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明治謹製,「伊勢神宮と靖国神社」⇒「生き神と死に神」の組み合わせで創設された天皇・天皇制のための国家神道

 ※-1 伊勢神宮と靖国神社は「明治維新」を境に「天皇・天皇制のために創設・装飾されてきた「生き神と死に神」のための神社としての役割分担をもたされた

 だが,旧大日本帝国の侵略・拡大路線のための両神社の御用であったがゆえ,21世紀の現在にはにつかわしくない,つまり一般の神道宗派とは異質の「皇室用の国家的性格」を有する神宮神社に祭りあげられている。

 さきに本記述の要点を挙げて起きたい。

 要点:1 政治家が公人として,靖国神社を参拝することはまずいが,伊勢神宮参拝はいいのか

 要点:2 伊勢神宮は天皇家のものか,それとも日本民族のためのものか,誰がそのように勝手に「皇室の占有するかのごとき神宮」に変質させたのか

 要点:3 靖國神社にしても,伊勢神宮にしても敗戦前,とくに戦時体制期に果たした国家宗教的な督戦の好戦性を核心とし,国民(臣民)たちを帝国主義路線に乗せて走らせるための督励用・宗教施設であった基本性格が,いまだに根本から反省もされずに,日本国憲法の第1条から第8条まで「天皇条項」を置く法体系とともに残存している。

 21世紀の民主政のための憲法としては,まさに別の意味で,改憲を必要不可欠とするのが,日本国憲法であった。

 要点:4 大日本帝国憲法を復活を希求する「ヘンテコリンな発想」が絶えないでいるこの国の現状にあり,2023年のいまとなってみれば,世界のなかでは先進国落ちをしはじめた。いわば「経済3流・政治4流」の淵に片足を完全に取られているこの国の状況が,より顕著になっている。
 

 ※-2 大日本帝国憲法は1889〔明治22〕年2月11日に公布され,1890〔明治23〕年11月29日に施行された。 略して「帝国憲法」「明治憲法」「旧憲法」とも呼ばれる「東アジア初の近代憲法」であった

 a) 敗戦を機に新しく制定・公布・施行された日本国憲法は,2023年のいままで長い期間,一度も改正されることはなかった。だが,実質的には満身創痍であり息も絶え絶え状態に追いこまれた憲法になっているが,それでもこの「GHQから押しつけられた憲法」は最初のかたちのまま,使われてきた。

 そもそも大日本帝国憲法のほうは,1945年の敗戦に出会い,その封建遺制丸出しであった「アニミズムやシャーマニズム」的な「大昔・古代風の復活路線的な基本性格」を否定されていた。しかし,いまだに,新憲法であった日本国憲法の冒頭には,大王の存在⇒天皇の地位からウンヌンしだす条項が置かれている。となれば,この憲法も分かりやすくいえばまた,「アニミズムやシャーマニズム」から分離しえたとはいえ,まだまだトンデモ系の憲法であった。

        「アニミズムとシャーマニズム」

 ▽-1 「アニミズム」とは,ラテン語で「霊魂」を意味するアニマ anima から 作られた用語であり,人間,動植物,無生物などすべてのものに霊魂が認められると仮定された信仰体系の一形態。 霊魂はこれらのものに宿り,それを生かしその原動力にもなるが,一時的あるいは永久にそれらの事物から離れることもあると想定される。

 ▽-2 「シャーマニズム」とは,神がかりする能力をも持つシャーマンを中心とした原始的な宗教体系。 特別な能力を持つシャーマン(呪術者)を通じて神々とつながっていると考える原始宗教のひとつの形態で,アニミズムから発展したものと考えられる。シャーマンは多くは女性で,日本でいえば巫女にあたる。

アニミズムとシャーマニズム

 それでも,明治憲法はよかった,すばらしかったと具合に,誤解する以前に,そのはげしい思いこみにはまっていた,それもこの21世紀に生きる政治家(むろん,頑迷固陋の彼ら・彼女ら)たちは,2世紀前に作られたその憲法が「鰯の頭も信心からの」要領で確信できている。この様子は,お目出度さも絶好調だと観察されるほかあるまい。要はカリカチュア。

 本記述に多分深く関連する最新作をここで紹介しておきたい。「愛国と神話」⇒「愛国」×「神話」=「!?」という,戦前に関した(もしかしたら現在までも通じる)解説は,たとえばこの本が参考になる。

 b) つぎに,大日本帝国憲法の「憲法発布勅語」をとくに引用してみるが,どだい,こうした発想じたいが敗戦という事実によって,完膚なきまでに破砕されていたはずであった。だが,なぜか,この旧憲法の発想はすばらしかったのだと信じられている向きも,なお残っている。

 「政教分離の原則」以前の問題を搬入させるほかない,前段のごときアニミズムとシャーマニズムを混濁させた前近代的(もしかしたら古代史的な)政治観念の介在を教える「大日本帝国憲法」の,ある意味でオカルト的な基本性格は,伊藤博文などが苦心のすえ,19世紀における米欧先進国の圧倒的な勢力に対抗するために考案されたものだけに,21世紀になっても「それはまだいいものだ」などと「錯覚的に郷愁できる感傷的な気分」は,憲法がどうだこうだと議論する以前に,元来,害悪思考以外のなにものでもない。

 さて,前段に触れた明治憲法のその「憲法発布勅語」を引用する。なお,引用にはあえて読点や改行を入れて読みやすくしておく。

 朕,国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ,朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ,現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス

 惟フニ,我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ,我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ

 此レ,我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ,国ヲ愛シ公ニ殉ヒ,以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ

 朕,我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ,其ノ朕カ意ヲ奉体シ,朕カ事ヲ奨順シ,相与ニ和衷協同シ,益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ,祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ,此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ

大日本帝国憲法「憲法発布勅語」

「朕」とは天皇の自称であるが,このようにチン,チンと自分を称する天皇が,いわば「朕カ祖宗」(天皇家の祖先:系譜から)の見解として,「国ヲ愛シ公ニ殉ヒ」ることをとりわけ強調しつつ,「我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシム」と託宣していた。つまり,帝国の臣民たちに向かい「朕カ」語りかけているというよりは,実質命じる文言になっていた。

 c) だが,その「祖宗ノ遺業」をめぐっては,つぎのように明治以降の事実史として描いてみたい。

 大日本帝国が本格的な戦争として大勝ちができたのが,日清戦争であった。その戦争を皮切りに日帝は,つぎは辛勝にすぎなかった日露戦争(いまのウクライナ戦争にいくらかは似ていて,英米からの遠回しだが確実な支援が日本に対してあった)を経て,

 あとは,第1次大戦は主戦場にならなかったアジア地域における戦況推移のゆえ,漁夫の利をえた。しかし,第2次大戦となると,とうとう自爆行為に等しい戦争過程にはまりこむ始末になってしまい,それこそ特攻精神までもちだして戦争を無理やり継続していったからには,結局「完全に敗北するうきめ」に遭わされていた。

 というしだいであったから,明治憲法を制定するさい前提にしていたはずの,その「我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシム」という目的は,どうみても大破綻していた。

 それでもまだまだ,大日本帝国憲法は素晴らしいなどと悪酔い的に信じられる政治家がいくらでも存在するのが,この国の政治事情である。「過去の遺物」のなかに盤踞していたあの「朕の皇宗」性が,いまだに大いに評価される「後進国家的な精神構造」となって,「わが国の政治屋たち」の脳細胞の働きを支配している。現状のとおりに明らかな「日本政治の後進性」の実体は,尋常ならざる程度まで政治社会のなかに実在している。

 d) 昨今における日本の政治・経済の状態は,経済学者の金子 勝にいわせると,つぎのように形容されている。『日刊ゲンダイ』2023/05/23 17:00 に金子が寄稿した記事「末期的バブルの後に待ち受ける破局…物価高で生活が苦しいのに株価上昇の異常事態」https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/323394 は,現状日本の惨状に近い苦境を説明している。

 すなわち,「末期的バブルの後に待ち受ける破局」は,「物価高で生活が苦しいのに株価上昇の異常事態」になっている。植田和男日銀総裁がアベノミクス(アホノミクス)の金融緩和を継承した結果,「経済衰退なのに,円安と株価や不動産上昇が起きている」現況は,海外投資家が買いあさって売り抜く行動の正直な反映であり,この国にとってみれば滅びの兆候だ,というのである。

 「失われた10年」がまさかその第4周目に入っていると実証させるごときに,最近日本の経済動向が現象しており,しかも,いっこうに改善する展望がもてないままである。

【参考記事】-インフレが進みつつあるなか,労働者階級(階層)はいよいよ苦しくなるばかりで,しかもこの記事の話題は,一部の恵まれた労働者・サラリー生活者たちに限定される。非正規雇用者の立場にとっては,渡れぬ対岸側にのみ存在する「夢(?)物語」-

実質賃金は低調のまま,またもやマイナス実質賃金
その下落傾向に名目賃金の上昇が追いつかない
この10年間におけるこの低調ぶりであるから
日本の労働経済の脆弱性はあらわ
あと20年経過したらこの国は完全に
「途上国」になると断言されてもいる

 話を明治憲法の「我カ帝国ノ光栄・・・」に戻す。

 敗戦によって政治も経済も完膚なきまでに損壊させられる顛末を呼びこんだ大日本帝国憲法の基本精神が,現状のごとき「ジャパン アズ No.1」からはまったく縁遠くなった経済的状態と突きあわせられることができれば,この国が再度「奈落の底」に落ちこみつつある現実から目を背けることはできまい。
 

 ※-3 明治以来の戦争で死んだ帝国臣民たちの「死霊」(霊性)だけは靖國神社にできるかぎり回収してきたつもりだが,その「遺骨」(物性)はいまだに収集しきれていない

 a) 最初に『社会実情データ図録』に載っているつぎの3つの図表を紹介してみたい。

15年戦争の犠牲者
戦時体制期(1937年以降)急激に増加した死霊の合祀

遺骨未帰還の割合は約47%もある

 以上3点の図表から指摘できる事実は,いまだに戦争にさまよう死霊が靖國神社に一部の例外を除いて,すべて回収されている仮象をとってはいるけれども,その兵士たちの遺骨がまだ収集されていない「比率」は,112万4000人にもなっていて,その47%を占めている。

 靖國神社が戦争で命を落とした死者の霊性を完全にご都合主義で利用している事実は,否定のしようがないほど明瞭であった。厚生〔労働〕省を足場にして旧軍の将兵の「死霊」はいくらでも収集できていた。ところが,彼らの遺骨の収集になると「そうは問屋が卸さない」現実,難問が介在することは,周知のとおりである。

 さて,関連して有名な本があった。藤原 彰『餓死した英霊たち』(青木書店,2001年,ちくま学芸文庫,2018年)であるが,この本を解説した文章から一部分紹介したい。

 みずからも中国戦線に従軍し,その体験から歴史学を志した著者。日本兵の大量餓死の実態を告発する本書の根底には,著者自身の深い怒りが秘められています。その思いに,私たちはどう向き合うのか。本書からなにを汲みとるべきなのか。

 本書の目的は,著者藤原 彰いうところのアジア太平洋戦争,別の呼び方をすれば1937(昭和12)年に始まった日中戦争,1941年にはじまって45年まで続いた太平洋戦争の日本側戦死者230万人のうち,実に140万人の死因が文字通りの餓死と,栄養失調による戦病死,いわば広義の餓死の合数であったことを明らかにすることである。

 2001年の刊行時,この数字は衝撃をもって社会に受けとめられた。そして今日に至るまで,先の戦争の惨禍を語るさいにはよく引用されている。

 藤原の主張の力点は,そのような悲惨な事態がけっして一時の局所的なものではなく,中国戦線を含むアジア・太平洋全体で恒常的にみられたこと,その責任は挙げて日本軍の強引な作戦指導,兵士の人権を認めず降伏を禁止した非人間性にあったということに置かれている。

〔本書〕『餓死した英霊たち』にも部分的に出てくる話ではあるが,中国における藤原の所属部隊・支那駐屯歩兵第三聯隊が1944年4月から敗戦帰国までに出した死没者1647名のうち,戦病死は1038名,じつに約63%にものぼっている。藤原の率いる第三中隊は戦死36名,戦傷死6名,戦病死35名(全体の45%)であった。

 日本軍とその戦争を擁護ないしは弁護するためではない。多くの人びとが飢えて死んでいったという過去のあまりに辛い事実について,「なぜこうなったのか」という歴史的,構造的な視点に立って考えることが後世の人間の務めではないか,といいたいのである。この点でも,本書は戦争史に関心をもつ者が必ら読むべき文献の一つである。

 註記)一ノ瀬俊也「解説 藤原彰『餓死した英霊たち』」『ちくまweb』2018年7月23日 更新,https://www.webchikuma.jp/articles/-/1425 から。

一ノ瀬俊也「解説 藤原彰『餓死した英霊たち』」


 以上の引用に対して再び,大日本帝国憲法「憲法発布勅語」から引用してみた「最後の一句」を並べておく。

 朕,我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ,其ノ朕カ意ヲ奉体シ,朕カ事ヲ奨順シ,相与ニ和衷協同シ,益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ,祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ,此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ

憲法発布勅語

 「戦場では飢えて死んでいった,しかもその比率が6割以上にもなっていた現実」に照らして考えよう。そのような「明治天皇のことば:勅語」を,昭和天皇の存在」を介してだが,もらった兵士たちの立場だといっても,実際は,絵空事どころか地獄の苦しみを味あわされたあげく,それも空腹のまま,あるいは病にかかった状態で死んでいく目に遭わされていたのだから,とてもじゃないが,たまったものではない。

 藤原 彰の別著,『中国戦線従軍記-歴史家の体験した戦場』岩波書店,2019年(初版 大月書店,2002年)から,つぎの2頁に書かれていた「天皇裕仁批判」の段落を画像資料で紹介する。

忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ・・・

 

 ※-4 歴史科学協議会編『天皇・天皇制をよむ』2008年

 歴史科学協議会編,木村茂光・山田 朗監修『天皇・天皇制をよむ』(東京大学出版会,2008年5月)は,日本史において古代から現代まで天皇が,どのように議論され位置づけられてきたか,「天皇」「天皇制」を考えるための68のテーマから読み解く入門書である。

 同書の主要目次は,つぎのようになっている。

「通時代」 --天皇と天皇制,女帝と女性天皇,年号と元号,皇位継承儀礼,天皇と名字,皇室の収入,日の丸,菊の紋章,君が代,伊勢神宮,三種の神器,御物,天皇と家族,皇族と宮家,万世一系,天皇と仏教,記紀神話

「古 代」 --出雲神話,巨大古墳と天皇陵,継体天皇,皇位継承,聖徳太子,天皇号の成立,天皇と皇帝,長屋親王,道鏡と天皇位,桓武朝,説話と天皇

「中 世」 --摂政と関白,将門と新皇,女院,院政,朝廷と幕府,流罪された天皇,蒙古襲来と天皇,両統迭立,建武の新政,「日本国王」源義満,地獄に堕ちた天皇

「近 世」 --信長と天皇観,紫衣事件,宮将軍擁立計画,武家と官位,近世の天皇と摂関・将軍,「日本国王」復号,女帝・後桜町の誕生,天皇号の復活,幕末の民衆と天皇,開国と勅許,近松劇の中の天皇

「現 代」 --天皇の肖像,西郷隆盛と明治天皇,二つの憲法と天皇,皇室典範,聖蹟と行幸,恩賜公園,創られた「天皇陵」,教育勅語,不敬罪,天皇と軍隊,靖国 神社,植民地と天皇,昭和天皇と戦争責任,昭和天皇の沖縄メッセージ,皇后・美智子と皇太子妃・雅子,皇室・皇族の「人格」「人権」,疎開児童と皇后のビ スケット,日常の天皇

歴史科学協議会編,木村茂光・山田 朗監修『天皇・天皇制をよむ』2008年

 「天皇には神権的な権威があるとして尊崇するみかたなどが,江戸の民衆のなかでは,まだほとんど希だった」(185頁下段)。

 だから,明治以来に帝国主義の路線を強行してきた日本は,国家イデオロギーの脊柱として天皇の神格性を鎮座させる必要性があった。アジア太平洋戦争の敗戦まで,天皇は日本軍の総司令官=「大元帥」であり,統帥権(軍隊を指揮・統率する大権)を保持する最高の立場に立つとされた(234頁上段参照)。

 靖国神社は,戦前の軍人(一部の軍属も含む)の戦没者の霊を合祀している神社である。一般に神社には祭神の霊が宿るとされている御神体という崇拝物が安置されている野に対して,靖国神社の御神体は鏡と剣で,祀られている祭神は,合祀されている戦没者の霊そのものである(238頁上段)。
 
 戦没者は本人や遺族の意志・希望や信教にかかわりなく,つまり,仏教徒もキリスト教徒も,無神論者であっても一律に「護国の英霊」として靖国神社に合祀されている。さらに,朝鮮や台湾出身の軍人・軍属の戦没者も「日本軍人」として合祀されている(238頁下段)。

 ただし,祀られた戦没者は,日本人であっても,あくまでも天皇制政府側に限られる。靖国神社における「招魂」「慰霊」という行為は,政策的な行為(天皇側の戦没者の顕彰行為)であり,死者一般の鎮魂とは性格を異にする(239頁下段)。

 靖国神社の祭神(合祀された戦没者)は,246万6千余柱にもなる。その大多数はアジア太平洋戦争の時代に日本帝国がおこなった侵略戦争による犠牲者である。「大東亜戦争」分だけで213万3915柱。

 しかし,靖国神社に合祀されている戦没者には,沖縄戦・本土空襲・原爆・ソ連軍の侵攻などで死亡した民間人は基本的に含まれていない。また,必ずしも一般的な意味での「戦没者」の範疇に入らないA級戦犯14名やB・C級戦犯裁判の刑死者も合祀されている(240頁上段)。

  ◆〈英霊サイクル〉の中核に位置した靖国神社 ◆

 戦前においては,靖国神社に「英霊」として祭られることは,天皇と国家への忠誠の模範であり,最高の栄誉とされていた。戦争の性格を度外視して,軍人・軍属の戦没者を無条件で祭神として神聖化する靖国神社は,戦前の軍国主義を戦争政策を精神的に支えた重要な装置のひとつであった。

 アジア太平洋戦争敗戦まで,靖国神社では春秋二季の例大祭,別に新祭神(戦没者)の合祀祭として臨時大祭がおこなわれていた。例大祭には勅使が派遣され,臨時大祭には天皇みずからが参拝した(240頁下段)。
 

 ※-5 旧日本軍人が強かったわけ

 戦前の日本における軍事社会において,まだ戦場にいっておらず生命を失っていない兵隊は,戦地に派遣される〔出陣の〕ときには,靖国神社に参拝させられ,戦死・戦病死しても霊となって祖国の靖国神社に帰れることを無理やり信じこまされた。そうして,天皇の赤子たる将兵の任務を完遂するための軍人精神をさらに,日本神国的意識も抱かされる形式でも叩きこまれた。

 もっとも,一般庶民の感情でいえば「戦争にいくこと」を喜ばず,厭戦的な気持を抱いていた人びとはいくらでもいた。しかし,そうした感情を気持にもってい たからといって,実際に公の場で少しでも発露させることはたいへん危険な言動であった。日本帝国主義の時代であっても,徴兵忌避を試みた日本臣民はいた。

 菊池邦作『徴兵忌避の研究』(立風書房,1977年)はその問題をとりあげた代表的な研究書である。そのほか,

  大江志乃夫『徴兵制』岩波書店,1981年,
  加藤陽子『徴兵制と近代日本』吉川弘文館,平成8〔1996〕年,
  喜多村理子『徴兵・戦争と民衆』吉川弘文館,平成11〔1999〕年

などの著作もある。

 日本の軍人の場合,それも将校よりは下士官・兵卒のほうが強い兵隊だといわれ,実戦においてもその事実は証明されてきた。「生きて虜囚の辱めを受けず」〔『戦陣訓』昭和16年1月訓令(陸訓一号)〕という軍訓が,日本軍兵士の敢闘精神を発揮させていた。この教えは骨の髄まで浸透するように教えこまれていた。

 『戦陣訓』『訓 其の二』の「第八 名を惜しむ」は,こう命じていた。

 「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目思ひ、愈々 (いよいよ) 奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱 (はずかしめ) を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿 (なか) れ。」 

 この軍事史的な事実は,戦闘状態が不利とあらば「捕虜になって生き延びたほうが得策」という思考方式を,換言すれば,国際法〔ハーグ陸戦条約の捕虜規定に始まる法律〕に定められた捕虜(俘虜)保護の規定を,日本兵が教えられていなかったという「意図的かつ無意識的な〈手続の欠陥〉」によっても強化されていた。

  また,「われわれ=日本軍人が強い」兵隊でありうる根拠は,神国(神州)に属する日本人の民族的特性のひとつである敢闘精神が「天皇に集約・帰一・代表さ れる大和魂」に求めらることにある,とされた。とはいえ,戦争にいけばとくに戦場で生命を落とす機会は「将校⇒下士官⇒兵卒」の順で確実にその確率が増大した。

 「死んで靖 国で会おう」と日本軍人にいわせた「靖国神社の神道式宗教精神」は,戦場で将兵が弾に当たって死なないように加護してくれるそれではなく,きわめて冷酷・ 非常・残忍な合言葉である。死んで当然,死ぬために戦場に出向けという意味であった。

 そうであるはずなのに歴史においては,表相的にはあくまでみなが,あの戦争の過程では喜んで死んでいったかのように記憶を造形されていた。もちろん,戦場で砲弾に砕かれ,弾丸に当たった兵士たちが「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいった事例もある。しかし,だいたいは「お母さん!」と呼んで死んだ。

戦陣訓・昭和13年靖国神社臨時大祭


 上の画像資料の写真は,日中戦争の始まった翌年,昭和13年靖国神社臨時例大祭に参加するために,「東京・芝浦に到着した600の霊柩が靖国神社めざして帝都を行進」しようと整列した場面。このころはまだ遺骨が家族のもとに帰ることができた戦争の段階であった。戦争が深まると,白木の箱のなかには石ころが入れられていた。

 人間
  「死んで花見が咲くものか」
    「生命あっての物種である」

 国家の意志を達成・貫徹するために他国とおこなう戦争に派遣される将兵たちは,いつでも頑健であり,強固な戦闘意志をもって戦わねばならない。死を恐れていたら戦争には勝てない。「死を恐れるな,死んでも靖国神社にだいじに英霊として祀ってやるぞ」という督励の文句が,戦場に向かう将兵たちの背中を押す。

  日本の天皇は,靖国神社に合祀されているで死んだ将兵の英霊を慰謝するために祭祀するのではなく,いま生者として存在する将兵たちに向かい「おまえたちは 死んでもこのように祀ってやるよ」という儀式を,その後,長寿をまっとうしていく「彼(←誰?)の,やはり生者の立場」から執行する。

 とはいっても,元気な息子や働き盛りの夫を兵隊 にとられた家族たちにとって,彼らが白木の箱に入って帰宅することはとうてい我慢ならない事態である。靖国神社の神事に期待されたのが,その不幸な事態を慰撫し,鎮静させる機能であった。

 --ここで「明治生まれの母親の戦後」と題したあるブログの記述を紹介する。

 戦後,間もなく父親が戦死したとの公報を受け,東京の新宿へ遺骨をとりにいった。白木の箱に骨片が2つ,3つだけ入っていた。父親の戦死に母親は声を上げて泣きたかったが,父親はお国のために死んだのだから悲しむべきではないと,泣くという非国民の行為を周囲は許してくれず,人しれずトイレの中とか田んぼの真ん中で泣いたそうだ。

 日本は戦争に負けたのだといってはならない, 戦争が終ったのだから,敗戦ではなく終戦といえと強要されたそうだ。遺族年金をもらう段になって,父親は戦死ではなく戦病死で亡くなったそうで,年金額を大きく減らされたそうだ。父親は仮に戦病死であっても長いあいだお国のために戦ってきたのだから,年金をけちるとはなにごとだ,だから日本は負けたのだと,母親はいまでもたいへん憤っている。

 註記)「明治生まれの母親の戦後」http://hirotokohei.blog23.fc2.com/blog-entry-19.html

死んでも差をつける国家

  

 ※-6 昭和天皇の靖国参拝-戦中精神の継続と断絶-

 昭和天皇は,敗戦直後から1975(昭和50)年まで,下記のように靖国神社参拝を記録してきた。1975年11月の参拝以降は一度もいっていない。

 1945〔昭和20〕年8月20日 昭和天皇
 1945〔昭和20〕年11月   「臨時大招魂祭」昭和天皇
 1952〔昭和27〕年4月10日  昭和天皇と皇后
 1954〔昭和29〕年10月19日 「創立八十五周年」昭和天皇と皇后
 1957〔昭和32〕年4月23日  昭和天皇と皇后
 1959〔昭和34〕年4月8日 「創立九十周年」昭和天皇と皇后
 1964〔昭和39〕年8月15日 「全国戦没者追悼式」昭和天皇と皇后
 1965〔昭和40〕年10月19日 「臨時大祭」昭和天皇
 1969〔昭和44〕年6月10日 「創立百年記念大祭」昭和天皇と皇后
 1975〔昭和50〕年11月21日 「大東亜戦争終結三十周年」昭和天皇と皇后

1969年の参拝

 昭和天皇は,1975年の以前より社会的に大きな話題・論点になっていた「靖国問題」の進展ぶりを察知し,だいぶ気にしていた。1978年10月17日にA級戦犯が合祀されるまでの経緯も知悉していた。天皇裕仁の本心に語らせば,1975年以降靖国に参拝にいかなくなったのではなく,もういけなくなったのである。

 かつて,大日本帝国の大元帥=最高指揮官となり君臨してきた天皇裕仁の「政治心理的な 〈論理と倫理〉」は,敗戦という契機によって決定的に崩壊させられた。彼はそれでも,敗戦後の靖国神社に参拝に出むきつづけた。

 なぜか? なんのためだったのか?

 靖国神社の祭祀長の地位を占める昭和天皇は,敗戦後 240万柱以上にも増えた「英霊」に対しても,戦前・戦時中と同じにこうとなえていた。

 「旧日本帝国の精神と霊魂」の再現である「おまえたちはまだ生きている」と励ましつづけてきた。しかし,この種の旧態以前たる宗教的行為は,どこまでも,戦前・戦時体制と不即不離である〈国営宗教施設=靖国神社〉においておこなわれてこそ,それが本来もつ意義を発揮できる。

 それゆえ,自分の身代わりになって「戦敗の責任」を背負い,退場してくれた東條英機ら14名のA級戦犯が靖国神社に合祀されたとなれば,そういった〈戦争神社〉としての根本性格を有するこの神社の役目は瓦解させられ,そして無意味化させられた。ましてや,靖国神社は1945年を境に,民間側に位置する一宗教法人に組織形態を変化させられてもいた。

 昭和天皇は,A級戦犯を合祀した当時の靖国神社6代宮司松平永芳をその父親である松平慶民や「合祀を留保」してくれておいた5代宮司筑波藤麿に比べ,「地団駄を踏んだ」かのように悔しがり,「親〔慶民〕の心子〔永芳〕しらず」と批難した。前段に述べた結果をもたらしたこの松平永芳を,天皇裕仁がいかほど恨んでいたか想像できる。

 「日本は神国である」と表象する国家宗教的な思想・信仰は,伊勢神宮において神話的に表現されている。日本の天皇家は,伊勢神宮「内宮」に祀られている天照大神を祖先とする一族と,いちおう信じられている。この天皇家の家長は,その伊勢神宮の威勢を拡延させる方式をもって,尋常ならざる《死神神社》である「靖国神社の祭祀長」を務めてきた。

 1975年以降靖国神社に参拝しなくなった裕仁天皇〔およびその息子の明仁天皇および孫の徳仁天皇〕の意向を汲みとるつもりがあるならば,靖国神社だけでなく伊勢神宮にも, 日本人・日本民族は参拝にいけないはずである。それとも,このようにはけっして「言挙げ」しないのが,わが民族の美徳であり品性ある態度であるとでもいうならば,筆者はこれ以上なにもいわないでおく。

 宗教としての神道が,1945 年まで東アジア諸国・地域にまったく根づくことができなかった経緯を再度確認すべきである。結局,神道という宗教は「国際化する・できる普遍的な性格」をもちあわせていない。宗教法人化したとはいえ,唯我独尊・夜郎自大・誇大妄想の国家神道が忘れられず,いつまでも国家意識の残滓を根底に担保しつづけている神社が,まさしく九段にある靖国神社なのである。
 

 ※-7 再度歴史科学協議会編『天皇・天皇制をよむ』2008年

 21世紀の現在,われわれは天皇家や皇室をめぐる問題を,本質的に把握しえているのか?

 たとえば,皇位継承問題に関して「『男子』継承が伝統」だと声高に発言されてもいたが,それが正式に決められたのは明治憲法・旧皇室典範体制になってからのことである。

 「1世1元」の世〔1人の天皇のもとでは同一元号を用いる〕も,しかりである。「君が代」「日の丸」も,明治以来の国家・国旗である(歴史科学協議会編『天皇・天皇制をよむ』「本書のねらい」ⅰ頁」)。

 日本の皇室の伝統だと自称される関係諸行事も,明治以降,なかには昭和,そして敗戦後に作られたものもある。それらは,明治以降における日本帝国主義を格式化する必要に迫られ,創造し,用意したうえで提供されてきた。

 たとえば,日本古来の,古式ゆかしき伝統に生きるという皇室関係者が,実はすすんで身に付けたのが「西欧の衣服」であった。これを着こなし,文明開化以後の世の中を過ごしてきた。

 だから,机と椅子の生活様式に関して厳格にこだわっていえば,日本の昔からの伝統とはいえない。明治時代に日本を訪れ,皇室関係者女性の着たドレス姿をみた西欧人いわく,「あれは十何世紀のフランスで流行した何とかスタイルに似ている」。

 早くから『神道ハ祭天ノ古俗』(久米邦武,1892年)と 喝破されていたけれども,これを明治維新以降において,近現代的に復興させる方向が採用されたのである。

 日本帝国主義の支配体制は,当時欧米で達成された 水準からは遠い地点に民主主義に止めおく形態で,日本の政治機構を構築しはじめた。明治時代に出立した皇室の〈古式ゆかしき伝統〉とは,そのような時代事情のなかにおいて人為的に作成されていたのである。

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