明治期帝国主義時代からの家制度・家族主義観にもとづく同姓使用強制の問題(その3)
※-0「本稿(3)」が記述する中身は2015年がひとまず基準基点になされていたが……
となっていたが,一昔の時点でとりあげられていた本稿の内容は,「本稿(1)から(2)へ」と相当の分量を充てて記述してきた。だが,問題の性質上,いいかえれば,いっこうに顕著なる進展,改善が実現させえてこなかった「夫婦別姓制度」にまとわりつく「日本なりに畸型的だった後進国風の事情」,すなわち,いままで全然改革されえなかった,夫婦同姓に対する『時代錯誤の異様なこだわり具合』を議論する〈連続モノの論説〉になっていた。
その点を冒頭で断わってから,本日の以下の本論に進みたい。なお「本稿(1)(2)」のリンク先住所はつぎのとおりである。
※-1 明治時代に意図的に創られた家制度の「観念」であったからには,21世紀の現在にあってはもっと視野を広げて,抜本改正が必要不可欠である
つぎの統計図表は「本稿(2)」で提示してものであったが,こちらでも再度参照する。この図表は,「婚姻と離婚の件数」が年次ごとに推移してきた趨勢を表現しているし,さらには少子化の絶対的な傾向もついでにいったらなんであるが,ありのままに表現・指示している。
要は,現代日本における家・家族の問題をめぐり,より今日的な観点として理解すべき必要性のひとつは,このような統計図表が示唆する日本社会の家・家族(世帯)の現実そのものを,どのように受けとめて再考するかというところにありそうである。
すでに前稿までに既出の統計図表をここでもう一度呼び出し,かかげて,議論をしなおしてみたい。
さて,3組結婚したらそのあいだにすでに1組の夫婦が離縁しているという現状は,選択的夫婦別姓についてすら強引に反対する一部の頑迷勢力が盤踞するこの日本の政治社会なかで,しかも彼ら・彼女らの頭の中に構築されている,つまり,日本の醇風美俗として想像できている「夫婦像・家族像」が,決定的ともいえる模範型として,ほぼ狂信されてきた。けれども,その理想像を実現させるために具体的な社会政策のありようが,具体的に示されたことはない。
そのような勝手気ままに自分たちの明治謹製風の時代がかった「家・家族観」を昂揚させているうちに,少子化の傾向がどんどん深まる時代の潮流のなかでは,夫婦同姓が問答無用に絶対的に好ましい「現代風の家庭・世帯」をつくるための必要条件だと確信する「観念論」が,どれほど錯覚にとらわれかつ誤認に陥っているかに無知であった事実は,時間の経過とともに明々白々になってきたはずである。
『教育勅語』の世界に浮遊しうる観念論議があれば,この21世紀における少子化問題まで解決できるように,「家・家族」の制度を一気に構想できるはずなのだが,しかし,彼ら・彼女らが抱くその「理想的な家・家族像」のためには,いったいどのような国家の立場からの施策が必要になるのか,この肝心な条件に関した具体的でかつ有効性ある提言がなされたことはない。
つまり,その旧来からの制度の「一環としての同姓維持」,これに対応した「選択的夫婦別姓であっても大反対」という19世紀的なイデオロギーが,大きな顔をさらして闊歩する小世界が,この国のなかには実際に実在していて,選択的夫婦別姓すらもけっして認めないとする頑迷固陋の勢力が,そもそも政権党である自民党内に一大勢力としてのさばっている。
そんなこんなことにこだわっていいつづけているうちにこの国は,森嶋道夫『なぜ日本は没落するか』(岩波書店,1999年)が公刊されてから早,四半世紀が経ったところで,自国のほかの経済学者から「衰退途上国」だと判定される始末になっていたが,それでもなお『教育勅語』的な世界観を憧憬する「アンポンタン」の保守・右翼・反動の政治屋たちが,けっこうな勢力で自民党内には生息している。
教育勅語をたまわった当人が〈何人ものめかけ殿〉をかかえていながら,その人物が別途,道徳的・倫理的なあり方を国民(臣民)たちに説くという関係は,どう考えても納得がいくわけがない「19世紀旧民法の日本社会観」を指示していた。
※-2 離婚ということば
1) 離婚に関する時代ごとの「趨勢と観念」
日本において実は,19世紀末の離婚率が比較的高かった。そして,太平洋戦争の敗戦に向けて,漸減していったのは意外に思える。
それは江戸から明治に時代が変わり,さまざまな法令が定められ,そのなかに家制度(1898年制定の民法で規定された家族制度)の概念が浸透していったことが原因である。みかたを変えれば,江戸時代は離婚に関してもある程度緩やかな考えだったことが分かる。
補注)以下に挙げる図表は20世紀に入ってからの「婚姻関係」の統計図表である。「離婚」の問題と相対する前提となる資料として,ここに挿入しておくことにした。太平洋戦争時あたりで統計が欠落しているが,戦争の影響がこのような場面に反映されていた。日本全体の人口減少は21世紀の初めの10年代から実質始まっていた点も,これらの統計図表から読みとれる。
太平洋戦争が終わると,婚姻率の上昇と合わせるかたちで離婚率も上昇したあと,1960年代までは漸減。その後,ゆっくりと上昇に転じる。1980年代後半には婚姻数・率の減少に影響されるかたちでやや凹みをみせるも,再び上昇を再開する。2000年代初頭にピークを迎えたあとは,婚姻率の低下に連動するかたちで,再び漸減傾向をみせている。
なお,ごく当たりまえの事実をいうことになるが,婚姻しなければ離婚はできない(しない)。また,離婚率は「人口比」の関係では,婚姻している人たちが少なくなれば当然,離婚の可能性がある対象者たちも少なくなる。ちなみに,2014年における離婚件数は22万2107件,離婚率は 1.77( /1000人)であった。
その数字を婚姻率に関連させて計算をすると,要は「婚姻3件」あるとほぼ「離婚1件」という現状が,当然に明らかになる。「家・家族制度」が日本的な伝統としてあるのだと主張する人びとは,それなのにどうして,この国はそんなに離婚の比率が「結婚3件に対して1件」になるのかを,きちんと説明しなければいけないのだが,このあたりの問題になると,具体的には誰もいわない。沈黙は金……。
2)「離婚件数 / 結婚件数」の掲載をとりやめた理由
離婚件数と結婚件数の推移を精査したよい機会でもあり,ややトリビア〔末梢〕的な話となる。
定期的に更新している『日本の婚姻率・離婚率・初婚年齢の推移をグラフ化してみる』などにおいて,以前の更新記事では「離婚件数 / 結婚件数(結婚件数に対し離婚件数がどれだけ多いか)」を掲載していたが,現在ではとりやめている。
というのも,それは平均寿命の伸び,初婚年齢の上昇,結婚や離婚に対する意識の変化などを受け,「婚姻件数」と「離婚件数」,いいかえれば「婚姻率」と「離婚率」の連動性が低下しているからにほかならない。
註記)「直近では婚姻率 0.41%・離婚率 0.147%… 婚姻率・離婚率推移(1899年以降版,最新)」『ガベージニュース』2023年10月27日 02:42,https://garbagenews.net/archives/1892492.html
もっとも,その連動性が低下してきたからといって,その比率が完全に無意味となってしまうかまでは,確言できない。いってみればそれほどにまで「少子化」の問題に対しても関連する人口統計上,結婚問題が影響を与える形式や内容が変質してきた点は,よく理解しておく必要がある。
以上の『ガベージニュース』での不破雷蔵の解説を聴いて議論をいくらかしたところでも,前段に触れてみた旧習派の家・家族制度観的な「結婚」をめぐり吐かれていた意見は,とても現実の動向を踏まえていた中身にはなっていたといえなかった。
ただ「オレ・わたしはこう思う」程度でしかなかった,きわめて一方的で勝手なないいぶんが強調されていただけであった。いわば,明治民法「以来」だったはずの〈伝統文化的(?)に洗脳状態のまま堅固に維持させてきたつもりの自身の考え〉だかが,ひたすら条件反射的にいわせた観念的イデオロギーの発露だけがめだっていたのである。
離婚率は敗戦後に増えだした。かといって,まさか民主主義が悪いのだ,このせいなのだ,というわけにはいくまい。敗戦後の「自由と民主主義」「高度経済への発展実現」という「政治と経済の諸要因」が,離婚増加をもたらしたひとつの基本原因と考えられる。そういう前に,婚姻の件数そのものが減少してきた基本趨勢にも即して分析・判断・評論する余地が,大いに生じていた。
けれども,「旧態依然の頭脳構造の持主である彼・彼女らの意見」は,21世紀のいまごろになってもまだ,別世界・別次元において固着した発想としか受けとれないほど,現実遊離的な理解にこだわりつづけている。
そもそも,男女平等の政治理念などなかった敗戦前の結婚観(女性には参政権がなかったではないか)を,ただちに現在にまで引き出して比較するのは「能がない」というか,あえてなのか「比較しにくい比較」を承知(?)のうえで,その種の比較を試みるという〈見当違いの立場〉が,恥じらうこともなく昂揚されていた。そこではボタンのかけ違いどころか,衣服を裏返しに着こんでいる自分の姿を,鏡に写してみることさえなかった「唐変木の真価」が暴露されていた。
確かに,人によっては,姓が変わると自己喪失感をもつこともあるかもしれない。一方,愛のかたちは,戸籍上の夫婦の間柄にしか存在しえないものではない。また,戸籍まで一緒になると選択した以上,ひとつの名前になるのが当然だと思うのも自由であって,他人がとやかく口出しする感性ではないかもしれない。
姓がひとつになりたくなければ,結婚しなければいい。夫婦別姓にしたい人も,社会のなかで生きている。最高裁が下した判決にも冤罪がある。違憲判決が出たとしても,ただちに法改正をするのではなく,国会での議論が必要である。
以上に記述した別姓に関した議論は,政治家の亀井静香の意見を参照しつつ混ぜこみながら,試みたものであった。だが,この亀井の発言そのものがかなり乱雑であって,議論をする側の立場からはその主旨を整理するのに困難もあって,かなり困らせるような粗忽さも含まれていた。
そこであらためて問題にならざるをえないのが,日本の「戸籍」制度の由来・過去である。この「戸籍」の問題については,植民地時代に日本の戸籍制度が導入されていた韓国が,2008年から画期的な変更を実施していた。くわしい説明はここではできないが,本日の議論全体に関連する知見がえられると思い,ごく簡単につぎのようにだけ引用しておく。
3) 韓国戸籍制度の変更
以下に紹介する分だけを読んでも,日本の戸籍制度がいかに時代遅れであるか理解できるはずである。もっとも,日本政府はこの戸籍制度が世界におけるほかの国には絶対にありえない,とてもすばらしい国民家族管理制度だと確信しているので,けっしてこの戸籍制度の根幹そのものを変更する意向はないと思われる。
韓国はもともと夫婦が別姓の国である。そのなかで,2008年から以上のように戸籍制度の廃止し,個人別家族関係登録簿作成を用意・整備していた。
さて,ここにおいていきなりとなるが,前段で紹介していた政治家亀井静香の意見であった「日本では昔から姓を使っていたわけではないが,すでに,家族が同じ姓になるという文化が定着している。姓は,家族共通の標識。一体感をつくっていることは間違いない」という主張と突きあわせてみるのも,興味ある比較になる。
亀井が「間違いない」といい,これからも守っていくべきだと主張する「日本国における明治以来の家制度・家族主義」にまつわる「既定観念」らしきものが,いまの時代にあってもはたして,昔の時代となんら変わりなく通用するのだ,これは「間違いない」ことなのだと確言できるかといえば,これは間違いなく「間違い」だと断言できる。
韓国は従来「夫婦別姓」であった。この点はいまも同じであるが,亀井風の表現を借りて,つぎのように文章を作ってみるが,このように表現したところで,けっして不適切な指摘になるということはあるまい。
「韓国では昔から……すでに,家族が別の姓になるという文化が定着している」が,それでも,同じ家族内に存在しているこの異なる「姓は,家族共通の標識」たりえなくとも,この一家が「一体感をつくっていることは間違いない」。
しかも2008年から韓国は,前段で触れたように,以前の「戸籍法に代替する法律」である「家族関係登録等に関する法律」を制定していた。
※-3 『朝日新聞』『日本経済新聞』2015年11月4日朝刊1面コラムの皮肉な論調
1)「〈天声人語〉別姓,最高裁を動かすか」(『朝日新聞』2015年11月4日朝刊)
現在(2015年当時)の安倍晋三政権は「未来志向」を唱えていた。けれども,その本心は「『戦後レジーム』の否定」にあった。だが,そのかぎりでは,明治帝政時代への〈ふたしかな郷愁心〉としてしか,家制度・家族主義「観」に関連する諸概念を示しうるはずもなかった。
時計の針を逆回ししたかのような「家・家族の観念の逆走」を妄想することじたいは勝手であっても,しょせん,安倍晋三君1人だけの寝言であってまさに「寝言は寝ていえ」のたぐいでしかなかった。
こんな晋三君が第2次政権では7年と8カ月も総理大臣についていたのだから,この国の全般がマスマス傾いていったのは理の必然というか,日本国特有の自民党政権的な法則にさえ思わせた。
そしてなによりも,保守・反動・国粋・極右にとって重要であるはずのその基本精神が,まともに公表できるようなかたちを採った政治理念として示しえていないのは,結局,「旧来の家観念・家族主義」もどきの時代観念しか頭中には用意されていなかったせいである。
安倍晋三政権は,家制度問題に対する一般社会の動向だとか,これを最高裁がどうみているかなど,お構いなしに,自分たちが観念する「旧来・伝統型(?)の家族一体〈感〉主義」がありえたかのように錯覚したまま,必死になって〈そのなにか:「青い鳥」?〉を探していたつもりにみえた。
そのあたり問題性を簡単にかつ端的に表現すれば,明治帝政時代の封建主義を範型にしたかのごとき,いまどき求めるには,とてもではないが至難になっていた,どこかにあるかもしれない〈理想的な家族一体感〉を強く希求していたことになる。
ここでつぎのNHKのニュースを挿入しておくが,このような深刻な社会問題が現象せざるをえない状況のなかで,明治謹製の民法的な「家・家族観」をいまどき高らかに吹聴するのは,まったくに時代錯誤である。
そもそも家族として世帯,同じ屋根の下に同居するその人数はいまや,つぎの図表に表わされた水準まで低くなっている。この傾向はさらにじわじわと進む。この図表から単純にいうと,日本における世帯の平均人数は「ほぼ2人」になるし,先にはもっと減っていく。
そうした事象を踏まえてさらに単細胞的にとらえていえば,「夫婦2人だけの世帯」にくわえて「単独の生活者」が多くなるほかない日本社会が,実際にも到来しているという表現ができなくはない(もちろん,より正確にはもとほかの表現もできそうだが)。
本日〔2015年11月5日〕の報道はとうとう「非正規労働者層」が4割にも達したという事実をとりあげていた。2024年になっても,非正規雇用の契約で働いている労働者階層(階級)の人びとは,そのなかに高齢者層を含むにしても,
この調子だと,2015年10月1日時点に関する調査結果が判明するときは,さらに1%前後はまた,非正規労働者層は増えているに違いあるまい。もっとも次段に言及するように,最近はその比率は36%台にまで「改善・向上」してはいるものの,この数値が一桁台に戻るなどとは誰も思ってはいまい。
ところで,非正規労働者になるさいの理由として「育児などとの両立をあげた合計が33.4%と前回から 8.9ポイント上がった」と指摘されていた。非正規労働者になっても,賃金など労働条件面での待遇に関して,正規労働者と大きな差がなければいいのだが,〔いつまでも〕そうではない現実がある〔つづいている〕。
前段で氏名を出して触れた亀井静香のように,「愛のかたちは夫婦だけではない。戸籍まで一緒になると選択した以上,ひとつの名前になるのが当然だ。ひとつになりたくなければ,結婚しなければいい」などと,脳天気に発言していられるような「いまの日本社会における家・家族」関係をかこむもろもろの状況ではなくなった状態が,これからもつづく見通しである。
ところが,そうなってきたすえの現況にある事情が,これから大幅に好転する予想などできない。過去から現在まで何十年もの経過事情も併せて判断するに多分,これからも日本の労働社会の現実として,その方途のまま事情が継続していく可能性は大である。
亀井静香は警察官僚から自民党国会議員になった,それなりの上級国民的なエリート階層に属していた人間だから,以上のごとき,実に幸せな人生観を日本「上級国民」の1人としてそのように講じることができていたのかもしれない。
だが,21世紀のいまどきごく一部の恵まれた社会階層にしか当てはまらない発言を自信をこめてしたところで,その説得が通じる対象はなかなかみつからなくなっている。これが現状におけるこの国のありようである。
日本の産業社会が形成すべきであった「勤労者のために必要な経済生活の基盤」そのものに関していうとしたら,日本国憲法第25条に謳われている最低水準,すなわち
(1) すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2) 国は,すべて の生活部面について社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
と規定していた条件,換言すると,これは「国民には生存権があり,国家には生活保障の義務があるという意である」が,この最低のギリギリ水準よりも未満で実際に生活している(なんとか生存している)階層に分類されるべき人びとが,生活保護すら受けないで日々の生活をしている現実があった。
ましてや「シングルマザー世帯」で,子どもたちが3食に事欠く実態がいつまで経っても,ボランティアの支援活動によって,その窮状がわずかに救援されているような現実は,故・安倍晋三や岸田文雄たち(「世襲3代目の政治屋」ら)には,とうてい理解できなかった,そもそも感覚的にも認知すらできない問題になっていた。
この国は「日本国憲法に保障する文化的・・ ・」にも達しえない賃金水準の「非正規労働者集団」を,大勢,存在させつづけている。日本の現状では,働くよりも生活保護を受けたほうがマシだという「冗談にもならない声」が出るのは,それ相応の事情があった。しかし,日本の現状としてはその権利を行使しない人びとが多い事実もまた,別の問題を特殊に提示するものとなっていた。
2)「コラム〈春秋〉」『日本経済新聞』2015年11月4日朝刊
この日本経済新聞「コラム〈春秋〉」の意見は,ほぼ完全に別姓容認・推進の立場である。だが,夫婦が同じ姓でなければ,日本社会の「良き伝統文化」が崩壊するかのように,おおまじめで主張する政治家たちなどが,実際にはまだたくさんいた。
だが,いまの日本社会においては,いったいなにがより大事な問題になっているのか,あるいは,どこにいちばん切実な論点が隠れているのかといったことがらには目を向けないで,いわばピントはずれの議論をする人たちにかぎって,その種の意見に固執していた。
それよりも,若者が結婚したくてもできず,結婚ができて子どもがほしくても,非正規社員だから(とくに夫婦ともに)がまんを強いられている。「共稼ぎでようやく・なんとか」「世帯の経済生活」が成立している状況であるから,そこまで考えられないというのである。
その程度・状況での生活水準しか確保できていない「非正規労働者層:4割」が存在していくほかないのが,現代日本の「経済社会・産業経営」の実情であるとしたら,少子化がどうだとか,いかにしたらこの課題が解決に向かうかなどといった議論じたいが,最初から基本的な要因を視野に入れない空論になっていた。
つぎの2画像でいえば,「利潤の増大」のためには「賃金の減少」がいちばん手っとり早い方法である。労働生産性といわれるものが,その核心に控えている。また「設備面の合理化の対象」が労働手段と労働対象である。こちらの合理化努力によっても,むろん利潤を増大できる。通常,企業会計においては「利潤」のことを「利益」と呼ぶ。
「利潤 ⇒ 不払い労働 ⇒ 剰余価値」
「利潤率=利潤 ÷(利潤+賃金+労働手段費+労働対象費)」
註記)http://www.slideshare.net/hidesys/ss-22916964 より。
前段に出ていた「非正社員を雇う理由として一番多かったのが『賃金節約』」であった。これはまさしく「古典的かつ現代的でもある」「資本主義経済体制(資本制生産・販売様式)」において「本来的な法則である利潤追求」が,企業経営の営利活動に対する「強制律として作用せざるをえない〈経済現実〉」を意味している。
21世紀になってよりいっそう緊密に国際経済化(いわゆる多国籍化し,グローバル化)したのが,資本制企業経営活動である。資本の行動原理には,基本,国境はない。
いまさらのように,19世紀後半にカール・マルクスがその根源から批判した『資本主義の根本的問題性=ぬきがたい基本矛盾』が,あらためて今日的に剥き出しになっている。
補注)カール・マルクスの経済学入門書として,橋爪大三郎,イラストレーション・ふなびき かずこ『労働者の味方 マルクス-歴史に最も影響を与えた男マルクス-』(現代書館,2010年)を挙げておく。
アベノミクス? 冗談もほどほどに……。あれからすでに10年はタップリ時間が経過したが,まさに晋三「かく日本を壊したり!」であった。げにオソロシヤ「世襲3代目の政治屋」のアンポンタンぶりだけは,超一級品であった。しかも,彼のやったことといったら,万事が3~4流品であったこことが,バレている。
それゆえ,この国を「会社の評判(コーポレート・レピュテーション)」になぞらえ,「国家の評判(ステート・レピュテーション)」としての格づけを試みるとしたら,「衰退途上国」としてしかも「後進国的な素性」すらも思いおこさせる〈昨今の様相〉ゆえ,「相当によくない(悪い)」という結末になりそうなので,ひとまずその判定はしないでおく。
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【断わり】「本稿(3)」の続編(4)は以下になる。
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