瀧川政次郎「南北朝正閏」論,現代の天皇・天皇制は明治以来の創作であるという簡明なる事実
※-1 瀧川政次郎は「南北朝正閏」論をめぐる議論を通してであったが,現代の天皇・天皇制は明治以来の創作であったという単純明快な事実を指摘した
本記述は,瀧川政次郎『日本歴史解禁』昭和25年12月が語ったごとき,日本の天皇・天皇制をめぐる「歴史の真実」論というか,単なる「その事実生成史」論に目を向けて議論していく。
たとえば,皇族が20歳になると勲章(高位)を自働的に授与されるのは,なぜか(?)という事実問題に関して,その意味を論理的かつ歴史的に,そして政治社会的な意義づけとして,とりわけその理由をまともに真正面から説明してくれる識者はいなかった。
なぜなのか。不思議な流儀だ,その行為の意味がよく理解できないといった「皇室的な内情」が多々存在するにもかかわらず,もとより,その説明など不要だとみなしていながら,これになんとも感じていないように映る政治的な立場が,しかも問答無用的な発想としていまもなお係留状態にある。
※-2 瀧川政次郎『日本歴史解禁』昭和25年
本ブログ筆者が以前,地元の公立図書館から借りて読んだことがあったのが,この瀧川政次郎『日本歴史解禁』創元社,1950〔昭和25〕年12月という書物であった。最近この本を古書で入手できたので,再度読みなおすことにした。
本書『日本歴史解禁』のなかから最初に,第4編「建武中興と南北朝」第10章「南北朝正閏の論」に注目し,この全文を紹介する。なお原文には一度も改行がないが,読みやすさを優先し,改行を適宜にたくさん入れておいた。
--北畠親房が神皇正統記を著して南朝の正統の天子なる所以を明かにしなければならなかったことは,南朝が正統の天子であることに既に疑があったからである。彼が編み出した神器の所在によって皇位の正閏を決する理論は,学問的に見て頗るインチキなものであるが,意外の成功を収めて,明治の憲法学者までその説に敬服せしめた。
北朝には親房に相当するだけの代弁者がなかったから,北朝は武力闘争に於ては常に南朝が勝ったが,理論闘争に於ては南朝に敗れた。神器を中心として皇位の正閏を論ずれば,北朝に勝目はない。
しかし嫡庶を以て論ずれば,北朝は明かに正統の天子である。現行皇室典範の皇位継承法からいへば,持明院統の北朝が正統であるが,現行法を古代を遡行せしめることは,歴史を無視する考へである。事実を事実として公平に認めてゆく歴史の観方からいへば,両統ともに異った系統の皇位継承法からいって正統であると云はざるを得ない。
足利 尊氏が忠臣になってたまるものかといふのは,所謂判官びいきの感情論である。南北朝の合一は,明治政府のついた真赤な嘘であるから,前南朝と後南朝とを理論的に区別することは不可能である。
楠氏も正成,正行,正儀までは忠臣で,それ以後の楠木正秀や光正は逆賊であるとするのは,われわれの感情の許さざるところである。名分論で南北朝を論じようといふなら,もっと透徹した一貫の理論が必要である。
従来のやうな不徹底な理論と事実の隠蔽とによって,何が何だか訳のわからない国史をもってゐることは,文化国家日本の耻辱である。思想は思想を以て克服しなければならない。
川上・北山村数千の住民を鑿殺しても,南朝は正統であるといふ思想を根絶することは不可能であらう。熊沢天皇並びにその亜流の如き魑魅魍魎を一掃するには,警察力を用ひて弾圧するやうなことをしたのでは駄目である。
主権の存する日本国民の総意に基づくところの,日本国の象徴であり,日本国民統合の象徴である世襲の天皇とは,万世一系の天皇をいふにあらずして,明治天皇の御子孫をいふのである。
現代の日本は,主権在民の民主国であって,天皇家の家産国家ではない。南朝の皇胤であらうが,大覚寺統の正系であらうが,国民の大多数が認めて天皇と為さない者は天皇ではないのである。彼等をしてこの現代思想に目覚めしめることが,魑魅魍魎をしてその光芒ををさめしめる方途であらう。
註記)以上,瀧川政次郎『日本歴史解禁』創元社,昭和25年,120-121頁。
この文章の記述を読んできたら,いまここで実際に,ブログの記述のために活字を入力していながらだが,頭の中がクラクラしてきそうな気分になった。
古代史からの連関があっての歴史の話題なのだが,中世の南北朝時代を経て,明治時代から敗戦直後にまでまたがる「天皇家の正閏問題」に関する議論・主張であった。
万世一系であると信じられるからこその,神武天皇から平成天皇までの皇統譜であったはずである。
ところが,瀧川政次郎はそんなものは弊履のごとくあつかい,敗戦後にアメリカから与えられた新憲法:日本国憲法の第1条から第8条までにかかわりうる範囲内での,
つまり,そのたしかな「過去における近代天皇史」(=明治維新以降)のみを,「敗戦直後の時点」から評価・認知できる『本物の天皇』とみなしていた。
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※-3 天皇家の歴史は明治以来に創られたものである
瀧川政次郎は,「明治天皇の御子孫」以後の系統だけが,本当の「天皇家の歴史」である〔に過ぎない?〕と,完全に決めつけるがごとき口調で自著の論旨を展開していた。
明治以前の天皇史は「何が何だか訳のわからない国史」だとも断定している。
しかも瀧川政次郎は,日本国憲法の前文に記されている文句にしたがうかたちで,あたかも,自身の見解に「文句を付ける者はいない」とまでいわんばかりに,相当の自信をこめて発言していた。
瀧川政次郎のいいぶんは,非常に興味のもてる「天皇・天皇制の解釈」を提示していた。日本国には天皇が必要であるとはいえ,これに適格でありうる天皇が現実に存在していれば,それはそれでよしとする思考を前面に出していた。
過去における,それも大昔の南朝・北朝問題,その正閏論をムキになって議論したところで,詮ない業である。そんな議論は止めてしまえ,いまの天皇がいて,日本国民が天皇と認めているゆえ,この天皇を天皇として認めればそれでよろしいと,いってのけていた。
いわく「日本の天子が一系の天子ではない」(15頁)のに,
「事実を隠蔽し,事実を歪曲した歴史は,半世紀に久しきに亙って国民の脳裡に浸潤し,それがやがて軍閥によって悪用せられる素地を作ったのである」
「明治の教育者はきちがひである」(26頁)
「百何十人もの天皇を例外なく有徳の天子と信じさせようとすることが既に非常識である」(27頁)
ここで瀧川政次郎が批判して言及した中身は,21世紀になった現在においても,日本のマスコミが報道する「天皇一族に対する報道姿勢」に向けて同じに,そのまま妥当する見解である。
すなわち,いまのマスコミによる皇室報道は「天皇およびこの一族全体を例外なく有徳の天子と信じさせようとする」姿勢にある。
2011年「3・11」東日本大震災によって東電福島第1原発の大事故が起きてから,原子力村という概念が広くしられるようになったが,これに類させていえば,「天皇村」という概念が日本国の全体の上に〈現実の政体〉となって君臨していると形容してよい。
【参考画像】 ここで三土修平『靖国問題の原点』2005年から以上のごとき瀧川政次郎の「天皇・天皇制」観を,図解的にだがかなりうまく表徴させていた,つぎの2点を紹介しておきたい。この図解は,昔の日本だけを念頭に置いて作成されたものではなく,21世紀の日本政治に対してもよく妥当する要素を,適当に意味させうるように作図されていた。
瀧川政次郎さらにいわく「神武以来,天皇家が男系をとってきた以上,歴代の天皇が神武天皇の血液を承けられたかどうかは,証明の限りではない。血統は観念の問題であって,事実の問題ではない。要は国民の信念の上に,万世一系の観念があればそれでよいのである」(28頁)。
くわえて瀧川は,三種の「神器も天皇を離れれば偽器になるのであって,神器そのものに皇位が宿ってゐるわけではない」(29頁)といいきっていた。
こうなると,三種の神器について信仰していたとくに,昭和天皇の皇室神道的な信仰心さえ,まったくとるに足らない神道上の精神問題であることになる。というか,天皇家の信仰基盤は無意味化されてしまうのだから,皇室・皇族たちじたいの存在理由さえ,完全にみいだしにくくさせる。
瀧川政次郎は本書『日本歴史解禁』のなかで,明治以降,井上哲次郎や久米邦武,喜田貞吉,津田左右吉など,古代史研究にたずさわった学者がことごとく政府の排斥・弾圧を受けた事実が,彼自身も含めての事実史であった点に言及していた。
瀧川自身が『日本奴隷経済史』刀江書院, 昭和5年を公刊し,「奈良・平安の奴隷制度を論じたので,満洲に逐はれ」た(30頁)事実にも触れている。
本ブログ筆者は研究の必要があって,満洲帝国政府編『満洲建国十年史』原書房, 1969〔昭和44〕年をひもといたことがあるが,この本の「解題」を執筆したのが瀧川政次郎であった。
瀧川政次郎は,旧満洲帝国が旧大日本帝国の傀儡国家であった事実などなんとも感じずにその解題を説いたなかで,このデッチ上げられた国家は「経営の仕方」さえうまくやっていれば,いいかえると軍部の横暴がなければ,順調に成長できる可能性があった国家であるかのような調子で語っていた。
その意味で,瀧川政次郎の立脚していた政治思想的な立場は必然的・不可避に,二律背反的な特性をもっていた。それでも,天皇家の菊の紋章については,こうまで指摘していた。
「現在皇室の御紋章となってゐる菊花は,本来仙洞御所の御紋章であって,天皇の御紋章ではない」
「明治政府が後醍醐天皇の天皇親政主義を正しとするならば,院政時代の名残りである菊花御紋章を先づ廃止すべきではなかったらうか」(以上,107頁)。
瀧川政次郎の学問の立場や理論の観点がどのような価値観に依るものであれ,歴史の事実に則して「天皇・天皇制の研究・解明」をなさねばならない方途を強調し,確信していた。
「歴史の事実」を究明していけば,現在の天皇・天皇制を真っ向から批判し,否定する立場も出てこないとは限らない。これが瀧川政次郎の基本的な視座である。いうなれば,学問研究に関してはなにも禁忌は置くことができないという考え方が,瀧川の確信であったと解釈できる。
しかしまた,いずれにせよ瀧川政次郎の論述はねじれており,複雑な心境を背景に控えていることも教えていた。
戦前,瀧川政次郎『日本奴隷経済史』刀江書院, 昭和5年などのせいで,旧満洲国に逐われた自分の立場がよほど悔しかったらしく,怨念をもって天皇・皇室史を研究しているかのようにも感じられる。瀧川の本を読むと,そういう気迫がひしひし伝わってくる。
補注)瀧川政次郎の経歴については,http://ja.wikipedia.org/wiki/瀧川政次郎 が参考になる。
※-4 2014年12月下旬における話題-佳子20歳,礼賛するかに聞こえたある皇室記事から「王女」(民主主義国家日本における皇女という存在)を考える-
皇室大好き新聞社である『産経新聞』から,本日の話題に関連する記事を引照する。この『三K新聞』は,いつものことながら,ときおり「歯が浮きそうになるか」のような皇室報道がないわけではないゆえ,しっかり口内を引き締め,歯がみしたうえで聞くことにしたい。
1)「佳子さま20歳のお誕生日 ご公務『一つ一つを大切に』」『産経新聞』2014.12.29 05:17 更新,http://www.sankei.com/life/news/141229/lif1412290010-n1.html
秋篠宮ご夫妻の次女,佳子さまは〔2014年〕12月29日,20歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち東京・元赤坂の宮邸で初めての記者会見に臨み,高校生のころは成年に「大人のイメージ」があったとしたうえで,「自分が成年を迎えるとなると,まだ未熟なところが多くある」と心境を述べられた。来〔2015〕年1月1日の新年祝賀の儀が成年皇族として初の公務で,同2日の新年一般参賀で国民にもお披露目される。
佳子さまは成年を間近に控えた今〔2014〕年11月以降,障害者や国際親善,教育などに関連する公務に相次いで臨席されてきた。成年皇族として公務の機会がいっそう増えるが,「関心をもっている」ことよりも「いただいいた仕事をひとつひとつ大切にしながらとり組んでいくべきだ」との考えを示された。
プライベートでは,8月末で学習院大学を中退し,来〔2015〕年4月からあらためて国際基督教大学(ICU)に進学される。公務に臨むなかで,「英語でコミュニケーションをとれることや,幅広くさまざまなことをしっていることが大切であると感じるようになり」,英語教育や教養科目が充実したICUを志望されたという。
ご自身の性格では,短所を「父と同じように導火線が短い」とご説明。結婚については「将来的にはしたい」としたうえで,大学生活を送ることを踏まえて「現在は考えておりません」と答えられた。理想の男性像は「一緒にいて落ち着ける方」と打ち明けられた。
補注)なお,つぎの記事も参照しておきたい。「佳子さま,国際基督教大学ご卒業」『産経新聞』2019/3/22 10:04,https://www.sankei.com/article/20190322-S7GH4IOA4JLZTL46LOZHKKWF2U/?outputType=theme_nyushi
前段のごとき佳子に関した記事のなかで,いわゆる皇族たちの「ご公務」が20歳になると当然に,国家によって決められているかごとくに発生するらしい「事実」が書かれていた。
だが,この点については基本的な疑問がもとからあった。その付近から発生せざるをえない「現代皇室問題のひとつ」については,政治社会学という学問形態がありうればと前提したうえでいうが,真正面から討究すべき題材が一塊,与えられていたはずである。
それにしても,いつ・どのようにして皇族の1員である彼女(佳子)のごとき人物が,皇室制度的な公務という仕事に就くべき「人間としての存在」になっていくのか? いまだに,不可解かつ不透明である,理不尽に当然視されてきたことがらが多い。
もっとも,この種の疑問すら抱く日本国民などがほとんどいない,ごく少数派だという現実もあるゆえ,なおさら,この国なりに執りおこなわれている「皇室行政」には,摩訶不思議な事象が,それも雑多に混在していると観察して当然であった。
皇族たちの行動を裏づける国家予算は,いうまでもなくわれわれが支払う血税である。皇族たちがどのような仕事をするとかしないとかについて,国民の意思が反映されてきたというたしかな事情・経緯があったかと問われれば,これはきわめて希薄でありあいまいであった。
宮内庁関係筋が勝手に決めている。宮内庁を司る高級官僚は,日本国のほかの各官庁諸部署から輩出され要員されているにしても,皇族たちの仕事・業務を「ご公務」という非正式の名称を充ててなさしめる疑似制度を既成事実化してきた。
本日のこの記述において,最初に登場させた瀧川政次郎(1897-1992年)ならば,現状の皇室・皇族たちのありように対して,いったいなにをどのように発言するが聞いてみたいところであったが,いまの人ではもうないがゆえ,かなわない願望。
この記述が言及する対象となった佳子は,平成天皇の次男:秋篠宮の次女であるが,なにゆえ,しごく当たりまえであるかのように「ご公務」が彼女の立場として,つまり必然的・予定調和的に発生していたのか?
はたして,その法的な裏づけ,そのたしかな根拠があるのかさえ不確かなこの問題を,学問的・理論的に究明した学究はいないのか?
2) 小田部雄次『近現代の皇室と皇族』2013年
小田部雄次『近現代の皇室と皇族』敬文舎,2013年は,この本に巻かれた帯に「皇族には,法文として明示された『ご公務』はない」と書いているほどである。
佳子が20歳になったときに「ご公務」に就くなどといった報道じたいが,きわめて異様な「皇室に関する事実」に関した「無批判的な国民への伝達」だと受けとめねばおかしい。
小田部雄次は,天皇に関する国事行為(日本国憲法で定められた)についてさえ,こう指摘している。
「今日広く知られる天皇の行為には,国際親善や行幸啓などの公的行為,宮中儀式などの私的行為もふくまれ,これらは憲法に明記されていない広義の公務として既成事実化している」
そして,結論としては,こうも批判している。
本ブログはほかの諸記述で言及してきたが,安倍晋三の第2次政権による日本軍国主義化の深まり,それも在日米軍基地による日本国実質支配下におけるアメリカ従属体制として「ふつうの美しい国」になりたい志向性の実現(集団的自衛権行使容認・安全保障会議設置・武器輸出禁止3原則緩和・特定秘密保護法など)が,この日本という国家を,いよいよより曲りくねった方途に向かわせてきた。
キャンプ座間および在日米軍横田基地などは,米日軍事同盟関係の大枠のなかで,日本国防衛省3軍がアメリカインド太平洋軍の実質,傭兵的な位置関係に置かれつつ共同的にその軍事的任務および役割を分担させられている現実関係を,日本国の人びとはもっと真剣に直視したうえで,その国際政治力学と軍事運用面のありかたを「自国の問題」として自覚する必要があるが,その認識が希薄である。
第2次大戦で敗戦国となったドイツ・イタリア・日本のうち,いまだにほぼ完全に近い態様でもって,米軍のあたかも麾下に実在するごとき自衛隊3軍のこの容貌は,実にみっともないどころか本当に悲しい「奴隷軍的・三下的な軍事組織」であるとみなされて当然である。
さて,いうまでもないが,日本国憲法の第1条から第8条までは天皇条項であった。そして,つぎの第9条が戦争放棄関係の条項であった。敗戦直後は,旧日帝の軍隊組織が崩壊したあとを穴埋めする軍事力を,米軍を中心とする連合軍がになうことになった。この軍事力が天皇・天皇制を支持する現実的な国力(武力=防衛力)を意味した。
しかし,1950年6月25日隣国で朝鮮戦争(韓国動乱)が突発すると,その在日米軍は朝鮮半島(韓半島)に出動し,日本は兵力的には空白状態になった。それを代替する軍事組織が,警察予備隊という名を付して,それも日本人の将兵によって編制される方法でもって,敗戦後史の日本における政治過程を,つまり空白化した日本国内の軍事力を補填・整備することになった。
朝鮮戦争が勃発する以前からすでに蠢いていたが,皇室・皇族が戦前・戦中に似た利用価値を再度みなおされてきたなかで,さらに大いに活用される動向が実際に強化されてきた。
要は,天皇一家・皇族たちは国家支配体制側にとってみれば貴重な存在物であり,ある種,特定なのだがかっこうの利用価値があった。昔もいまも,そうであった。
彼らの一群がどのように使えるのかと問われたら,それは敗戦までの旧大日本帝国の「負の実績(敗戦を体験させられた)を指摘しておく関係」が相当に気になりながらでも,それとはひとまず別に,要は敗戦後的な行路が新しく開拓されてきたところにあった,という具合に答えられる。
纐纈 厚の最新作『集団的自衛権容認の真相』日本評論社,2014年12月は,自衛隊組織が文民統制など無視する日本の軍隊として存在してきた戦後史に触れ,安倍晋三の第2次政権時に強行されつつあった,この国の「ふつうの国」化,「美しい国」化に警告を発していた。
現状における「在日米軍基地付きの日米安保体制」は,この日本国を「ふつうではない・醜いアヒルの子」に留まることを強いてきた。
最近は「対米従属国家体制」下にある日本という理解が,当たりまえの国内事情になりつつあるが,この事実じたいが日本政治のなかに異様な現象を多発させる原因になっていた。
以上のごとき現在的な政治・外交状況を念頭においてさらに,前段で注目してみた皇族の1人佳子に関する新聞報道を引用してみたい。ここでは,もちろん『産経新聞』につづけて聞くことにする。
☆ 佳子さま,両陛下に成年のごあいさつ ☆
宝冠大綬章と副章 秋篠宮ご夫妻の次女,佳子さまは〔12月〕29日,20歳の誕生日を迎え,皇居・宮殿で,天皇陛下から成年皇族としての「宝冠大綬章」の勲章を授与された。
秋篠宮邸で礼服の「ローブデコルテ」に勲章やティアラなどを身に着けた正装に着替え,再び宮殿で,天皇,皇后両陛下にあいさつされた。
ローブデコルテは白地に金糸の花模様入り。プラチナにダイヤモンドがあしらわれたティアラは,ほかの宝飾品とともに約2800万円で新調された。
あいさつを終えた佳子さまは宮殿の玄関に姿をみせ,報道陣から「おめでとうございます」と声をかけられると,笑顔で会釈して車に乗りこまれた。夜には宮邸に両陛下を招き,夕食会が催される。
佳子さまは勲章の親授式に先立ち,皇室の先祖や神々をまつる宮中三殿に参拝し,成年皇族の仲間入りをすることを報告された。
註記)以上,http://www.sankei.com/life/news/141229/lif1412290031-n1.html 2014.12.29 18:48 更新。このリンク先・住所は現在(2024年5月14日)削除状態。
ところで,「皇室の先祖たち」は祖先神として,宮中三殿の賢所(天照大神)や皇霊殿(歴代天皇)に祀られている(ただし瀧川政次郎流にいえば,その間違いなどが絶対にない,つまり,確証などない先祖たちの霊魂〔?〕であったわけだが……)。
国費(税金)で身を豪華に飾った昭和天皇のひ孫娘の1人が,天皇家の私家的な信心(皇室神道)の対象である賢所や皇霊殿に参拝し,それらの霊に「20歳になった」報告をしたという。
まともに社会常識を備えているつもりの日本国民であれば,すなわち,税支払者(タックス・ペイヤー)の立場を自覚できている「彼ら・彼女ら」ならば,こうしたニュースに報道される日本の政治の「事実・現象」に違和感をもたないほうがおかしい。
次表は,最近は小出しにしてしか年次分を出さなくなっているので,以前,宮内庁ホームページから収録しておいた「宮内庁関係予算の推移」を紹介しておく。
『産経新聞』の記事【皇室ウイークリー番外編】「佳子さまご成年 20年のお歩みを振り返る」2014.12.29 06:00更新,http://www.sankei.com/life/news/141229/lif1412290003-n1.html からさらに引用しておきたい。ウェブ版のこの記事は「(1/4~4/4ページ)の分量」であるが,最初の1頁目・冒頭部分のみ引用しておく
庶民(平民)の誰かであれば,どうということもない話題であったが,ここでは,貴人あつかいでの記事報道になっていた。
そこでは,「学習院大を中退し,国際基督教大(ICU)への進学を決めた」というけれども,たとえば,この進路変更について両大学は「どのような対応をしてきたのか」,報道するマスコミはなかった。筆者のしるかぎりでは,なにも分かりえなかった。
日本国憲法で “平等原則,貴族制度の否認及び栄典の限界” を定めた第14条は,こう書いている。
現在の天皇・天皇制に関して「社会的身分又は門地」とか「華族その他貴族の制度」とかが,問題にならないはずがない。
なかでも「栄誉,勲章その他の栄典の授与」という事項についていえば,天皇の姪の立場であれば「20歳になると」「成年皇族としての『宝冠大綬章』の勲章を授与された」というのであるが,
この事実に接したふつうの国民・市民・庶民,民主主義を標榜する国家体制において生きている人びとは,首を傾げざるをえまい。この種の疑念は,ごくふつうに湧いてくるものであった。
ところが,そのような指摘をしたら即座に「非国民」だとか「反日」だとか,迷妄・虚構でしない〈決めつけ的な暴言〉を放つ人びとが,ときたま存在するようである。
だが,その種の反応をいきなり示す感性をもつ人びとは,反市民意識・非民主主義感覚の持ち主である。どのような相手の意見であっても,これをすなおな感性で受けとめ,そしてより理性的に考えるのが,知性的にも常識あるまともな人間が執るべき立場である。
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