園の一角で追悼式がひっそりと営まれた。花が手向けられた慰霊碑には,福田村事件犠牲者追悼の文字。99年の歳月が流れたからだろうか,遺族はおらず,参列したのは,事件を語り継ぐ市民グループのメンバー10人余りだった。
◆-2 福田村事件とは…… 既述に説明があったので,この項目は割愛する。
◆-3 “2つの差別意識”〔これは,日本帝国臣民の朝鮮人に対する差別の心と,同じ日本人に対しても現在にもまだある国内における各種・差別問題のこと〕
◆-4 この事件を,いまに語りつごうと活動を続ける市民グループの会長,市川正廣さん(79歳)に話しを聞いた。
市川正廣さんは市川さんは野田市育ちで,2004年まで野田市役所に勤務。在職中の1999年に野田市で開かれた福田村事件の勉強会に参加したことをきっかけに市民グループを設立,2003年に慰霊碑を建立するなど活動を続けている。
市川さんは事件は,日本社会にある2つの差別意識が引き起こしたと指摘する。
イ) ひとつは民族的な差別意識です。
日本は当時,韓国を併合するなど植民地化を進め,朝鮮半島出身者を差別する意識があり,朝鮮人や中国人が犠牲になった関東大震災直後の虐殺事件を愛国心から生まれた行為だとして正当化する雰囲気がありました。
福田村事件の犠牲者は日本人でしたが,村では罪に問われた自警団を支援しようと,弁護費を負担する動きもあったといいます。
ロ) もうひとつは職業差別です。
当時は,「あやしい行商人をみつけたら警察に通報せよ」と書かれた防犯ポスターが作られるなど,偏見を助長する雰囲気がありました。こうした職業差別も,自警団の暴発に拍車をかけたとみられています。
また,そうした差別や偏見が社会に根強くあったため,被害者側から声が上がりにくく,人々の記憶から忘れ去られてしまったのではないか。
◆-5 私たちが学ぶべき教訓は。
来年〔2023年,今年のこと〕は事件から100年になる。私たちが学ぶ教訓とはなにか。市川さんは,悲劇を引き起こした差別意識はいまも変わらず,残っていると指摘する。
【市川さん〔の意見〕】
時代が変わり,人権への意識は高まっている。しかし,差別や偏見はへイトスピーチやヘイトクライムとなって,いまも日本社会に残っている。必要なのは,差別や偏見が何を生むのか歴史をしることだと思う。
私たちのグループは,今後も現場を見学する勉強会を開くなどして,事件を語りつぐ取り組みを続けているが,市民グループの活動には限界がある。
たとえば,人権教育として学校現場が取り組んでもらえれば,その影響は大きい。行政にその役割を期待したいが,地元には加害者を出したという過去には触れたくないという心理が強く,その動きは鈍い。
市川さんによると,2003年に慰霊碑を建立するさい,市に協力を要請したが断わられたという。また,完成時の除幕式への出席を求めたが,これも断わられたという。
追悼式は2003年以降,毎年開催しているが,市の出席はないという。NHKが野田市役所に取材したところ,いずれも事実だと認めたうえでその理由について,「事件はあくまで民間どうしのもので,加害者側がすでに罰せられているほか,協力の要請などが地元の地区からないため,かかわわらないと判断している」としている。
補注1)この上段の件は180度転換されていた。前段で言及している。
◆-6 100年,そして未来に向けて
未来に向けて,私たちができるとは何か。市川さんは,負の歴史だとしても,けっして目を背けてはいけないと指摘する。
差別意識からの克服は,負の歴史を直視し,乗り越えた先にあるのではないか。もちろん,これは野田市だけでなく,日本社会全体が向きあわなければならない課題でもある。そういう意味で,事件から100年となる来年の追悼式は,つぎの100年へ一歩を踏み出すものにしたい。そう願っています。
補注2)野田市長は前段で触れたように,旧福田村で起きた四国・神奈川県から出向いてきた行商人一行を朝鮮人だとみやまり,総勢15人うち9人を虐殺してしまった事件を,市の立場から認め慰霊する気持ちを表明していた。
◆-7 取材後記〔朝日新聞社記者の弁〕
福田村事件をしったのは追悼式直前のことし〔2023年〕9月,しりあいの記者からの情報でした。関東大震災で朝鮮人が虐殺されたことはしっていましたが,日本人が間違って殺害されていたことは,聞いたこともありませんでした。
これは大事なニュースだ。情報を急いで確認し,追悼式を取材。ニュースで放送すると,今度は,SNS上で広がった反応に驚かされました。「地元だけど,初めて聞いた。こんな恐ろしいことが事件があったのか」
来年(2023年)は事件から100年。市川さんの言葉を胸に,これからも取材を続け,伝えていきたい。(引用終わり)
上記で「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたことはしっていましたが,日本人が間違って殺害されていたことは,聞いたこともありませんでした」といわれていた点は,あえて意味深長にも受けとれないわけではない。しかし,この点は小池百合子都知事の場合になると,いったいどのように受けとられるか?
関東大震災直後の「不逞な朝鮮人が騒ぎ暴動,殺人,破壊の行為」を犯し,社会に騒擾を起こしたなかで,その朝鮮人たちが何千何百何十何人殺されたなかで,日本人も実は,福田村事件だけでなく「朝鮮人と間違えて殺された日本人自身」も相当数いた。その実数は現在でもなお不詳な点を残している。しかし,統計として把握させうる術が,いまではほとんどない。
小池百合子都知事のように大地震のために命を奪われた日本人と,そのさいに流言蜚語にまどわされた日本人に殺された朝鮮人のあいだに「格別の差はないと認識すること」が正しい判断だとしたら,福田村事件のように四国・香川県の方言が当時としては分かりにくかったがゆえに「朝鮮人だと決めつけられて殺された日本人」と,その「大地震のために命を奪われた日本人」との区別は,もとより不要・無用となる。
小池百合子のリクツは論理以前に成立しえない,むろん合理的な説明などできるわけもない「嫌韓・反韓感情」を剥き出しにしたそれであった。それゆえ,なぜあなたは「そういう判断を都知事として下した」のかという問いに対しては,もとより正面からまともに答えることはできない。だから彼女はそのあたりの問答からは,ただ逃げまわるしか手がない。
※-4 れいわ新選組の発言を紹介
以上,本日,2023年8月31日において新たに書き下ろした部分である。そして,以下からの記述が「旧稿の本論」であった。
【参考記事】-意図してウソを平気でいう日本国政府官房長官の厚顔無恥(2023年9月1日追記)-
※ー5 関東大震災直後,鮮人暴徒が襲来するいう官製の流言蜚語に怯えて朝鮮人を殺した日本帝国の臣民たちのその後とみれば,忘れる人びとがもちろん圧倒的な多数派であったが,かといって,いまもなお,けっして忘れはしないとこだわる人びとも確かにいた,戦争の残酷を描いたマンガが残酷なのか(?)についても,あわせても同時に考えてみる
戦争の現実(実際の戦場)に比較すれば,漫画『はだしのゲン』の描いた絵図は,もののかずではなく思える,関東大震災から90年になっていた「この日:2013年9月1日」に一度更新し,記述していたブログを,ここにあらためて復活,増訂し,公開する
要点・1 旧大日本帝国陸海軍がシベリア出兵や中国戦線などでおこなっていた残虐行為と関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件とは「同一線上の出来事」
要点・2 それらの思い出は,戦友会の場でしかひっそりと語れなかった「旧日本軍兵士たちの戦場における苦い人生体験」にも確かに共通する
要点・3 当時,朝鮮人を大勢殺した地域よりも,1人2人を殺してしまった町や村の人びとのほうが,より深く後悔・反省しており,21世紀のこれからも忘れない
★ 関東大震災直後における社会的混乱の様相 ★
あまりの混乱のため社会不安が増大した。なかでも「朝鮮人が放火」「井戸に毒を投げ入れた」など流言やデマが飛び交うなか,とくに朝鮮人が群集らに虐殺される痛ましい事件が関東一円で発生した。韓国政府によると虐殺3000~6000人,北朝鮮では2万人虐殺と報道される。
当時,朝鮮総督府の調査は,関東大震災による朝鮮人死者・行方不明者総数を832人と報告し,このうち司法省調査による朝鮮人虐殺者数は死亡233人,重傷15人,軽症27人,その他,朝鮮人と間違われて殺害された日本人58人,中国人3人と分類していた。
さらに,亀戸事件や甘粕事件と呼ばれる労働運動や社会主義運動指導者の殺害事件も混乱に紛れて発生した。こちらは反体制派の日本人人士を殺害していた。
※-6「朝鮮人を忘れない 関東大震災からあす90年,慰霊碑守る 東京・西崎雅夫さん」『朝日新聞』2013年8月31日夕刊
関東大震災(1923〔大正12〕年)では,デマがもとで多くの朝鮮人が虐殺された。そんな現場のひとつ,東京・荒川のほとりに犠牲者を悼む碑を建て,守りつづけている人がいる。
虐殺の実態調査に取り組んできた市民団体「ほうせんか」の西崎雅夫さん(53歳,当時)=東京都墨田区=だ。大震災から9月1日で90年。「90年前の悲劇を忘れないで」と訴える。
「植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人びとが,名もしられぬまま尊い命を奪われた」。自宅に近い荒川の土手下に立つ碑にはこう刻まれている。西崎さんは「ここで多くの人が殺されたことはあまりしられていなかった」と説明する。
朝鮮人虐殺の実態調査に初めて参加したのは,大学生だった1982年。地元で小学校教諭らと一緒に目撃者の証言を聞いた。
「河原に10人ぐらい並べ軍隊が機関銃で撃ち殺した」
「橋の下で自警団が日本刀や竹やりで殺した」
あまりに生々しい内容に衝撃を受けた。約 150人から話を聞き,証言集にまとめた。この辺りでは 100人ほどが殺されたとみられるが,河川敷に埋められた遺体を警察が掘り返し,遺骨はみつからなかったという。
補註)その「遺骨はみつからなかったという」事実に関していうと,震災直後の出来事であったが,荒川の四ツ木橋付近の河川敷において軍隊に虐殺され,その場に埋葬された遺体は,事後,掘り出されてただちに他所に移動・始末されていた事実があった。
ただし,いったいどこへ搬送され,どのように片付けられたかについては,すべて闇の中になっていた。いってみれば,虐殺した朝鮮人の死骸は,ネコババの要領でいったん河川敷(ここでは荒川の四ツ木橋付近がその場所であったが)に埋めておいたけれども,
その後すぐに軍隊・軍人(その虐殺の当事者とみてよい)が掘り起こし,どこか他所にもっていき処分したのである。しかし,いまとなっては,どうなっていたのか不詳である。
戦争中,自国民の将兵が海外の戦地で死んだ場合だと,敗戦後,何十何年が経っても遺骨収集団を派遣して,必死になって探しだす努力がなされてきた。
だが,大震災直後,自国民が国内で殺した朝鮮人の遺骨は,絶対にみつからない・探せないように始末・処分していたことなる。なんとも “さもしい” かぎりであり,その〈態度の極端な相違〉は,特定の疑問を抱かせる。
〔記事に戻る→〕 記憶は風化する。いまや目撃者はほとんどいない。話をしる人も減っている。「歴史を伝えるには,現場になにかかたちを残さなければ」。知人から土地の提供を受けて2009年8月,碑を建てた。
一昨〔2011〕年の東日本大震災後もデマがメールやツイッターで広まった。特定の人種や民族への憎悪をあおる「ヘイトスピーチ」も問題になっている。「いま大災害が起きたら,同じ悲劇を繰り返さないか。私には証言を聞いた責任がある」。
ここ数年は,有名人の自伝や名もなき市民の日記などに記された虐殺やデマに関する記述を集めている。明治大駿河台キャンパス(千代田区)で〔2013〕8月31日開催の「関東大震災90周年記念集会」で調査の成果を報告する。
「〈解説〉関東大震災とデマ 」 大震災直後の混乱のなか,「朝鮮人が火をつけ,暴動を起こそうとしている」,「井戸に毒を投げ入れた」というデマが広まった。政府も戒厳令を発令。デマを信じた市民による自警団や軍隊が朝鮮人や中国人,社会主義者らを殺傷した。全国で6千人余りが犠牲になったとの説もあるが,はっきりしない。
関東大震災が起きたあと,1923〔大正12〕年10月ころの新聞に報道されていた,それもまったく事実に反して事実無根の,つまり完全に間違えて報道されていた記事を,そのまま百%〔以上にも?〕信じ,それでいながら消化不良さえ起こさずに,みごとなまでその「ウソに踊らされて」いた「朝鮮人大量虐殺はなかった」説が流通していた。
補註)上の画像資料は,山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺-その国家責任と民衆責任-』創史社,2003年の表紙カバーである。当時の新聞報道は「事実ではない虚報」ばかりを盛んに伝えていた。ただし左下には,「朝鮮人虐殺」に関する「事実」の記事は,すでに3百人の朝「鮮人」が殺されていた点を報じてもいた。
※-7 『はだしのゲン』の漫画から
上のこの画像は,漫画の『はだしのゲン』で残酷だとして問題にされた4コマ。日中戦争における日本軍の将兵は,このような残虐行為を無数おこなってきた。むしろ,常習犯的にかかわってきた兵士たちが大勢いた,というのが事実であった。
あの戦争に動員された “当時のお父さん・おじさんたち・お兄さん” は,その行為じたいについては復員後も,自分の記憶のなかに押しこめたままの人が多かった。堂々と「オレはあれこれをやった」と自慢げに話す人もいないわけではなかったが・・・。
補註)以前勤務していた職場で同僚だったある女性教員が,自分がまだ生まれていなかった戦前にだが,中国で暮らしていた両親のうちとくに母親が,それも上海に生活していたころでの話題として,つぎのような出来事があったと話をしてくれた。すでに日中戦争が進行中の話題であった。
この女性の母親はたいそうな美形であったせいか,彼女の家によく寄りつく若い兵隊さんが多くいたという。当時,兵隊さんを大事すべき立場にあった帝国臣民の1人としてだが,その母親は現地に派遣されている兵士たちを,家でよくもてなしていたという。
だが,ある時を境にそれをいっさい止めたといっていた。その理由は,兵士たちが中国兵や中国人たちに対しておこなってた残虐行為を,しかも自慢話のように得意になって話すのを聞かされてからだったという。
つまり,漫画『裸足のゲン』のその4コマに描かれた実際の一端について,職場の同僚であった彼女は間接的に,私に教えてくれたことになる。しかし,このような人間に対する惨殺・残虐行為は,関東大震災直後において別のかっこうで先行していた。しかもそれは,日本国内で「日本人から朝鮮人(など)に向けられる関係性」のなかで,いとも簡単に発現されていた。
関東大震災のさい起きた朝鮮人虐殺の実相は,関東大震災を論じた関連する書籍に多少でも目を通しておけば,当時において朝鮮人がその混乱のなかで「徒党を組み,井戸に毒を流し,女性を強姦し,放火をし,爆弾を投げ,人を殺傷している」などいったウソは,すぐにみぬけるはずである。
ここで,放火にだけついていうと,たとえば,神戸・淡路大震災(1995年1月17日)を思い出せば分かるように,火災が多くの場所から自然に発生せざるをえなかった客観的な状況があった。
時代が異なってもいて,使用されて火元になる原因が違っていたとはいえ,早朝の神戸・淡路の地震のときでも火災があのように多発し,広い地域が焼失した。放火などとは関係なく火災が起きていた。
関東大震災のときはお昼直前で,それもいまから90年前〔ここでは2013年のこと〕の「火の恐怖」であった。強風が吹く日でもあった。
ところがその書き手〔すでに登場していた工藤美代子のことだが〕は,当時の新聞記事がインターネットを通じても簡単に閲覧・入手できるためか,これをみつけては小躍りしつつ「それみたか,やはり朝鮮人がこんな悪さを,当時はしていたんだぞ」という《理解》に飛躍した。
またその書きっぷりは,いまから一気に90年前にまで「タイムスリップできた」調子にもなっていた。
補註)いまごろになっても,ろくに調査も研究もしないで書かれた本(英語版であるが)再登場していた。
渡辺延志『関東大震災「虐殺否定」の真相-ハーバード大学教授の論拠を検証する』筑摩書房(新書),2021年8月という新著は,後段で言及するごとき「エセ知識人たち」一群のそのまた驥尾に付するごとき〈トンデモな謬説〉を批判している。
※-8 工藤美代子-エセ知識人・偽物書き-
さて山田昭次の論稿,「関東大震災・朝鮮人虐殺は『正当防衛』ではない-工藤美代子著『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実』への批判-」『世界』2010年10月は,つぎのように指摘していた。
「警察は虐殺された朝鮮人の遺体の隠匿につとめ,朝鮮人の遺体の引渡し要求をことごとく拒否した」(47頁)。
「工藤は原資料である『独立新聞』掲載の報告書の文章を調べる労を省いて,姜 徳相,琴 秉洞編・解説前掲書〔『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房,1963年のこと〕に邦訳された報告書に依拠した。これはあくまで実証的に研究すべき研究者としてまったく不誠実である」(49頁。〔 〕内補足は筆者)。
工藤美代子の〈叙述の水準〉は,本(旧々)ブログ「2013.8.31」の「戦争と生活と平和(2)」(これは現在,未公表)で指摘したような,素人判断にもとづくものとも,寸分も異なるところがなかった。あるいはそれ未満の水準であった。
実は,その程度になる素人判断しかできなかった工藤の『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実-』産經新聞出版,2009年に充満していた誤謬のてんこ盛りかげんさは,稚拙という以前に,物書きとしては落第である事実を,みずから雄弁に物語っていた。
ということで,物書きであるはずの工藤自身が,きわめていい加減であり全然徹底できていなかった,つまり,研究者とはとてもいえないような「研究の水準」で,その本を制作していた。山田昭次にいわせれば,こう斬り捨てられる〈程度の悪さ〉であった。
「司法省調査すら朝鮮人の政治的犯罪を確証する裏づけを欠く。これは朝鮮人虐殺の国家責任を隠すために,官憲が苦心して捏造した朝鮮人の犯罪であろう」
「ともあれ,官憲すら信用しなかった新聞記事に現われた朝鮮人暴動の記事によって朝鮮人暴動の実在を主張する工藤の見解は,無理を極めたものといわざるをえない」(46頁)
物書きを生業とするらしい工藤美代子の作品は,事実に接近しようとする調査・分析に集中するのではなく,自分が「そう思いたい」としたところに向かってのみ飛躍しつつ執筆していた。それでは,歴史の真実の発掘に取りくめるわけがない。
※-9「〈社説〉関東大震災・朝鮮人虐殺から90年-『心の防災』が不可欠だ」『民団新聞』2013年8月28日
大正時代から在日していた韓国・朝鮮人などの子孫に当たる人びとが主に組織している「在日本大韓民国民団中央本部」発行の『民団新聞』は,2013年9月1日を目前に控えて,この社説を論説として公表していた。
本ブログの記述に関連のありそうな段落のみ引用しておく。若干,前後関係を考慮し,引用の順逆を変えた段落がある。
数千人の同胞が虐殺された1923年の関東大震災から90年になる。関東各地の民団は,発生日の9月1日に犠牲同胞の冥福を祈る追念式を営み,このような惨劇を二度と起こさないために,全貌と真相を明らかにして責任所在を徹底糾明し,いかなる状況でも多数者が少数弱者の排撃に動くことのない共生基盤を築くよう訴えつづけてきた。
在日外国人は200万人を超えた。約14万の留学生を7年後には倍増させ,海外からの就労者を増やす計画もある。しかも,訪日観光客が今年初めて1000万人を突破する展望という。月間平均で約90万人の外国人が日本の土を踏んでいる計算になる。いざというとき,多数者である日本人がどう動くのか,さらには外国人にどう対応するのか。定住者と観光客を問わず,多数を占めるのが韓国人と中国人であることも念頭におかねばならない。
10年前,日弁連の会長は,治安関係者に対する人権教育の徹底を求める一方,「市民が国籍や民族の異なる人びとに対し,人権侵害をくわえることのないよう,相互に共生する社会の実現にむけて具体的な努力を傾ける」決意を表明した。こうした努力の徹底がいまこそ求められる。しかし,私たちの懸念はふくらんでいる。
関東大震災80周年に際して日弁連(日本弁護士連合会)は,朝鮮人・中国人虐殺は軍・警察・自警団による組織的な蛮行であったと断定し,「根源にあった民族差別はいまだ日本社会に根深く存在している」と警告する調査報告書を発表した。それから10年,実態はむしろ悪化しているからだ。
関東大震災時の虐殺は一般的に,ラジオ放送がなく電話も普及していないなど情報伝達手段が限られた状況下で,軍・警の流したデマが日本人の在日同胞に対する恐怖心,憎悪を煽って拡大再生産されたからであり,現在の日本では絶対ありえないと説明されてきた。本当にそうだろうか。
島嶼領有や歴史認識をめぐる韓国や中国との政治的なあつれきが,国民どうしの感情対立に結びつきやすくなっただけではない。「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「大虐殺するぞ」などと叫ぶヘイト・スピーチ(憎悪表現)集団が大手を振って街頭示威を繰り返す深刻な現状がある。
特定の少数弱者を標的に憎悪をぶつけるヘイト・スピーチ集団は,インターネットの普及による情報化時代の産物だ。「ネット右翼」あるいは「ネトウヨ」と蔑まれながらも勢力を拡大し,組織的に公然と街頭に進出してきた。憎悪やデマを瞬時に拡散させるインターネットの負の機能に,警鐘を鳴らさないわけにはいかない。(引用終わり)
--要は現在,ネット〔バカ〕の時代になっている。歴史の事実・時代の真相もなにもしらずに,時代の記憶をみずから逆さ吊りにできたつもりになってなのか,したがって,自分の頭脳のなかを大混乱させている事実に気づかないでいられる,とでも形容したらよいような,すばらしい「素人談義」が跳梁跋扈する始末にまでなっている。
しかし,それにしても,この社会現象はもしかすると,「〈不幸な〉幸せ者たち」の姿ではなかったのか?
そうした時代錯誤や状況誤認を重ねている人物たちが作り出す風景が,最近の日本社会にはじわじわ侵出しだしている。「モノをしらない 」ということの恐ろしさが,そこにあってはみごとなまで前面に表出されている。
しかも,この「錯誤・誤認の事実」に対する自己認識じたいが,最初から欠落している。それでいて,その事実を「恥ずかしいと感じる」ための触覚もはじめから備えてもいない。当然である,初めから「その事実」に気づいていなかったのだから……。
そうした感性を横行させ闊歩させて止まない昨今の時代背景には,現状において固定化されてしまい,なかなか改善されることが期待できない日本社会の停滞・低迷,いいかえれば後進国への回帰化に原因する,いうなれば,このさきの出所も,もちろん未来への希望もみえそうもない〈全社会的な欲求不満〉の亢進が控えている。
さらには,もともと「なにもしらない」のに,そしてなおかつ,どだいから「間違えた歴史の把握」しかできていないにもかかわらず,90(100)年前に起きた関東大震災のときは「朝鮮人が市井の混乱に乗じて日本社会に悪行を働いた」ゆえ,この者どもが「殺された」のは「当然である」と決めつけた妄言が,サイバー空間における痴的表相となって跋扈跳梁している。
その無知さ加減を推進させる原動力に限ってならば,この日本社会のなかでは,なぜか独自に養育されてきた。
それだけでなく最近は,その種の錯覚・幻想を,街に出ていっては「ヘイト・スピーチ」のかたちで発散させ,自分たちの欲求不満をぶつけるための標的を,「在日」という〈ふたしかな攻撃対象〉にみいだしたつもりでいられる「異常な病理集団」がいる。
※-10 清水幾太郎『流言蜚語』日本評論社, 1937年(ちくま学芸文庫,2011年)がという本があり,清水は,関東大震災の体験をこう語っていた
--夜,芝生や馬小屋に寝ていると,大勢の兵隊が隊伍を組んで帰って来ます。尋ねてみると,東京の焼跡から帰って来た,といいます。私が驚いたのは,洗面所のようなところで,その兵隊たちが銃剣の血を洗っていることです。誰を殺したのか,と聞いてみると,得意気に,朝鮮人さ,といいます。私は腰が抜けるほど驚きました。
朝鮮人騒ぎは噂に聞いていましたが,兵隊が大威張りで朝鮮人を殺すとは夢にも思っていませんでした。なぜか,私には朝鮮人の友だちが多く,あの1学期足らずしか在学しなかった神田の商業学校でも,一番親しくつきあったのは,2人の朝鮮人でした。朝鮮人がいかに血迷ったにしても,軍隊の出動を必要とするような事態は想像出来ないことです。
軍隊とは,いったい,なにをするものなのか。なんのために存在するのか。そういう疑問の前に立たされた私は,今度は,大杉 栄一家が甘粕〔正彦〕という軍人の手で殺されたことをしりました。・・・私は,判らないながら,大杉 栄の著書を読んでいたのです。著者の全部は理解できませんでしたが,彼が深く人間を愛し正義を貴んでいたことはしっていました。人間を愛し,正義を尊ぶ。
細かいことが判らなくても,私には,それだけでよかったのです。それが大切だったのです。その大杉 栄が,妻子とともに殺されたのです。殺したのが軍人なのです。日本の軍隊は私の先生を殺したのです。軍隊とはなんであるか。それは,私の先生も殺すものである。それは,私の先生を殺すために存在する。いや,もし,私が勉強して先生のようになったら,軍隊は私も殺すであろう・・・。
戦前の教育を受けていた私にとって,このことは,一生に一度か二度しか遭遇しないような事件でした。・・・軍隊というものに暢気な親しみを感じていただけに,ショックはいいようもなく大きかったのです。私は,大地震に打ちのめされた生活の底で,いま,日本の社会の秘密を一つ掴んだのです(281-283頁。途中に改行を設けた。「・・・」は中略個所。〔 〕内は筆者補足)。
※-11「差別,偏見が生んだ悲劇 関東大震災 朝鮮人虐殺事件〔さいたま市〕見沼区で姜 大興さん追悼会」『東京新聞』2020年9月5日 07時33分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/53410
2年前にこの『東京新聞』が記事にとりあげたのは,関東大震災直後に殺された朝鮮人がめずらしくも,個人単位でその死を追悼されていた事例である。
1923(大正12)年9月1日の関東大震災後に起きた朝鮮人の虐殺事件で犠牲となった姜 大興(カン・デフン)さん=当時(24歳)=をしのぶ追悼会が,命日の4日,墓のあるさいたま市見沼区の常泉寺であった。
主催する日朝協会県連合会のメンバーで,事件当時,祖父が現場となった地域の区長だった高橋隆亮(たかすけ)さん(76歳)は「歴史は埋もれつつあるが,地域の人にももっとしってもらい,事実を後世に伝えたい」と話す。震災後,「朝鮮人が井戸に毒を入れた」など根拠のないうわさが広がり,関東一円で多くの人が殺害された。県内では約240人が犠牲になったとされる。
同会などが裁判記録や関係者の証言をまとめ,1974年に出版した『かくされていた歴史』によると,姜さんは1923年9月4日未明,片柳村の染谷地区(現見沼区)で自警団に日本刀ややりで刺されて殺害された。墓は同年中に地区の人たちが建てたとみられている。
元大宮市議の高橋さんは,事件当時に染谷区長だった高橋吉三郎さんの孫。吉三郎さんは現場にいなかったが,旧制中学4年生だった父の武男さん(故人)は事件を目撃した。
『かくされていた歴史』に「村の者総出でやっちゃった」と証言していて,高橋さんにも自責の念を語っていたという。高橋さんは「祖父らには『必らずお墓に線香を上げるように』といわれ育てられた」と話し,同会メンバーとして墓を守りつづけてきた。
墓は正面に「朝鮮人姜大興墓」と刻まれ,側面には亡くなった日付や戒名とともに「関東地方大震災ノ節当字ニ於テ死亡」とある。同会の関原正裕会長(67歳)によると,戦前に建立された犠牲者を悼む墓や碑は関東に十基ほどあるが,ほとんどに個人名がなかったり,差別的な「鮮人」の表現が使われていて,亡くなった経緯の記載もないという。
姜さんの墓がまれなかたちで残されたことについて,高橋さんは吉三郎さんから詳細を聞いていないが,関原さんは「罪のない人を殺してしまい,地区の責任者として悼む気持ちが強かったのでは」と推し量る。
補註)つまり,この「姜 大興殺人事件」は,この事件が発生していても警察が事件化されておらず,したがったまた,裁判(公判)にも至っていなかったと推理しておく。
〔記事に戻る→〕 震災後の県内での虐殺は,ほとんどが現在の熊谷市や本庄市など県北部で起きた。姜さんの死はこの墓により語りつがれ,会は南部でも被害があったことを後世に伝えようと,2007年から追悼会を開いている。
元県立高校教諭として歴史教育に携わり,退職後は大学院で研究を続ける関原さんは,一連の虐殺は「植民地支配を背景に形成された差別や偏見が生んだ事件」と指摘。
流言飛語は当局が流した可能性もあるとして,「普段からいろいろな情報を取り入れ,『本当かな』と立ち止まって自分で判断しなければ」と事件の教訓を語った。(引用終わり)
補註)その流言蜚語は当局側が意図的と否とにかかわらず,その原因を提供していたと判断されている。この点は学術研究として確認されてもいる。
ともかく,関東大震災直後に関東地方各地で殺された朝鮮人などのうちで,この姜 大興のように手厚く記念碑を作られ,1世紀のあいだ記憶を継承され,反省されている事例は珍しい。希有な事例である。
ほかにも,地元の警察署長が多数の朝鮮人を身体をはって守りとおしたという「事例」もある。前段にとりあげてきた場合は,「たった1人の朝鮮人」を,村人が「流言蜚語」に乗せられて殺してしまった「歴史の記憶」にさいなまれてなのか,人間としてはごくふつうであるその感情に支えられて,前掲のようなりっぱな石碑を残した。
表現は多少嫌らしくなるが,人間1人を殺したら殺人犯である。だが戦争にいって敵を殺すのは,国際法上なにも問題にならない。ただし,兵士であった彼がその後,PTSDにならない保証はない。この ④ の話題はまだ,「人間が相対する人間1人を殺した」という出来事に関する「意識水準での話題」であった。
そしてさらに,つぎの※-12の話題は,その殺した対象:人数が一桁(以上)増えた内容に発展するものとなる。
※-12 不逞鮮人襲来という官製の流言蜚語に怯えて朝鮮人を殺した日本帝国の臣民たち
関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件-』日朝協会埼玉県連合会,1987年という本がある。
同書を解説した文章は,つぎのように触れて語る段落もあった。
「竹槍をもち『不逞鮮人襲来』にそなえる自警団。〔埼玉県〕秩父線永田駅近く,国道のわき道で」というこの写真がある。この写真で特徴的なのは,先頭で鍬を担いでいる人物と後方にいるもう1人が,在郷軍人であることを証する〈軍帽〉を被っていることである。〈武器〉は,とみると,竹槍が多い。
また収録されている写真には,本庄市長峰墓地に最初設けられた慰霊碑『鮮人之碑』の墓石がある。この墓石は上下2つに割れている。
その『鮮人之碑』は,新しい慰霊碑に替えられたのち行方がわからなくなっていたところ,1983年「60周年調査活動」によって,群馬県榛名町の石材店にあることが分かり,本庄市にこれを引きとってもらったという。
現在は本庄市の歴史民族博物館(元本庄警察署:朝鮮人虐殺のおこなわれた場所)に保存されている(『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件-』325頁)。
その彫刻された文字は草書でもあってが判読しにくいが,関東大震災の「1年後の1924(大正13)年に,この『鮮人之碑』を建立したのである。戦後『鮮人』という表現が問題になるが,当時の朝鮮人蔑視の強い社会的状況のなかで,本庄の一部町民がいち早く慰霊碑を建て,朝鮮人犠牲者の霊を慰めようとしたことは歴史に記録されるべきことである。それ以後毎年9月1日には,心ある本庄町民によって墓参が行われてきた」(同書,324頁)。
本庄警察署は事件当時,本庄の町民たちが朝鮮人集団(女・子どもをも含めた86名)を殺戮する場所となってしまった。そこは,まことに後味の悪い,地元の人びとにとっては忘れようにも忘れがたい〈犯行現場〉となっていた。いまも,埼玉県本庄警察署は本庄市歴史民族博物館のすぐそば南西側に位置している。
もしかすると,それこそ冗談ではなく「当時殺された朝鮮人たちの亡霊が毎日(今日も),警察署内に出没・徘徊している」かもしれない。要は,本庄の人びとはせめて『鮮人之碑』を建立しておき,殺された朝鮮人たちの亡霊がお出ましにならないことを願ったのだ,とも解釈できなくはない。
なお「鮮人」ということばは,現代風にいえば,過去に一部に流通したことのある「ピン人」「ネシア人」という表現と同じ流儀で,それぞれの国の人々〔朝鮮人・フィリピン人・インドネシア人〕を見下した語感がこめられている。日本酒をポン酒といったのとはわけが違う。また,朝鮮人の朝が朝廷のそれと同じ漢字なので,これを呼ばずにはしょったという説もある。
次項※-13は,殺した朝鮮人が2人という事件に関した話題になる。どうやら,「殺した人数」が少ない事例のほうが,その犠牲者が手厚く記憶・祈念される対象になっていたのか,と思わせる追悼・慰霊がなされている。
※-13「関東大震災時の同胞虐殺犠牲者…忘れられた『内鮮人之墓』再建」『民団新聞』2021年8月25日,https://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=4&number=27095
◆ 地元有志が発起人に 語り継ぐ負の遺産 …千葉県成田市猿山共同墓地 ◆
1923年の関東大震災時に旧下総町(現・成田市)で犠牲となった朝鮮人を悼む小さな墓標「内鮮人之墓」が昨〔2020〕年11月,地元篤志家の手で再建されていたことが明らかになった。この墓標は地元猿山地区にある薬師堂共同墓地内の無縁墓石群の中に無造作に放置されていたのを杉原文哉さん(70歳,下総郷土史研究会代表,当時)がみつけだし,「負の遺産」として後世に語り継いでいくことにした。
「内鮮人之墓」はJR成田線滑河駅近くの薬師堂,猿山共同墓地近くの「猿山コミュニティセンター」の右側「一等地」に再建された。敷地は猿山墓地管理員会が提供した。「再建趣旨」をみると,「忘れてはならない関東大震災の『負の遺産』としてここに墓碑を再建する」に至ったことが分かる。
犠牲となったのは飴売りなどをしていた2人。2人は滑河駅近くの木賃宿「幸盛屋(こうもりや)」に止宿していた。関東大震災が発生した9月1日,「東京で朝鮮人が暴動を起こした」とのデマを真に受けた住民は殺気立っていた。
補註)ここでも流言蜚語が朝鮮人を殺す原因になっていた。この流言蜚語の出所がどこであったかという点は,非常に重要な問題であるが,ここでは触れない。すでにここ数日間の記述のなかで言及していた。
〔記事に戻る→〕 一部住民が「なにか起こらないうちに警察に保護してもらったら」と提案。所轄の佐原警察署に依頼するも「対応できない」との返答があり,隣の成田警察署に保護されることになった。
滑河駅は群衆でごった返していた。成田駅に護送されるひとりが身の危険を感じたのか,逃げ出したところを入線してきた列車にひかれて轢死した。もう1人も近くにいた群衆に撲殺された。2人の遺体は猿山の墓地へ無縁仏として埋葬された。
地元ではこの忌まわしい事件を口にすることはタブーだったようだ。
杉原さんは子どものころ,両親から関東大震災時の朝鮮人虐殺について聞いて育った。下総地区で何人かが犠牲となり,近くの墓に眠っていることは耳にしていた。下総郷土史研究会で活動するようになってから地元の歴史を掘り起こすようになり,犠牲者のお墓をみつけ出そうと2019年から調査を開始した。
補註)ここでも,関東大震災直後に虐殺された朝鮮人を悼む感情を「両親などから受けついだ」という証言が与えられている。当時,朝鮮人の虐殺などなかったとか,いや朝鮮人たちが震災のどさくさにまぎれて犯罪行為(重罪)を犯していたから,逆に殺される目に遭ったのだといったごとき「根拠のない俗説」が,いかにもわが物顔でまかり通る風潮まであった。
だが,本文で触れたごとき「朝鮮人の犠牲者が1人や2人しか出なかった町や村」であったほうが,流言蜚語によって空想的に形成された「朝鮮人暴動説」の虚構性に欺されて殺人行為を犯してしまった経緯そのものを,当時からそして後世のいまになっても後悔し,深く反省している人びとがいた。
〔記事に戻る→〕 当時は墓の場所すらしらなかった。手がかりを探していたところ,杉原さんが「歴史の大師匠」と仰ぐ郷土史研究家の磯部大暢さんから「無縁墓地にいったのでは」と聞き,昨〔2020〕年になって苦労のすえにやっとみつけ出した。墓碑は他の墓石に重なるように放置されていた。
墓碑は仙台石(黒色粘板岩)の小片でつくられた簡素な板状。碑表には「内鮮人之墓」,裏面に「施 四谷 木川」と2行に線刻されている。木川さんはいまも四谷で石材業を営む木川利一さんの曾祖父にあたる。
墓標を「朝鮮人之墓」とせず「内鮮人之墓」よした理由については,磯部さんが「日本国内で暮らす朝鮮の同胞」と捉えたのではと推測している。
〔2021年〕9月に「供養祭」
杉原さんは「関東大震災時の朝鮮人虐殺をいまも記憶している人がどれだけいるのか。日本の国民は自分たちに都合の悪いことは記憶から遠ざけようとする。忘れてはならない歴史的遺産としてもっと周知しなければと思った」と建立の趣旨を語った。今年の供養祭は9月4日に営む。(引用終わり)
さて本日(この記述を更新するために書いていたときの日付)は2021年の8月31日,明日が9月1日。あと2年が経つと〔そして,この記述をしている「本日」のほうは2023年8月31日だが〕,関東大震災から1世紀になる。
その時,日本政府や東京都政はどのような歴史に関する「100年に関する行事」をおこない,なにを・どのように語りうるのか?
自国・自民の災害・被災だけを記憶に取り出すだけに終わるのか。そうだとしたら,安倍晋三や小池百合子たちのごとき偏狂な思考方式と,なんら変わりない。
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【参考記事・資料】-関東大震災時の朝鮮人虐殺事件解明図(クリックで拡大・可)-
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