マルクス的経営学の嚆矢とみなされた中西寅雄「経営経済学説」の吟味,戦時体制期に中西寅雄が創説した個別資本運動説はただしマルクスの思想・主義にあらず(その3)
【断わり】 「本稿(3)」は「本稿(1)(2)」から連続する記述である。「本稿(1)から(2)へ」と事前に読んでもらわないと,論旨・脈絡が把握しづらいと思われる。それゆえ,まず「本稿(1)」の住所(リンク先)を下記に示しておくので,興味ある人は,この(1)から読んでもらえると好都合である。できればなるべくさきに,そちらから順に読んでほしいところと希望している。
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n441075984af3
付記)冒頭画像は「本稿(3)」で,以下にすぐつづく段落で参照している資料である。
※-1【前 言】
1941年12月8日,大日本帝国は英米なども敵にまわし,大東亜戦争(太平洋戦争)突入した。
この国はすでに,1937年7月7日から日中戦争(「支那事変」と呼称していたが)に,いわゆる泥沼の戦争に突入していた段階から,1939年9月1日にドイツがソ連に侵攻を開始し,第2次世界大戦となった以降,この地球上のそれも北半球では,大戦争の時代になっていた。
一国が戦時体制(非常時・有事)の政治経済を構えることになると,そこにかならず随伴して発生する現象が,政治面でのあらゆる自由が排斥,抑圧される事態であった。
本稿がとりあげている中西寅雄も実は,そうした時代の潮流のなかで東京帝国大学経済学部のなかで以前より紛糾していた内部抗争の煽りを食って,この職場を去る決断をした。
つぎに,中西寅雄の諸著作から画像資料にして,何点か紹介する。当時の時代背景を感じさせる一片たりうる史料である。
昭和10年代における話となる。中西寅雄『経営費用論』千倉書房,昭和11〔1936〕年という本は,おそらく大学(など高等教育機関)においては教科書としても採用されていたらしく,専門書にしてはけっこうな売れゆきを記録していた。
この中西寅雄『経営費用論』千倉書房の初版は,昭和11〔1936〕年6月に発行されていたが,本ブログ筆者が所有する版は昭和16〔1941〕6月に増刷され販売された「廿五版」である。その間,本書が5年間で25版も増刷りした事実は,専門書としては相当の売れゆきを意味していた。
なお,本書の新刻版は戦後,同じ版元の千倉書房より1973年に公刊されている。
ところで,紀元2602〔昭和17年〕2月16日という日付で,大日本帝国陸海軍の大元帥だた天皇裕仁は,つぎのように語っていた(黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』講談社,2004年,143頁,144頁)。
翌月の3月9日には,こういう感想を述べていた(『木戸幸一日記 下巻』東京大学出版会,1966年,949頁)。
ここから,中西寅雄「プリント『経営経済学』」昭和14年に戻って記述を再開する。
※-2 国民経済と単独経済
a) ゴットル生活経済学の見地
中西寅雄「プリント『経営経済学』」昭和14年は進んで,ゴットル生活経済学「観」を展開する。
「経済ノ本質ハ欲望ト充足ノ調整(経済ノ本質)デアルガ,コノ経済ノ本質ハヨリ本質的ナル全体経済ニ於テヨリ本質的ニ現ハレ部分経済ニ於テヨリ現象的ニ現ハレル」
「単独経済ハ一ツノ目的構成体ニシテソノ究極目的ハ費用・収益比較考慮或ハ最大ノ利潤獲得デアル」
「シカシ之ハ何レモ全体経済ノ立場ヨリ見レバ単ナル手段ニ他ナラヌ」
「コレヲ通ジテ社会ニ於ケル生産ト消費ナル目的ニ奉仕ス」
「企業家政ハ一ツノ目的構成体ニ外ナラズ,国民経済ハ本源的構成体デアル」
「企業ハソレ自体カラ見レバ最大ノ利益獲得ガ究極目的デコノ目的ニヨリ統合サレルガ,更ニヨリ本質的ナ問題,生産ト消費ノ持続的調整トイフ点カラ見レバ手段ニ他ナラズ」
「企業ノ目的ハ上述ノ経済ノ究極目的ニ役立ツ限リニ於テ,ソノ合理性ヲ主張シ得ル」
「国民経済ハ企業ノ場合ニ於テハ費用収益(ナル形ヲトツテ現ハレル)」
「部分経済全体ノ諸活動ガ国民経済ノ究極目的ニ対シテ統合サレル。ソノ組織ノ国民経済ニ対スル適合性考究ガ国民経済ノ課題」である。
「経営経済ハ部分経済ナル故ニ部分的・現象的ニシカ現ハレテヰナイ」
「国民経済ニ於テハ究極目的ガ直接的ニアラハレテヰル」
註記)中西「プリント『経営経済学』」35-37頁。
こうした中西の記述は,戦時統制経済体制におけるものであった点を,十分に意識しながら聞いておきたい。すでに,日本個別資本論史に関する研究蓄積が究明してきた論点がある。
問題の焦点は,「国民経済は本質,経営経済は現象」という対位的な把握の方法が錯誤だったことにある。もとより「国民経済に究極目的を有する全体経済だから〈本質〉,経営経済は部分経済だから〈現象〉」という腑分け的な説明が,根拠のない二分法なのである。
すなわち,国民経済にも経営経済にもそれぞれ「本質と現象とがある」。だから,「全体経済の問題が本質,経営経済の問題が現象」という裁断は,単なる観念上の区別であり,経済-経営の「両問題」対象に対する認識として現実的ではない。
問題の対象として認識されるに当たり,なにゆえ方法的に,「全体〔経済〕と部分〔経営:企業経済〕の区分」がそれぞれ,「本質の要因」と「現象の要因」とに対応する関係で,分離されねばならないのか。その根拠はなにか。
なによりも,経営〔経済〕学が研究の対象とする問題:「経営〔経済〕」の性格・特徴をとらえるさい,「〈本質〉の側面がなく〈現象〉の側面だけがある」と把握することは,途方もなく先験的な措定である。逆も同じである。
「〔全体・国民〕経済」の問題には,「本質の要因」だけがあり「現象の要因」がないと把握するのは,どだいおかしな考えかたである。
中西は,経済学には「本質問題も現象問題もある」が,経営学には「現象問題しかない」といいたかったが,前段のように受けとめた問題点は,「個別資本〔運動〕説」を理論的に継承・発展させようと試みた論者によって,一時期,そのまま定着させられていた。
「経済学=本質論,経営学=現象論という立論」には,学問の立場を構築する方法に関して,重大な欠陥がある。
経営学がたとえば,「企業の経営者」の問題に関する〈現象〉をとりあげ研究するのは,そこにひそむ「本質」を分析したり抽象したりするためである。だから,経営学はその〈現象〉面に止めた研究をするだけであり,〈本質〉面まで探る研究しない,というような「研究の手順」--接近方法・問題意識・論点構成--はありえない。
「経営学の研究」は「社会科学の方法」を採る。経営学も,「本質」と「現象」を併せてとりあげるのが当然であり,そうでないほうが不自然である。
しかし,以上のように批判した「経営〔経済〕学の認識方法」は,戦前から戦後にかけてしばらくのあいだ,実際に日本経営学史の理論展開のなかで克服されず残存してきた。しかも,この「本質-現象」分割の問題性は,中西「経営経済学説」の内部に淵源した。
それゆえ,つぎにつづいて紹介する中西の記述も,そうした批判的な見地によって読まねばならない。
「部分経済ガ全体ニ奉仕シナイ時ハコノ目的ガ是正サレネバナラヌ。国民経済ノ目的ニヨリ是正サルベシ。コヽニ統制経済ガアル」
「経済学ナル観点ヨリスレバ経営経済学ハ経済ノ目的ヲ認識サスニ足ラヌ。部分ニ過ギヌ」
「シカシコノ国民経済(学)ノ本質ヲ理解スルニハ部分トシテノ企業ノ本質ヲ理解シ,ソレカラヨリ高イ段階カラ眺メタ時ニ於テ初メテ正シク把握出来ル」
「コノ意味デ単独経済ノ認識ハ国民経済ノ認識ニ不可欠的段階デアル」
「経営経済学ガ独立科学ト主張スルハ企業ノ目的ニカヽハラズシテ部分経済ヲ考察スルトイフ意味ニ於テヾアル。企業ヲ全体的立場ヨリ見レバ企業ハ国民科学的意義ヲ見ルコトニナル」
註記) 中西「プリント『経営経済学』」37頁。
ここの記述は「企業ノ本質」に論及がある。しかしその理解は,中西が経営経済学の絶対的独立性を認めない次元において,「理論的経営経済学(私経済学・企業経済学)」という学問領域に閉じこめての「本質」うんぬん,である。つまり,経営経済学の相対的独自性を認める舞台に生じた学問形態,「利潤追求の学(Profitlehre)」あるいは「技術論=工芸学」に関連させての,それではない。
以上のごとき中西の講述に関しては,つぎの疑問点を指摘おく。
さきの「消費経済」の項で中西は,「消費経済ハソレ自体究極的目的ヲ持チ得ル本源的構成体デアルトイフ考ガ存スル」と説明していたが,本項では「企業家政ハ一ツノ目的構成体ニ外ナラズ,国民経済ハ本源的構成体デアル」と説明していた。
ニックリッシュ経営学説は,家政が本源的経営であり企業は派生的経営であると規定していた。中西の場合そこに,国民経済が本源的構成体であるとの規定が入りこむことによって,家政も企業と同様に「派生的構成体」に分類され,独特な解釈をしめした。
b) 国民科学の立場
もっと重要な問題がある。前項のなかには,「企業ハ国民科学的意義ヲ見ルコトニナル」という一句が出ていた。この「国民科学的」という用語のもつ時代的な含意が問題となる。
作田荘一『国民科学の成立』(弘文堂書房,昭和10:1935年)という著作がある。この前年に公表され,本書に収録された同名の論稿,作田荘一「国民科学の成立」(国民精神文化研究所『国民精神文化研究』第1年第4冊,昭和9〔1934〕年3月)のほうから聞こう。
◎-1 国民科学の研究対象
「国民科学は国民生活を研究対境とする」
「国民科学は科学の国民性を指すのではなく,国民性の科学である」
「日本国民に属する人々が研究する国民科学は日本国民科学であ」り,「何を差措いても自国民の国家理論でなければならぬ」
註記)作田荘一「国民科学の成立」,国民精神文化研究所『国民精神文化研究』第1年第4冊,昭和9年3月,19頁,6頁,25頁,26頁。
◎-2 国民科学の実在法則
「国民科学の求める所の法則は,一々の具体的なる国民生活に就て現実に働いて居る実在法則に外ならぬ」
「国民科学が求める実在法則……それは一国民の法則が他の国民にも通用すると言ふが如き普遍妥当性とは全く別の事である。従って日本国民の政治法則が君主主義であり,米国民のそれが民主主義であると言ふことは,各真実であるとしても,互に一の法則は他に通用しない」
註記)作田,同稿,29頁,30頁。
◎-3 国民科学の立場・特色
「国民科学は意志科学に属する」
「国民生活法則の研究方法は第1次的には国民的主観の方法を採る」
「個人科学や階級科学の容喙を許さず,必ず実在の国民意志の立場にあって研究する国民科学の教へる所に従ふ」
「国民科学は単に存在を認定する観照科学たるに止まらず,進んで適合を判定する実践科学の任務をも持つ。即ち歴史研究と並んで政策研究を,理由法則の研究と並んで規範法則の研究を行ふ。国民生活に関して政策及び規範の研究をなすことは国民科学の一大特色であ」る。
註記)同稿,33頁,41-42頁,31頁。
作田荘一は当時,学究として文部省教学局の「思想善導」に率先協力した日本国家主義〔皇道主義〕の社会科学者である。より具体的にいえば,戦時体制期「教学の刷新振興,並に時局の正しき認識に資する為」に尽力した人物であった。
註記) 作田荘一『我が国民経済の特質』文部省教学局〔教学叢書特輯3〕,昭和13年3月。
作田『国民科学の成立』昭和10:1935年は,「国家意志の動向に視線を置いて実践を指導する所に,日本国民科学としての国民経済学の特色が存する」と主張した。
註記)作田荘一『国民科学の成立』弘文堂書房,昭和10年,295頁。
中西のプリント「経営経済学」は,ゴットル流「生活経済学」への言及を介して必然的に,作田流「国民科学」に共鳴した。戦時体制期に提唱されたこの国民科学は,戦争をする日本の国家体制:全体主義(ファシズム)に従順な国民の意志を,実践的・政策的・規範的に造成させるための「特殊日本的な学問形態」であった。
たとえば,西島彌太郎『戦時企業体制論』(巖松堂書店,昭和19:1944年9月)は,当時「企業の歴史的性格」をこう表現した。
企業が,戦時・国防経済の要請に奉仕すること,それは,国家主義・全体主義の世界観に於いては,当然の理論である。……而して,企業の組織は,企業の永続性乃至発展性が確保されねば,戦時・国防経済の要請に,永続的乃至発展的に応じ得ないのである。
註記)西島彌太郎『戦時企業体制論』巖松堂書店,昭和19年,3頁。
作田流「国民科学」のような学問形態を誘出させた,戦時特殊的な意味における「国家意志」は,「神話的・非合理的歴史観」に立脚するものであった。つまり,その「国民経済-生活科学」は,「明治維新をへて,国家がその崇敬を国民に強制し始めた」,「神話的な世界を歴史的事実とみなす論理構造自体」を自明としていた。
しかも,「天皇が祭祀をつかさどり,天地を経綸していた祭政一致の世に復古させ」ようとした,「幻想的な古代社会観」にもとづく「政治思想としてはきわめて粗雑なもの」を,正当化する精神を認容していた。
註記)小澤 浩『民衆宗教と国家神道』山川出版社,2004年,43頁,45頁,40頁,38頁など参照。
※-3 池内信行:経営経済学
池内信行『経営経済学序説』(森山書店,昭和15:1940年)は,昭和12・14・15年にそれぞれ分冊で公表された『経営経済学と社会理念』『経営経済学の認識対象』『経営経済学と国民経済学』を合本に仕立て,販売された著作である。本書は,中西「経営経済学説」の理論変質を探るうえで,格好の材料を提供している。
池内『経営経済学序説』は,作田荘一の「構想の立場」に論及していた。
「国心に即して国の生活を研究する国学の立場」から「国民経済の統一的経営であり,国の統治に即する国民経済の経営」すなはち「統営経済」の研究をもって国民経済学,正しくは日本経済学の課題ときめられる作田荘一博士の構想をはじめとして……,いづれもひとしく経済の問題をわが国体に即して究明し,解決する構想である。
この意味における企業,即ち生活構成体乃至目的構成体としての企業の経営こそ正しき意味での経済構成体であり,最高の構成体としての国民経済と相並んで一つの経済構成体たり得るわけであり,国民経済の研究(国民経済学)と相並んで相対的に経営経済の研究(経営経済学)が成り立つのもこのためである。
註記)池内信行『経営経済学序説』森山書店,合本,425-426頁,427-428頁。
実はこの池内の論及は,「国民経済の研究(国民経済学)と相並んで相対的に経営経済の研究(経営経済学)が成り立つ」という点をもって,中西『経営経済学』昭和6:1931年の立場を支持することを意味した。
戦時体制期に顕著な変化を発現させた中西「経営経済学説」ではあったものの,その基本的な立脚点においては,戦後まで継起していく〈一貫した内実〉が示唆されている。
池内『経営経済学序説』昭和15:1940年は,戦争の時代のさなかだからこそ,「生活経済学の立場」から企業の経営を考究する「経済学」でなければならない,というのが自説の到達した結論である,と喝破した。
註記)池内,同書,431頁。
そして,ナチス流の口つきそのままに,「国土(Boden)」と「血統(Blut)」にもとづく民族共同体を母胎として,経営経済学はいかにみなおされるかが「将来に残された問題である」とも断定した。
註記)同書,441頁。
さらに池内の同書は,以下のように論及していた。
イ) 経済の本質を「国の心」にそひ,行為の秩序に求める思惟が,今日,特に強く要求されている。……「国民科学」として経済学を構想する。
経営経済学を「国民科学」として構想す〔る〕。
私経済学ではなく,むしろ本質的に「国民的」経営経済学でなければならぬ。
経営経済の国民経済的機能に着目してそれを構成体として把捉し,経営経済の私経済的機能をこえてその国民経済的機能を所与的にうけと〔る〕。
国民経済学の基本問題が何に求められるにしても経済に固有の理念が,元来,必要と充足を持続的に調和することにあることは明かである。
経営経済学もまた国民経済学と歩調を整へて経営経済を国民共同体の形成に仕えるものとして,いはば「実践学」もしくは「規範学」として構想せられるのでなければならぬ。
経営経済学は経験科学として現存在としての企業の経営をその素材としてうけとるけれども,……それを単に与へられたものとして叙述し,説明するだけではなく,一層根本的に,国民共同体に仕へるものとして把捉するものでなければならぬ。
註記)同書,363頁,302頁,140頁,304頁,301頁,302頁,151-152頁。〔 〕内補足は筆者。
ロ) 「社会総資本」の「自己運動」を基体としてくみたてられた今日の経済体制はいまや「国民共同体」の形成のために仕へるものとして組みかえられる。
シュマーレンバッハもまた,この推移に即して経営経済学をひとつの「国家科学」 Staatswissen-schaft にたかめ,
「共同経済的生産性」Gemeinwirtschaftliche Produktivität こそこの学問に固有の研究目標でなければらならぬと主張するにいたった。
経済内の立場をおしすすめて「超私経済的立場」すなはち「共同経済的生産力の立場」にゆきついた。
註記)池内,同書,151頁,212頁,212-213頁。
ハ) 構成体中心の思惟(ゴットル),組織原理(ニックリッシュ),而して吾々の云ふ共同体中心の思惟。
註記)同書,313頁。
ニ) 「むすび」の道にもとづく「国民共同体の形成」は既に与へられた現実の問題であり,それは将来,形成され,その基礎が固められてゆかねばならぬ。
「国民共同体の形成」(「むすび」の道の実践)を場として個体は全体のために,全体は個体のために生きる「共同体の立場」こそわれわれの立場でなければならず,その際,「持続的必要充足」はここに示した共同体の理念に結びついたものでなければならぬ。
国民経済学はこの基礎経験に基いて「最高」の「経済構成体」である国民経済をそれに固有の基本問題とし,経営経済学は「派生的」経済である企業経営の経済的職分を実現する経営経済をそれに固有の基本問題とする特殊経済学でなければならぬ。
その意味で経営経済学は国民経済学とは別に,もしくは完全に独立して存在するのではなく,むしろ相対的に別個の存在と見るべきである。
註記)同書,353頁,397-398頁。
ホ) 正しき時代精神,正しき政治理念からはなれて特殊科学を構成することは,ただ単に実践的意義を失ふばかりではなく,同時に科学的特質も失ふことにもなる。
註記)同書,33頁。
以上のうち ニ) の見解で池内は,「日本産業道」としての〈むすびの道〉を唱導した。たとえば,大倉邦彦は,「産霊(むすび)」の働きを,「生成化育と云ふ順序で」説明する。
「即ち物は先づ神によって生まれて,形が成立つ」
「人間は努力によってそれを手助けして集めたり,互ひに作用を起させたりして,もとの材料とは変った物として出かして行く」
「更にその出来た物を,人間の実用に役立つやうに面倒を見て色々手を加へる」
「この生成化育の働きを他の言葉で云へば,集合,共同,同化,化育の業を,神と人との合作によって成就して行くことである」
註記)大倉邦彦『日本産業道』日本評論社,昭和14年,92頁。
大倉邦彦という「人」による〈むすびの道〉に関する説明は,「神」がかっている。まともな記述になっていない。むろん,他者を納得させる論理的な解説ではない。
戦時体制期が終焉するまでの旧大日本帝国においては,「諸々神に対する位置としては最下位に座した」特定の人物が,「臣民:人を代表する位置としては最上位を占める」という祭式の関係のなかで,その「生成化育〈むすび〉かた)」を国家宗教的に意味づける役割をになっていた。
また,ホ) の見解で経営学者である池内信行は,戦時体制期における〈正しき時代精神・政治理念〉を反映する,「国民的」経営経済学の実践的意義とその特殊な科学性を高唱した。
国家科学者の作田荘一は,その〈正しき時代精神・政治理念〉をこう説明していた。
日本の全体国家は,天皇を実中心と仰ぐ所の分身人の一体的組織である。分身人は国家の為に働くのではなく,全体国家の分身として働く。日本国民科学の研究もまた,この分身人の行ふ研究である2)。
註記)作田『国民科学の成立』288-289頁。
本項に引用した池内信行や作田荘一の主張(その思想の領野や理論の志向性)は,中西「経営経済学説」の吟味にとって,確実に参考になる中身を提示していた。
※-4 ニックリッシュ経営経済学など
さて,中西のプリント「経営経済学」の論及にもどる。
「従来ノ考ヘニヨレバ一ツノ国民経済学ニ対シテ経営経済学ガ独立ノ科学ナルハ恰モ政治学・社会学・経済学ガ独立ノ科学ニ於ケルガ如キ立場カラ見テヰル人ガ多イ」
「ニックリッシュノ経営学ハ単独経済ヲ対象トシテ,ソノ特質ハ欲望ト充足トノ調整ニアリ,而シテコノ調整ハ価値ノ問題デ技術的問題デハナイ。所デコノ経営経済ハ Arbeitsgemeinschaft (労働協同体)デアル」
「コノ Arbeitsgemeinschaft ハ社会関係一般デナク,経済ノタメノ Gemeinschaft デアル。何ガ経済的タラシムルノカ,ソレハ欲望充足ノ持続的調整デ価値ノ活動デアル」。
註記)中西「プリント『経営経済学』」38頁。
「部分経営,部分経済,国民経済ニ対シテ,次ノ学問ガ成立スル」
1. 「技術論 部分経営」 ……「諸技術ハ単独経済ソレ自体ニトツテハ究極目的ナル費用・ 収益ナル規定ニヨリ統合サル」
2.「単独経済学(経営経済学) 部分経済」 ……「国民経済ノ究極目的カラ見レバ国民経済ヨリ見タ目的適合性ガ考察サレル」
3.「国民経済学 国民経済」 ……「人類生活ノ究極目的ニ照シ合セテソノ目的ニヨリ統括サルベシ」
4.「社会生活学」。
註記)中西,同書,39-40頁。
中西は以上の議論をしたあと,あらためてつぎのごとき整理を披露していた。
▲-1 部分目的の適合性を判断する「経済技術論(技術論的経済学)」
▲-2 包括的・究極的目的への適合性を判断する「理論的経済学」
▲-3 具体的・実践的特殊目的に対する手段-目的の適合性の判断ではなく,この特殊目的を価値からみちびきだしてくるところに〔価値判断と〕目的じたいをみちびきだし,実践目的への価値判断が中心となる「規範論的経済学」に論及する。
註記)同書,40-41頁。
「問題ハ究極的判断カラ如何ニシテ具体的判断ノ導キ出スコト……デアル」
「ソレハ Max Weber, Sombart 等ニヨレバコレハ主観的・個人的判断ナル故ニ客観的判断トシテ存シ得ナイト云フ。経済ノ究極的目的,更ニ人類一般ノ生活ナル観点カラ基礎ヅケラレルナラバ,ソレハ勿論規範的科学トシテ成立ス。コレハ望マシキコトデアリ,又若シ経済ノ目的トシテ措定サレテヰルモノガ人類ノ共同生活一般ノ価値カラ導キ出サレタモノナルコトガ論証サレ,普遍妥当性ヲ帯ブルナラバ望マシキコトデアル」
「規範科学ニ於テ普遍的価値カラ如何ニシテ具体的価値ガ措定サレルカト云フコトハ将来ノ研究ニ俟ツ」
註記)同書,41-42頁。
中西「プリント『経営経済学』」からの引照は,以上で終えることにしたい。
要するに中西は,「国民経済学ニ対シテ経営経済学」においては,「政治学・社会学・経済学ガ独立ノ科学ニ於ケルガ如キ立場」を認めない考えであった。
中西は,戦時体制期「国民科学」の意義に言及しただけでなく,規範科学的な立場に立ちながら,企業経営の問題次元に対して具体的価値を提言してもいた。
ところが,最後の段階で詰めの議論になるや,その「具体的価値ガ」「如何ニシテ」「措定サレルカ」は「将来ノ研究ニ俟ツ」と,逃げを打っていた。
戦時体制期,日本の学問すべてが強要されたある種の「規範的科学」性は,「人類ノ共同生活一般ノ価値」から導出された「経済ノ究極的目的」などではなく,さらに,世界哲学的な意味での「普遍妥当性」からも逸脱していた。
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