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1936年ベルリンオリンピックでマラソン優勝者孫基禎が授与された〈古代ギリシャ戦士冑〉

 ※-1 2023年11月16日,第11回オリンピック「ベルリン大会:マラソン競技」

 本ブログ『現代日本社会の諸相』は,以前の2023年11月16日に,「ベルリンオリンピックのマラソン優勝者孫 基禎の葬儀には日本から弔電の1通すら発信されなかったという『実話』」( https://note.com/brainy_turntable/n/n0200881b095a ) という記述を公表していた。

 最初につぎの画像資料をみてもらいたい。右下に,孫 基禎が1936年8月1日から8月16日にかけて,ドイツのベルリンで開催された第11回オリンピック競技大会においてマラソンに出場して優勝したさい,金メダル以外に「副賞」として受けとるはずだった「古代ギリシャ戦士の冑」の画像が載せられている。

 その冑をめぐって論述した諸文献などから,本日の記述を構成する材料が集められている。

右下の冑に注目

 繰り返していうが,1936年にベルリンで開催された第11回オリンピック競技大会において,マラソンの優勝者に対して副賞として授与される「予定であった」この「古代ギリシャ戦士の冑(現物)」は,実は当初,孫には与えられていなかった。しかも孫自身が,この「副賞」の存在じたいを,だいぶのちになるまでしらなかったという。

 ※-2「韓国の文化体育観光部 国立中央博物館・ホームページ」のなかの解説など

 下に指示したそのリンク先・住所(画像になったそれ)では,「孫基禎寄贈青銅冑」という頁が,関連する経緯・事情についてくわしい解説をおこなっている。ここでは,その冒頭部分,この冑の画像が置かれていた段落に関してのみ,さきにこの画像資料のかたちで出しておく。

高さ23㎝という寸法は着用の仕方に依ると思うが
現代人の頭部の大きさに比較するにそれほど大きいとは思えない
単純素朴に感想を述べておく


 ※-3 『明治大学校友会福岡市地域支部だより 風のふくおか』第43号,2019年8月に寄稿された明大卒業生の一文

 この寄稿の題名は,「オリンピック男子マラソン優勝者 孫 基禎(ソン・キジョン)と明治大学オリンピック男子マラソン優勝-TOPIC」であった。以下に紹介する。

 以下に画像で読んでもらう文章は,戦前の1936年という時期,孫 基禎が旧大日本帝国の支配下にあった「朝鮮人(いまふうにいえば韓国人)の選手の1人」として,つまりは日本帝国の臣民として出場したベルリンオリンピック大会で優勝したがゆえに,「時代から否応なしに強いられた軋轢・矛盾」を説明している。

「マラトン戦士」という用語あり

  つぎにかかげる画像資料は,本ブログ筆者の手元にある,その「マラトン戦士が戦闘時の装備として着用した青銅の冑」を擬して制作されたレプリカ〔のひとつ〕を撮影したものである。

撮影時の手ぶれでやや左側に傾いて写っている

孫基禎が配った「レプリカの本物」のひとつである

なおこのレプリカの場合「上下の寸法は11.5㎝ほど」であり
本物の半分になる

 この画像に写っている台座の前面に張られた説明板の文句を書き出してみるが,つぎのとおりである。

           ANCIENT GLEEK HELMET

 This bronze helmet,made in Corinth,Ancient Greek in the 6th century B.C., was presented to Mr. Sohn Kee Chung, Marathon Winner of the 1936 Berlin Olympic Games.

       With the Compliments of Sohn Kee Chung

ANCIENT GLEEK HELMET の説明文



 

 ※-4「駿河台文芸 第40号」2021年6月1日『駿河台書評 2(34号~40号)』https://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/represent/view?relicId=4359

 表記の「諸号」のなかに,「寺島善一『評伝 孫基禎(ソン・キジョン)―スポーツは国境を越えて心をつなぐ―』社会評論社,2019年(長瀧 孝仁)」という文章が寄稿されていた。

 本日の記述内容として,そのなかからつぎの段落を引用しておきたい。かなり長めの紹介となるが,肝心な中身が記述されているはずと判断し,くわしく参照したい。

 ▲-1 過去オリンピックはなにかと政治に利用されがちで,とくにマラソン競技には不幸がつきまとう。

 ナチスドイツの威厳を示すプロパガンダに利用された1936年のベルリン・オリンピック。これに抗議するため企画され,スペイン内戦勃発で中止となった非公式のバルセロナ・人民オリンピック。日中戦争勃発により,政府が開催を返上した一九四〇年の東京オリンピック。〔以上戦前に開催〕

 マラソンで銅メダルを獲得しながら,4年後に当の陸上自衛官・円谷幸吉を自殺へ追い遣ってしまった1964年の東京オリンピック。パレスチナ・ゲリラ乱入によるイスラエル選手殺害という惨劇にみまわれた1972年のミュンヘン・オリンピック。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して,日本もボイコットした1980年のモスクワ・オリンピック。〔戦後に開催〕

 マラソンが特別視される理由は,本書の言葉を借りれば「最終日の最終競技としておこなわれるように,マラソンはオリンピック全競技中で,もっとも壮大でもっとも感動を与える種目である。だから,優勝者は競技後に勝利の月桂冠を被り,人類の英雄として賞賛を一身に浴びる」からということになる。

優勝した孫の前には3位になった南 昇竜も表彰台に上がっていた

南は孫と同じくその後明治大学に通った

2人ともなぜかうれしそうな表情は浮かべておらず
むしろ悲しそうな表情が感じられる

 ▲-2 いまからちょうど80年前,神保町程近くの明治大学駿河台校舎には,世界屈指のマラソンランナーが,法科の学生として学んでいた。名前を孫 基禎(1912〜2002年)という。

 直前1936年のベルリン・オリンピックのマラソン金メダリストである。しかし彼には,日本政府から「陸上競技をしてはならない。集会に顔を出してはならない。静かにしていろ」とのお達しが出ていた。

 大学生なのに陸上部に入れず,箱根駅伝も走れないという理不尽な境遇だった。孫は勉学に励むしかなく,優秀な学業成績で卒業したという。

 孫が本学で学ぶことになった経緯は,つぎのようなものであった。

 孫は,日本統治下の朝鮮半島北西部の新義州で生まれている。中国との国境・鴨緑江に臨む北朝鮮の南敏浦洞である。孫少年は酷寒,極貧,差別と闘いながら走ることに目覚め,日本への丁稚奉公など紆余曲折の時期を経て,ソウルにある陸上の名門・養正高校にスカウトされている。

 19歳になっていた。ここで,才能が一気に開花する。出場した朝鮮と日本のマラソン大会を総なめ,翌年のオリンピック代表選考会を兼ねた1935年の明治神宮体育大会で,2時間26分42秒という世界新記録を出して優勝している。

 ベルリン・オリンピックのマラソン競技においては,圧倒的に強い朝鮮出身者を排除して日本人選手を優先出場させようとする執拗な嫌がらせもあったが,結果として金メダルに孫 基禎,銅メダルに南 昇龍と2人の朝鮮出身者が表彰台に上った。

 ▲-3 ここから孫は,自身想像もでき来なかった社会の潮流に巻きこまれてしまう。

 2人のメダリストが出たことで朝鮮半島は沸き返り,号外が出され,高揚した新聞記事も書かれ,半島全体が興奮の坩堝と化した。

 日本政府及び朝鮮総督府は,この孫 基禎の優勝がナショナリズムを刺激して,独立運動が興ることを極度に恐れた。孫がいくところいくところで何重もの人垣に囲まれ,英雄扱いされることを阻止しようとした。

 しだいに孫は,自分が特高警察の監視下にあることを覚らざるをえなかった。後日孫が朝鮮に凱旋した時には,すでに祝賀会,歓迎会などできる状況ではなかった。孫を訪ねて来た無実の友人や新聞記者が何人も警察署に連行されて,不当な取り調べを受けるようになっていた。

 孫は,自分がソウルに居ることで周りに迷惑をかけていることを自覚し悩んだ。すでに25歳になっていたが,朝鮮を離れるために日本の大学で学ぶことを決意した。

 しかし,危険人物扱いされて特高警察にマークされている人物を入学させる大学はなかった。体育科があった第一志望の東京高等師範学校(現筑波大学),第二志望の早稲田大学とも受験すらさせてもらえなかったのである。

 窮地に陥った孫に救いの手を差し伸べたのが明治大学であった。当時本学は,朝鮮の有能アスリートを学生として多数受け入れていた。銅メダルの南もまた,本学の出身者であった。すでにに卒業して朝鮮総督府や満鉄に勤めていた有力OBたちが,大学当局に働きかけてくれたのだった。

 しかし,渋々許可した日本政府は,先述のごとく姑息な条件を付したのである。

 ▲-4 2002年11月17日,ソウルでおこなわれた孫 基禎の葬儀に急遽参加した著者は,想像を絶する異様な光景を目の当たりにする

 孫は韓国陸上競技連盟会長,韓国大手企業幹部などを歴任しており,歴代韓国大統領からの供花も届いているというのに,日本人陸上競技関係者の参列,供花,香典,弔電がひとつもなかったのである。

 アマチュアスポーツは,国からの補助金でなりたっている世界である。戦後一貫して本人と韓国オリンピック委員会から「孫 基禎の金メダルを韓国のメダル数にカウントする」よう求められているJOCに配慮しすぎた結果であろう。

 ことの詳細は,当日参列した柳 美里(ユウ・ミリ)さんが作家の眼で観察,報告した文章があるようだ。

 ▲-5 2002年12月21日夕刻,明治大学リバティタワー一階で「孫 基禎先生を偲ぶ会」が開催された。ソウルの葬儀で憤慨した著者が,当時の岡野加穂留学長に訴えて実現した催しである。

 岡野学長は,日本サッカー協会会長だった従兄弟の岡野俊一郎から,2002年の日韓共催ワールドカップサッカー大会開催における孫の尽力ついてよく聞かされていた。

 当日,新聞でしったというマラソンの小出義雄監督の姿もあった。有森裕子,高橋尚子などを育てた名伯楽である。「孫さんにはマラソン指導の要諦を教わった」とのこと。

 同氏〔小出〕は学外者であるが,陸連の顔色を窺ったりせず率直に駆けつけたところ,流石と思わせる人物であった。

 ▲-6 映画『民族の祭典』『美の祭典』はベルリン・オリンピックの記録映画である。不世出の名作である。二部に分けて撮影され,第一部の『民族の祭典』で陸上競技を取り上げている。

 撮影依頼を受けた当初,レニ・リーフェンシュタール女史は一度辞退している。その後,単なる記録映画ではなく「唯美的映像を追求した芸術作品」を撮るという方針に変更して撮影が開始された経緯がある。

【参考画像】-リーフェンシュタールとヒトラーと孫 基禎-

ヒトラーとリーフェンシュタール
ヒトラーの説明は不要
孫 基禎とリーフェンシュタール
彼女はベルリンオリンピックの公式記録映画「民族の再現」を制作

 この作品に於いては,純然たる記録映画では許されないような,批判覚悟の撮影手法が駆使された。試合の最中には選手に接近した撮影が許されないため,練習時に近くから撮影した映像や上空から走行を撮影した映像を本番の映像に合成したりした。  

 孫 基禎はレニの協力者の1人だった。いわれるがまま首にカメラを下げて走り,足元の撮影を手伝った。試合映像に挿入されて度々現われる足元の影は,見事にランナーの疲労感を象徴していた。

 レニは閉会後に,孫を自宅に招いて慰労している。孫は素直に,後世に映像を残してくれたことを感謝した。

 『民族の祭典』には,孫が疾走する雄姿と日本政府がたびたび問題視した孫の表彰台での態度が記録されている。屈辱と無念の思いから副賞の月桂樹の苗でユニフォームにある胸の日の丸をそっと隠し,君が代奏楽と日の丸掲揚のあいだ終始肩を落としてうつむいていた映像である。

 その後2人には二度の再開もあった。レニは孫に心を開いて,戦後ナチスの協力者として指弾されつづけた苦しい時代のことを告白した。孫もまた,マラソンで金メダルを取りながら危険人物扱いされて特高警察にマークされ,日本政府には走ることさえ禁じられた過去を話した。

 非凡な才能に恵まれ,時代に残る偉業をなしとげたばかりに味わわねばならなかった試練。そんな2人だからこそ,たがいに分かりあえる会話であったことだろう。

 孫と明治大学等の孫 基禎シンポジウムにいつも出席される柳 美里さんとの関係にも触れておく。柳さんの祖父は,幻となった1940年の東京オリンピック・マラソンの候補者として,孫から薫陶を受けていたのである。

 柳さんが孫との初対面で祖父のことに触れたとき,「作家の君とこうやって話をするのに,母国語で話せないというのも悲しいことだ」といわれ衝撃を受けている。当時柳さんは未だ韓国語を習得しておらず,その後猛勉強して韓国語をマスターされたそうである。

 ▲-7 駿河台の明治大学博物館の入口には,レプリカの青銅の兜〔冑〕が展示されている。孫 基禎から寄贈を受けたものである。この兜の来歴を述べてみる。

 オリンピックの聖火リレーは伝統的行事ではなく,1936年のベルリン・オリンピックで初めて採用された。

 南欧方面へ領土的野心があったナチスドイツが,〈ギリシャのオリンポスの丘で採火された聖火が,アテネ⇒ソフィア⇒ベオグラード⇒ブタペスト―ウィーン⇒プラハを経てベルリンに到着する〉という現代の神話を創作したのである。

 「聖火ランナーが走る道を整備しなければならない」と偽り,ドイツ軍南下時に戦車や弾薬を積載した軍用トラックが通れるかどうか測量調査を重ねて行った。

 この聖火リレーを喜んだのがギリシャ国民だった。ギリシャのブラデニ新聞は,マラソンの優勝者に青銅の兜を副賞として贈呈すると宣言したのである。古代ギリシャ時代に,マラトンの戦いの勝利をアテナイ市民に報告するために走った兵士が被っていたといわれる兜である。

 ▲-8 孫 基禎が英雄視されることを極度に嫌った日本政府は,ベルリンの日本選手団に届けられた兜を孫に渡さなかった。アマチュアリズムに反すると難癖を付けて,ベルリンに置いて帰った。

 この兜はドイツのいくつかの博物館を転々としたのち,シャルロッテンブルグ博物館に収蔵された。そして50年後,ドイツオリンピック委員会から本来の所有者である孫 基禎に手渡された。

【参考画像】-シャルロッテンブルグ博物館として利用された同宮殿-

参考画像-現在は宮殿として保存

 現在この青銅の兜は国宝に指定され,ソウルの国立中央博物館に収蔵されている。感極まった孫はこの兜の複製の作製を思い付き,生涯で世話になった関係各位にみずから配ることにした。そのうちのひとつが,明治大学にも届いたのである。

【参考画像】-以前の解体される前の韓国国立中央博物館は,旧大日本帝国が朝鮮総督府として建築したこの建物( ↓ )を再利用していた-

この出典となったブログの記述はさらにいくつかの画像をかかげていた

旧日帝の性根の悪さを表現するそれも提示していた

 本書を繙くと,偏狭な対応を積み重ねて歪んでいく日本の政策とそれにもめげず前へと進む孫 基禎の器の大きさの対比がきわだつ。著者は孫 基禎を「生涯を通じて真のオリンピック精神を体現した人」と高く評価している。(引照終わり)


 ※-5 以上のまとめ-ヒトラーと旧日帝と孫 基禎-

 1936年8月,ベルリンオリンピックにおける孫 基禎のマラソン優勝,⇒1945年8月の日本敗戦・朝鮮解放,⇒2002年6月の日韓共催ワールドカップサッカー大会開催における孫の尽力という足跡は,20世紀における日韓間を吹きすさんだ「歴史の荒波」を,苦難と忍耐でもって乗りこえてきた孫の一生を,その歴史の節目として記録するものとなった。

 ところで,ナチス・ヒトラーは日本・日本人・日本民族をどう観ていたかを,『わが闘争』という彼の本のなかから抽出しておきたい。該当の頁を複写して紹介する。活字が小さく読みにくいが,日本(人・民族)にとってみれば,「これは聞き捨てならぬ」ずいぶん差別的な考えを,ヒトラーは堂々と語っていた。

ここでは日本人も朝鮮人もいっしょくたなのだが

旧大日本帝国の枠内ではまたこの種の発想が
さらに隣国人たちに向けて二重に発散させられていた

そうだとすると孫 基禎がベルリンオリンピックでマラソン競技で優勝した事実は
ドイツのヒトラーなりにかつまた日本にヒロヒトなりに不本意であったどころか

本当はあってはならない出来事(結果?)であった
第2次大戦の結果はどうなったか?

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