関東大震災直後,日本国内に居た朝鮮人はなぜ簡単に「6661人」も殺されたのか,歴史に学ばないこの国の民にとって21世紀は生きづらくなる
保阪正康(2023年中に84歳)は,父を介しての実話であったが,関東大震災直後における「祖父の体験話」を聞かされ,明治「維新後史」の必然的な事件として,この大震災にまつわって発生した朝鮮人虐殺事件を認識する必要に言及していた。
なかんずく,平気の平左で,通常心どころがむしろ昂揚した気分でもって植民地出身のひとびとを殺しまくった当事者:帝国臣民が,事後,本当は罰されることにならなかった「天皇制国家体制の残虐物語」を,保阪正康は自分の執筆活動の原点に意識しており,作家・評論家としての人生を歩んできたと解釈できる。
※-1「あったことをなかったことにはできない」前川喜平;2017年5月
最新作として,関原正裕『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相-地域から読み解く-』新日本出版社が,2023年7月25日に発行されていた。この本は「移牒」(管轄のちがう他の役所に文書で通知すること。また,その通知)が政府機関側から発せられたのを機に,関東大震災直後における朝鮮人虐殺事件が発生した事実を指摘している。
昨日(2023年8月9日)『毎日新聞』夕刊2面の紙面全体を充てた記事の主人公として登場した作家の保阪正康が,「自分の父」から聞いた「祖父」に関する話としてだったが,朝鮮人虐殺の「実際の場面」にその祖父と一緒に居たために父も遭遇したその様子を述べていた。
大正時代後期に発生した関東大震災直後,当時,14歳の少年であった正康の「父」の目前で,この正康の「祖父」がどこかから逃げてきたらしい朝鮮人に介抱するかっこうで,その場で水を与えた祖父が,いきなり近所の日本人たちに背後から殴られ,そしてその朝鮮人のほうは殺されるという場面が繰り拡げられた。
本ブログ筆者は,非常の多くの著作を公刊してきた保阪正康のその本を全部読むことはできていないが,10冊以上は目を通してきた。保阪正康は2015年,『安倍首相の「歴史観」を問う』と題名を付けた本を発行していた。
保阪正康は,安倍晋三は「軍服を着た首相」であり,とくに「戦争と統制に突きすすむ現政権〔当時の〕と,日本社会にはびこる歴史修正主義に根源からの異議を申し立てる。いまこそ昭和史の教訓を活かさねばならない」と強説していた。
その歴史修正主義はなんと,関東大震災に関しては朝鮮人の虐殺はなかったし,その逆の事実ならばあったと,当時の歴史改訂においては発生していなかった虚偽を,それこそ「わめきたてる」かのようにして虚偽を満載した本を公表する者たちまで輩出させていた。
工藤美代子のごとき似非知識人は,その典型的な人物であった。あるいはまた,世界遺産に認められた軍艦島に関しては,強制動員・労働に引き立てられた朝鮮人などいなかったと,これまた声高にその事実じたいを掘り起こしてきた歴史研究者を完璧にコケにしたかのように発言した,それも狂信的に無責任に断言する物書きもいた。
しかしたとえば,林えいだい『〈写真記録〉筑豊・軍艦島―朝鮮人強制連行,その後』弦書房,2010年という本をとりあげて考えてみたい。この本は以下のごとき「歴史の事実」を掘り起こし,解明し,報告したものである。
この林えいだいの業績が,たとえば,松本國俊『軍艦島 韓国に傷つけられた世界遺産-「慰安婦」に続く「徴用工」という新たな「捏造の歴史」』ハート出版,2018年の粗暴かつ乱雑な主張となると,まさしく歴史修正主義にもとづいて「無知と無謀の二重奏」を響き渡らせたいがごとく,それこそトンデモ本としてならば,一級品の出来となって公刊されていた。
関連していっておくと,従軍慰安婦の問題について説明するが,安倍晋三自身はアメリカ大統領(息子のブッシュ)と面談したさい明確に「謝罪の意思」を表明する発言をしていた。
その事実などなんのその,あるいは,日本人自身にも大勢の従軍慰安婦が実在してきた事実などもそっちのけにしたまま,その軍艦島の歴史的な事実とは無縁・無知であっても平然と,「井の中の蛙」的な発想に異様なまでの自信を抱いてだったが,自信をこめてこうだ・ああだとまで,ウソそのものをゲロっていた(いいつのっていた)。
⇒「慰安婦」に続く「徴用工」という新たな「捏造の歴史」
このような文句までかかげて叫ぶことができるのだから,知性や理性のかけらすらもちあわせていない「連中」の「戯言的な発言だ」としかみなせない。だが,日本人たちのなかにはこの種の
「うそつきは安倍晋三の始まり」の亜流的な子分にぴったり当てはまる人たちが,まだまだわんさと実在する。
すでに社会病理現象というだけでは,とうていは収まりきらない「政治悪の汚界」が,それこそこの国のなかでは溢れんばかりの勢いであちこちに浸透していた。
※-2 1985年5月8日,「フォン・ヴァイツゼッカー元大統領が,当時の西ドイツの首都ボンの連邦議会でおこなった敗戦40周年記念式典での演説で語ったつぎの文句は有名
それは,「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は,またそうした危険に陥りやすいのです」という文句であった。しかもとりわけ,「日本での歴史見直し論に対する警告の意味をもってしばしば引用される」ものだと,受けとめられていた。
ところが,ヴァイツゼッカーのその名演説は,安倍晋三の第2次政権以後はとくに,このウソ販売専売局長みたいな「世襲3代目の政治屋」の悪政に,自分たちの脳みそを完全に汚脳された愚昧な「似非なる知識人としての日本人たち」によって,この国のなかではまったく無意味・無価値「化」してきた。
たとえば,松本國俊の『軍艦島〔は〕韓国に傷つけられた世界遺産-「慰安婦」に続く「徴用工」という新たな「捏造の歴史」』(ハート出版)2018年だという虚言を基本に書いていたこの書物は,林えいだいのつぎのごとき仕事(成果・業績)などに関しては,終始,三猿の精神でいることを「意識して」余儀なくされて(徹して?)てきた。
林えいだい(1933-2017年,本名は林 栄代〔しげのり〕)は,少年のころにやはり,保阪正康の父の体験と同じというか,それ以上に悲惨な朝鮮人たちの「戦争中における受難」をみせつけられた体験をバネにして,自分の人生行路を生き抜いてきたような人物である。
林の経歴を紹介しよう。出典はウィキペディアを参照しつつ適宜にまとめた。
--林 えいだいは,日本の記録作家,アリラン文庫主宰,強制動員真相究明ネットワーク呼びかけ人。
経歴紹介。福岡県田川郡採銅所村(現・香春町)に生まれ,神主だった実父が,脱走してきた朝鮮人炭鉱労働者を匿い,特高警察に検挙され,拷問の後間もなく死去した。
林は2017年の新聞記事で「私を奮い立たせるものはなにか。元をたどればそこにゆき着く」と述べている。早稲田大学文学部在学中に荒畑寒村の『谷中村滅亡史』を読み社会主義運動に傾倒する。
大学を中退し,故郷に帰って北九州市教育委員会などに勤めたのち,フリーライターとなった。独立したのは,37歳の時である。
日本統治時代の朝鮮人徴用とカネミ油症に関する報告が多い。また,陸軍特別攻撃隊の設置した振武寮についても関係者の聞き取りなどをおこなった。
太平洋戦争中インドネシアにいたオランダ人女性アニー・ハウツヴァールトが,日本軍の捕虜になった父親が日本に連行され,北九州の炭鉱で強制労働を強いられ,そこで受けた傷がもとで客死に至ったのを悲しみ,怒り,日本人を長年憎みつづけてきたのが,結婚40年を迎えて日本人を許す気になった,という話を聞いてオランダまで取材に出向き,それを基にした本が2000年に『インドネシアの記憶,オランダ人強制収容所』として出版された。
「徹底した聞き取り調査で,公害や日本統治時代の朝鮮人徴用など『影』の部分を明らかにしてきた」記録作家として,朝日新聞夕刊連載の「ジャーナリズム列伝」61~80回(2011年6月29日~2011年7月29日)にその仕事が紹介された。
※-3 2017年2月,林を題材とした記録映画『抗い 記録作家 林えいだい』が公開された
2017年現在は,振武寮への収容後に満州に移動してシベリア抑留を経験した元特攻隊員についての著作を執筆中と報じられた。
2017年9月1日,肺がんのため,福岡県内の病院で死去。最晩年には気管を切開したためほとんど発声が不可能となり,死去2日前に特攻についての取材に訪れた新聞記者に対しては筆談で対応,「人間が戦争のために生きながら敵艦に突入し,生命を投げ出す。これほどむなしい戦法はない。日本軍はこれを戦法としてとった。遺族としては無念だっただろう」という言葉を最後に記した。
訃報にさいして,晩年に居住していた田川市の二場公人市長は「石炭産業や朝鮮人に対する強制連行の問題などに研究心を燃やし,徹底した聞き取り調査によって数多くの著書を残されている。まだまだ真実の記録を残すために活躍してほしかった。ご冥福をお祈りします」とコメントした。
だが,歴史修正主義者たちは,こうした林えいだいの実録・実証にもとどく報告・研究をいっさい無視する。というよりは,無視しておいて,自分たちの好き勝手を,それこそゲロを吐きちらすようにしか語りえないでいた。
前掲した記録映画『抗い 記録作家 林えいだい』のユーチューブ動画サイトは,林えいだい『〈写真記録〉筑豊・軍艦島―朝鮮人強制連行,その後』弦書房,2010年の内容を紹介していた。このユーチューブの表紙画面の下部には,こういう閲覧・視聴の記録が記されていた。
「2023年8月9日18時40分」まででとなるが,37,064 回視聴 2017/12/25(放送開始)」
本書の帯紙には「戦争と石炭産業の犠牲になった朝鮮人の苦難の歴史。半世紀の歳月をかけて強制連行の真実に迫る写真【380点】とルポ」と記されている。著者はノンフィクション作家の林えいだい氏。
林氏は端島について「ここでどれだけ多くの坑夫たちの血が流されてきたのか真剣に考えてみるべきではないのか」,「日本人,朝鮮人,中国人の犠牲の上に端島の歴史があることを忘れてはなるまい。端島は観光資源ではなく,炭鉱犠牲者,とりわけ朝鮮人,中国人の追悼の島なのである」と述べている。
※-4 軍艦島と賞された「端島」の理解
林えいだい氏は本書『〈写真記録〉筑豊・軍艦島―朝鮮人強制連行,その後』弦書房,2010年の「あとがき」で,11歳だった昭和18年,神主だった父親が朝鮮人をかくまったことで特高警察に拷問を受け,それが原因で亡くなったことを告白している。
さらに,のちに父親を拷問した90歳の元特高をみつけ出し詰め寄ると,「石炭の一塊は銃弾なり」のスローガンのもとに,石炭増産が至上命令の時代,朝鮮人の逃走を助けたことは反国家的行為であり,背後関係を追求したと打ち明け,謝ったという。
「当時の父は国賊であり非国民であるかもしれないが立派なことをしたと誇りに思っている。国賊,非国民の子である筆者に,両親が残した命の遺産を,歴史の中にしかと刻むことが使命ではないかと思うようになった」と林氏は述懐しています。
林えいだい『〈写真記録〉筑豊・軍艦島-朝鮮人強制連行,その後』の,その販売用の宣伝文句は,こう書かれていた。なにも誇張はないし,事実そのものに触れた説明となっていた。
しかし,ユーチューブ動画サイトには,林えいだいの実証的な軍艦島に対して,現地に住んでいた人間などを駆り出すかたちで,その一部すらよくしらない彼らの口を借りて,全面的に否定するための反論を展開させてきた。
たとえば,松木國俊『軍艦島 韓国に傷つけられた世界遺産-「慰安婦」に続く「徴用工」という新たな「捏造の歴史」』ハート出版,2018年といった書名の本は,
林えいだいが一生をかけて解明・追究してきた軍艦島などの,戦時期における朝鮮人(中国人も含む)強制連行・強制労働,そしてその犠牲者となった彼らの人数はいまだに闇のなかに放りこまれた状態である「歴史の事実」を,どこかへ飛んでいってしまった風船玉であったかのように忘れようとしていた。
というよりは,歴史修正主義の立場であるその種の本を創造したがる人びとは,軍艦島における朝鮮人たちの強制連行・労働の事実があったにせよ,ともかく問答無用的にこれには目をつむっておき,意図的に完全に無視するための発言だけが,大音響をともなって世間にまき散らされている。
松木國俊の本はこう宣伝されていたのをみれば,「論理も歴史も」「事実も真実も」なにもまったくなにも関係なく,ただあるのはその否定・抹消であったのみならず,それ以上に虚偽の捏造ばかりがめだっていた。
この種の,逆にいえば「ありもしないウソ」をゲロ〔を,というよりは▲ソ〕を口から吹き出すように,それも必死になっていいはっていた。軍艦島の問題となるとこれまたとたんに,正常な精神状態が維持できなくなっており,さらにつづけて,こういう「意見=解釈」を吐露していた。
これらの文句は,軍艦島で戦時体制期に起きていた史実を完全にねじ曲げていただけでなく,その「歴史の事実」の抹消を逆立ち的に試みてもいた。世界遺産に指定されたら,黄門の印籠を入手できたつもりである。
関東大震災に関してとなれば,ありもしなかった朝鮮人たちの暴動が事実であったなどと,そもそも虚偽にもなりえな程度の妄想を抱いたすえ,想像妊娠的にその虚説を育てて世間にばらまいた「工藤美代子と加藤康男夫婦」の罪深い著書と同様な「虚偽の説法」が,軍艦島の物語に関してもわが物顔をして配布されていた。
ここまで前論となる記述をしてきたところで,本日の主題にとりあげるべき素材であった,つぎの※-5の話題に移りたい。
※-5「〈特集ワイド〉関東大震災100年 保阪正康さんの警鐘 14歳の父の眼前で起きた中国人虐殺 帝国主義国家,恐怖が爆発」『毎日新聞』2023年8月9日夕刊2面(2842文字)
a) 多くの朝鮮人や中国人が殺害された関東大震災から,今年〔2023年〕で100年を迎える。ノンフィクション作家の保阪正康さん(83歳)の父・孝さんは,少年時代に虐殺の現場を目の当たりにして生涯その記憶に苦しみつづけた。父は最晩年になって,息子に自身の過去を初めて打ち明けた。1923年9月1日の光景とは……。
「これだけはどうしてもいっておかなければいけない」。1984年の師走。東京で暮らす保阪さんは,がんで余命半年と診断されていた父に呼ばれ,札幌市内の病院を訪ねた。2人きりの病室で,父は当時14歳だった「あの日」を語り始めた。
横浜市の自宅に1人でいると,大きな揺れに見舞われた。外に出ると,周囲の家は崩れ,人々が倒れている。がれきのなかを歩くと,足を引っ張られた。「水がほしい」。傷だらけの青年に請われた。水を飲ませると,青年は「謝謝(ありがとう)」「私は上海から来た留学生の王(ワン)……です」
その時,いきなり後ろから頭を殴られた。振り返ると5,6人の男性が棒を手に怖い顔で立っていた。「お前は中国人か」「朝鮮人か」「なぜ中国人に水を飲ませるんだ」。
男性たちは怒鳴り,そして青年を殴り始め,ノミや小刀を取り出して切りつけ,腹を切り裂いた。遺体を何度か蹴ったあと,いい放った。「もう中国人や朝鮮人に水を飲ませるな」
猛暑が続くこの夏,保阪さんは静かに振り返った。「これが父の記憶です。14歳の少年が惨殺を目撃し,人間不信を抱えこんでしまった」
b) 保阪さんによると,大震災の当時,父は自身の父親(保阪さんの祖父)と2人暮らしだった。他の家族は結核で他界していた。医師だった祖父は,大震災直後に船で回診していた際,船が沈んで亡くなったという。
父は群馬の親類に引き取られた。その後,東北大に進み,北海道で教職をえた。「横浜は怖くていけない。人間がどうしてあんなことができるのか,信じられないんだ。その記憶にずっと苦しめられてきた」。父は病室で保阪さんにこういい,少年時代を過ごした街を一度も訪れることはなかったという。
「医者になれ」とうるさかった父との関係はけっして良好ではなかった,と保阪さんは打ち明ける。「父はずっとなにかにおびえていて,そうした性格が嫌だった。母も『お父さんの心には何かすごい恐怖感のようなものがあるけれど,私にも分からない』と話していた」。そんな父が最後に息子だけに伝えたのが凄惨(せいさん)な記憶だった。
「父は,王さんに申しわけないから上海の肉親を捜して,伝えてほしいと話していました」。あの日,殴られてから右耳の聴力を失い医者になる道をあきらめ,代わりに息子に夢を託そうとしたとも語っていたという。
父の告白を聞き,保阪さんは横浜に通った。王さんのことは分からなかったが,横浜の街の様子などを伝えると喜んでくれた。「最後にできた親孝行だったね」。1985年7月,父は76歳で息を引き取った。
c) 関東大震災では「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」などのデマが広がり,各地で多数の朝鮮人らが自警団や警察に殺された。政府の中央防災会議は,虐殺の犠牲者は震災死者約10万5000人の「1~数%」と推計している。いったい,なぜこんなことが起きたのか。
補注)この「虐殺の犠牲者は震災死者約10万5000人の『1~数%』との推計」の根拠は,必ずしも明確ではない。というよりも,そのように推計するほか手がないのかもしれない。当時,1923年に日本全国に居た朝鮮人は約8万人であった。
関東大震災が発生し,甚大な被害が起きた地域にそのうちどのくらいの朝鮮人が居たか,多分,このあたりの数値を前提に推計されていたと思われるが,この理解についてはいちがいに少ないとも多いともいいようがない。
ただ,虐殺がなかったのだといったごとき,飛び抜けて空想的な発言だけはいただけない。もっとも,国家の側における正直な論理(リクツ)としては,いまさらそのような死者の数値はしりたくもないし,これからも積極的にの数字を掘り起こすなどといった「歴史の検証作業」など,せかされてもするわけがない。
〔記事に戻る→〕 「加害者の心のなかにあるのは恐怖心。その反作用として,天変地異に遭った時にこんな過剰なことをするのだろう」。
d) 近現代史をみつめてきた保阪さんは分析する。
「帝国主義的国家の言動の根幹には恐怖がある。侵略国は相手国に恐怖を与えるが,実は自分たちも何倍もの恐怖を抱えている。その心理の爆発が,虐殺という現象として出てきたのではないか」
日本は明治以降,「一等国」への道として東アジアにおける勢力拡大を図り,1910年には韓国を併合した。侵略先で現地の外国人を抑圧する時に伴う恐怖感を日本国内でも同じように抱え,それが爆発したという見方だ」
「さらに,日清戦争(1894年),日露戦争(1904年),第1次大戦(1914年)と日本が戦争を続けていたことにも着目する」
「戦争が10年おきに起きるということは,戦争に伴う価値観が10年おきに復元されるということ。つまり,人を殺すことは悪だったのに,いいことだというように平時のモラルが逆転してしまうのです」
日本人がみな虐殺行為を働いたわけではない。「帝国主義的な政策を受け入れたり,踊らされたりした人は加担したでしょう。でも,やめろといったり,朝鮮人を助けたりした人たちもいた。この両面をきちんとみないといけません」
補注)この事実はすでに前段の記述で,そうした人物の実在を言及した。林えいだいの場合に比較したら,多分,何十分か何百分の1くらいの実質しかなかったとはいえ,保阪正康が父から聞いた祖父の関東大震災直後における朝鮮人「1人の虐殺事件」が,自身の一生において仕事をしていくうえで自身の作家の立場を決定づけたといえなくはない。
保阪正康の祖父は,関東大震災のとき朝鮮人といっしょまた多く殺された中国人の1人をかばってあげたために,「同じ日本人に殴られ右耳の聴力を奪われた」ということであった。
林えいだいの父は戦時体制期に,強制動員され労働の現場から逃亡してきた朝鮮人たちをかばい,逃がしたということで,特高の拷問を受けて命を奪われた。林にとってみればこの自国は,もしかしたら「敵国」と同じ意味しかもちえなかったのかもしれない。
敗戦前の時期,植民地側の帝国臣民になった人びとと同じ目に遭わされたからこそ,「彼ら」が自国の帝国体制に対して向ける目線は,かつて朝鮮人を平気で殺しまくった日本人帝国臣民たちとは,けっして同質のものたりえなかった。
要は,彼らの生き方を決定的に意義づけており,その後に生きていく人生行路に特定の信念を付与することになった。
e)〔記事に戻る→〕 保阪さんは指摘したうえで言葉を継いだ。「だからといって免罪にはなりません。少数の者の行為とみなすのも間違いです。軍や警察,国家が動いているからです。朝鮮人がおかしなことをするとうわさを流し,取り締まる名目で彼らの動きを抑えようとしたのですから」
1923年9月3日に内務省警保局長名の電報が全国の地方長官に発信され,震災を利用して朝鮮人が放火をしていると断じ,「厳密なる取締りを加えられたし」と指示している。混乱に乗じて大杉栄ら社会主義者も官憲に殺された。
もう一つ問いが出てくる,と保阪さんはいう。それは,こうした時に非人間的行為に走るのは日本人の宿痾(しゅくあ)なのか,それとも正常な情報が遮断されたために起きる現象なのかということだ。
「僕は宿痾ではないと思う。日本人がみな常軌を逸した行為を働くわけではない。むしろ閉じられた空間にうわさを意図的に流しこむと,それじたいがひと一つの病的な働きをするということです。当時の日本は閉鎖集団。メディアも客観的な報道はほとんどできなかったのですから」
補注)この記述中ではとりあげなかったが,工藤美代子・加藤康男夫妻を代表者とする関東大震災時の朝鮮人虐殺事件「否定論者」や,軍艦島に関してぞっき本まがいのデタラメ満載の本を公刊した,松木國俊『軍艦島 韓国に傷つけられた世界遺産-「慰安婦」に続く「徴用工」という新たな「捏造の歴史」』ハート出版,2018年などは,自国の歴史をみずからすすんで捏造・改竄していた「亡国のヤカラ」であると位置づけるほかあるまい。
f) 佐高 信が2019年に公刊した本として『偽装,捏造,安倍晋三』作品社,2019年があった。が,一方の,日本の歴史修正主義者たちのトンデモ本であっても,素朴で正直な庶民たちのあいだでは一定の需要があった。しかし,それでもって,自分たちの精神状態になんらかの,いくらかの安定が一時的にでもごまかすかっこうでもって,えられるとしても,これほどの不幸・不運はない。
〔保阪正康・記事に戻る ↓ 〕
★ 悲劇,直視し未来へ ★
関東大震災時の虐殺について,さきの通常国会で質疑が行われた。2023年5月23日,参院内閣委員会で立憲民主党の杉尾秀哉氏が軍や警察などの関与を示す公文書を基に見解をただしたが,
谷 公一国家公安委員長は「政府に事実関係を把握できる記録が見当たらない」と繰り返した。6月15日の参院法務委では社民党の福島瑞穂党首の質問に,政府側は内務省警保局長名の電報について存在は認めたが,虐殺にどう影響を与えたかの見解は示さなかった。
「無責任な答弁をしていたと歴史に残るだけ。そうした人間が権力をもっているならば,それは時代の病ということだね」。保阪さんは断じた。歴史に向き合うことこそが,悲劇を繰り返さぬことにつながるという。
「自分たちの先祖や身近な人がどう生きてきたのかをしること。歴史と対話し,教訓を得て,それを未来につないでいくことだね。そうすることで,二度とこんなことを起こさない日本人の精神やものの考え方,姿勢をつくっていきたい。僕はそう思っている」
だが,それどころか,以上の「歴史の事実」に関した話題を頭から否定し,排除するだけだと,この国の〈会社の評判〉ならぬ「国家の評判」は地に落ちたにひとしい。
【参考記事】
先日,〔2023年〕8月7日に報道されたニュースに「国連部会の見解『法的拘束力ない』 ジャニーズ性加害問題で官房長官」『朝日新聞』2023年8月7日 18時00分,https://www.asahi.com/articles/ASR875HT0R87UTFK003.html があって,こう伝えていた。
「自国の恥」を国内に封鎖(密封?)できると思いこんでいるこの国の基本精神は「100年が経ってもなんら変わりない」ようにみえる。
g) ■人物略歴 ■ 保阪正康(ほさか・まさやす)は,1939年北海道生まれ,同志社大卒,近現代史研究で延べ4000人の証言をえた。『東條英機と天皇の時代』『昭和史七つの謎』『世代の昭和史』など著書多数。昭和史研究の業績で2004年菊池寛賞。
さて,保阪正康は穏健な作風を基調としているが,それでも記述してきたように,父と祖父が同時に体験させられた「自身の生命が危機に瀕した事件」がその作風に反映されていたに違いない点は,以上の記述紹介を通してあらためて確認してもよいと思われる。
最後に,前川喜平が2017年5月,実質,安倍晋三に対して直裁にモノ申したように,それも確信して語っていた文句を,もう一度聞いておきたい。
「あったことをなかったことにはできない」
だから,あえて反論しやすい話題を,以下にのように例示し,問うてみたい。
ヒロシマ,ナガサキの原爆投下はなかったですか?
東電福島第1原発事故は発生していなかったですか?
真珠湾奇襲攻撃はしかけられていなかったですか?
ミッドウェー海戦は起こされなかったですか?
インパール作戦も起こされなかったですか?
東京下町空襲はなかったですか?
補注)本ブログ筆者の血縁者には,その東京下町空襲という災難に遭い,そのなかで九死に一生をえた体験者がいる。昔,その時の様子をまるでビデオを観るかのように聞かされたことがある。
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