『経営学の開拓者たち』中央経済社,2021年は西日本地域における経営学史を神戸大学を足場に語った(1)
※-1『経営学の開拓者たち』という本が2021年4月に公刊されていたが,この「帯」は「神戸大学経営学部の歴史は,日本の経営学の歴史である」と謳われていた
だが,そこまでいいきれるならば,同時にまた「一橋大学商学部の歴史は,日本の経営学の歴史である」とも謳えるはずである。しかも,日本の経営学のその歴史全体を眺望すれば,「神戸大学経営学≦一橋大学商学」と判定せざるをえない。
一橋大学史のなかで経営学理論史の有する意義・地位をそっちのけで,「神戸大学経営学=日本経営学の歴史」だといったら,僭称にならざるをえない。それに東京大学経済学部や九州大学経済学部における経営理論研究の史的展開にも,重要な理論史の内容が蓄積されていた。
自校自慢と「日本における経営学の歴史的な展開」像を混濁させたい気持ちじたいは,分からないわけではないものの,単なるその母校に賭けた誇りを肥大化させる「理論史への解釈」は,主観的な希望を突出させていた。
#神戸大学経営学部 #一橋大学商学部 #平井泰太郎
日本の経営学は 21世紀に入ってからも現在まで,以前,理論に関する「方向性感覚を喪失させた状態」をつづけてきた。「社会科学としての本質論・方法論」をめぐる問題意識を忘失し,ほとんど放擲した学的状況に置かれてきた。
アメリカ経営管理学に特有であった事例研究的な話題中心になるが,なんでもかんでも総花的に議論を拡延する特性をもつ「21世紀風の日本経営学において一隅を占める流派」は,社会科学としての方法を本質的な議論をともないながらであったが,
特定領域における学問として必要かつ十分な説明からはだいぶ離れた地点から,実用主義(プラグマティズム)の価値観にくくられる発想でもって,自己満足的・自己充足的な,つまり学問構築にはほどとおい関心しか展示できていない。
要するに「説明はよくする」のだが,「理論としての解明」は貧血状態。「言及はあれこれする」が,その「本質的な核心や課題」はどのように捕捉しつつ討究すればよいのか,学問として第1義とみなしておらず,いわば無意識的に放置している。
企業実践に役にたつ「疑似的な理論」でもってのみ,21世紀現代企業社会が対峙している諸課題にまっとうにとりくむことができるかと問われれば,それでは当初から無理があった。「経済学の理論と実践」にまともに学ぶことがなかった「経営学の理論と実学」は,いつまで経っても半熟状態を余儀なくされる学問形態でありつづけていくのか。
経営問題の事例研究的な志向とその理論研究的な志向とが,いったいどのように交わればいいのか,とくに日本独自の問題意識としてとりあげられ,本格的に議論されてこなかった。
従来なりに方法論研究が過剰であった日本の経営学が,事例研究との対面をうまく生かせない状況のままのなかで,一方の事例研究を重視する学派まがいの立場も,「超克すべき従来型の研究志向」に対してなんら有効な見地を明示しえたことがない。
さて,いまから3年ほど以前になるが,古本で日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』千倉書房,2017年9月を入手し,読みはじめたところ,残念なことに途中で放り投げた
あえてあからさまにそのような感想を述べたが,よくも「ここまでつまらない,工夫のない内容編成」でまとめあげるかたちをとって,各執筆者が記述していたものだと,しか妙に感心させれるくらいにまで仕上っていた。別言するとしたら〈やっつけ仕事〉の域を出ない「陋作」であったと,感じた。
いいかえると,この『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』は,戦前から1世紀近く,各年に発行されてきた日本経営学会の報告集「経営学論集」を,ただ単にそれぞれ要約的に紹介したかのような内容になっていたる。
既存の日本経営学会史(「学界」史も視野に入れてとするが)を究明した著作には,もっと個性があって興味深い学説史を討究した著作がないわけでない。こちらの関連する研究業績に比較してみるに,まるで生気を感じられない,この『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』を手にとって読み出した時の気分は,はっきりいって不快に近いものさえこみあげてきた,と形容するほかなかった。
※-2 本日のこの記述は,前段までのごとき断わりを受けた記述となる。上林憲雄・清水泰洋・平野恭平編著『経営学の開拓者たち-神戸医大学経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月という著作をとりあげ,経営学という学問の今日的な状況を一考するものである。
以上のような問題意識をもって,日本における経営学を吟味するさい,ここではまず,「日本経営学会(学界)史」が歴史的にたどってきた,つぎのような話題に言及しておく必要がある。
1945年8月的な話題としては「日本経営学会に戦争責任の問題はなかったのか?」というものがあった。そして,1989年11月的な話題としては「変革思想に囚われていた社会主義経営学会(1974年設立)」は「なぜ,20年後に日本比較経営学会に変身したのか」というものもあった。
補注)日本比較経営学会のHPは,前身が「社会主義経営学会」であった点を,いまとなっては思いださせえない中身になっている。疑問(不明)を強く感じさせる「〈自己紹介〉に相当する案内」しか記載されていない。
以上のごとき若干の能書きを述べてから,本日の記述としてとりあげる著作,上林憲雄・清水泰洋・平野恭平編著『経営学の開拓者たち-神戸医大学経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月をめぐる吟味を始めたい。
この本に巻かれた帯が謳っている神戸大学経営学部「自慢」は,「神戸大学経営学部の歴史」が「日本の経営学の歴史である」であった(同書,229頁)という文句に表現されている。しかし,神戸大学経営学部に関した案内としてのこのせりふは,いささかいいすぎ:過大広告である。
この加護野忠男(同学部元教員)がいったというその文句のあとには,「本書に登場する先人たちは日本の経営学を文字どおり切り拓き,創り上げてきたパイオニアである」という説明がつづいている(同書,229頁)。しかし,ここまで神戸大学経営学部が本気で「自慢」(おらがお国自慢?)をしていたとなれば,これを耳にした一橋大学商学部のほうは黙ってはいまい。
一橋側は(多分)こういうに決まっている。
確かに神戸大学「経営学部」は,学部の名称として初めて経営学部をかかげ,また,日本における経営学の開拓をした経営学者たちを産んできた。だが,それはあくまで西日本地域に限定される評価であり,東日本〔のみならず日本全体〕において日本で一番早く経営学に相当する学問を創生させ,その後においても着実に展開させてきたのは,「わが一橋大学商学部である」と,それもかなり力強く,自信をこめて主張するに決まっている。
なぜなら,神戸大学経営学部を誕生させ,なおかつ大いに発展させた人物平井泰太郎(1896年生まれ)は,一橋大学(昔のことなので大学の名称は別物であったが)でそもそも学んでいた。
しかもこちらには,この平井の先達に当たる上田貞次郎という「日本経営学の開拓者」がいたし,さらには平井泰太郎と同年代の経営学者として増地庸治郎(1896年)がいて,そのもとで一橋では多くの後進が経営学者となり熟成していき,それぞれが大いに活躍してきた。
経営学に関連する学究としては人数的にも一橋のほうが神戸よりも多いし,その分「質的な厚み」もあった。もちろん,神戸のほうにもなかなか個性的で人間味に溢れた経営学者もいた。
なお,以上の話題はひとまず,「経営学部」だとか「商学部」だとかの区別にはこだわらない議論として説明している。またここで,それら経営学者たちに関したいちいち詳細な人物評論にまで立ち入った論及はしない。少なくとも,「日本における経営学の理論史」についてある程度学識のある関係学者たちにとっては,おそらく知悉の関連事情である。
それでは以下に,上林憲雄・清水泰洋・平野恭平編著『経営学の開拓者たち-神戸医大学経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月の目次内容を,さきに紹介しておく。神戸大学のホームページに掲載されているそれを利用するかたちで,しかもかなり詳細なものとなるが,これを参照する。
※-3 経営学の開拓者たち-神戸大学経営学部の軌跡と挑戦-
以下は,あくまで,上林憲雄・清水泰洋・平野恭平編著『経営学の開拓者たち-神戸医大学経営学部の軌跡と挑戦-』中央経済社,2021年4月が語る内容に即した記述である。
--日本の経営学の出発点は神戸大学にあった。神戸大学経営学部は,全国に先駆けて作られた日本初の経営学部である。平井泰太郎が,神戸大学の前身である神戸商業大学において日本初となる「經營學」の授業を開講して約100年。
昨今では,経営学部が創設された当時の状況や今日の隆盛に至る発展過程をしる人びとも少なくなった。この歴史をなんとしても後世に伝承し,未来へと紡いでいきたい-こうした強い思いのもと企画されたのが本書『経営学の開拓者たち』である。
神戸大学経営学部は,これまでの歴史と伝統を踏まえつつ,経営学の各領域における根本問題を探究するとともに,つねに時代の要請を先取りし,新しい諸課題にも挑戦を続けてきた。読者各位には,本書を通じ,この神戸の地で経営学を切り拓いてきた先人たちの奮闘努力を,それぞれの時代の文脈からお読み取りいただければ幸いである。
1) 日本における経営学史に関する歴史的研究の貧困
-哲学も思想も理論も現実も「いまはいずこ」-
古林喜樂編『日本経営学史 人と学説 第1巻』千倉書房,1977年(初版,日本評論社,1971年),同編『日本経営学史 人と学説 第2巻』千倉書房,1977年という2作がある。
それらは,日本の経営学に関して著名な学説をとりあげ概説として説明する著作であった。日本における経営学研究は,社会科学分野のなかでは非常に旧くから存在しており,いま年時点から回顧してみれば優に1世紀を超える歴史を有している。
日本経営学会が創設されたのは1926年7月10日であった。あと3年で1世紀を迎える。ただし,学会の創設時がこの経営学という学問史の開始時に合致するのではない。いうまでもない事実であるが,経営学の場合もその以前から「理論と応用(実践)」の領域において盛んに学問的な営為,いいかえれば学界的な活動がそれなりにあった。
ところで,経済学史という隣接した研究領域に比較すればすぐに判るように,経営理論に対する歴史科学的な視座を据えたうえで,日本の経営理論を本格的に解明しようとしてきた業績は,いまもなおわずかしか存在していない。
自国の学問営為に関心が薄いという学問状況は,なにも経営学にかぎらない現象であるが,それにしても経営学界の場合は,その兆候が顕著である「経営学史としての過去・履歴」を記録してきた。
さて,本書,日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』は,およそ20世紀最後の四半世紀(第4のそれ)が始まるころから最近までの「日本経営学史」を概説しようとする著作であった。
以前,この国における経営学の全般的な状況については,山本安次郎『日本経営学五十年-回顧と展望-』東洋経済新報社,昭和52年が初めて,本格的に描いていた。
山本安次郎個人による努力をもって制作されたこの日本経営学史の論著であったゆえ,その個性的な主張面に関して,あれこれ批判され再考される余地も指摘された。もっとも,山本のこの業績は,日本の経営学者たちが「自国の経営理論そのもの」と「実践とが交流」する問題に対して,関心がほとんどなかった事実をあらためて教えた。
山本安次郎は,日本の経営学の出立点を「昭和の時代」,つまり,日本経営学会が創立された大正15〔昭和1年:1926年〕にみいだしていた。だが,この認識は誤認であった。大正時代における日本の経営理論問題をめぐる研究史をよく透視しえなかった限界:時代の制約が,山本の同書にはまとわりついていた。
2) 本質論・方法論が特異であった日本の批判経営学の滅亡-その興亡の顛末-
a) ここでは最初に,「批判経営学」という学問の名称について簡明な解説を聞いておく。それは,マルクス主義経営学の日本学界的な名称だったと説明できる。企業をひとつの個別資本と考えて研究対象とし,労働者階級の立場から経営問題をとりあつかい,社会の基本的な矛盾との関係でこれをとらえ研究する経営学の一分野である。
補注)誤解のないように断わっておく。個別資本を研究対象に取りあげるのは,批判経営学だけではない。経営学もそして経済学も会計学もすべてこの個別資本(現実寄りの用語としては「資本金」に集約される)を研究対象の出発点に置いている。あとは,その取りあげ方や認識の仕方(学問観・方法論)に相違があるだけのことである。
このあたりに関した学問認識として「個別資本」という用語を,食わず嫌い的に排除したがる社会科学者(一部のエライ経営学者たちも)がいた。だが,彼らのその見地は「資本」という用語を含む「個別資本」というコトバを,いきなりに勘違いしたあげく,のっけから毛嫌いした感性的な理解に留まっていた。
b) 世界大百科事典内における批判経営学への言及は,こう解説している。……1910年代に日本の大学でも経営学関連の講座が設置され,ドイツ経営学の移入によって始まった。また,それと並行してアメリカ経営学も〈科学的管理法〉を中心として紹介され,1920年代の産業合理化運動の指導理念となっていた。
1930年代にはマルクス経済学の興隆に刺激されて,経営学においても個別資本の運動法則を解明し,現実の企業活動を批判的に研究する個別資本説ないし批判経営学の流れが中西寅雄〔東京大学〕,馬場克三〔九州大学〕らによって始められていた。他方,ドイツ経営学の基礎のうえにアメリカ経営学の問題意識を接合させた研究が馬場敬治〔東京大学〕や藻利重隆〔一橋大学〕によって進められ,これらが第2次大戦後に引き継がれた。
註記)以上,https://kotobank.jp/word/批判経営学-120642 参照。〔 〕内の補足は引用者。ただし,現在の大学名で挿入。
ここで留意したい点がある。
戦前と戦中における日本経営学の展開に対する考察をくわえるさいは,慎重な吟味が前提に置いてなされるべきである。中西寅雄(東京大学),馬場克三(九州大学),馬場敬治(東京大学),藻利重隆(一橋大学)と並べられているけれども,それぞれの理論的な出自は,別々の源泉をたどることができるものだったからである。
なかでも「藻利経営学」とまで偉称された「藻利重隆の経営二重構造理論」が,ドイツ・ナチス経済「科学」論に根っこを生やしていた事情は軽視できない。
3) 野末英俊稿「批判経営学と管理学-組織社会の出現と専門経営者-」 愛知大学経営総合科学『経営総合科学』第102号,2014年10月から。この論稿からは「5. 批判経営学の限界」を参照する。なお以下の引用では適宜補正しつつ,引照している。
敗戦後において,日本の経営学がひとつの大きな系統を形成したのは, マルクス主義にもとづく経営学(批判経営学)であった。 第1次と第2次の世界大戦を経てからの国際政治情勢は,影響力を増大させていった社会主義と資本主義の盟主としてのアメリカの凋落(ベトナム戦争,ドル体制の動揺)とが,その学流の旺盛ぶりを勢いづけたといえる。
そのなかで批判経営学も,こう考えていた。
マルクス『資本論』 は資本の運動を分析対象とするし,マルクス主義は労働者の立場に立っている。 労働者がおこなう労働は価値を生み出し,社会は労働によって生み出された価値によって存立する。
それにもかかわらず,資本主義においては 生産手段を保有し,労働力を買いとった資本家が労働者が,その生み出した剰余価値を合法的に収奪(搾取)する。このような経済・社会構造のあり方を廃止し,社会主義へ移行することによって,資本主義の諸矛盾が解決されるとした。
資本家は,労働者の労働が生み出した剰余価値を搾取することによって, みずからは労働することなしに富を蓄積する。 貨幣の増殖と蓄積が資本の目的である。 この構造によって資本家と労働者の対立は激化し, 最終的に資本主義は崩壊し廃絶されて,より高次元の体制である社会主義へ移行する。(引用はいったん,ここまで)
要するに,このようなマルクス主義の立場に立つ経営学が批判経営学(経営経済学) であった。 批判経営学の起源は, 中西寅雄の『経営経済学』に求めることができる。
中西寅雄は,日本における批判経営学にとってみれば “源流” の位置を,いうなれば「その理論上の系譜」において占めていた。けれども,この中西自身は,けっしてマルキストの立場を採ってはいなかった。
中西はただ,資本論の論理構成をドイツ経営学に関連づけながら「経営学方法論の思考方式」に応用したのであって,彼が基本的な立場においてマルクス主義思想を,本気で信奉したり支持したことはない。
その事実は,マルキストである経営学者たちがいっさい気づくこともなく,今日にまで至っているという「驚くべき学史展開上の記録(?)」が残されていた。
その点の理解に関していうと,いまではほとんど完全に崩壊状態であるマルクス主義経営学陣営の元・先生たちは,もともとよく調べもしないで「中西寅雄」は「ワレワレの仲間」(マルクス主義の同志であり,偉大な先駆者である)と,要らぬ勘違いを抱きつづけてきた。
おまけに,中西に対しては「マルクス主義の立場・思想からその後,転向した」などとまで,これまたなんら具体的な証拠もなしに決めつける「断定」まで下していた。つまり,その理論志向に関してだが,事実にもとづかない〈自由自在な解釈〉を,ただ恣意的に思う存分にくわえていた。
中西に関するそうした完全なる誤解は,「その人なり学説なり」をよく観察していなかったからこそ,大手を振って斯学界を徘徊することができていた。
残念なことに,「学術的な立場」からその点をまともに吟味・反省したうえで,間違いをみずから認めえたマル経経営学者は,誰1人としていなかった。ソ連邦の崩壊にともない,彼らに特有であった「学派的集団」は,蜘蛛の子を散らすがごときに雲散霧消した。「彼ら自身」は,けっして斯学界から去っていったわけではないけれども,ともかく,われわれの視界にはその姿が映らなくなった。
前段の段落で,「変革思想に囚われていた社会主義経営学会(1974年設立)」が,「なぜ,20年後に日本比較経営学会に変身したのか」と問うてみたのは,そのあたりにまつわる不可思議な「学会の変遷についての現象」が,いまだに払拭(精算・総括的な批判)をできていないまま,依然,疑念として残されているからであった。
〔本文,野末英俊の引用に戻る〕 個別資本説は,経済学が社会総資本を分析対象とするのに対して,経営学として企業(個別資本〔の運動〕)を対象とする。 この結果, 批判経営学はおのずから経営学を経済学の一領域として位置づけることになる。 ここで,企業の目的は利潤の極大化であり, 労働者の生み出した価値(剰余価値)の収奪 (搾取) によって実現すると,しごく当たりまえに規定されている。
「批判経営学と管理学」 ……企業組織が大規模化すると社会構造に変化が生じた。 ここでは,複雑化した組織を調整・維持する機能を担う経営者が生み出されると同時に,従来の資本家の個人的資質に依存する 「コツ・カン」 による管理の限界と合理的(科学的)な管理方式が要求されるにともない,管理学(アメリカ経営学)を生み出した。 こうして,寡占企業が資本主義経済の中心的位置を占めるようになって,いわゆる「資本(所有)と経の分離」 が進展した。
すなわち,資本主義発展のもとでは資本家階級の役割が後退していき,これに代わって経営者が社会の支配者として台頭した。この寡占企業の支配者は,資本家とは異なる専門経営者であって,その権力の源泉はもはや財産(貨幣)ではなく, 知識・能力・経営技術にその重心が移ってきた。
社会主義社会では生産手段の社会的所有が実現されたものの, 計画経済の非効率性がしだいに明らかになったり, 特権的な官僚制が不平等を生み出したりして, 労働者の生活が向上することは困難となった。結局,社会主義は内部から崩壊した。 こうした現実は, マルクスの理論を大きな限界に直面させた。
また,資本主義社会における資本家の後退は,多様な非営利組織(政府・学校・病院・労働組合など)を形成させていき,こうした非営利組織がそれぞれの組織目的をかかげつつ,必らずしも営利性に拘束されずに経営者が維持・運営している。管理(英語でいえば,management )問題の重要性が高まる反面,批判経営学はとりわけ「経済学からの独立性」をいかに明確化するかという課題に,いまだに直面している。
註記)野末英俊稿,http://leo.aichi-u.ac.jp/~keisoken/research/journal/no102/a/04_NOZUE.pdf
以上の説明は最後で,批判経営学は「『経済学からの独立性」をいかに明確化するかという課題に,いまだに直面している」と結論づけていた。だが,2014年10月に公表しされた論稿の見解としてみるにまだ,斯学界における研究状況にうとかった独自の解釈だといわざるをえない。その課題にはすでに以前より,真正面から解明され,それなりに特定の成果も挙げられきた。
つまり,その「明確化」が必要だと指摘された論点はすでに,これまででも相当程度に理論的に進展させられてきた。にもかかわらず,半世紀前の時点に戻してならば妥当しえた過ぎない「論断での説明」は,これじたいが好ましくない,いまでは不適合のそれになっていた。さらにいえば,当該論点の理論状況・水準をきちんと渉猟したうえでの判断ではない点で,問題があり過ぎた。
4) 元マルクス主義的・批判経営学者であったらしい人物の「奇妙な発言」
ブログ『セレンディピティ日記 読んでいる本,見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。』に,いまから10年以上も前であったが,「偶然に見つけた論文」(2006-07-22 23:25:55 思想)という題名のつけられて一文であったが,つぎのように言及していた。
〔原文引用に戻る→〕 しかし,相手と目的で言説をその場その場で変えて,つねに「(他の目的の)ためにする」言説をおこなうのはあの思想の人たちであり,わが道ではない。唄の文句ではないが,「どんなときも,どんなときも」である。で,その論文というのは…… 裴 富吉氏の「批判的経営学の興亡」という論文だ。
なお,ここで姓名の挙がった裴 富吉の著作には『経営学理論の歴史的展開-日本学説の特質とその解明-』三恵社,2008年があり,この第5章に転載・収録されているのが,その「批判的経営学の興亡」である。
いずれにせよ,このブログ『セレンディピティ日記 読んでいる本,見たドラマなどから……』氏の叙述は,高度に〈韜晦的な雰囲気の筆致〉があって,その真意を判読しにくい。「あの思想の人たち」とは誰のことか? ここでは多分,そのブログ『セレンディピティ日記』の筆者自身のことだと受けとめるほかないが。
〔原文引用に戻る→〕 ほぼ消滅したものに「なにをいまさら」ともいえるが,いまだからこそ「興亡」史が書かれる時期かもしれない。読んでみて,ああなるほどとあらためて気がつく点がある。
註記)以上,ブログ『セレンディピティ日記……』http://blog.goo.ne.jp/kyujiu/e/f318689ad22e91be78ff799070463d7e
※-4 片岡信之稿「日本における経営学の歴史と現在」明治大学『経営論集』第64巻第4号,2017年3月
片岡信之のこの論稿は,日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』千倉書房,2017年刊行予定〔とされていた時点で)の編集責任者に任命された片岡信之が,まえもって公表していた。
この論稿から適宜,本ブログ筆者なりに関心のもてる段落を引照しつつ,関連する議論をしてみたい。
a) 日本経営学史の出発点はいつだったのか
「日本経営学会……〔は〕,明治期までの商業諸学が大正前期に,米独経営学の翻訳や紹介を媒介としながら,一応日本としての諸知識を体系化し始め,方法論的問題意識を持ち始めたという事をもって,経営学史の始まりと見なしてよいのではないかと考えられる。その意味では日本経営学会創立以前に経営学の実質的中身は一応あったと私は見ている。なお,ほぼ同様な見解は,すでに裴 富吉,前掲書(※)でも提示されている」。
註記)片岡信之「日本における経営学の歴史と現在」50頁・註10。なお,ここで,裴 富吉の前掲書(※)とは『経営学発達史-理論と思想-』学文社,1990年。
b) 時代への迎合性がめだっていた経営学会
「統一論題テーマが,常にその時代的現実と要請に密着して設定されていたということである。この点は第1回大会以来一貫していた特徴であり,敗戦後も今日まで基本的に引き継がれてきている特徴でもある」。
「論点は常にホットな時流と繋がっていた。経営学という極めて現実的な実務の場を捉える学問としては,一面では当然のことではあるが,しかしながら他面では,現実との間合いの取り方において,あまりにも無批判な即自的受容・認識・主張を重ねてきたという批判を免れられないであろう」。
「研究対象に即して研究する事は,対象のあり方をそのまま即自的肯定的に認識し論じることと同じではない。この点からすれば,経営学研究が,全体として,当時の時代潮流・時代精神に迎合しすぎて,議論の客観性・普遍性において問題があったことを認め,教訓としなければならないであろう」。
註記)片岡,同稿,55-56頁。
c)「戦後日本経営学における主要論点」から
「敗戦直後の1946年に開かれた戦後初の日本経営学会大会(第19回大会,統一論題:日本経済の再建と経営経済学の課題)における諸報告であった。とくに第一部の報告は,『社会主義経営学の提唱』『経営者革命と会社革命』『企業民主化の方向』等,戦前の大会ではありえなかった内容のものであった」。
「そこでは戦時統制経済下の経営学の論点とはまったく対照的ともいうべき,戦後の全面的な大変動の雰囲気を反映した新しい論点が示されていた。また,戦時および敗戦で崩壊した経済・経営をどう再建するかという問題意識が強く出た報告がなされている。論者も論点も大きく入れ替わったのであった」。
「しかし,新しい論点を提出するにせよ,当面の企業再建を論じるにせよ,従前の戦前経営学についての全面的な批判的総括,それに基づく理論的超克の視点はみられない。戦前の大会で報告した論者も何人か報告しているが,自らの戦前報告の内容との関連についての総括も自己批判も抜けている。経済・経営の戦後復興・再建が喫緊の課題であったとしても,理論的総括の作業は,理論家としては,やはり必要であったと思われる」。
註記)片岡,同稿,57頁。
「その後の戦後大会の統一論題を継時的にみれば」「まさに理論的総括の場としてふさわしい回が何度もあったと思われるのであるが,結局それはなされないままで過ぎた。新しい状況下で経営学はどんな課題と向きあわねばならないのかという事についての問題意識は強く感じられるものの,戦前経営学と関連づけて何がどう変わるのか(変わるべきなのか),あるいは変わらないのかという理論的総括の視点はないのである。何度か出てくる『再検討』『根本問題』『根本問題』などの意味は,当面する新しい戦後の事態にどう対処するかという目前の課題に絞られている」。
註記)片岡,同稿,57頁,58頁。
d) マルクス・批判経営学の雲散霧消
「戦後に解放された労働組合運動を背景にして,企業に対する批判的研究を掲げる批判的経営学のアプローチが盛んになった。これは日本に固有の企業研究といわれ,そのなかは方法論的相違から個別資本説学派,上部構造説学派,企業経済学派などに分かれていたが,その殆どは当時のソ連共産党流の『マルクス=レーニン=スターリン主義』を下敷きにしていて,のちにこの『社会主義体制』が政治的・経済的に崩壊するとともに雲散霧消することになる。戦後提唱された社会主義経営学も同様な運命を辿った」。
註記)片岡,同稿,60頁。
e) 本質論・方法論が消えてしまった経営学界(以下は,片岡信之稿の最後部「総括」から任意に取捨選択して引用)
ⅰ)「経営研究の totality をどのように確保できるのかが今後問われねばならないのではないか」。
ⅱ)「第2次大戦後の日本の経営学は,アメリカ経営学(経営管理学)の流入によって,基調はそれ一色となり,戦前昭和期経営学の論調はまったく消えたといってよいが,それとともに,経営学の研究対象が企業,経営経済から組織一般・管理一般にまで拡大され,それに伴って経営の価値,価値の流れ,価値の転換過程などの経済過程の解明(ドイツ経営学の特徴)が経営学の内容からなくなった(ないしは薄くなった)」。
ⅲ)「こうして経営学とは経営管理学なのか,経営経済学なのか,それとも両者を統合したものなのかという初期経営学者たち(日本経営学会の初期から参加し,戦前から昭和30年代頃まで活躍した人たち)の永年問うてきた方法論上の論争・論点はほぼ消えて,戦後の時の流れのなかで自然の内に経営管理学に収斂したように思われる。経営学の研究対象,研究方法,学問的性格の如何はもはやほとんど問われなくなった。しかし,それは本当に解決されたとされるべきものであるのだろうか」。
ⅳ)「日本経営学会初期から『資本論』やリーガーに依拠して批判的経営学に繋がる流派が生まれたが,それは今や活動停止状態ないし瓦解状況にある。それに関連して生まれた社会主義経営学の議論も消滅したと言って良い」。
「それはかつて存在した(あるいは現在存在している)社会主義を名乗る国家の自滅・崩壊と直接に関係しているが,さらに,そもそも最初から理論的に内包していた誤謬によって,これ以上理論的に積極的な展開が不可能な所まで追い詰められたことが根底にあった。資本主義企業も(残存する)「社会主義」企業も,ともに大きな諸問題点を抱えているいまこそ,新たに先入観なき柔軟な理論構築の試みがなされてもよいのではないか」。
ⅴ)日本経営学会は,これまでみてきたように,昭和金融恐慌→産業合理化→戦時統制経済→戦後復興→高度成長→構造転換と国際化→内需拡大・バブル経済・海外直接投資→バブル崩壊・長期低迷と,めまぐるしく移り変わる経済変動の中での企業経営の現実を見ながらそれをその時々の課題として取りあげて論じてきた」。
「そしていま,企業を取り巻く国際環境はまたも大きな激変と転換の流れの中にある。地球規模での環境問題,民族紛争,国際的・国内的な貧困問題・格差問題,ポピュリズムの台頭,ナショナリズム国家の台頭,EU崩壊の危機,グローバリズム逆転の兆し,既存の国際政治経済枠組み崩壊の危機,……など,これまでの枠組みとは異なった世界秩序への大きな再編の可能性が生じつつあるかにみえる転換期にあって,経営学の果たしうる貢献はなんなのか」。
「このような時代的問題意識と無関係に日常的に些末な経営現象の実証研究だけに自己完結的に閉じこもっていることの限界性が問われてきているように思われる」。
註記)以上,片岡,同稿,78-79頁。(ここまでで,片岡信之からの引用終わり)
最後の指摘,「時代的問題意識と無関係に日常的に些末な経営現象の実証研究だけに自己完結的に閉じこもっていることの限界性が問われてきている」という点は,これが具体的に顕現されていた実例を挙げておくと,「日本の大学院教育としての経営専門職大学院」(日本流のMBA教育)がその本来めざしているはずの目的・機能・成果を十全に挙げえていない実態・実績をもってしても,十分に推し量ることができている。
本日のこの記述は,マルクスの変革思想にベッタリズム的に追随してきた日本に特有だった理論志向の「批判経営学」が,ソ連邦(1922年12月から1991年12月)の興亡に合わせるかのようにして,それも敗戦後から急速に勃興・発展してきた--すでに出ていた題名を借りて表現するならば--「日本の批判経営学の興亡」として,いったいどのような歴史的な存在意義と理論的な問題性を背負いながら歩んできたのかに関して,あらためてその批判的な詮議が要求されている点を吟味していた。
それは「日本経営学界(学会ではなく)」全体の「理論展開のあり方」にとって,非常に重要な責務のひとつであった。このままだと多分,過去に属した問題として忘却されていくことは,目にみえている。
ところで,日本比較経営学会編『会社と社会-比較経営学のすすめ-』文理閣,2006年が,関連する事情をこう説明(弁明)していた。前段では,d) と e) の ⅳ)に直接関連する論点である。
とはいわれていたものの,その事実経過については,前段で片岡信之が追究しているとおりであって,結局のところ,その「衝撃的な出来事」を,経営「学界の存在根拠」(理論的な基盤:妥当性)にかかわる重大な論点として,とことんまで詰める思考が展開されたような実績は,まだみつかっていない。
要は,1945年8月の敗戦を契機として発生していた『日本経営学会の戦争責任』の問題の上に,1989年11月のソ連邦崩壊を境に『批判経営学の理論責任問題』も重ねられた「この国の経営『学界』」のなかにあっては,いまだに「まともに詮議されていなかった研究課題」が残置されたままの状態がつづいている。
【未完】 明日以降に続編を用意している。
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