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日本の大学が壊れていく現況をめぐりその原因分析など(3)

 ※-0 日本の大学のなにが問題であったのか

 a)「本稿(3)」の前に,既述であった「本稿(1)(2)」とは2週間ほど間隔が空いたので,最初にその住所(リンク先)を紹介しておきたい。

 ▲「本稿(1)」
   ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n8001ae711f53

 ▲「本稿(2)」
   ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n79d560b0ce8b

 また「本稿(3)」の初出は2019年5月15日の記述になるが,本日 2023年10月10日の時点でも陳腐化していないと判断し,基本的にはそのまま再掲・復活させることにした。もちろん,必要に応じて補訂や追論もするつもりである。この冒頭の段落でだいぶその追加となる議論をしてみる。

 その追加の材料としては,たとえば『毎日新聞』2023年10月4日朝刊2面に論説委員の元村有希子担当「水説」が,上のように日本の大学院進学に関して「まったく人気がない」事実に触れていた。なぜか?

 いきなり飛躍してさらに挙げておくと,『毎日新聞』同日朝刊の1面には左上の配置された記事であったが,「小中不登校最多29万2048人 文科省調査 いじめは68万1948件 〔20〕22年度」との見出しになる記事が出ていた。

 その不登校の小学生は10万5112人が全小学生の 1.7%,中学生は19万3036人を占め,不登校の小中学生のうち,38.2%に当たる11万4217人は学校内外で専門家らの相談や支援を受けられていなかった。

 また義務教育ではない高校は〔とはいっても実質98.9%,男子は98.8%,女子は99.0%だが〕,不登校者数6万5775人で1万人増えていたということである。

 年齢区分別人口は少子化の影響でもって小学生のその人口ほうが,より少なくなっている現況のなかで,以上のごとき「イジメの構造」は日本の学校内では以前より深刻な問題として解消することがないままにきた。

 b) つぎの図解のようなイジメを予防するための思考方法が,教育現場で必らずしも努力して徹底的に実践されてはこなかった実情もあり,イジメ問題は深刻な社会問題でありつづけてきた。

イジメの構造


 また,こうしたイジメ問題を回避させるためというよりは,その軋轢じたいを一気に昇華させておくための方策(回廊)に利用されてもいる一策が,なかでも私立の中高一貫校への進学競争である。

 この進路では,小学校段階から熾烈な受験競争が介在してもおり,子どもたちの日常生活は各種各様の塾通いもからんで,しかも格差社会を拡大させている「保護者間における経済力の顕著な差」が,小学校段階から子どもたちの未来に対して,異様なまでの格差をもたらす要因なって顕在していた。

 中高一貫校への進学競争にしても,公立の中学校から著名な進学校である私立高校へ進学するにせよ,いずれにおいても高校段階なりに偏差値の高いその種の学校へ進学しないことには,つぎの一流大学・進学「挑戦」にさいして児童・生徒たちは,出立点からしてそれなりに特定の教育格差を背負わされるハメとなる。

 そうして大学にまで進学した若者たちが前段の『毎日新聞』「水説」の解説ではないが,日本では大学院博士課程(後期課程のことと解釈しておく)に進学しようとする覇気が,少年・少女や若者たちの気分・精神からも以前からすっかり萎えていた事実が現出していた。

 c)「各国の高校生に希望する最終学歴を尋ねた結果」,博士課程と答えた割合が中国18.9%,アメリカが14.6%に対して “日本はたったの 1.6%だ” というのでは,これは桁違いというよりは,ほとんど「いなくなった」と理解するほかない。

 つぎの統計は2019年度までしか出ていないものだが,博士課程へ進学する社会人以外の若者たちの数が確実に下降線をたどっている。この趨勢は「当該する18歳人口の減少率」とは直接の関連をみいだせない動静である。

博士課程進学者減少傾向
とくに新卒層

 この統計表についてこういう比較をしてみる。

 2003(平成15)年度に大学院・博士課程(後期)に進学した年齢の若者たちは,現役で来た若者を想定するが,この彼らが誕生した年は1979年となり,そして2018(平成30)年度のそれは1994年となっていた。

 その1979年と1997年の出生数は,164万2580人と119万1165人であったから,つぎのごとき計算が示せる。

 一般学生の大学院の博士後期課程進学者に関連する数値は,こうなっていた。

 出生数は,2003年に比べて2018年になると72.52%に減少した。これに対して,このそれぞれの年に生まれた者の年齢が24歳時になったときに(ここでは単純に仮定しておくが),博士後期課程に進学した者の数は,

  6015人 ÷ 11637人= 53.41%に減少していた。
 
 社会人の当該進学者はいったん置いた話となるが,若者層が学部段階から直接,大学院修士課程を修了して博士後期課程まで進学してくるその〈比率〉は,人口統計としての出生数に比べて顕著に下まわってきた。つまり,その4分の3に減少していた。しかも,18歳人口そのものその間,7割台に減少したなかでの出来事になってもいた。

 日本は自国が先進国だったと自意識を堅くもっていても,これを教育社会面から裏づけるひとつの材料となるはずの博士後期課程への進学率は,現在,つぎのような実態に逢着している。 

 「 2.高等教育と科学技術人材から見る日本と主要国の状況」「 (1) 日本の大学院博士課程の入学者数は2003年度をピークに,長期的に減少傾向にある」という解説が,こう語っていた。

 日本の大学院修士課程の入学者数は2010年度をピークに減少に転じた。長期的に減少傾向にあるが,2021年度は対前年度比 3.3%増の7.4万人となった。社会人修士課程入学者数は全体の約10%で推移し,2019年度から微減している。

 大学院博士課程の入学者数は,2003年度をピークに長期的に減少傾向にあり,2021年度は 1.5万人となった。うち社会人博士課程入学者数は増加傾向にあったが,2018年度を境に減少している。2021年度では 0.6万人である。全体に占める割合は2021年度では41.7%であり,2003年度の約2倍である。

 専攻別の構成についてみると,修士・博士課程ともに「その他」の入学者数が長期的に増えている。また,2000年度と比べると,修士課程は「人文科学」と「社会科学」で,博士課程は「保健」と「その他」以外の専攻で入学者数が減少している。

 註記)「科学技術指標2022」『科学技術・学術政策研究所』https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2022/RM318_04.html 2023年10月10日検索。

 d) 田中圭太郎「『大学院進学』の減少が止まらないこれだけの理由 進学希望は多い一方アカハラや学費等の悩みも」『東洋経済 ONLINE』2023/06/29 5:40,https://toyokeizai.net/articles/-/679305 という記事は,関係する事情を,また別様に指摘していた。

 この記事は「日本の研究力低下が指摘されて久しい。国が大学の研究力の強化に向けた事業をつぎつぎと打ち出す一方で,将来研究を担う存在である大学院生は減少傾向にある。

 とくに,修士課程から博士課程への進学率は,毎年1割程度しかない。研究力向上のために国は大学院を増設したものの,大学院生が増えるのかどうかは見通せていないのが現状だ」と大学院に関する概況に触れるさい,つぎの項目を挙げて議論していた。

 大学院で学びたい学生は多い。--「修士課程から博士課程に進学する割合は10.3%。16.9%だった1994年度以降,長期的に減少傾向が続いており,近年は10%前後で推移している」

 大学院重点化政策の失敗。--「博士課程で学ぶ大学院生の増加は,結果的に博士号取得者の ”供給過剰” につながった。就職先がない,もしくは正規の教員になれない人が続出し,任期付きの研究職で働くポスドクが増えて,いわゆる『高学歴ワーキングプア』を生み出した。政策によって大学院生を増やしたにもかかわらず,受け皿が用意されなかったのだ」

 学生側の自己負担が多い。--「実は,返済不要である給付型の奨学金を受給できる大学院生はもともと少ない。なぜなら,大学院生の大半が利用する日本学生支援機構の大学院生向け奨学金には給付型がないからだ。また,家庭の所得金額に応じて授業料の減免などを行う高等教育の修学支援制度も,大学院生は対象になっていない。学部から大学院にかけて多額の学費が必要になるにもかかわらず,大学院生への経済的支援は乏しいのが現状だ

 修士課程の大学院生が考えている進路。--インターンや就職選考の早期化が,研究活動など学業を圧迫している傾向が強まっているようだ。また,文科系については,大学院への進学が就職に有利になると答えた人が少なかったという。

  「博士号を取得した院生には,本来であれば新卒であっても学部卒よりも高い賃金が支払われるべきだが,それを嫌がる企業や賃金体系を作っていない企業などが,採用を避けるケースもあるようだ」

 「複数の調査結果から,大学院生を取りまく環境の厳しさが伝わってくる。博士課程に進学し,修了した場合は,研究者の道に進んで大学への就職をめざす人も多い。しかし,前述のとおり正規採用の教員になる道は険しい」

研究者の「使い捨て」も問題に。--「最近は研究者の『使い捨て』も問題になっている。非常勤講師については5年,研究者については10年を超えて勤務することで,無期雇用に転換できる権利を得られることが法律で定められている。にもかかわらず,大学によっては5年や10年を迎える前に雇い止めされる事態が起きているのだ」

 「また,大学院生が抱える悩みに,パワーハラスメントやアカデミックハラスメントがある。上下関係が絶対で,閉鎖された空間ともいえる大学の研究室では,ハラスメントが起きやすいとされている」

 「ハラスメントをおこなった教授に対して懲戒処分が下されていることは,全国の大学で頻繁に報道もされている。それでも,ハラスメントを公表していない大学が多いため,実態がわからないのが現状だ」(引用・紹介終り)

 ここでも大学院次元における「ある種の特定のイジメ問題」が再登場していた。日本学生支援機構の大学院生に給付型奨学金を支給しない制度になっている実情には呆れた,という感想を抱くほかないが,

 この国は大学院重点化を1990年代から開始したものの,なにをどのように重点化したかと問うてみると,大学院制度の破壊につながるような「弱体化のための重点化」にしかなっていなかった。

 e) ところで,大学院の問題だけでなかったが,日本の大学制度問題の全般を「企業経営に対するコンサル感覚」でのみ,あれこれ大仰に発言してきた富山和彦は,いまだになんの反省もなく日本の大学を破壊してきた自身の発想を,いまもなお自己評価が高いまま,だから自慢話にもしている。

 けれども,この種の,大学の理念も使命もよくわきまえない中途半端な大学改革論を喧伝してきた人物が,日本の大学を破壊する行為を先導してきた事実は,まことに不幸な出来事であった。

 補注)冨山和彦・経営共創基盤グループ会長「〈経済プレミア〉冨山和彦の『破壊王になれ!』 『合格歴』人材はもういらない 大学を破壊的に改造せよ」『毎日新聞』2020年11月30日,https://mainichi.jp/premier/business/articles/20201126/biz/00m/020/026000c といった文章にもよく表現されているのだが,この人物は大学・大学院の破壊に率先してきた自分の役割を,いまだに全然理解できていない。

 富山和彦は以前,得意げにこう述べていた。

  5〔8〕年あまり前,文部科学省の専門職大学の設置を検討する会議で,世界トップレベルをめざ指す研究や教育をおこなうG(グローバル)型大学と,地域社会で役に立つ実務的な教育をおこなうL(ローカル)型とにはっきり分けた方がいいと提言したら大炎上。

 主に社会人文系の先生方から「全大学人の敵」というありがたい呼称をいただいた。しかしその後も大学経営が改善する兆しはなく,世界のなかでの日本の大学の地位低下も止まらない。

 補注中の補注)専門職大学は現行の制度に「屋上屋を架す」だけの制度であり,その肥満化にしかなっていない。わざわざ冒さなくもよかった失敗作がこの専門職大学の制度設置であった。

 前段のように勝手ないいぶんを個人的に吐くのはけっこうであるが,それではどうして,自身の提唱がこれまで「狙っていたはずの創造性」を発揮できずに終始してきたのか? 一度でもいい本気に戻って再考したことはないのか?

 富山和彦は「自分の問題提起に関した事後の整理・反省」というものとは無縁に独自の主張だけを強説していた。「プラン⇒ドゥー⇒シィー」のマネジメント・サイクル「観」とだいぶ異次元の感性だけで,大学問題になるときわめて突飛に議論しまくっていた。

 つまり彼は,日本の大学・大学院を破壊するためであれば,この役割分担をよく果たしてきた「自分の立ち位置」に,なぜか,いまだにたいそう鈍感であった。この点には,この人物の教育問題に関する方向音痴性が潜伏していた。

 経済人や産業界からするつもりのコンサル事業だったのか,大学経営と企業経営の質的差異などまったく認識できていなかった,というか,しようともしなかったの冨山和彦のごとき人物は,日本の大学の風景をさらに荒涼にした実績に限ってならば,大いに存在価値があった。

 「本稿(3)」が議論している課題など,実は,まともに認識できていなかた人物が冨山和彦であった。吉見義明『「文系学部廃止」の衝撃』集英社,2015年は,冨山のごとき大学滅亡論を評して「文系が危ないのではなく,文化があぶないのだ」という鷲田清一の文句を,その本に巻いてある帯に「宣伝文句」として借りていた。

 この冨山和彦のごときに結局,「大学を滅亡へと導く論」を唱えていた発想,というよりは単なる思いつき程度のリクツだったゆえに,「日本の大学が危なかったのではく,冨山が危なかったのだ」としてしか,実は受けとめようがなかった。冨山はそもそも,大学のなんたるかについての歴史的な省察など,最初からこれぽっちも披瀝できていなかった。

 それでも冨山和彦は,「その後も大学経営が改善する兆しはなく,世界のなかでの日本の大学の地位低下も止まらない」と決めつけていたが,よくも自身の片腹を少しも痛く感じることもなしに,そのように大胆にいえたものである。教育哲学の片鱗させない人物に大学問題を論じさせ,実際に手を突っこませてところに,安倍晋三政権(当時)の失政・一場面が披瀝されていた。


 ※-1 田中圭太郎「『大学院進学』の減少が止まらないこれだけの理由 進学希望は多い一方アカハラや学費等の悩みも」『東洋経済 ONLINE』2023/06/29 5:40,https://toyokeizai.net/articles/-/679305 という記事

 この記事は「日本の研究力低下が指摘されて久しい。国が大学の研究力の強化に向けた事業をつぎつぎと打ち出す一方で,将来研究を担う存在である大学院生は減少傾向にある。とくに,修士課程から博士課程への進学率は,毎年1割程度しかない。研究力向上のために国は大学院を増設したものの,大学院生が増えるのかどうかは見通せていないのが現状だ」というふうに大学院に関する概況に触れ,つぎの項目を挙げて議論していた。

 大学院で学びたい学生は多い。--「修士課程から博士課程に進学する割合は10.3%。16.9%だった1994年度以降,長期的に減少傾向が続いており,近年は10%前後で推移している」

 これではもういいかげん,大学院に進んで進学しようと志望する若者層が減るのは,理の当然であった。社会人の大学院生が増加する傾向はむろん,歓迎すべき高等教育制度内の好ましい趨勢であるが,それでなくとも18歳人口の若者層が減少していくいまどきに,このように「夢も希望ももたせなくしていた」「大学院教育の実態」は,昨今における日本という国全体の衰弱現象とも深い関係があった。

 結局,冨田和彦はその体現者の代表的な1名であったが,いまどき,高等教育の理念を伴わない無償化措置は,非一流の私立大学や専門学校などを救済・延命させても,高等教育業界全体を劣化していく愚策にしかならない方途を,あらためて議論しておく必要があったのである。

 なかでも,高等教育段階に関した〈根幹の問題〉はすり抜けて,学生保護者の低年収に会わせて支給するという給付型奨学金制度の「無差別な適用」は,不要・無用である3流以下の,とくに私立大学をいたずらに存続させるだけであり,文教政策としては失敗を予感させた。実際,この失敗の方向でしか運営されないと予測できる。

 現在の岸田政権ももとより自身の教育理念に対する思いなどひとかけらもない。旧・安倍晋三政権〔時〕のとき人気とりのためだけに,いいかえれば,ひたすら破綻への道に拍車をかけるような文教政策を展開してきたが,現状にあっては,いまもなお混迷を深めているだけの日本の高等教育に未来への展望を抱くのは,そう簡単ではなくなった。

 

 ※-2「対象外の家庭は負担増に 大学無償化 “詐欺” が家庭を直撃」『日刊ゲンダイ』2019年5月14日 06:00,https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/253756

 1)事前の議論

 「本稿」の前編を書いた翌日〔ここでは2019年5月14日〕には,この『日刊ゲンダイ』の記事がネットで読める状態になっていた。安倍晋三政権が消費税上げ(8%から10%へ)に対応する措置の一環として打ち上げた「大学無償化」は,

 すでに国立大学である学生の保護者の年収に会わせた授業料の減免措置,そして日本学生支援機構の主な商品(売り物?)である「貸与型奨学金」の問題との突きあわせが不全のまま,

 すなわち,奨学金の支給をする場合に不可欠の前提条件であるべき「学業成績」が当初は考慮に入れられず,「年収のみの判断基準」が適用されるかたちでその運用が計画されていた。

 国立大学の場合,全国一律の給付型奨学金制度ではなく,大学ごとに独自の年収制限を設けてもいる「授業料の減免措置」が,以前から実施されていた。

 そもそも国立大学生に関してみるとき,島野清志『危ない大学・消える大学 2019年版』(この本の最終版は,エール出版,2018年7月)の分析枠組にしたがえば「私立大学が上位からSA~Nまでの10グループに格付けされる」のに対して,国立大学(公立大学も含めてだが)は上位から3番目(SAグループ⇒A1グループ⇒A2グループ)までにしか位置づけされていない。

 島野清志の定番分析(『危ない大学・消える大学 20XX年版』という書籍の発行はすでにおしまいになっていた)は,国立大学における学生授業料の減免措置を,ある程度は説明できる根拠を提供していた。

 しかし,私立大学で順位付けをしたら「SA~Nまでの10グループに格付けされる」にもかかわらず,学業成績の実力や真価はいっさい考慮に入れず,学生の保護者の経済状況(年収の低さ)に即してのみ基準を用意した,給付型奨学金を支給する制度が設計され,実施されようとしている。

 補注)島野清志の最近作は電子版限定で公刊されている。ここでは最新の版をアマゾンの通販によって紹介しておく。

 
 要するに,学業成績(たとえば大学1年生であれば高校段階の成績や入学試験時の順番などが参考にされるといった前提条件)は棚上げしたまま,給付型奨学金の対象者を保護者の年収の低さに即して決めて運用するというのは,奨学金制度の根幹にこめられているはずの奨学理念の「一方の配慮が完全に不在」になっている。

 それは簡潔にとらえていえば,単に年収の低い世帯・家庭に対して,子どもが大学に進学するのであれば生活保護的に,その年収の水準の低いなりにあわせて,従来からあった「授業料の減免」に相当する〔らしい〕金額を支給するという制度である。

 日本の大学でも私立で非一流(とくに3流・4流)の大学における,それはもう高等教育とはいえるはずもない「大学の授業・講義など」が展開(?)されている現場の問題などそっちのけにしたまま,安倍晋三〔旧〕政権は人気とりだけための支離滅裂な大学無償化(高等教育無償化)に手をかけた。

 それによって日本の大学はこの業界全体として,これからもさらにますます実質的に荒廃・破綻への道を進むほかない「高等教育段階における教育の品質保証」が,私大非一流大学においてはすでにほとんどマヒ化してきた ”これまでの実績” を,よりいっそう深刻化させる。

 2)『日刊ゲンダイ』記事「本文」の引用

 後半国会で先週末〔ここでは2019年5月10日のこと〕,いわゆる「大学無償化法」が成立した。来〔2020〕年4月から低所得世帯の子どもを対象に授業料減免と給付型奨学金支給が始まる予定だが,恩恵を受けるのはホンの一部。むしろ,サラリーマン家庭は負担増の可能性大なのだ。

  〈大学無償化詐欺だ〉
  〈大学以前に生計がなり立たないレベルの世帯じゃないか〉
  〈まず両親の給料が上がる社会をつくってやれ〉

 無償化とは名ばかりの新法成立を受け,ネット上にはこうした批判があふれている。つぎの図解は『朝日新聞』に掲載された記事から借りたものである。

ちびちびと修学援助

 支援策の内容は,夫婦と子ども2人(うち1人が大学生)の年収270万円未満の住民税非課税世帯の場合,

 国公立大は授業料年間54万円について一部の大学を除き全額免除,私大は最大70万円を減額。奨学金は国公立大自宅生で約35万円,私大下宿生は約91万円の支給だ。

 年収380万円未満であれば3分の1から3分の2の額の奨学金を受けられる。

  ★ 高校,大学卒に必要な費用は1人1000万円 ★

 一方,基準を超えると支援がまったく受けられなくなる。いま,減免を受けている学生は対象から外されるのだ。国会審議でこの点を突かれた柴山文科相は「対象とならない学生も生じうる」とモゴモゴ。

 「学びを継続する観点から,実態などを踏まえて配慮が必要か検討する」とお茶を濁したが,文科対策を担当する財務省の中島朗洋主計官は「新制度は支援を低所得層に重点化するもの。中間所得層の在学生の支援は,大学みずからの経営判断で続ければいい」とし,切り捨てた。

 補注)ここに前後する話題は「国立大学における学生授業料の減免措置」に関するものであったので,注意したい。この点に関してなにが問題なのかという疑問については,つぎの段落に説明が出てくる。

 国公立大はそれぞれ基準が異なるが,母親と自宅生の2人世帯の場合,東北大は世帯年収462万円以下で全額免除。お茶の水女子大や名古屋大,大阪大などは398万円以下が対象。私大には減免額の半分を国が補填する仕組があり,年収841万円以下の給与所得者世帯が対象だが,どうなるかは不透明だ。

 経済ジャーナリストの荻原博子氏はいう。

 「日本政策金融公庫の実態調査(2017年度)によると,高校入学から大学卒業まで必要な入在学費用は935.3万円。子ども2人家庭では2000万円の負担になる。減免対象から外される家庭には相当なダメージです」

 「にもかかわらず,安倍政権は “無償化” というフレーズを使って,希望する子どもはみな,タダで大学進学できるかのような幻想を振りまいている。選挙対策としか思えません。中途半端な支援策よりも,教育費そのものを下げるべきなのです」

荻原博子の指摘

 安倍首相が「大学無償化」をいい出したのは,モリカケ問題でふらふらになった揚げ句の「国難突破解散」だった。働き方改革で労働環境を悪化させ,実質的な移民法を入管法改正でゴマカす。デタラメ政治にはホトホトうんざりだ。(引用終り) 

 以上の記事に書かれた「話の筋」にはいささか不透明な点があるのだが,大学無償化を考える枠組が,こんどは国公立大学も含めて私立大学までその対象が拡大されるにさいし,既存の制度を適用されている国立大学の学生の場合は,かえって不利になる結果が実際に出るかもしれないと危惧されていて,実際にそうなっていた。

 補注)なお既存の制度に関しては,文部科学省の国立大学向けの関連する説明文書である「授業料免除選考基準の運用について」は,http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t20010328001/t20010328001.html を参照されたい。

 さきほど,島野清志『危ない大学・消える大学 2019年版』(最近版は,エール出版,2018年7月)をもちだして,国公立大学と私立大学〔でも非一流大学〕のあいだに厳然と伏在(顕在?)している「学生の学力差」の問題など,完全に粉砕させ隠蔽させてしまうのが,こんどの高等教育無償化の政策・措置である点が,この『日刊ゲンダイ』の報道でも心配されていた。

 「本稿」のこれまでの記述では,「島野清志の定番分析」にひとまず依拠した指摘として,こういってあった。 

 ▲-1 要するに,今回の高等教育無償化という文教政策は,Nグループ〔私立大学でも最低レベルで日本語の運用もままならぬ若者を抱えている3流・4流大学〕に属する大学の学生までも,平等に対象にしている。この点じたいが悪いとはいちがいにいえないものの,当該の政策を策定し,実施するための方法論があまりにも無定見であり,実質的に無方針であるように感じられるほど拙速かつ粗雑であった。

 ▲-2 全国共通で実施する高校卒業証明試験だとか大学入学資格試験だとかを,高卒者に課しておき,これに合格しない高卒者は大学を受験させない制度のない日本である。その試験の水準=難易度がどのくらいのところに置かれるにせよ,いまどき非一流私立大学になればなるほど,実態は,だいぶ昔から「無試験で全員が入学可能の体制」にまで逢着している。

 だから,そのあたりの大学キャンパスに遊弋している学生たち対しても,保護者の年収が少ないからといって,奨学金という名の生活保護的に「大学にいかせるための経費」を支給するのは,いったいなんのための「給付」奨学金なのか,その意味がまったく把握できなくなる。

 結局,今回(当時)における安倍晋三政権による国民の立場(生活経済の実情を逆手にとった)目先だけの高等教育無償化「政策・措置」は,日本の大学における教育と研究に関する実際的な水準を,さらに劣化・破綻させていくだけであって,積極的・創造的に貢献するところがあるなどとは,いっさい考えられない。

 つぎの※-3に引用する『日本経済新聞』2019年5月13日18面「教育」欄への寄稿,こちらでは,慶應義塾大学関係者「清家 篤」の寄稿が語っていたが,※-2までの議論の内容とは大きく齟齬をきたしている。にもかかわらず,寄稿主の清家がその点を本当に理解できているのか疑わせる中身になっていた。

 なかんずく,この種に語られる話題といったら,私立大学でも一部にしか,つまり超一流かせいぜい一流どころにしか当てはまらない。あえて事前に一言断わっておくと,非一流の私立大学にとってみれば,このような議論はもとより絵空事であった。

 

 ※-3 日本私立学校振興・共済事業団理事長 清家 篤稿「私立大の存在意義 理念実現へ財政的自立を」『日本経済新聞』2019年5月13日18年「教育」

 この寄稿のなかには,さらに〈中見出し〉としてかかげられていた文句があり,「教育の多様化に貢献 / 支援は長期視点で」となっていた。だが,現在における日本の大学のなかで,それも私立大学で定員割れをすでに10年以上も前から発生させている諸大学にとって,

 このように「私立大学の雄の1校である慶應義塾大学の関係者」が語る「日本の私立大学論」は,「私立大の存在意義 理念実現」などといったごとき「単なる高邁な話題」の次元でなされる場合は,どこまでも “非日常的な会話” にしか聞こえない。

 私立大学のサバイバル的な話題になると結局,一流大学次元における話題でしか本格的にはとりあげられておらず,あとは主に,一般に単行本で公刊される著作のなかで「そのほか大勢に相当する非一流大学の実情」が実話的にとりあげられてきた。

 こうした関連する事情を踏まえたうえで,以下における「清家 篤の主張」を聞く心構えも必要であった。いうなれば,とても一筋縄ではいかないような,いわば多様性(分裂性か?)に富む私立大学の「諸問題」は,以下につづく議論(記事の引用の範囲内)では包摂できるわけもなかった。

 --日本私立学校振興・共済事業団の清家 篤理事長(慶応義塾学事顧問,2019年当時)は,私立大学は財政的自立性を高めて建学理念の実現を果たすことに社会的存在意義があると指摘する。

 a) 私立大学はそれぞれ建学理念をもち,その建学理念を今日において実現するために教育,研究活動をおこなっている。個人や宗教団体などの抱く建学理念の実現であるから,その活動は基本的に私的なものである。私立であるということは字義のどおり「私」(わたくし)の事業ということだ。

 しかし同時に,教育や研究は社会的な意味ももっている。人材の育成は社会全体を豊かにする。研究による学問の進歩が社会全体に大きな利益をもたらすことはいうまでもない。その意味で,表にあるように,日本では大学数でも大学生数でも全体の4分の3を占める私立大学のもつ社会的役割もきわめて大きい。

 そしてもうひとつ,私立大学に特に期待される社会的役割がある。それは教育や研究に多様性をもたらすことだ。個々の大学は固有の建学理念をもち,それによって個性のある教育,研究をおこなっている。そのことゆえに教育,研究に大きな多様性が確保されるのである。

 補注)このあたりの問題に対する理解になると,ただちにある特殊な疑問も浮かぶ。個々の私立大学ごとに「固有の建学理念をもち」「個性のある教育,研究をおこなっている」ゆえ,「教育,研究に大きな多様性が確保される」といわれたところで,清家 篤の出身校である〔関東圏でいえば〕慶應義塾大学や早稲田大学水準の私立大学ならばまだしも,

 第1次ベビーブーム以降に設立されてきた諸大学(そのほとんどがいまでも非一流大学である地位しかもたない)においても,早慶と同じ次元で独自の建学理念があるとか,あるいは教育・研究における個性の発揮,多様性の確保ができているというのは,100%に近くという意味あいで,絶対にありえない現実である。

 第1次ベビーブーム以降に設立された私立大学のなかには,地方の小規模大学を中心にすでに定員割れを長期間きたしてきているが,学生の確保を「願書提出=合格通知」の要領を使い,努力してみたところで,まだ定員割れをしてきたそれらの大学に対して,「固有の建学理念」「個性のある教育,研究」「教育,研究に大きな多様性が確保」などといったセリフは,無縁かつ不要だとさえ感じる。

 10年以上も(15年近く)前からそういってもいい話題があったのだから,関東地方における早慶の「教育・研究」に関して想定できるような解説でもって,私立大学業界を全体を語れるなどと思いこんではいけない。

 以下につづく清家 篤の意見も,非一流大学の当事者たちにとってみれば,雲上人の語り口にしか聞こえない。とりわけ問題なのは,「清家たち側の世界」にいられる私大関係者たちの立場は,いまここで指摘(批判)されているごとき「私立大学業界全体図」を適当に念頭に置いているとは思えず,問題外になっていた。

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 b) 社会が健全であるためには,そのなかに多様な思想,価値観を内包していなければならない。このことは教育や研究の分野においてはなおさらだ。とくに今日のような大きな変化の時代には,社会の持続可能性を高めるために,変化に対応する選択肢をできるだけ多く確保しなければならず,その意味で教育や研究の多様性はきわめて重要だ。

 このような社会的意義ゆえに,もともとは私的な営みである私立大学にも公的財政支出がなされている。もし日本に私立大学がなければ高等教育の4分の3は消えてしまうし,教育,研究の場における多様性も大きく損なわれてしまうからだ。

 補注)この「4分の3」という高等教育に関する数値は,私立大学の数であるにせよ学生の数であるにせよ,明治以来における日本の文教政策が私立大学にも高等教育の相当部分を任せてきたなかで,ないがしろにしてきた特定の問題を示唆していた。

 つまり,その数値は,安あがりな方針を採ってきた日本の文教政策史が生んだ「ひとつの結論(惨状)」を正直に表現している。またそれとともに,ユニバーサル化した(高等教育段階への進学率は2017年度でいうと専門学校まで入れれば75%に達していた)現状のなかでは,

 その就学年数ばかりをいたずらに重ねて増やすばかりであっても,本当に「高等教育相当」だと観察できるような教育が施されているのかといった問い,換言するならばまさしく「本質面の教育効果」に関する評価については,なお深刻な問題が残されたままである。

大学といってもピンキリ

〔記事に戻る→〕 ただし公的財政支出は,私立大学のもつ社会的意義を減殺させかねない問題もはらんでいる。とくにそれが,特定の教育,研究をおこなうことを条件に支給される場合,教育,研究はひとつの方向に誘導される。結果として私立大学のおこなう教育,研究の多様性は低下してしまうことになる。

 社会は私立大学のもつ多様性から便益を受けており,これは公的財政支出をすることの理由のひとつでもあるはずだ。しかし公的財政支出が,特定の政策誘導をおこなうことで私立大学の多様性を減殺してしまうとすれば,社会の受ける利便も減殺されてしまう。

 補注)この議論を聞いていると国公立大学では「教育や研究に関する」「多様性」がないかのようにも聴こえるが,こういった次元での議論は「きわめて雑多で多様性に富んだ私立大学」という把握じたいが,実は「反面的な」一面観であるそしりを阻止できない。

 いままで(2019年以前まで)日本人学者でノーベル賞を獲得した研究者は,理系の受賞だけをみるが,物理学賞(「日本国籍」9名+「同関連外国籍」2名),化学賞(7+3名),生理学・医学賞(5+0名)のうち,旧帝大系の出身者は9割以上である。

 国立大学は確かに指摘されているような一様性をもたされている。だが,私立大学のほうもとくに非一流大学では定員割れもしていて,そもそも学力水準として,大学生というには全然およびでない若者たちを収容している現況のなかで,国立大学はこうであって,私立大学はこうであるとかいった議論には強い違和感を抱くほかない。それ以前の問題があった。

 とりわけ「早慶の水準」と「私大でも偏差値40前後以下の大学」をいっしょにくくる話などできない。このことを,まさか清家 篤がしらないわけではない思いたいが,実際の議論を聞いているとそうではない雰囲気が濃厚に伝わってくる。要注意である。

 慶應義塾大学の水準に関する議論の感覚でもって,地方のつぶれそうな3流・4流大学の経営問題(教育と研究)を論じることはできない。この事実は,とくに後者の大学群で教鞭をとっている教員たちの立場(日常的環境)からすれば,当たりまえに過ぎる〈事実〉であった。雲泥の差,もしくは月とすっぽん……。

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 c) 実は同様の問題は,国公立も含む大学全体の教育,研究への公的財政支出にもいえる。それは公的財政支出の短期志向化の問題だ。すぐに役立つ人材の教育,すぐに役立つ研究への重点的な配分という傾向である。教育や研究の社会的な便益の多くは,いますぐにではなく長期的に実現される部分が少なくない。

 大学の教育によって身に付く能力は,特定の仕事をする能力もあるが,より重要なのは自分の頭で考える能力だ。それは幅広い教養教育や,問題を発見し,仮説を作り,それを検証して結論を導くという学問全般の実践によってえられる。そのように自分の頭で考えることのできる人こそ,大きな変化の時代の社会を担っていける人だ。

 研究についても,その時々の社会の要請に応える研究だけが社会に役立つのではなく,むしろ歴史をひもといてみれば,その時にはなんの役に立つか分からない研究こそ将来の社会を豊かにしてきた。研究者の個人的好奇心に駆られた研究の成果が基礎研究を発展させ,それにもとづく応用研究によって社会は豊かになってきたのである。

 補注)ここで一言いわせてもらうとすれば,指摘されているような大学の社会貢献,それももちろん長期的な視点からこそ評定できるそれを生産できる私立大学は,非一流大学になればなるほど,激減する傾向(その否定できない実績!)があった。これは「大学教授」市場の仕組・実際とも関連する事情なので,いちがいに単純な議論はしかねるが,それでも一般論としては十分に妥当する観方である。

 前述でも若干関説があったのは,ついこのあいだ「文系学部不要論」が無見識・無教養にひとしい安倍晋三政権内の政治家たちの口から飛びでていた経緯についてであった。この問題とてまだ,国立大学や私立の一流大学どころに関する「話題」であった。

 ましてや,非一流大学の磁場でその文系学部,理系学部における高等教育をうんぬんしたりデンデンしたりしたところで,「はじめからあったものではない」といったほうが,「日本の大学業界」に対してはより正直な見解になるはずである。

 ところが,そのような「日本の大学事情」にはまったく無頓着であるかのように語られる「高等教育論」だとすれば,いかほどに現実味のある議論になるのかという基本的な疑問が湧いてくる。

 d) 教育や研究の長期的な効果が社会を豊かにするのだから,公的財政支出も短期的な成果ではなく長期的な視点でおこなわれるべきであり,納税者一般にそれを理解してもらうことは大切だ。しかしそれは必らずしもつねに保証されるものではない。この点で,財政基盤を基本的に公的財政支出に依存する国公立大学と比較して,私立大学は大きな優位性をもっている。

 それは基本的に建学理念を抱いて私立学校を創った創立者たちの拠出資産,その教育方針に賛成する学生(その家族)の授業料,その学校に学んで良かったと,まさに教育の長期的な効果を実感している卒業生からの寄付などによって維持,運営されているからである。

 補注)このあたりの意見も完全に “早慶の次元” 水準に留まる,限定されるほかない話題であった。現在,2023年度時点で793校もある日本の大学に関した平均的な話題にはなりえない。しかし,日本の大学を代表させる特定の話題としてならば,十分に通用する話題のとりあげ方であった。

 ところが,この「一流私大に代表させてみた話題」はどうみても,けっして「私大全体を平均させうる話題」になりえない。この点は,なにも清家 篤に関した指摘ではないものの,関係する議論をおこなう識者にあっては,共通して欠落する認識点になっていた。 

   ◆「日本には768大学があり,そのうち約8割が私立大学」◆

 2018年度(4月時点。以下も同じ)の日本の大学数は768大学。これはこの年(2018年)の4月入学者の学生募集をおこなった大学だ。日本の大学数というきわめて基本的な数値は,実はあまりしられていない。

 文部科学省の「学校基本調査」でも毎年みることができるが,これは日本に「存在する大学数」。つまり,募集停止をした大学や統合した大学でも,2~4年生が在籍しているなど,大学として残っているうちはカウントされる。大学院しかもたない大学院大学も含まれる。

 たとえば前〔2017〕年度でみてみると(本年度はまだ「学校基本調査」が発表されていないため),「学校基本調査=780大学」に対し,「学生募集をおこななった大学=764大学」となる。

 しばしば日本の高等教育の規模について議論がなされるが,その場合,この「学生募集をおこななっている大学」を日本の大学数とみるべきだろう。

 註記)「今月の視点-139日本の大学数は768大学私立大が約8割! 『2018年度日本の大学データ』」より」『旺文社教育情報センター』2018年7月,http://eic.obunsha.co.jp/resource/viewpoint-pdf/201807.pdf   

 e) もちろん,上述のような私立大学の社会的役割を考えれば,私立大学に対する公的財政支出が学生1人あたりで国立大学の13分の1という格差は極端であり,私立大学助成はもっと増やされてしかるべきだ。

 しかしそれはあくまで私立大学の自主財源を補うものである。教育や研究に多様性をもたらし,また長期的な教育,研究の成果をめざすという,大学に期待される社会的役割を果たすためにも,私立大学はその財政的自立性を高めることが重要である。

 補注)この段落での清家 篤の議論(要求・主張)も結局,「早慶水準」での話題であった。「大学に期待される社会的役割」というものは,すでに定員割れを起こしていて,しかもこちらの大学であれば,学生の学力水準は目も当てられない実際(渦中)でもあるなかでは,なんといっても夢物語みたいな話法であった。

 今後において倒産が不可避であり,現状ではその延命的な大学経営をなしうるに過ぎない私大の現況にとってみれば,「財政的自立性を高めること」や「大学に期待される社会的役割を果たすこと」よりも,当面の学校法人・大学経営を維持・存続させることが至上命題である。

 実際にそのような状況に置かれている「地方の小規模である私立大学」は,潜在的な数も含めていえば百校単位で存在している。

 少子高齢社会のなかで過疎化現象に直面しつつ苦しんでいる地方自治体のなかには,市中に立地する弱小私大を公立化する方法でもって,この大学と市じたいとの相乗効果的な存続を図っているところがいくつもあった。

 それでも,一般論として「こちらの大学群:地方の小規模弱小私大」は,今後においていったい,どのように廃絶・整理・統合されていくのか。そしてこの後において,私立大学がどのように「教育・研究」にたずさわっていくべきかなどの問題についていえば,清家 篤などがとりあげている議論では間に合わない。

〔記事に戻る→〕 建学理念を守り,長期的視野に立った教育,研究をするために,私立大学の財政的自立は必須の条件だ。福沢諭吉は「独立の気力なき者は必ず人に依頼す,人に依頼する者は必ず人を恐る,人を恐るゝ者は必ず人に諂(へつら)うものなり。常に人を恐れ,人に諂う者は次第にこれに慣れ,その面の皮,鉄の如くなりて,恥ずべきを恥じず,論ずべきを論ぜず,人をさえ見れば唯(ただ)腰を屈するのみ」(福沢諭吉『学問のすゝめ』第3編)と独立の大切さを明快に述べている。

 つね独立の気概をもち建学理念を実現することで,私立大学は社会に貢献していけるのである。(「清家 篤の引用」終わり)

 要するに,清家 篤は,私立大学でも一流どころの学校法人がかかえる問題(もっぱら法人財政と教育理念)を真剣に議論している。けれども,日本の私大全般を総括的にとりあげた議論になっていない(なりえない)。

 私立大学同士は「六大学野球の早慶戦」や「ラグビーの早稲田対明治の決勝戦」ではあるまいが,いわばおたがいにそのレベルにおいては競合企業的な立場にある。けれども,非一流大学の立場は清家の議論でいえば,ただに「蚊帳の外」。

 大学業界「全般」に関する話題として考えるさい,私大業界にあっては巨人の地位を誇れる早稲田大学や慶應義塾大学での「経営感覚を当てた方向性:問題意識」でもって,弱小私大も含めた議論が同じにできるわけがない。清家の議論は,自身の目には映らない「慶應義塾の大きなシッポ」を引きずっている,といっても誇大な表現にならない。

 なお, 清家 篤のその後は,日本赤十字社「役員人事に関するお知らせ」2022年6月24日が,つぎのように伝えていた。この任期は3年とのこと。

 日本赤十字社(本社:東京都港区)は,本日〔2022年〕6月24日開催の第100回代議員会において,社長大塚義治(おおつか・よしはる),副社長富田博樹(とみた・ひろき)の任期満了(6月30日付)に伴う新任役員の選考を行い,後任の社長として清家 篤(せいけ・あつし)氏を,副社長として鈴木俊彦(すずき・としひこ)氏を選出しましたので,お知らせいたします。

註記)https://www.jrc.or.jp/press/2022/0624_026749.html

日赤社長の任期は3年

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【参考になる記事】

  ☆-1「〈WEDGE REPORT〉経営難の私大に『名誉ある撤退』」を促せ 「2018年問題」に決断を迫られる私大」(『WEDGE Infinity 日本をもっと,考える』2018年5月15日,http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12641

 この記事は「地方の弱小私大が公立化する便法」でもって生き延びる戦略の今後をきびしく問うている。

  ☆-2 石渡嶺司「週刊東洋経済『危ない私大』記事・ランキングを徹底検証~不快感示す大学,東経記者は否定」『YAHOO! JAPAN ニュース』2018/2/28 14:36,https://news.yahoo.co.jp/byline/ishiwatarireiji/20180228-00082168/

 この記事は『週刊東洋経済』が,企業会計分析の方法をそのまま大学財政問題にあてはめて学校法人を経営診断する見地にまつわる錯綜を批判している。

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