経営学の歴史研究とその「方法の思想」-総括的な吟味-(1)
※-1 前書きとしての「能書き」
a) 本稿は10年ほど前にいったん公表してあったが,その後,ブログサイトの移動にともない,大事に金庫入りさせておいた一文である。このたび再掲することにし,この記述として復活させることになった。
ところで,その間もあいも変わらであったのだが,いったいなにが「経営学という学問の本質・使命・役割」でありうるのか,といった「社会科学としての経営学」の基本的な課題について真正面から本格的に討議してくれる経営学者が,なかなか登場してこなかった。
21世紀日本は,現時点になってみれば,なんと「失われた10年」という,実に情けない「国民経済の不調持続」が「10年周期の過程」でもって出現しつづけ,しかもいまは,なんとその第4周目を快走(!)している最中である。この現状から目をそらすわけにはいかないわれわれは,残念ながら悲観的というか悲愴な気分におちこまざるをえない。
ところが,その第3周目(年代的には2010年代)において,「失われた10年」という周期そのものをさらに明快に加速させていた,あの「悪夢以上に劣悪そのものであって,悪魔的な弊害そのものであった」「安倍晋三の第2次政権」(2012年12月26日発足)が,
この国の政治・経済・社会・文化の全般のすみずみにまでわたるかっこうで,つまり,万事においてまんべんなく破滅的な位相を招来させただけでなく,あの滅相もない「世襲3代目の政治屋」のデキソコナイぶりも暴露させた。
しかもその〈ダメっぷり〉とみたら,2020年代もいよいよ,多数派の国民・市民・庶民たちの生活水準までも,絶対的な窮乏化の圏域にまで追いつめつつある。
安倍晋三のあとを継いで日本の首相になった菅 義偉の政権(2020年9月16日-2021年10月4日)は中継ぎだったという程度の人物であって,さらにそのつぎに首相になった,それも安倍晋三と同じに「世襲3代目の政治屋」である岸田文雄の政権(2021年10月4日- )は,
まともな市民感覚とは空前絶後的に,すなわち完全に無縁であった「世襲3代目の政治屋」が安倍晋三や岸田文雄であった。とくに後者の岸田は,自分に特有である「異次元の鈍感力」しか発露しえないまま,
いうなれば,無能・無為・無知,非常識・無学識であった,つまり「凡庸」とさえも形容できないくらい,いわば「世間しらず」のトンチンカン的な唐変木の政治屋としてならば,その鈍感力ばかりを最高度にそれも重ねて発動させてきた。
b) 21世紀のいまもなお「この国は末期的症状」を遺憾なく披露している最中である。一国の経済体制のなかで中核をなす産業経済・企業経営の問題の全般(⇒「失われた10年」ということばにもっとも直接的にかかわる経済社会の制度の具体的な姿)が,だいぶ以前から元気をうしなっていた。
つまり,一様に不調気味であり,国際経済のなかで先端を走れなくなった「日本の会社」群になってきた事実が,よりいっそう赤裸々になっていた。
MIT流の事例研究にもとづいた実践的な企業・会社研究は盛んでありつづけてきたものの,要は,その種の学問(?)志向の「社会科学的な意義」を詮議したとみなせる経営学の業績は,そう簡単にはみあたらなくなっていた。
経営事象の底面に潜むはずの因果律が,企業行動の原理的な認識を把握するための社会科学的な論理構成の対象として分析・解明されるよりも,営利企業の現象的な諸行為のまわりをうろつきまわって,ただ,ああだこうだと一生懸命に説明することに熱心であったような,すなわちエセの体裁にもなりえなかった「社会科学としての経営学」が多かった。
c) という具合に経営学という学問の理解を踏まえていえば,2022年に日本語として公刊された,デニストゥーリッシュ,佐藤郁哉訳『経営学の危機-詐術・欺瞞・無意味な研究』白桃書房,2022年7月が大いに勉強になる立論・主張を展示していた。
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以下には,本書,デニストゥーリッシュ『経営学の危機-詐術・欺瞞・無意味な研究』2022年に関して,その出版元がこの本を型どおりに宣伝した文句などを紹介しておく。
※-2 経営理論として考えるべき課題-経営学の歴史研究とその「方法の思想」,そしてその総括的な吟味-
a) さて,経営学史学会編になる『経営学の思想と方法』という本が文眞堂から2012年5月に公刊されていた。本書は「経営学史研究の思想的立場とその研究方法-歴史的回顧-」を試みた,それも経営学史学会という研究組織が編纂した著作であった。
この経営学史学会編『経営学の思想と方法』2012年5月をたたき台に利用しつつ,この「経営学の思想と方法」をめぐる諸課題の設営や解明が,いったいどのように議論を展開してきたのか。
2012年5月に第20回の学会大会を開催した「経営学史学会」は,その前年〔2011〕年5月に開催した第19回大会の統一論題を「経営学の思想と方法」と定めていた。経営学史学会が「経営学の思想と方法」をもって問われるべき〈学問的な任務〉を有することは,あまりにも当然である。
しかし「日本の経営学」発祥の由来からして,「経営史の研究」(会社や企業の歴史の研究)ではなく,日本の「経営学史」=「経営の理論に関する歴史」研究は実は,不活発・不得意な状況に置かれてきた。総じていえばこれが昨今におけるこの国の経営学界の内情となってもいた。
一方で,経営史(企業史:管理技術史)の研究は盛んに展開されてはいるものの,この研究領域を担当する経営史学会が創立当初,歴史学の研究部門として「経営史研究」について保持していた問題意識は,長くつづくこともなく終息・消滅していた。
b) ちなみに,この経営史学会第1回大会は昭和40〔1965〕年に東京大学で開催され,その「統一論題」は「経営史学の課題」であった。
他方で,理論(学説・概念)の歴史を研究する経営学史の領域なのであれば,経営学の本質・方法論にかかわらしめての歴史的な研究が,過去における日本経営学の理論展開のなかで,旺盛になされてこなかったのではない。
ところが,日本経営学の分野では「経営学史・経営学説史」だとか「経営思想史」だとか書名を付けた著作がいくらかは公刊されてはきたものの,実際にその中身をのぞいてみるに,まるで羊頭狗肉の羅列になっていた。
事実史研究としての歴史研究であっても,その学問に必要とされる基本視点をどのように構築し,準備しておくか無関心でよいわけがない。このことは,いつも絶えず意識しておきたい研究の「史的な論題」でありつづける。
それでは「歴史学の視座」というものは「経営学史の研究」にとって,どのように用意したかたちで「理論の歴史の研究」をおこなうべきものとなるのか。いままで,この肝心の論点については本格的に議論されるがほとんどなかった。
c) 社会科学の分野でも,経済学においては「経済学史・経済思想史の名称」を冠した研究領域が明確に確立していて,経済学説・理論・思想の歴史をどのような観点から研究すればよいのか,関連する議論が蓄積されてきている。
ところが,経済学に対して後発の学問である経営学では,経済学史・経済思想史,くわえて社会思想史・一般思想史の研究成果を十分に顧慮した「経営の理論の歴史」研究がなされてきたとはいえない。まさに「後塵を拝してきた」のであり,どちらかといえば,「後塵を拝している」という問題意識=自覚症状そのものからして欠いていた。
ごく少数の経営学者が「経営学史の研究方法」に意識的にとりくんではきたものの(後掲に業績を挙げる), これを集約させて相乗的に学習したり,批判も与えあうなかで,一定の方法的な枠組を提示しうるような「理論の状況」を形成できていない。
そのような経営学界における「理論の水準」のなかで,経営学史学会が「経営学の思想と方法」を考察するのであれば,これを歴史学的な方法で検討する道筋は,当然とはいえ評価できる試図といえる。
※-3 経営学史学会編『経営学の思想と方法』2012年5月の問題意識
出版元の文眞堂から2012年5月に公刊されたこの経営学史学会誌の第19輯『経営学の思想と方法』はまず,「経営の『学』の思想性」「を成立させるにふさわしい学的方法はなにか」「もまた問われなければならない」といい,しかも「その思想と方法を歴史的に問うものである」と宣言していた(第Ⅰ部「趣旨説明」)。
さらに,「サブ・テーマⅠ:経営学が構築してきた経営の世界を問う」ことと「サブ・テーマⅡ:来たるべき経営学の学的方法を問う」ことも,課題に挙げていた。 いわば「歴史的な学説・理論研究」の必要性を,それも思想史的にも詮議する立場を鮮明にしたのである。
経営学史学会編『経営学の思想と方法』の目次詳細は,こうなっていた。
以上のなかから第Ⅰ部で議論をした各論稿に注目し,つぎにその見解を聞いてみたい。
1) 経営学史にとっての「経営学の思想と方法」
a)「経営学の思想と方法」(吉原正彦)
この論稿は「経営学の歴史研究における方法」を求める。「経営学の歴史的研究においても,時間の流れとともに変化する通時的な歴史的,社会学的分析に注目しなければならない」(11頁,13頁)。
とすればこの意見は,経営学にも「〈歴史社会学〉的な見地」が要請されることを意味している。「歴史的,社会学的分析」という具合に,いささかこなれのよくない表現ではあるが,そのように理解しておく。
つぎに,この論稿は「生活世界(Lebenswelt)」が「科学の根源的基盤」であるからとして,この「生活世界」が「経営存在の基盤」であることに注意を喚起する。「この『生活世界』がどのようなものであるかを明らかにしない限り,科学としての経営学は真に基礎づけられない」
すなわち,その「存在論を問うこと」の基本的意味を強調するのであった。以上のごとき吉原正彦流の思考は,以下につづいて登場した研究〔者〕に対して,水先案内的な意味を有していたと理解できる(14-17頁参照)。
とりわけ,経営学のとりあつかう「経営の主体」問題が,最近においては「地方自治体,起業,非営利組織,民間団体などの複数の主体から構成され,それら複数の主体間の連携によって具体的な地域が支えられているのが現実である」
それゆえ,「地域経営の問題を考えるにあたっては,あらためて経営そのものを存在論的地平において捉えなおさなければならない」(18頁)。
こうした主張を提示した吉原正彦は,「生活世界」とか「存在論」とかを軽い筆致で,学術的な表現として出していた。けれども,日本の経営学者のなかには80年以上も以前から「存在論的究明」を提唱していた人物もいた。同業者が同じことば・用語を使用していたのであれば,一度は歴史を遡って調査・研究してみる価値もあったのではないか?
補注)その「存在論的究明」を強説した経営学として一番有名な学者は,池内信行であった。いまどき,この氏名をしる若手の経営学者はあまりいないのではないかと推理しておくが,池内に関して以下しばらく記述しておく。
ともかく,数百年前の経済学書ですら社会科学では「現在的価値のある研究対象」として研究される事情に鑑みるに,まだ1世紀の時間も経っていない自国経営学者が残した関連の業績(ここでの話題に特別関係する著作としては,たとえば池内信行『経営経済学序説』森山書店,昭和15・1940年)に全然言及しない論旨は,不思議に感じられて当然ではなかったか。
もっとも,池内信行は『経営経済学序説』1940年と題した「戦時体制期」真っ盛りにおける「自著としての〈立論の思想〉」を,ろくに吟味・反省することすらないまま,敗戦後になってもいきなり〔というか同義反復のそれ(=使いまわし)に過ぎなかったが〕,つぎのようにも語っていたから読む者をして唖然とさせた。
池内信行がこの論旨に込めた立論的な中身は,ドイツ・ナチスの時期において社会科学の世界を風靡したというか,圧政的に支配する経済科学的な思潮になっていた「ゴットル経済学」と近親性を有していた。いわば,その根底に控えさせていた有毒なる理論「性」を,無自覚的にかつありのままに露呈させた発言が,「敗戦直後の学界事情」のなかでも誰にも止められることもなく,再起動させられていた。
深く考えてみるまでもないと思うが,池内信行『経営経済学序説』昭和15(1940)年が公刊された当時は,その翌年の12月に「大東亜戦争」が開始される時期にあった。また,その前年の1939年9月1日には,第2次大戦を,ナチス・ドイツの最高指導者アドルフ・ヒトラーが起こしていた世界情勢もあったとなれば,
そうして時代が進展していった情勢のなかで,池内信行のその『経営経済学序説』は,第3篇「経営経済学と国民経済学」の論述をむすぶにあたり,こう主張していた。
「国民経済の『生産力』」および「国民の『生活力』」との「内面的関連が問題になる」わけだから,「企業の立場」(私経済の立場)も「国民経済の立場」に順応せねばならず,すなわち,国民経済はもともと国民共同体の形成を目的とする構成であるから,国民共同体の立場こそ最後の判定者でなければならないと,そのように確言したのである。
註記)池内信行『経営経済学序説』447-448頁参照。
戦時体制期(昭和12年7月から20年8月まで)の日本経済は,戦時統制体制下にすべてが強制される国民経済に移行していた。それゆえ,以上のごとき池内信行の主張は,当時「一億火の玉」になって突撃態勢を構えていた,大日本帝国の臣民たちを,大いに叱咤激励する意味を有してもいた。
当時は,経営学という学問じたいが,そして経営学者も奉仕していたのは戦争遂行そのものであり,とくにまた,その勝利への確信を学問的にも表明することにあった。
ところが,1945年の夏,敗戦を迎えた自国の事情変質などなんのその,またもや池内信行は早々,戦前体制(!?)に復帰したかのように,しかもあの敗戦直後になっても,ほぼ戦時中と同類・同質の見解を披露していた。
しかも,池内信行は1947年9月に公刊した『政治と経済』という著作のあとにつづけて出版した別著,『社会科学方法論』理想社,1949年11月のなかで,その「序」においてこう述べていた。
マックス・ウェーバーもひとまずはいいけれども,その前にゴットル経済学の関連は,どうなっていたのか訊いてみたかった。ところが,敗戦後は雲散霧消。
池内信行はさらに昭和33(1958)年,森山書店から『経営経済学の反省』と名づけた本も出版していたが,ここまで時代を経てきた時点になると,「戦中⇒戦後」を通して,いったいなにをいいたかったのかさえ不詳。
かつて,日本経営学会の舞台であいまみえた池内信行と「議論した体験」をもった中村常次郎(東京大学経済学教授で,戦前からドイツ経営経済学を研究してきた学究)は,壇上で議論することになった相手池内信行に向かい
前段に指摘した論点,つまり「変わるもののなかに潜在していた変わらぬもの」を指摘したところ,両人の議論は対立したままに終始したという思い出話がある。この話題は,誰かが中村常次郎から訊いたものを,本ブログ筆者が又聞きしたものである。
以上,池内信行関係の話題に脱線気味に触れたが,いずれにせよ,経営学史研究に従事するどの論者であっても,自国における以上のごとき話題としての「学史的な研究蓄積」に直接関心を向け,これを材料に活かして,さらに発展させようとする展開にはならなかった。
それ以降も有名な経営学者間の論争として,「岩尾裕純(中央大学)対三戸 公(立教大学)」や「占部都美(神戸大学)対雲嶋良雄(一橋大学)」があったが,いずれも事後につながる創造的な経緯を産むまでには至らなかった。
以上の話題,あくまで日本において交わされた学界的な風景であった。どちらかというと,自国内における論争よりも,外国「もの」のほうにおける論争のほうが,麗々しく関心が向けられる傾向が強くあった。なにゆえ,内外によってそれほどまで,論争次元のやりとりじたいが,そのようにすげなくなるというか,そっけなくなるのか不思議であった。
2) 経営学が構築してきた経営の世界-社会科学としての経営学とその危機-(上林憲雄)
経営学を社会科学の1分科と捉えるのであれば,「なぜいま=歴史性,ここで=地域性(空間性?)」という問題構成を,つねに念頭に置いた対象への接近が必要である(23頁)。
経営学の分析対象は企業がもっとも重要な対象であるが,これにくわえてあらゆる組織体にも拡張させて経営学の体系を構築してもよい(24頁)。
経営学の方法論は,経営主体の意思や目的志向性と絡ませる方途で組織現象を解明する。個々の経営現象にいかに経営者の意思が貫徹し,経営の理にかなっているか,その経営存在を合理的に解明する(25頁)。
「経営者の主体性を基礎に分析することが,組織の対外的な側面を分析するさいの経営学的な研究方法の基本視点となる」(30頁)。
日本の企業との解明で比較した場合,アメリカの企業は「経済性と社会性を」単一軸で(一直線上)捕捉しようとする志向がある。これに対して日本の企業は両者を相互に異なる軸として認識するゆえ,この両軸の組合せ加減が運営管理上の「要点のひとつ」になっているのではないか。
アメリカでも「人の管理」に ついて,「経済性と社会性を単なるトレードオフ関係として捕捉する考えかたに代え,経済性と社会性の双方を高めうる経営実践の可能性を志向」を「日本的経営から学んだのである」(28頁,29頁)。
「社会科学としての経営学」において「現実の経営実践が,経済性と社会性の両立を模索し揺れつつも徐々に混交していく姿を,学術としての経営学は,現代では精確に照射しきれていない気がする」
というのも「つねに学問の全体構造を意識する研究スタンスが,とりわけ経営学のように研究対象とアプローチが多岐 にわたる学問においてはとくに重要ではないか」
「学問の全体構造を意識しない研究は,結局のところ意味不明で,学問の立場からは論評不能な結末に陥りやすいからである」(33頁,34頁)。
この論者がいった「社会科学としの経営学」の基本点は「その全体構造と体系性に関する議論を深め,共通認識を探っていく必要がある」(34頁)という割りには,両軸的に把握すべてきだとするその「経済性と社会性」の相互関連性が,まだあいまいであった。
楕円形のごとく2つの中心点=「経済性と社会性」 をもつのが「経営の現実」であるからといって,そのように認識する学問手順にこだわったところで,営利原則=利潤追求という資本主義体制の「推進動機」を,そのなかにどのように位置づける点を棚上げしたかのような議論,その説明のための説明であったかのような定義づけ的な解説は,なお疑問を残していた。
3) 現代経営学の思想的諸相-モダンとポストモダンの諸相から-(稲村 毅)
この論者は,本ブログの筆者が「唯物史観にもとづく経営経済学」の「科学的と称する認識方法」に疑念を呈した瞬間,突如,意外な発言=「筆者に対する大いなる期待外れ(感!)」を表明したことがあった。
もっとも,1990年前後まであれば正々堂々と前面に出して論及されていた伝統的な価値観としての「学問観:社会科学方法の路線」(この表現を充てて予定されるはずの「学的な領域」が奈辺にあったかについては,あえて書かないでおく)が,いまではかなり塩抜きされたかのような容貌を呈している。
この論者は,ポストモダニズムとしての根本挑戦が「実証主義と機能主義」に対してなされ,「経営学は新たな態様での複雑多様化を余儀なくされることになった,というのである。
だが,機能主義者がみずからは唯物論に反対する立場を自認・自覚しているとしても,科学的認識を追求するかぎり,必然的に唯物論的見地から自由であることはできない。
ここに生起するあいまいさを払拭し,主観主義的・観念論的立場をみずから純化する姿勢において科学の立場を主張するために出現したのが,社会科学におけるモダニズムである。このモダニズムの研究は,現代における観念論の諸形態の解明にほかならなかった,ともいうのである(37頁,41頁)。
こうした「批判的な意見」の表明は,唯物論的な史観に絶対的な優位を確信する「前世紀的な古層の思想」に淵源していた。その料理のしかた・裁断の方向はいつものお決まり:紋切り型であって,なんら新味はなかった。
それになにかがありうるとすれば,時代の流れのなかで新しく登場した「観念論」側に位置・所属する諸思想を,そのいつものやりかたで一気に切り捨てる方法に関して,であった。
だからこう結論する。「ポストモダニズム思想は結局のところ経営学を科学から形而上学に堕する道を用意するものであること,これへの警鐘が本稿における最終的な含意である」(49頁)。
百年一日のごとき繰りかえされるのが,このように倦むことをしらぬ他思想・他理論・他学説の排斥・無化扱いである。半世紀以上も反復されている〈批判的見地〉という名の「科学的経営学」の「思想と科学」に対して,われわれが既視感として抱くほかない疑問に,この論者はなにをもって答えうるのか?
4) 「科学と哲学の綜合学としての経営学」(菊澤研宗)
この論者は,慶応義塾大学商学部においてドイツ経営学研究の一流派を構築した小島三郎,主著に
『ドイツ経験主義経営経済学の研究-主観主義経営経済学の系譜-』有斐閣,昭和40〔1965〕年,
『戦後西ドイツ経営経済学の展開』慶応通信, 昭和43〔1968〕年,
『現代科学理論と経営経済学』税務経理協会,昭和61〔1986〕年
などをもつ人物を指導教授にして,育てられてきた人物である。
その学問系統は初めから経営学方法論に強くこだわる「学問の思想的な立場」を提示してきた。この論者は,最近まで公刊してきた 著作においては〈不条理〉ということばを付けたものが多い。理論的研究を実践問題に応用し,相当に工夫をくわえた実業界向けの著作も公表している。
以前,経営学史学会において発表した論題は「科学と哲学の綜合学としての経営学」であったが,ここでも「学問の不条理」を避けるために「21世紀の経営学はどうあるべきか」考えるといっていた。
「科学としての経営学」とはなにか。「学問の不条理」を回避するには,科学とともに哲学をも補完的に研究する総合学をめざす必要が,経営学にはあるといっている。
しかし待てよと,本ブログの筆者は思った。
いまではすっかり廃れてしまったマルクス主義経営学の陣営に属していた学者たちが,常套句のように強調するために使っていたのは,その「哲学と学問」〔「思想と科学」〕の密接な相互依存性ではなかった。それでもこの論者はともかく,批判的合理主義の科学哲学を「経営学の理論的基礎」に動員し,投入した(51頁,52頁以下)。
「科学としての経営学」の立論のなかにさらには,「経験科学としての新制度派経済学」から「取引コスト理論」「エージェンシー理論」「所有権理論」なども 導入・応用しえたこの論者は,「不条理現象」(社会的不条理・個人的不条理)に歩を進め,くわえては「学問の不条理」を問題にしたのち,この「学問の不条理からの脱出」も語ることになった(57-62頁)。
そのさい,P・F・ドラッカーの「人間主義的経営学」を引きあいに出して,「企業から未来にもとづく自律的な経営者が生まれてくる」という主張を紹介している。
ドラッカーの経営学は非経験科学的だといって否定するのではなく,むしろそのような哲学的側面もまた経営学には必要であることを理解せよと,この論者は「学問の不条理」に陥らないためにも強調していた。
要は「この学問の不条理を克服するには,たとえばE・カントの二元論的な人間観に立って経営学は,経験科学としてだけでなく,ドラッカーのような経営哲学的な研究もまた必要であると主張する(62頁,63頁)。
この論者の主唱は,小島三郎という指導教授の経験主義学派の路線から外れていったように映る。ベストセラーになる本を出版したいと語ったことのあるこの論者とすれば,この希望へ架橋するためには,このところ日本の実業界では大もてにもてているドラッカーの経営哲学に学ぶこともまた,一利ある方向性になったのかもしれない。
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【付記】 「本稿(1)」はここまでとし,続編は明日以降に分割して掲載することにした。できしだい,ここに( ↓ )リンク先住所を記入する。
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n62df9fe5e848
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