元号考:その2
※-1 事前の断わり
「本稿:その2」の前編「元号考:その1」2024年2月13日のリンク先は,つぎの住所になっている。できればこちらをさきに読んでもらえると好都合である。
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/nf644b96422f8
この「本稿:その2」は主に,「元号制の本質問題から観る明治・大正から昭和・平成まで」という時代を眺望しつつ,元号とはいったい,いかなる日本政治史の問題であったかを検討してみる。
付記)冒頭の画像(の全像)は後段に登場するが,GHQ民政局課長・次長を歴任したチャールズ・ルイス・ケーディスの愛人であった鳥尾鶴代。
※-2 元号問題の本質
1950〔昭和25〕年夏,参議院文部委員会委員長の立場に就いていた田中耕太郎は,当時動きの出てきた西暦化採用に賛成する法案作成の準備を進めていた。
しかし,「第007回国会 文部委員会 第6号」(昭和25〔1950〕年2月21日午後1時58分開会)のひとつに上げられていた「元号に関する調査の件」にかかわる議事録の部分をみるに,田中は,この文部委員会の委員長である立場上,一委員としての発言をしていない。
この委員会の冒頭における委員長として発言した文句は,以下のようであった。
昭和25〔1950〕年当時,「元号廃止法案」が文部委員会で検討されたさい,参議院文部委員会の田中耕太郎委員長は,山本有三〔勇造〕委員とともに,昭和の元号廃止と西暦の採用を主張していた。この文部委員会に多くの参考人が登場し,その8割が元号廃止を主張したという。
註記)王 福順「日本の年号の一考察-平成の改元を中心に-」『修平人文社會學報』第9期,中華民國 96〔2007〕年9月,124頁。〔 〕内補足は筆者。
また,『東京新聞』同年2月12日「放射線」欄に寄稿した田中は,天皇制と元号を絡めて大胆に,つぎのように論じていた。これは,いまから振りかえってみても,ごく自然でまっとうな「元号廃止の意見」であり,忌憚なく元号の除去を訴えていた。もっとも,「天皇の治世」は,1950年の時点になっても,新憲法下においてなお続いていた事情も考慮して聞くべき意見である。
※-3 井上 清と田中耕太郎
井上 清『元号制-やめよう元号を-』明石書店,1989年は,先述に触れた「第007回国会 文部委員会 第6号」昭和25年2月21日における田中耕太郎の冒頭発言を,こう解釈していた。
元号制は,新憲法の精神からみて問題があるとか,日本が国際社会の一員となるべき立場から,紀年法は文明諸国共通の法(つまりいわゆる西暦)にしたがってはどうか,という問題があるなどというところには,委員長は元号制を廃止の方向で考えている,少なくとも調査の結果では,元号制の廃止・西暦の採用もありうると考えていた。
田中は熱烈な天皇崇拝者であるが,また熱心なカトリック信者であり,『世界法の理論』(岩波書店,1948年)という大著もある商法学者で,コスモポリタン的な一面もあった。その面が,田中委員長のそうした発言にはにじみ出ているように思われる。
註記)井上 清『元号制-やめよう元号を-』明石書店,1989年,75頁。
田中耕太郎は昭和25〔1950〕年3月1日に議員を辞職し,最高裁判所長官に就任していた。そのあとを襲って委員長になった山本勇造(有三)が,どのような采配ぶりをおこなったか,ここでは触れられない。
補注)ここでは関連して,以下のごとき論点にのみ触れておきたい。
ときの最高裁長官は田中耕太郎であった。田中はその意味では「天皇の股肱」として忠実に判断しつつ行動し,「アメリカのためになること」が即,日本国のためになるのであり,とりわけ天皇のためになると確信して,そのように行動したのである。
田中耕太郎の行動は,アメリカに対する敗戦国日本の属国根性がなせる業であった。 田中のその「国民裏切りの売国奴的な奴隷根性」,そのみごとなまでの「発揮ぶり」については,布川玲子・新原昭治編著『砂川事件と田中耕太郎最高裁長官-米解禁文章が明らかにした日本の司法-』日本評論社,2013年11月が,実証的に解明し,根本から批判している。本書の参照を勧めておきたい。
ただ,田中が「元号問題」に対して明示した姿勢は,カトリック・キリスト教徒の立場,法哲学者としての思想に拠っていたが,昭和天皇擁護論でもあった。その後において,この日本という国家がはまりこんでいった「対米追随路線」に対しても大きな影響を発揮していた。
ここでは,戦後日本で初の国際司法裁判所判事になってもいた田中耕太郎(1890~1974年)の「略歴」にあらためて触れおこう。
田中耕太郎は「桃李下成蹊」という揮毫を残している(「田中耕太郎(明治41年卒)」(福岡県立修猷館高等学校ホームページ)。
⇒ http://shuyu.fku.ed.jp/html/syoukai/rekishi/tanaka_kotaro.html) この住所も現在は削除。
この意味は,「徳ある者のもとには,なんら特別なことをせずとも,自然と人々が集まって服するということ」である。「桃や李(スモモ)は言葉を発することはないが,美しい花と美味しい実の魅力に惹かれて人びとが集まり,そのもとには自然と道ができることを譬えたことばであるという。
けだし,名言である。ただし「徳のある者をアメリカ」にみたて,「日本側の人びとの1人でもある田中耕太郎」がその道を自然と歩く姿を想像するがよい。田中耕太郎・恒藤 恭・向坂逸郎『現代随想全集 第27巻』創元社,昭和30年において,田中はこう述べていた。
「われわれは理念や理論の価値を決して低く評価してはならない。またわれわれの公私の生活が主義や主張において一貫していなければならぬことも疑いを容れない」
「しかし公式的な理念や理論をむやみに押しつけたり,それを見当ちがいの方向に適用したり,それによって現実生活の正しい要求に盲目的であったり,長年の伝統の中に存する合理的なものを無視したりするような傾向が,わが知識階級の中にないといえるであろうか」
註記)田中耕太郎・恒藤 恭・向坂逸郎『現代随想全集 第27巻』創元社,昭和30年,15頁。引用箇所の原文「記事」は『読売新聞』昭和27年8月28日夕刊に掲載。
ところで,ここではつぎのような疑念を提起しておかねばならない。
ところで,井上 清『元号制-やめよう元号を-』という本は関連して,こう述べていた。
1950年初めには,国会や学者のあいだでは元号廃止論が有力であり,田中耕太郎自身も口にし,筆に大いに廃止論を唱えていた。
しかしながら,敗戦後史のなかで若干生まれていた田中耕太郎も口していたごとき「元号廃止」をめぐって廃止に向かうかと思われた〈小さな時代の流れ〉は,昭和20年代〔1945年から1955年〕において敗戦国日本が置かれていたその〈大きなな時代の流れ〉のなかでは,川の流れに浮かぶ柳の一葉のごとき姿でしかありえなかった。
しかもその柳の葉で組まれた小舟に乗っていたはずの田中耕太郎自身が,いつの間にか下船していた事実は,その後におけるこの人物の真価がいかほどであったを如実に予告するに充分な基本的情報になっていた。
※-4 元号の由来
1) 中国から伝来の元号制
中国から伝来した《元号》制度は本来,支配王朝に対する服属関係を示す政治的意味を有し,その王朝の元号を使用する範囲は,支配の版図として認定されていた。日本における百数十に及ぶ年号は,そうした古い中国政治思想にもとづき,天皇の権威の妥当範囲を示してきた。
そこでは,新しい元号の制定は,基本的に,新しい天皇の存在を民衆に対して宣言する儀式としての性格をもっていた。そもそも「特定の年代に区切り,この期間を単位にして」名づける「称号である元号」は,「国民主権という憲法の基本原理」に抵触している。
註記)宮田光雄『日本の政治宗教-天皇制とヤスクニ-』朝日新聞社,1981年,19頁。
元号問題は本来「皇位継承問題」である。元号は帝王の時間支配の具であって,日本の天皇制のもとでは,そのような非日常的緊急の手続を要していた。
それゆえ,旧皇室典範第2章の「践祚即位」に関連しては,明治42〔1909〕年の,天皇の践祚即位礼・その他に関して規定した皇室令である『登極令』(皇室令第1号)が,「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ定ム」と規定していた。
したがって,天皇の存在するところでは,どこでも日常性が排除され,天皇制としての非日常的(擬似終末的)支配形態が演出された。日本のナショナリズムがファシズムとむすびつくのは,その本質的な由来であった。
また皇位継承は,天皇制のリバイバル(更新)であるから,元号の法制化はそのはしりともいえる。日本のナショナリズムにおける「収斂」が,誰に向かう収斂であったかは,もはや誰の目にも疑いえない。
「正義」とは,国家主権を超える原理である。「罪」とは,国家的利益の絶対化である。国家と日本国民は,その否定において,普遍的価値の前に立たしめられる。ナショナリズムは翻されねばならない。
註記)戸村政博編著『天皇制国家と神話-「靖国」,思索と戦い-』日本基督教団出版局,1982年,23-24頁,25頁。
大日本帝国憲法では「元号の規定」は,旧『皇室典範』第12条に明記されていた。日本国憲法下,1947〔昭和22〕年に現『皇室典範』が制定され,その条文が消失した。しかし,その後も国会・政府・裁判所の公的文書あるいは民間の新聞などでは,慣例的に元号による年号表記が用いられてきた。
1979〔昭和54〕年6月6日,国会で元号法が成立,同月12日に公布・施行された。なお「昭和」の元号は,この法律第1項の規定にもとづいて定められたものとされ(附則第2項),「平成」の元号は「元号を改める政令」(1989〔昭和64〕年政令第1号,〔昭和天皇が死んだ〕1989年1月7日公布・翌日施行)によって定められていた。
註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/元号法 参照。
かつては,天皇を絶対的中心としてまとまって行動し,敗戦によって「中心の喪失」の混乱も経験している。このことは,人間というものがいかに弱くて,何らかの「中心」をいつも欲しており,そのことによって重大な誤りを犯すことを示している。
「神」というような超越的存在ではなく,天皇,社長などという具体的人物を「中心」に据えることにより,人間は安心することができるが,それは大きい破綻につながる可能性をもっている。
註記)河合隼雄『日本文化のゆくえ』岩波書店,2013年,282-283頁。
2) 天皇・天皇制のための元号制
この国では,なにごとも天皇を中心に〔あたかも天動説のごとく〕回っていなければ,いつのまにか,天が裂け地が割れるような天変地異が起こるかのように,ひどく心配する者たちもいる。
それでは,天皇がいなければ大地震が起きないか,超大型台風が襲ってこないか,日食・月食が起きないか(?),20世紀後期のような好景気が日本経済に必らず戻ってくるか(!)などと問うてみればよいのである。
それらと天皇の存在とになんの関係もないことは,即座に理解できる。ただし,この理解に納得しない人たちもいる。それは,天皇・天皇制が「あること」の「偉大な効能・ご利益」を観念的に深く信じる一群である。
彼らは,自分たちの信心に和しない「日本社会内そのほかの諸集団」が「存在すること」を絶対に許せない,いわば『国体・皇室神道原理主義』とでも名づけたらよい “イズム” に,どっぷり漬かっている国家・皇室神道的な信者たちである。
この種の錯誤が生ぜざるをえない理由は,つぎのように説明できる。
まず,日本国憲法に保障されている「信教の自由」があるが,同時にまた,この憲法においては「象徴である天皇」とこの一族が,「大嘗祭を頂点とする神事:祭祀」を執りおこなっており,〈宮中祭祀:皇室神道にもとづく信仰生活〉を至上目的としながら,生きている。
こうして,民主的だと誇ってきたはずの現憲法のなかには,「日本国・民統合の象徴」であると規定された天皇が,もとより「政教分離」などそっちのけに,同居というよりは完全に割拠(不法に占拠)している。
『民主主義の基本理念』にとってみれば,まるで「獅子身中の虫のごとき」根本矛盾を抱えている一国憲法は,いったいなんのために作られたのか。そして,これを〔まるごと喜んでいたかどうかは分からぬが〕,そのまま受けいれてきた天皇家側の「裏」事情は,どういうものであったのか。この論点は本稿全体が議論している課題である。
※-5 元号問題再考-偽りの歴史理解-
1) 明治以来の経過事情
前述に関説があったが,近代日本において元号が正式に使用されたのは,1889〔明治22〕年2月11日,大日本帝国憲法と同時に制定された『皇室典範』(旧法)においてである。第2章「踐祚即位」の第12条「踐祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」がそれであった。
1909〔明治42〕年2月11日に公布された『登極令』(皇室令第1号)は,
第2条「天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム」「元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス」,
第3条「元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布ス」
と規定し,天皇の代替わり儀式のなかで,践祚の直後に改元をおこなうと明記している。
敗戦後,占領軍の民主化政策のもと,元号の法制化は承認されず,1946〔昭和21〕年の元号法案は立ち消えとなった。1947〔昭和22〕年をもって旧『皇室典範』と『皇室令』は廃止となった。
だが,1970年代になると自民党が元号小委員会を設け,1976〔昭和51〕年の昭和「天皇在位50年式典」を経て,1977〔昭和52〕年の「元号法制化要求中央国民大会」を契機とする推進派による,地方議会での決議が相次いだ。
1979〔昭和54〕年には,「元号は,政令で定める」「元号は,皇位の継承があった場合に限り改める」を本則とする元号法が定められた。
1989〔昭和64:平成1〕年に皇位継承のあった1月7日,昭和は平成と改元され,翌日8日施行された。
註記)原 武史・吉田 裕編『天皇・皇室辞典』岩波書店,2005年,91-92頁。
「一世一元」の元号はこのように,近代日本における産物であった。また,敗戦した大日本帝国の敗軍の将(元・大元帥)のための元号としても,つまり,現代日本においても使用される「象徴天皇用の〈暦の区切り〉」として使用されてきた。
なかんずく「一世一元」の元号,これにもとづいて改元する「天皇のための暦」は,もともと明治時代の創作物であり,けっして古代から継承されてきた固有の制度ではなかった。
日本において最初の元号は,「大化」(645年)とされ,その後しばらく断続的であったが,「大宝」(701年)と改元されてから,今日まで千3百年あまり連続してきた。ただし,明治以前は天皇1代になんども元号をあらためることがあって,「1号」あたりに平均すると「5年あまり」の期間になっていた。
また,幕府の力が強かった江戸時代は,京都の朝廷から原案が送られると,これを幕府がさきに審議したのちその結論を京都に報告し,朝廷側でもこれを追認する審議してから,天皇が勅定するかたちを採っていた。それが明治の皇室典範により,枢密院で審議して天皇が勅定することになり,江戸時代以前のやり方に戻った。
註記)皇室事典編集委員会監修『知っておきたい日本の皇室』角川書店,平成21年,70-71頁。
2) 「一世一元」という新方式
明治維新後の近代社会に対しても,わざわざ置くことにした元号制であった。しかも,その時代錯誤の暦観は,新しく「一世一元」の方式に,意図して定められていた。特定の天皇が死ぬときにまで,皇位の期間を合わせたとなれば,なおさらのこと,その個人的な性格は強まざるをえない。
敗戦後,GHQは「元号法案は天皇の権威を認めることになるので,占領軍としては好ましくない。日本が元号を制定したければ,独立後に立法化すればよい」と,GHQ民政局課長・次長を歴任したチャールズ・ルイス・ケーディス(Charles Louis Kades)が応えていた。
〔本文に戻る→〕 この発言(「独立後に」)を自民党は忘れておらず,「元号法」を復活させていた(上地龍典『元号問題』教育社,1979年,74頁)。
元号法の施行は,日本国憲法内に規定されている「象徴天皇の地位(権威)」を高める効果を発揮させた。その結果,第1条から第8条に規定のある天皇条項にかけられた〈タガ〉が,大幅に弛緩させられる状況をもたらした。
上地龍典『元号問題』教育社,1979年は,敗戦後,GHQ民生局の担当官が「西暦を強制することは,宗教の自由に反することだ」という意見を述べていた事実を,日本側の記録にもとづいて論及している(同書,75頁)。
そうだとすれば,それとまったく同じ論理で,敗戦後の日本が「元号法」を復活させた事実は,日本国民に対しても「元号を強制する=法制化する」行為,すなわち,皇室流「時間観念の宗教的な押しつけ」を意味した。
これはいうまでもなく,〈政教分離〉の次元において指摘されねばならない,かつては「国家神道=皇室神道」であった「大日本帝国時代の宗教体制」に関して,固有に発生せざるをえない問題点を意味していた。
※-6「日本は神の国」になったというふうに「明治時代から狂信されだした『神がかり』的な時代精神・観念の転倒性」
1) 神がかり的な元号理解「論」
「日本は神の国」であるといったところで,民間神道における習俗的な信仰心に留まる話であるかぎり,天皇・天皇制の政治空間における元号に関した法制化の問題は,出てくる余地などなかった。
あるいは,天皇が古代・中世のように,それこそ〈験担ぎ〉を狙い,改元を頻繁に繰り返す勝手しだいなのであれば,とりたてて深刻な問題は起こりえなかった。
だが,近・現代社会において天皇の元号の問題を,即,国民・国家運営そのものの時間的な区分の基準にまでもちあげて使うために法制化したとなれば,話の性格は根源より異なってくる。
元号に固有の歴史的な特性がなんであったか,的確に認識しておかねばならない。
明治中期以来,また敗戦後にも,無理やり復活(!?)させられた「元号のうちの〈一世一元〉制」は,実は,朝廷内の歴史的伝統からはみ出た,つまり「まったく異質・新規になる元号制の創造」であった。
いうなれば,それもまた「明治に創られた天皇制」の産物のひとつに過ぎず,古来からの伝統そのものとは異相の制度であった。
前掲,上地龍典『元号問題』は,元号について「事実たる慣習」の問題であったと指摘している。けれども,歴史に刻まれてきた元号の記録:歴史を無視した,つまり,明治以降しか念頭に置かない「元号の議論」であり,まさに近現代史にのみ閉ざされた展望にだけ依った「視野狭窄の主張」でしかなかった。
だから,「『昭和』元号は」「未曾有の最長記録樹立だけでも元号史上で重要な意義をもっている」(上地『元号問題』86-87頁)と解釈したところで,これは単に,この元号法制化が現代史的に結果させた新現象のひとつでしかない。この事実を,針小棒大に強調する非〈歴史的に逆立ちした解釈〉は,思いつきの域を出ていない。
2) 長生きした昭和天皇の「昭和の時代」
くわえていえば,現代日本人の平均寿命が伸びてきた結果にも原因するその効果(結果):「昭和元号の最長記録」でもあったことを考慮すれば,これじたいに「元号史上で重要な意義をもっている」点を認ようとする解釈は,その根拠からして「主観的な決めつけに囚われた,思いこみのはげしい,恣意の発想」であることを露呈させてもいる。
繰り返すが,昭和天皇が長生きしたという事実を手がかりに,それも無理やりに「元号市場で重要な意義をもっている」とまで発言したのは,あまりにも岩田引水の解釈が過ぎていて説得力がなかった。きびしくいえば,ともかく昭和天皇はすごかったと「解釈してみたかった説」でしかありえず,単にひどく稚拙な意見であったことになる。
そもそも,〈古代からあった元号〉と〈昭和の元号〉を比較しながら,その最長年月記録の樹立をうんぬんするのは,スポーツ競技において今昔の記録を比較する話題でもあるまいに,無意味に等しい議論である。
したがって,「元号が “一世一元” とされたのは明治以降だが,『昭和時代』の長さは,当分破られそうにもない」といった」予想(高橋 紘編『昭和天皇発言録』小学館,1989年,229頁)をしたところで,これにもまた,特別の意味がみいだせるとは思えない。高橋は皇室事情にたいそうくわしい新聞記者であったが,ヤマト民族に特有である「自慰・快感」的な解釈を遊泳している。
そこまでいうのであれば,太古の時代における想像上の天皇各代においてその「在位期間の長期性」なども比較考量の素材としてする議論も必要になるかもしれない。ただし,ここまで議論の視野を広げると,話はもう完全に絞まりがなくなるので,大の付く昔話には立ち入らない。
上地龍典『元号問題』はまた,第2次大戦後における元号法制化について自民党側がとなえた点に関連させては,こうも主張していた。
「元号は,民族としての誇りと,自覚の象徴として,国民感情に深く浸透しており,まさしく, “民族共通の遺産” という性格を備えている」
「国民の文化遺産としての元号の歴史的意義を尊重し,限りなく続く時の流れに,節をつけ時を表示する元号に,法的裏付けを与えることが必要である」
これらの発言は要するに,「《天皇中心主義》の歴史観」である。
いまさらのように,「君主主権」の時代錯誤を地でいくつもりでいられるのか。
臆面もなく,まさか天皇主義による「本質面で観れば」とでもいいたかったのか? それでなお,前近代的な〈時間支配観〉の「現象的・表層的な理解」を披瀝してはばからないでいられるのか?
その種のはなはだしく浅薄な歴史観を漂わせていた「元号〈観〉」はいつも,国家全体主義の考え方から疎漏する「日本神国論」と同衾する仲にあった。
元号はなかんずく,普遍的思想を欠落させた「天皇至上主義の政治思想」を端的に反映している。
元号は,明治時代の帝国主義的な統治特性である「非民主主義・反自由主義の政治観念」を,《時間の次元》において正直に表象させている。
しかもこの元号は,大日本帝国が〈敗北を憂き目〉をみたあとの時代になっても,大手を振ってまかり通り,しかも一国内に跼蹐した価値観から脱却できないでいる。
そうだとなれば,その《古代遺物的な負の特性》がいまさらのように指摘され,きびしい批判を受けねばならない。
※-7 元号問題再考-改元の歴史-
1) 民族共通の遺産が元号制か?
明治以来の元号法制が,けっして「 “民族共通の遺産” という性格を備えて」いなかった。この事実は,以下のような元号「本来のあり方:歴史的な伝統」に照らしてみれば,一目瞭然である。
明治維新を境にして,改元に関する「これらの分類」が大幅に改変され,それも限定を受けていた。元号を改元する事由は本来,その「理由を基準として」主に,つぎのように分類されていた。
イ)「代始改元」……君主交代による改元。
ロ)「祥瑞改元」……吉事を理由とする改元。
ハ)「災異改元」……凶事に遭ってその影響を断ち切るための改元。
ニ)「革年改元」……三革--革令(甲子の年),革運(戊辰の年),革命(辛酉の年)を区切りとみなし,おこなわれる改元。
さらに,改元するにあたり,新元号の始点をどこに置くかが問題となるが,このときは,つぎのように分類される。
ホ)「立年改元」……改元が布告された時点で,布告された年の元日に遡って新元号の元年とみなす場合。
ヘ)「即日改元」……改元が布告された日からあとを(布告された日の始まりに遡って)新元号の元年とする場合。
ト)「翌日改元」……布告の翌日からあとを新元号の元年とする場合。
チ)「踰年改元,越年改元」……布告の年の末日までを旧元号とし,翌年の元日から新元号を用いる場合。
だが,明治以来は,イ)「代始改元」と ホ)「翌日改元」との組みあわせになる改元の方法に限定したのである。いうなれば,改元のやり方に明治維新が介入し,改元の歴史に変更をくわえた。大日本帝国の敗戦までは,そうなっていた。
1926〔大正15〕年12月25日に大正天皇が死亡すると,同日以後をあらためて「昭和元年」とする旨の改元の詔書が発せられていた。
また,敗戦後の日本においては,1989〔昭和64〕年1月7日に昭和天皇が死亡すると,皇太子明仁が天皇が即位するが,元号法にもとづき,同年1月8日に〈平成への改元〉がなされていた。後者は,敗戦後に制定された元号法にしたがい,改元された最初の元号であった。
2) 元号制にみる断絶-江戸時代と明治時代-
明治以来の元号制度は,江戸時代までの改元関係の特徴・慣習の大部分を無視し,「一世一元」という狭隘な規定のなかにそれを閉じこめた。明治大帝という天皇睦仁に対する尊称も,この一世一元の制度に則してこそ成立させえた「称賛のための偉大な美称」であった。
今日流の「元号概念」はせいぜい「1世紀半ほど」の歴史しかなく,あくまでも,明治以降に「創られた元号に関する “民族共通の遺産” 」である。それをあえて,元号というものが,国民に対して,古代からの「民族としての誇り」「自覚の象徴」「国民感情」であると教化する意味は,いったいなんであるのか?
それは,古代史からの永い歴史の継続のなかには存在したことのなかった〈近代国民国家的な虚偽イデオロギー〉を,帝国のなかに浸透させようとした明治政府が「新たに創造した〈近封建遺制の概念装置〉」の,21世紀的な強要であり,その時代錯誤を意味する。
発想を逆流させて再考してみればよいのである。それほどまで,「民族としての誇り」「自覚の象徴」「国民感情」として定着してきた元号であったならば,わざわざ法制化する必要などないはずだと反論できる。いいかえれば,法律で定めることなどもなく,自然に国民のあいだにも浸透・普及してきたのが元号だとすれば,これを強制するかのように法制化する余地は,もともとなかったのである。
そもそも,天皇に固有の暦観でしかない元号を,あえて法律で定めてきた「大日本帝国から日本国への伝統」は,この元号がもとから有していた諸特徴--前掲した改元の諸事由,ロ),ハ),ニ),ホ),ヘ),チ) など--はいっさい切り捨てていた。
それでいながら,こんどは,偽りの臭いの強い「民族としての誇り」「自覚の象徴」「国民感情」などと抱きあわせの要領で,「一世一元」の元号制を使いはじめ,しかも一方的に国民に対して押しつけてきた。これはまた,「明治維新」と謳ってはいたものの,陳腐きわまりない似非古質の「帝国臣民」側に対する強制的な刷りこみでしかありえなかった。
そのような策術の方途によって演出させられた〈国民との関係性〉の深淵においてこそ,元号を法制化しようとする国家の意志:真意,換言すれば「誰がなんのために」という核心は,正直にその姿を現出させえたことになる。
密教だとか顕教だとかの「密議的な教義の含意」そのものが,近代国家として発足したはずの明治時代の大日本帝国のなかであっても,国家護教のためであったにせよ神道的な「倫理・道徳観」となって使い分けられねばならなかった,その具体的な政治経済面における「富国強兵・殖産興業」路線のもろさは,この伏線のさきには結局「敗戦」がぶら下がっていたという「歴史の必然的な経緯」の到来によって,とうとう運命的に爆裂させられた。
上地『元号問題』に戻っていうと,さらに「法制化といっても,戦前のような天皇制復活とは無関係だ,現在使用中の元号に法的根拠を与え筋を通そうということだ」という「自民党側の主張」を,同書は再度紹介していた。
しかし,敗戦後における元号の法制化は,「戦後における天皇制の再生・復活・強化」に合致させたその復活になっており,「国民の上位」に「天皇・天皇制を配置させる関係」性を,当然視する歴史観に立脚していた。
「国民と同等の位置」に天皇家・皇族たちが存在するなどと考える日本人は,おそらく1人もいない。日本国憲法が天皇を国や民を統合する象徴に位置づけている点に関して考える場合でも,天皇が国民たちと完全に水平線上に立っているなどと認める日本人など,誰1人いない。
だから,水平社という被差別部落出身者たちが結成した組織が登場していたのではなかったか?
全国水平社は1922年3月,日本で2番目に結成された全国規模の融和団体であり,第2次世界大戦以前の日本の部落解放運動団体であった。略称は全水もしくは単に水平社と呼び,第2次世界大戦後に発足した部落解放全国委員会および部落解放同盟の前身である。
水平社は要するに,いわゆる被差別部落の人々が差別と貧困からの解放を求めて結成した自主的大衆的な部落解放運動の全国的な団体であった。21世紀の現段階においてもなお,被差別部落地域に出自を有する人びとに対する差別・偏見が皆無だとは,とてもいえない現状にある。
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この「本稿:その2」の初出は2015年8月25日。
「本稿:その3(後編)」はこちら( ↓ )
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/nc251f656f7c1
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