戦時体制期を風靡したナチス経済科学論に幻惑されたのか,戦後日本における経営学者の理論構築が部分崩壊した事由
※-1 前書き-「戦争の時代」においては日本の経営学のなにが問題だったのか?
小笠原英司『経営哲学研究序説』文眞堂,2004年という経営学の理論書が公刊されていた。経営学この専門書を一読したあと,とくに基本的に構想されていたと「推察される理論構築」をめぐり,不可避の根本的な疑問を感得した。
どういうことか?
戦時体制期-1937年から1945年-に日本の社会科学界「全般」を風靡した『ナチス風のゴットル経済科学論』をそのまま摂取していた自説の立論そのものに気づかず,戦後日本において自説理論を構想した経営学が提示されていたのである。その「混迷の末に逢着した蹉跌」が示唆した経営理論としての現代的な意味あいは,そのまま忘却されてよいものではなかった。
21世紀の日本経営学界のなかで,その「戦時ドイツ流経営学の存在意義」を吟味するという理論的な分析作業は,ある意味で非常な苦痛を感得するほかなった。
つまり,前世紀,第2次世界大戦期を区切りにもはやその存在理由などいっさい喪失させられたはずの,ゴットル流「経済生活科学」の再生が,日本経営学者によって試みられたのだから,ドイツ経営経済学の理論史を通覧したことのある日本の経営学者にとってみれば,驚愕すべき出来事であった。
旧ドイツの第三帝国風「仕上げ」になるそうした社会科学の立論は,問題が問題であっただけに,その「学問の基盤を自己点検し,かつ根本的に批判する立場」から厳格に吟味しておく必要があった。しかし残念なことに,この種の「経営学者の未全的な理論構築」は,「社会科学者としての経営学者の方法論」に関してまでも,ある特定の疑念を抱かせた。
【参考画像】-ゴットル『経済の本質と根本概念』岩波書店,昭和17〔1942〕年12月のある見開きの2頁。
なお本稿は,初出 2014年1月24日,改訂 2019年12月6日,そして本日2023年4月24日に更新している。
※-2 小笠原英司の描いた経営学「論」に〈実価〉はあったのか
理論の歴史(学史)をしらずして,理論(学説)の本質論そのものを語るなかれ
経営学の存在意義よりも「経営学者の存在じたい」がそもそもの検討課題であった。
本ブログの筆者は,あるとき,つぎの「経営学関係の論稿をみつけた。それは「経営学の存在意義-いま,あらためて,経営学とは何か-」(The Reason of Existence of the Learning of Business Administration)」(関東学院大学『経済系』第254集,2013年1月)と題していた。
筆者は,小笠原英司(明治大学経営学部〔当時〕)である。この論稿の目次は,こうなっていた。
この論文の現物は,PDF版で読めるので,興味のある人はそちらをのぞいてみてほしい。⇒ https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=NI30000297&elmid=Body&fname=007.pdf
小笠原英司は2004年に,それまでの自身による研究の集大成を『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』(文真堂)に公表していた。本書の目次は,こうなっていた
いまから20年近く前の経過となる。小笠原『経営哲学研究序説』2004年の公刊後,早速,何名かの経営学者たちから批判が,書評や論文によって提示されていた(→後段に挙げてある)。経営哲学学会という学界の組織内ではその議論(論争)もなされていたが,しょせんは経営学界の片隅での対話に終っていた。
けだし,小笠原『経営哲学研究序説』の要点は,それもどのような先学の成果を活用してまとめられていたか。この点は,ごく大筋に絞りこんでとらえるとすれば,
日本の山本安次郎からの「経営学本質論」,
アメリカのチェスター・I・バーナードからの「経営組織論」,
ドイツのフリードリッヒ・v・ゴットル=オットリリエンフェルトからの「経済生活論」
の3源泉になっていた。
ただし,最後のゴットル=オットリリエンフェルト(略してゴットルと呼ぶ)に関する小笠原英司の理解はきわめて粗雑であった。忌憚なくいえば「初歩以前」だったとみなされる。
要は,ナチス・ドイツに利用されていた,この経済科学論の歴史的な素性に完全に無知であったのである。この事実は非常に残念な意向であったが,小笠原の自説構築「全体」にとってみればわざわざ,決定的な難点をみずからもちこんでいた。
日本の経営学者の立場として,実は,まことにうかつな仕儀であったともいわねばならない。経営学の次元からするそのゴットル理解は,未消化の理論摂取であった。いわば学問的なその理解は,好意的に表現できても,一知半解でしかなかった。それは,Gottl-Ottlilienfeld に対する哲学的・社会科学的な認識において,あまりにも不用意な姿勢であった。
※-3 明治大学の先輩学者:印南博吉の激しい怒りをしらなかったのか
いまから75年前,明治大学商学部の印南博吉は『政治経済学の基本問題』(白山書房,1948年7月)を公刊して,こういっていた。これは,戦時中にゴットル→ナチス→ファシズムに賛同・協力した「経済・経営理論」(いいかえれば多くの学者たち)に対して向けられた徹底的な批判である。
印南博吉の同書は,戦争中,ゴットル経済学について批判的に言及した。それがゆえに,当時の国家全体主義体制のなかで,印南が不当にこうむった「学問に関する〈精神的な迫害〉」を想いだして,こう反論した。
a)「全体主義的国家観」 ……「問題の中心は,全体主義的経済理論に於ける民族乃至国家至上主義が,理論上果して正当であるかどうかと云う点に在る。国の存続を最高の大事とし,祖国の生きんとする苦闘について批判を一切封ずる態度,それは正しく全体主義的な誤った要請ではあるまいか」
「全体主義思想に由来する過誤は二度と発生させてはならない。それがためには此思想の誤を正しく認識することが必要である。それにも拘わらず此点の反省は内外を通じて未だ殆ど徹底せず,啻に我国の前途のみならず,人類の将来に対しても暗いかげを投じている」
b)「天皇 ‐ 天皇制」 ……「天皇を神と崇める思想は,今や天皇自身に依って否定されている。国家を絶対視し,その安危に臨んでは国民の如何なる犠牲をも要求し得るとの見解は,マルクス主義的な階級国家説の立場からは勿論のこと,……到底承認し難いところである」
「果して戦争に関する我国の態度の正当性を立証する有力な理論的裏づけが有ったであろうか。寧ろ反対に,すべては『問答無用』であり,『言挙げせぬ』ことこそ国民の執るべき態度とされたのであった」
c)「ゴットル経済学」 ……「ゴットルの存在論的判断は,その抽象性,定式性のために,具体的確定的な結論を産み出し得ないのみならず,その定式自体が確定していないのである」
「社会的存在が,ゴットル的思惟の抽象的理解方法のために,歴史的具体的に捉えられず,単なる図式,単なる形式的定式の樹立に止まっている所に大きな問題が横たわっている」
註記)以上,印南博吉『政治経済学の基本問題』白山書房,1948年,a) 5頁,176頁,10頁,b) 3頁,4頁,c) 174頁,172頁。
補注)戦時期に公刊されていた印南博吉の著作が『ゴットル経済学入門』白揚社,昭和16年4月。本書は昭和18年5月の第3版では,書名を『ゴットル経済学研究(改訂版)-経済学の革新-』に変えていた。
要は,「大東亜」戦争の時代,経営学者たちが諸手を上げて賛成したゴットル経済学:「存在論的価値判断」を,あえて,批判する側に立った経済学者印南博吉は,それこそ「白い目」でみられ,非常に辛い思いをしたのである。
もっとも,印南博吉に対して戦争中,盛んに批判をくわえ,非難を浴びせた経済・経営学者たちは,戦後になってから,印南から返された反論および反批判に対して,わけても,同僚だった佐々木吉郎(明治大学「経営経済学の嚆矢)のようなマル経学者も含めて,誰1人として応えた形跡がない。
ところが,小笠原英司が「満を持して」公表したはずの『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』(文真堂,2004年)は,ゴットル経済科学論が時代的に〔以上のように,確かに〕かかえこんでいた《決定的な問題性》に無頓着のまま(正確にいうとまったく気づかず),この『ナチス御用理論になっていた学者の経済的思惟』を「自著の基本構想の有機的な一環」に組みいれていたのである。
※-4 学会の場における議論など
1) 経営哲学学会シンポジウム
2005年7月9日東洋大学で,経営哲学学会関東部会が開催された。同部会のプログラムは,「2名による研究報告」と「1題のシンポジウム」をもって構成されていた。
後者のシンポジウムはとくに,同日16時から18時まで2時間を割き,報告者小笠原英司氏(明治大学)の「『経営哲学研究序説』について」という設題のもと,同氏の発表とこれをもとにする議論が交わされた。
出所)2023年4月下旬現在では記載されない体裁になっているが,このシンポジウムの開催は,つぎに公告されていた。⇒ http://www.jamp.ne.jp/regmtng/touhoku.kanto.kansai20050709.html
小笠原英司はこのシンポジウムの場において発表をおこなった段階では,自著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』のなかで「以下のように〈力説〉して討究したはずの論点」については,不思議なことにそして奇妙にも感じられことでもあったが,なぜかいっさい口にすることがなかった。
2) まさに驚きを禁じえないほどに「学史研究における先行研究」が欠如していた
「驚きを禁じえない」のは小笠原英司ではなく,前記シンポジウムにおいて彼の発表を聞いていた参加者たちのほうであった。小笠原『経営哲学研究序説』は,ほかでもなく,21世紀の「こんにちでは忘れられた学説になっている」「ゴットル学説を経済哲学説」をみいだし,大いに評価し,議論していた〔(!)はずである〕。
ところが,シンポジウムでは,この著作を公刊した小笠原英司が発表する機会を与えられたのだから,きっと力説して言及すると予想されていいはずだった,その「経営哲学研究において《ゴットル学説を経済哲学説として読む》」という論点が,一言も触れられないで終っていた。
当然のこと,そのあとにもたれた懇親会の席上では,そっと〔本ブログ〕筆者のそばに来て,「小笠原さんは,ゴットルに触れませんでしたね!!」とささやいてくれた人もいた。どうして,彼がゴットルのことを〔もう〕口に出せなくなかったか,この事情についてはすでに説明したつもりである。
それでは,小笠原『経営哲学研究序説』(2004年11月)が出版されたさい,この著作のなかで高く評価されていたゴットル「経営存在論としての経済科学論」は,いったいどこへいったのか。
2005年7月9日経営哲学学会地方部会でシンポジウムが開催されたとき,すでに小笠原はゴットルを捨てていた。その間18年が経過してきた。その間に,小笠原英司稿「経営学の存在意義-いま,あらためて,経営学とは何か-」(2013年1月)が書かれていた。ここでもゴットルの姿はみあたらない。それ以前に忽然と消えていたのである。
かいつまんでいう。『経営哲学研究序説』(2004年11月)に限った話題であるが,あえて見定めて評定しておく。
質的という意味で評定するとしたら,同書において,ゴットル「経営存在論」が占めたと思われる経済科学的な視点のその〈理論的な重み〉は,おおよそ〈3分の1〉くらいあったのでは「なかった」か。
ところが,この小笠原『経営哲学研究序説』においてもっていたはずのゴットル経済科学流になる「哲学的基礎論」の実体は,その後,雲散霧消した。いまではその影(ひとかけら)すらみせていない。
繰りかえしていわせてもらう。うかつであったのである。ゴットルの経済学がどのような学説・理論の特性を歴史的(=学史的!)に有しており,どのような哲学・思想を背負っていたか,まったく不知であったのである。
以下は,大胆に推測もくわえて語る部分になるが,小笠原がゴットルの原本(もちろんドイツ語文献)に十全に目を通したようには思えない。小笠原が,研究上,ドイツ語を確実に駆使しているのかどうかまではしらないゆえ,それ以上のことはいえない。
だが,小笠原がゴットルの諸著作を直接ひもといていたようには,どうしても感じられない。あくまで推測として語るほかない話題であった。『経営哲学研究序説』末尾には引用・参考文献が一覧されている。これをみても,以上の疑問は判然とする。
3) ゴットル研究の困難さ
ただ,日本側のゴットル好き(戦時中からの話であるが)の経済学者たちが公刊した「ゴットルの研究書」関係の何冊か,そして,ゴットルの日本語訳(これらは数冊,戦時中に刊行されていた)に,小笠原は目を通していたようである。
だが,「ナチス・ドイツの国家社会主義」に利用されたゴットル経済学の立場を,小笠原は多分まったくしらなかったらしい。つまり,本ブログの筆者に指摘され,批判も受けてから,ようやくゴットル経済〔科〕学風の経営生活論がかかえていた,深刻かつ重大な「歴史的な理論としての難儀」に気づいてくれた様子がうかがえた。
しかし,ゴットルに依存していた部分は放置したままでも小笠原は,本日に紹介した論稿,「経営学の存在意義-いま,あらためて,経営学とは何か-」(The Reason of Existence of the Learning of Business Administration)2013年1月を書いていた。
筆者はだから,この前後関係を,学問的な引用として不思議だと評したみたわけである。ゴットルの関連問題は,小笠原自身も論断していたように,「あらためて」「いま〔というか事前に〕」その「存在意義」を吟味しておく必要はなかったのか?
要は,自説の立論にとってまずかった論点部分を指摘・批判されたあと,この部分をそっと削除(より的確に指摘すれば放置)してきただけのことであった。しかし,こういった学問の作法,対話の仕方をしているようでは,学問の発展につながるような足場はいつまで経っても,まともには築けないのではないか?
小笠原『経営哲学研究序説』(2004年11月)については,直後に,次項 4) のような論評が書かれていた。しかし,こうした中身が小笠原側において,どのように活かされたのか,いまだによく感知できないでいる。
小笠原がゴットルに魅せられたのは,この経済学が「経済生活に於ける永遠なるものの学としての本領を発揮することが出来る」註記)とみこんだからではなかったか。
註記)酒枝義旗『ゴットルの経済学』弘文堂,昭和17年,129頁。
しかし,本ブログ筆者の指摘・批判を受けてからは,即刻にゴットルを引っこめていた。そうであれば,その「あとの始末」は,どのようになされていたのか。
小笠原自身がいっていたように,「ゴットル学説を経済哲学説として読むとき,われわれの議論にかみ合うものが多々あること」が表明されていた。にもかかわらず,その後においては,みずから「無視しつつ除去してきた」のが,「この〈ゴットル「理論」による構成部分〉」そのものであった。
不思議なその後のなりゆきになっていた。自説・持論の構築にとって,ゴットル経済科学「論」は,あってもなくてもどちらでもよい「モノ」であったというわけか? 重ねていっておくが,不思議なことである。
4) 関連文献
① 村田晴夫「小笠原英司著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』」『桃山学院大学経済経営論集』第46巻第3号,2004年12月。
② 佐々木恒男「小笠原英司著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』」『青森公立大学経営経済学研究』第10巻第2号,2005年3月。
③ 高澤十四久「小笠原英司著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』を読み,つくづく思うこと」『専修経営学論集』第81号,2005年11月。
④ 藤井一弘「書評 小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』」経営哲学学会『経営哲学』第3巻,2006年8月。
本ブログ筆者は,小笠原英司の『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』を詳細に吟味したことがある。それは,新書判の1冊分にも相当する長大な分量で書かれていた。ここではあえて紹介しない。ブログとして公開する文章としては,本日の記述で代えておきたい。
※-5 補説:その1-さらに考えてもらうための「追加の議論」-
安井琢磨『経済学とその周辺』(木鐸社,1979年)は,日本の経済学におけるこういう歴史的事実を指摘している。② までの議論を補足する論及である。
註記)以下は,同書,170-174頁参照。読みやすくするため改行を適宜に入れてある。
昭和12〔1937〕年7月7日「支那事変」が起きた。昭和6〔1931〕年9月18日「満洲事変」以来の日本は,一方には国粋主義が思想界を風靡 し,他方には経済機構が戦時的に改編されるにつれて,英米を中心として発達しつつある近代経済学への理解と関心とは,しだいに失われていった。
敗戦まで, 学界の主流に登場してきたもの,少なくとも学界の流行となったものは,さまざまな変種をもつ政治経済学,ゴットル経済学,日本経済学のたぐいであった。これらの経済学の果たした功罪は,なんであったのか。
ⅰ) 経済学が現実の表面的激動にとまどい,哲学まがいの観念論におちいり,多くのばあい経済学の頽廃を示した。この観念論は現実の働きに対して「光」をも「果実」をももたらすことができず,ひたすら現実のあとを旗を振りながら追随してゆくに止まった。
それは経済学の死相を表わしていた。戦時中の日本の経済学がその主流よりいえば,かかる頽廃より死相への途を歩んだことは否定できない。
ⅱ) 同じことはほぼドイツの学界にも当てはまる。1933年『社会科学社会政策紀要』が廃刊された。その後,ゴットルの経済学が優勢になり,ドイツの経済学から内発的な活力を奪い,学問的公共圏におけるドイツの発言権を削減した。
ゴットルの経済がそのものが全然無価値ではなく,この種の経済学が優勢となったところにドイツの頽廃をみるのである。それは傍流として存在するときはいくばくかの価値をもつが,主役となれば学問を無力化する体の経済学である。
ⅲ)戦時期に日本では,ゴットルの吐いた嘔吐をついばむ鵜どもが続出して「虚仮(コケ)のひとつ覚え」のように〈構成体〉ということばを繰りかえし,かつてマルクスの1ページを読んだはずの者ですら「欲求と調達との持続的調和」などということを,もったいらしく念仏のように唱えていた。いま,思いだしてもあまり感心できない歴史上の事実であった。
ⅳ)経済学に対してもっとも有害な影響を及ぼしたものは,一部の日本経済学とその亜流にみられるように,天皇ないし国体を経済現象の基本的な説明原理たらしめようとする試みであった。
この棍棒をもって,ほかのいっさいの経済学を撲殺しかねまじき風潮が認められたのである。この風潮は単に経済学にかぎられず,極端には「弁証法は国体に反する」という論法となって,思想的暴力と化した。
ⅴ)だから「天皇ないし国体」をもって万能の魔杖とする立場からは,経済現象の合理的説明などははじめから問題ではなく,ひとはただ「美しき日本経済」を賛美していればよかった。
とくに,大東亜戦争中においては無識者によるこの種の経済評論(?)が雑誌上に横行したことは,日本の文化活動がいかに深刻に荒廃していたかを物語っていた 。
ⅵ)国体論はまだ問題を残している。ある経済学者は--筆者註記:当時東京帝国大学経済学部の「難波田春夫」のこと。戦時期に公刊した『国家と経済 第1巻~第5巻』(日本評論社,昭和13年~18年)が有名--,日本の経済の根底に「家・郷土・国体」という三重の民族構造を認め,この民族構造を基底として,西洋資本主義への対抗を目標とする経済が日本の明治維新以来の「経済の本質」であると規定した。
そしてこの論者は,西洋資本主義への対抗は支那事変勃発を機として消極的防衛から積極的撃攘に進展し,「八紘一宇という肇国(ちょうこく)の精神にもとづいて西洋資本主義を東亜から駆逐する」ことが日本の使命である,と主張した。
ⅶ)この興味ある国家主義的な歴史観のうち,東亜から西洋資本主義を駆逐することが「八紘一宇という肇国の精神にもとづく日本の使命」であるか否かについては,すでに明白な歴史の裁断が下された。いまだ学問的裁断が下されていないのは,民族の三重構造という主張がどの程度,歴史的な検証に耐えるかということである。ひいてはそれが今日の事態と相容れるかということである。
結局,安井琢磨(1909年-1995年)はこう述べる。国体論がタブーたることを止めた現在,国体を経済現象説明の不可欠原理とする戦時中の「幸福な少数者」の言説に対して,経済史家が公正なる吟味をくわえることを要望したい。
※-6 補説:その2-さらに考えてもらうための「追加の材料」-
インターネット上につぎのような意見が記述されていた。本記述,前後の議論に参考になる。
以下は,『んみそせなか』というブログの記事,「早稲田大学社会科学部の『田村正勝先生は今年で退職らしい』」(2013年07月28日 01:47)のコメント欄に記入されていた意見2件である。当方のブログ記述に関連するコメントとして引用する。
註記)http://hosoyaaaaaan.doorblog.jp/archives/30944889.html 参照。
43. 老人からのお願い(2013年11月17日 19:12)
年配のまともな社会科学関係の学者の皆さんや,心あるジャーナリストは明確にご存知のことですが,難波田〔春夫〕は戦時中に『國家と経済』や『戦力増強の理論』などという著書で,およそ学問の名に値しないナチス張りの交戦〔好戦?〕理論を展開し,当時の多くの若い学生を戦地に導き,尊い命を犠牲にさせたという事実です。
戦後,当然ながら難波田は東大を追放され一介の市井の研究者となりましたが,戦時の自らの言動と理論に対する渾身からの謝罪反省もないままに早稲田に復職しました。外部の多くの方々の非難を無視してです。
田村が,難波田の弟子であることは皆さんご存知のとおりですが,この恩師の東大での経緯について,弟子としてしっかりと批判することもなしに,いわば頬かむりし,逆に賛美を重ねることで,否定しようのない歴史的事実(大罪)を隠すことに手を染めています。
48. あの日から(2013年11月23日 21:51)
老先生が紹介して下さったブログ(『社会科学者の〇✕』)のマスターの方は,田村正勝がわざと戦時体制期を除外して難波田を賞賛している旨批判していますが,たしかに公の著書や論文では,田村は戦時期の難波田の言論にはまるで触れようとしておりません。ここが明らかに田村の卑怯な点で,およそ学者に値しない態度であると非難されるゆえんですが,よく調べると,自分のHPでは隠れるように言及しています。
補注)難波田春夫『戦力増強の理論』有斐閣,昭和18月4月・初版という本があった。本書は,6月25日に再版,7月20日に改訂増補4版,12月21日に再改訂5版(五千部発行)と版を重ねていた。
さて,田村正勝の方に寄せてみながら「小笠原英司の経営学論」を,再度観察しなおすと,こういうことになる。実は,ゴットル経済科学論が「ナチス御用達の社会科学」になっていた事実すら,事前に気づいていなかった。したがって,田村〔たち〕のように,難波田春夫〔=ゴットル〕の戦時的問題性をしっていながら,経営学(自分の学問)に導入を試みたという事情などは,むろん全然なかった〔と思われる〕。
小笠原は,本ブログの筆者に,ゴットルに不可避である「ナチス的な戦時性格」を指摘されてから,あわてて「自分自身の理論的な錯誤」に気づかされたらしい。
だが,その点の反省を明確に表明することはないまま,そして,その理論部分のかかわりについて具体的に撤回することもないまま,いたずらにいままで時が流れてきた。小笠原は2017年3月末日,明治大学経営学部で定年を迎えていた。
小笠原英司『経営哲学研究序説』から《ゴットル的思惟》を抜きとったら,この本が構想・企画していた「経営哲学論」としての狙いは,大幅に減損したはずである。しかし,彼はこの事実について語ることはしない。もっとも,それは当然のなりゆきでもあって,理解もできる対応の仕方である。
だが,その事後における “無対応ぶり” は,けっして「本当の大人の学者」の態度とはいえなかった。かといって本ブログ筆者は,彼を強く非難するつもりにはなれず,同情せざるをえない気持ちもある。
『〈戦争と平和〉の意味』(→ I. カント『永遠平和のために』を想起したい)が,どうやら判ってもらえない経営学者に対して,社会科学性の見地から再度問いかけたところで,それほど効果は挙がらない。
経営哲学学会が発行する研究雑誌『経営哲学』で,いちおう論争が交わされたものの,結果としては空しかった。理解の志向性や基本の問題意識に関して,あまりにも異次元的な食い違いがめだっていた。
小笠原の場合,当初からの過誤(着想の失敗)であった「ゴットル導入」は,これはこれで勉強不足の錯誤・失策であったと一言でも弁解しておけば,まだ救いようがあった。けれども,そのあとがいけなかった。「ほっかむり」の状態がいままで続いてきた。
現在は,戦争の時代とは研究環境が異なるとはいえ,学問営為を囲む状況に関して,「似たようななにもの」かが頭をもたげてきていないとはいえない。
本ブログのこの記述は,2013年1月に公表されていた小笠原の論稿「経営学の存在意義-いま,あらためて,経営学とは何か-」に注目した。この論稿は以前,小笠原英司『経営哲学研究序説』2004年のなかにはしっかり含まれていたゴットル性が,ほとんど剔抉され,抹消され,追放されていたように読める。
すなわち,その論考は字面で観るかぎり,その残痕がほとんどみうけられなくなっていた。だがこれでは,前後関係において,つまり研究者としての理論の一貫性に関して問題があると批難されても,いいわけはできないことになる。こうした論評はけっして特別な観方ではなく,学問研究の話題となれば当然くわえられる疑念であり,批判になる。
しかしながら,この記述で話題にしてきた小笠原英司の学問,その理論構築の基本枠組に関した問題については,そういう具合(理論の一貫性のこと)がゆるがせになっていた。これは,ずいぶんにおかしな〈現象〉である。
いまでも,小笠原英司『経営哲学研究序説』の見地は,まだ「維持されている」のかもしれない。だが,その点は結局,「ゴットル理論」性そのものが,実は当初から,彼の思索なかに根を降ろしてはいなかったことを意味するのではないか。
それでは,いったいなんのためのゴットル導入であったのか? 疑問は深まるばかりである。堂々めぐりになってしまった。
【2023年4月24日 追補】
以上の記述は,更新する手順でもってさらに推敲もしつつ仕上げてみたつもりである。そこで,小笠原英司『経営哲学研究序説』2004年の出版元のホームページを,あらためてのぞいてみたところ,つぎのように宣伝用の文句が書いてあった。本日の記述が批判したゴットル的経済生活論に関連する文面が,そのまま謳い文句として記録されている。
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