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マルクス主義経営学の転向問題,明治大学・佐々木吉郎の事例,その戦前・戦中から戦後

 ※-1 マルクス主義から出立した経営学者の転向問題,明治大学・佐々木吉郎の事例,その戦前・戦中と戦後に観る理論上の変遷

 断わり1 冒頭の佐々木吉郎画像は明治大学ホームページ https://www.meiji.ac.jp/history/meidai_sanmyaku/thema/article/6t5h7p00003f22hw.html から借りた。

 断わり2 本記述は初出 2011年2月26日,更新 2022年2月27日を経て,本日 2023年5月8日に補訂・再掲している。

断わり2点

 丹頂鶴といわれた日本的マルキストの具体例を,とくに「明治大学商学部・経営学部」の批判的経営学者たちの歴史と事例に観察しつつ,旧大日本帝国史「天皇・天皇制」に真っ向から対峙できなかった(もしくは「しなかった」)日本の学問に関する記憶をさぐる。

 本記述の問題意識,関心を向けるそのマルクス主義的経営経済学:経営学をめぐる「明治大学史的としての学問伝統」は,21世紀の現在において途絶えてしまったのか,という一事に関して問われる価値があった。

 少なくとも,2020年代になったいまごろにおいては,その明大経営学的な理論の伝統は,ほぼ影も形もつかみにくい時期になっているゆえ,ぜひとも誰かが関心をもって探訪すべき論題でありえた。
 

 ※-2 竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』2011年2月

 この竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』講談社,2011年2月(文庫本)は,講談社が1999年に『日本の近代 12 学歴貴族の栄光と挫折』として公刊した,同書の改訂新版である。本ブログの筆者は,竹内 洋が執筆した単著すべてではないが,相当数を調達して読んできた。この『学歴貴族の栄光と挫折』は,1999年版と2011版の両冊を重ねて読んだことになる。    

 本ブログの筆者が所蔵していた竹内 洋の著書のうち処分してしまった本もあるので,手元にある範囲内で最近のものから列記すると,『学問の下流化』中央公論新社,2008年,『教養主義の没落-変わりゆくエリート学生文化-』中央公論新社,2003年,『大学という病-東大紛擾と教授群像-』中央公論新社,2001年,『日本のメリトクラシ--構造と心性-』東京大学出版会,1995年,などを読んできた。

 補注)なお以上の記述は,2011年2月現在の話であった。その後に竹内 洋が公刊してきた主な著作は,つぎのものがある。

 『革新幻想の戦後史』中央公論新社,2011年。
 『メディアと知識人-清水幾太郎の覇権と忘却』中央公論新社,2012年。
 『大衆の幻像』中央公論新社,2014年。
 『教養派知識人の運命-阿部次郎とその時代 筑摩選書』筑摩書房,2018年。

 もっとも,http://bookweb.kinokuniya.co.jp/ によると,竹内 洋が1999年に公表した『日本の近代 12 学歴貴族の栄光と挫折』講談社は,この紀伊國屋書店の宣伝にはみつからず,インターネット案内としては多少疑問があるあつかいではないかと感じた。というのは,このサイトではだいぶ以前の本であっても,インターネットで一覧案内することを忘れていないはずだったからである。

 竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』2011年2月「版」は文庫サイズで発売されていたが,これに比べて元の「1999年版」(B6版)は,図表などでは色刷りを使用・工夫している。前者は小さいサイズで再刊されたためか単色刷りである。それはともかく,本書は日本の高等教育制度を,明治以降から現在までを概観するかたちで論及しており,そのなかにおいて,歴史的に蓄積されてきた特徴や現代における日本の大学の問題までとりあげている。
 

 ※-3 竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』が語る大正時代の一コマ

 1) 竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』の概要-問題点の指摘-

 竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』という本の概要をしっておこう。いつものように bookweb.kinokuniya に聞いてみたい。

 白線入りの帽子にマントを身にまとう選良民=旧制高校生は,「寮雨」を降らせ,ドイツ語風のジャーゴンを使い,帝国大学を経て指導者・知識人となる。

 『三太郎の日記』と「教養主義」,マルクス主義との邂逅,太平洋戦争そして戦後民主主義へ・・・。近代日本を支えた「社会化装置」としての「旧制高等学校的なるもの」を精査する。

 プロローグ 学歴貴族になりそこねた永井荷風
  第1章 旧制高等学校の誕生
  第2章 受験の時代と三五校の群像
  第3章 誰が学歴貴族になったか
  第4章 学歴貴族文化のせめぎあい
  第5章 教養の輝きと憂鬱
  第6章 解体と終焉
 エピローグ 延命された大学と教養主義

 学歴と教養はいかに輝き,そして消えたか? エリートはどのように作り上げられたか。「一高」を頂点とする旧制高校の担った「教養主義」は,戦争を経てどう変転したか。学歴貴族から見た近代・戦後社会史。

竹内『学歴貴族の栄光と挫折』概要

 本ブログの筆者は,この説明のなかに『「教養主義」,マルクス主義との邂逅,太平洋戦争そして戦後民主主義へ』という文字があることに,かくべつ注目した。

 なぜなら,筆者自身が以前,専攻領域にしていた経営学の先達の教員たち,それも学生時代に教えを受けた世代の教授たちの多くが,そのような時代を生き抜いてきた〈経歴〉をもっていたからである。

 さて,本ブログの筆者が大学時代に一生懸命勉学に励んでいたころ,すでに戦後の時期は長い時間,数十年が経過していた。

 そのころの時期であったからこそ,大学や大学院で筆者が教えを受けた「当時の大学の教員」,あるいはこの人たちが執筆した書物を読んだりするにつれ,彼らは,年齢層からみても間違いなく「戦争の時代」をくぐりぬけ,生きぬいてきた人たちであった事実を,あらためてしらされた。

 戦争に駆り出され死んでいった者は,高等教育機関の教員であったという職業のせいか,少なかった。けれども,その時代から彼らもまた,大いに翻弄されながら必死に生きてきた。

 しかし,そうはいっても,いまごろの大学とは違い,当時なりにたいそうな「エリート中のエリート」であった「大学の教員」が,戦争の時代をどのように生きぬいてきたのかとあらためて問うてみるに,そこにはとうていみのがすわけにはいかない「重大な問題」が「学問的にも解明を要する研究対象」として,いろいろな「彼らの人生模様」として浮上してくる。

 2) 大学教授の歴史的な背景問題:その1

 竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』は2011年2月の改定新版の末尾に,関川夏央が本書を解説した一文を掲載しているが,そのなかでこういわせていた。

 大学生の不勉強ぶりが話題になったのも昭和40〔1965〕年代であった。一方,学生たちは大学の「マスプロ」教育に非を鳴らし,たちまち学園紛争は全国に広がった。

 だが,大学生の不勉強は,エリートがオトナになるためのモラトリアムとみなされた旧制高校を,高度成長下の大学と大学生が無意識のうちに真似た結果であった。それは日本近代独特の伝統なのである。だが,大学進学率が15パーセントを超過した大衆化社会では,もはやそれは怠惰のいいかえに過ぎなかった。

 学生運動が,旧制高校的なるものへの憧憬と旧制高校的なるもののパロディの混合であったという竹内の指摘は,まことに的を射たものだと思う。また,その不満が「マスプロ」教育の担い手として,十年1日のごとく古いノートを読みつづけ,西欧学問の祖述しかできない教員にむけられたのも無理ないことであった。

 しかし,学生が「所詮サラリーマンにしかなれぬ」大衆と化したのであれば,教員も同じように,とうに「大学教授大衆」になりかわっていたのである(416-417頁)。 

竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』2011年2月改定新版,引用

 とはいえ,この関川夏央の解説のなかには「時代遅れの大学認識」が含まれていた。旧制高校と最近の大学を比喩的に並べる手順に反対はしない。けれども,学生を「マスプロ」という量:単位で受けいれているいまの多くの大学は,実質で「マスプロ」教育をしていない。さらにいえば,最近における大学は「マスプロ」的に教育させうる体制じたいすら,すでに崩壊するに至っていたからである。

 なぜか? 夏川は「学生が『所詮サラリーマンにしかなれぬ』大衆と化した」と記述しているが,このような時代認識が現代の大学生に対する〈大数的な理解〉としていわれたのであれば,その半分ほどはまったく妥当していないと,いまさらではあるが批判しておかねばならない。

 その意味でいえば夏川は,完全に錯誤にもとづいた見解を披露していた。いまどきの日本の大学生にあっては,一流大学を出た者でも就職(就社)できず,非正規労働者の立場に留まりつづける者もいないのではない。学生が大学を卒業すれば,その志望者ほぼ全員が『正規社員の「サラリーマン」』にはなれるのではない。この現状を踏まえた記述を,夏川はしているつもりか?

 3) 大学教授の歴史的な背景問題:その2

 話が少し横道に入ったが,竹内の本論のなかで第5章「教養の輝きと憂鬱」に「教養主義とマルクス主義」という項目がある。ここにしばし聞いてみたい。

 マルクス主義がしだいに勢いをつけてくる大正半ば以降になると,学生の読書携行がかわりはじめた。

 それまでが,トルストイ,ニーチェ,ショーペンハウアーなどの哲学やツルゲーネフ,イプセン,ドストエフスキー,漱石の小説だったのが,マルクスやエンゲルス,クロポトキンが流行になってくる。

 阿部次郎の人格主義は「心的改造論」であり,「ブルジョアジーに現状維持の口実を与えるものだ」と批判され,教養という言葉は「かび臭い」とまでいわれはじめる。マルクス主義が大学生や旧制高校生を中心にインテリ集団にひろがったのはふたつの事件をきっかけにしていた。

 ひとつは大正7(1918)年に,東京帝国大学法学部学生たちが人類の解放をめざし,学生運動の中心となる「新人会」を設立したことである。学歴貴族と国家貴族の牙城に左翼「知識人」の砦ができた。

 もうひとつは大正9年のことである。東京帝大経済学部助教授森戸辰男が『経済学研究』創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。当局はこの雑誌を回収させ,執筆者森戸辰男を3カ月の禁固に処した。    

 事件は帝国大学助教授の「赤化」として当時の新聞に大きく報道された。しかし,そう報道されればされるほどマルクス主義はひろがりはじめる。帝国大学助教授が社会主義についての論文を書いたことは社会主義やマルクス主義の威信を一挙に高めることになった。マルクス主義は荘子あがりのならず者やごろつき集団の思想ではなく,インテリ(学歴貴族)のかっこいい思想だということになったからである(257-258頁)。

 大正時代後期,日本のインテリ社会を席巻していったかのように広く伝播していったマルクス主義の思想は,「イギリスの古典経済学,ドイツの古典哲学〔観念哲学〕,フランスの社会主義〔唯物論〕を総合したものとして説かれ」,「教養主義のコミットして学歴貴族青年に受容されやすかった」。
 「マルクス主義は教養主義の上級バージョンとしてみられさえした」。「だからマルクス主義じたいは反教養主義ではない。教養主義の変種である」(258頁。〔 〕内補足は筆者)。

 「阿部次郎に代表される社会を欠いた人格主義的教養主義を教養主義右派とすれば,旧制高校的マルクス主義は教養主義極左である。マルクス主義に傾倒した生徒でマルクス主義の知識で旧制高校の経済学や哲学の教授をへこましてやったと得意げに語る者もいる。マルクス主義は旧制高校的教養主義の雰囲気のなかで,知的覇権をにぎることができるという魅力によってひろがったという面も大きい」(258-259頁)。
 

 ※-4 経営学者佐々木吉郎(明治大学商学部)

 1) リッケルトからマルクスへ

 明治大学のいまではその残影がほとんど消えかかっているけれども,四半世紀まえまではまだ,マルクス主義を思想的支柱とする経営学者・会計学者が大学教員として大勢いた。とくに経営学部は,日本のマルクス主義的経営学陣営において有力な牙城のひとつであった。ところが,いまではみる影もないほど凋落してしまった。

 補注)この記述はその間,改訂・補正の作業をなんどがくわえてきたので,この段落中で「いまでは」という指摘される時期に,だいぶ時間差が生じてきた。

 その「差」の理解という点にについては,「ソ連邦が崩壊した時期:1991年12月25日」から「今日:2023年5月8日」まで,最初は突如であったが,徐々に消滅していくかのようにその姿を消していった,あるいは隠していった過程を歩んできた「マルクス主義信奉者たち」の軌跡は「消えていったそれ」であったがために,事後になってその残影をとらえる作業は把握しづらい。

 現在,日本比較経営学会という関連の学会組織がある。この学会は当初,社会主義経営学会として設立されていたが,比較経営学会(1995年)からさらに日本比較経営学会(2005年)へと改称され現在に至っている。

 すなわち,1991年12月にソ連邦が崩壊したのにともない,社会主義経営学会の存在理由がなくなったとみなされたのか,この学会の名称を変更して「比較経営学会⇒日本比較経営学会」にさらに変転していった。しかし,社会主義経営学が学問として対象にしたい相手が,とくにその主な対象であったソ連社会主義経営学が消滅した。

 思えば,現在は存在しない社会主義経営学を「現在において〈比較の対象〉にとりあげる」という日本比較経営学会という名称は,このように名のることじたいに疑念が生じないわけではない。この疑念にはあえて触れずに本論の話題に戻りたい。

 これから話題にする佐々木吉郎という人物は1953年4月,明大の商学部から経営学部を分離・独立させる方途でもって,私立大学において初めてとなる「経営学部」を創設し,自身が第1代学部長を務めた。

 日本で一番早く「経営学部」が創設されたのは,1949(昭和24)年,国立大学の神戸大学においてであった。今年:2011年は,佐々木吉郎の末弟に当たる経営学部の教授も定年を迎えて数年経った時点になる。

 補注)2022年2月の時点は年度でいうと2021年であるが,佐々木吉郎の直弟子に相当する教員は,現役教員としてはほとんどいない時期になっている。

 さて,ここに『回想 佐々木吉郎』佐々木吉郎追悼集刊行会,昭和47年,非売品がある。本書は※-3の 3) で論及したごとく,「旧制高校的マルクス主義:教養主義極左」が「人格主義的教養主義:教養主義右派」を思想的に撃破する様子を描いている。

 そこで,撃破されるのは佐々木吉郎,撃破する人物は「麻生八郎」といい「非常に勉強の好きな人で,進歩的方面をよく勉強して」いた明治大学の「商学部長」であった。麻生は「私の家に来ると論争になる」間柄であった。これは「昭和5年の秋ころ」の話である(同書,247頁)。

 「たしか昭和6年の2月だった」,その麻生八郎と「一晩徹夜で討論をやった」。「とうとうリッケルト哲学に基く私〔佐々木〕の方法論が根底からやっつけられた」。「1カ年の余裕をくれ,それからもういっぺん論争しよう,こういうことに決めた」(247頁)。

 「私はあらためて勉強を始めた」。「最初に読みましたのは『資本論入門』です。なんべん読んでも分からない,それで今度はヘーゲルをとっつかまえた。ヘーゲルの『エンチクロペティ』を読んだり,日本の本も探しまして,それで苦労してこれまでの見方を修正しつつあった」(248頁)。  

 佐々木吉郎『商業経営論』章華社, 昭和8年は「販売とは商品形態を貨幣形態にかえることである」と書き,まとめた本であって,「初めて唯物史観であるとか,唯物弁証法であるというものを勉強した」。

 しかし「なるほどと思って以来今日なお多少とも」「当初にやったリッケルトへの郷愁が今も私の書いたものから抜けない」。いうなれば「三つ子の魂百まで,です」。いずれにせよ「私がかわった大きな理由はディスカッションで,いまの麻生商学部長に根底からひっくり返されたということで」あった(248頁)。

 佐々木吉郎自身が回想した以上の昔話は,「人格主義的教養主義:教養主義右派」であった佐々木吉郎が「旧制高校的マルクス主義は教養主義極左」麻生八郎によって論破され,自身もマルキスト的な経営学に理論の舵をとって進みだしていった経緯を説明している。

 しかし,「三つ子の魂百まで」である佐々木吉郎の学問路線は,「ドイツ西南学派(新カント派)」への郷愁を捨てきれないという〈理性ならぬ感性〉も残していた。この事実を踏まえて次項の記述に進もう。

 2) マルクスから国家主義経営学への展開

 佐々木吉郎『商業経営論』昭和8〔1933〕年は「戦争中絶版にされた」。「当時の内務省図書局が,もし出すなら出版禁止をやるぞ,ここで絶版にするなら大目にみてやろう,という。ちょうど内務省の図書局に私の教え子がいて,それが自動車に乗って飛んで来た。私はおそれたのではないが,それじゃ絶版にしようというので絶版にし」た(248頁)。

 「昭和6-7-8-9-10年のころ,あの弾圧のもとに,あれだけのものでも書くにはやはり勇気がいりますよ,いまの若い人などは想像もつきません。しかしあの『商業経営論』のおかげで,私,戦争が済みますまで特高から監視されました」(249頁)。

 「私は単に資本論を論理的に展開し敷衍して経営学を作ろうとは,その当時から今日まで考えておりません。まず経営の現実を眺め,経営学の文献をしり,そのうえであの方法を適用して打ち立てよう,これが私の念願です」(250頁)。

 佐々木自身の口から解説されたこのような時代状況を踏まえ,佐々木吉郎『経営経済学総論』中央書房, 昭和13年4月初版における記述内容を聞くべき余地がある。そこで,以下の2文を比較してほしい。

 ☆-1 我が国にあっては,上に尊厳無比の天皇を戴いた。私有財産制度と基底とする社会組織が形成されて居る。・・・万邦無比の国体に於て変るところはなかった・・・(佐々木吉郎『経営経済学総論』昭和13年,5頁)。

 ☆-2 我が国にあっては私有財産制度を基底とする民主主義的社会組織が形成されつつある。・・・現在民主的に形成されつつあるものが古くからあった訳ではない(佐々木吉郎『経営経済学概論』白山書房,昭和23年,5頁)。

佐々木吉郎の戦中と戦後

 なんということはなかった。この☆-1から☆-2への表現の変質は,敗戦を挟んで日本の知識人(広義のそれ)が一様に示した,お決まりの「典型的豹変の一例」にしか過ぎなかった。

 再度指摘するが,明治大学経営学部は,いまも〔ここでは2011年時点のことになる〕その伝統がごくごく一部の教員にあっては守られている様子がないわけではない。ともかく,明大の経営学教授陣は,マルクス主義的経営学の思想・立場にとっては,ひとつの牙城を提供していたはずである。

 ところが,その総大将であったはずの佐々木吉郎が敗戦を境に「左翼も右翼(革新も保守,左翼も右翼)もあったものか」と思わせるような学術上の論述を,明確に残していた。

 時代状況の変化をありままに記述した文章ゆえ,前段の☆-1と☆-2の相違ごときは,なんら問題になりえないといったふうな反論をもちだしたい向きに対しては,この種の反発じたい,社会科学者が軽々に口にすべきモノではない点を,あらかじめ警告しておかねばならない。

 3) マルクス主義的な学問は「絶対にご法度」であった時代状況におかれていた「敗戦以前の日本」における学問事情

 戦前・戦中における治安維持法下の日本社会のなかであったが,佐々木吉郎が,詭弁まがいに「私は単に資本論を論理的に展開し敷衍して経営学を作ろうとは,その当時から今日まで考えておりません。まず経営の現実を眺め,経営学の文献をしり,そのうえであの方法〔=資本論〕を適用して打ち立てよう,これが私の念願です」と,戦後になっていいわけしたところで,当時は,このような学問の方途そのものが絶対に認容されない時代状況に置かれていた。

 「戦争中絶版にされた」という佐々木吉郎『商業経営論』(昭和8〔1933〕年)は,その方法:資本論の適用があった著作である。当時,日本帝国の治安当局の取締方針からすれば,マルクスの「マ」さえ出したり,あるいは『資本論』を使って「適用したり」してもいけなかった。

 それゆえ,前段において「詭弁まがいに」と形容しておいたが,佐々木吉郎が断わっていたような「マルクス経済学の本質論・方法論」を学問に導入する企図は,当時においてはこれがいかなるものであっても,またいかように弁解されようとも,当局側からみれば絶対に許容できない方途であった。

 ここで,竹内 洋『学歴貴族の栄光と挫折』2011年2月の記述に戻ろう。

 戦前の日本において1933〔昭和8〕年は,思想や学問に対する弾圧がいちばんの頂点に達した,まさにその年であった。ヨーロッパではナチスが政権に就いた年でもあった。

 このころ以降「マルクス主義が弾圧されると,教養主義が生きを吹き返す」(竹内,同書,259頁)ことになったが,さらに,敗戦後は民主化への道を歩まされるようになった日本政治社会においては逆に,戦時体制期に抑圧されていた〈思想の自由〉が教養主義と手をとりあい,再生することになった。

 大学や教養主義は,戦争のおかげで延命したとさえいえる。延命したというより,むしろ大きな期待がかけられ戦後日本に蘇った。戦争や大学や教養への不信をささえ,大学紛争を30年引き延ばしたのではなかろうか。

 (中略)

 学歴貴族の補充が再生産モードに入ったにもかかわらず,戦争によって御破算にされた……。したがって,戦後の大学や教養主義への信頼と期待にもとづく輝きは必ずしも大学や学歴貴族知識人の実績によって生まれたというわけではなかった(357頁)。
 

 ※-5 戦時体制期に戦争奉仕した経営経済学の試み

 
 「佐々木吉郎流の経営経済学」は,はたして,前段でとりあげて説明に及んだ

 ☆-1 佐々木吉郎『経営経済学総論』昭和13年(戦時体制期)と
 ☆-2 佐々木吉郎『経営経済学概論』白山書房,昭和23年(敗戦後)

とのあいだに惹起させていた《絶対的な根本矛盾》を,「単に資本論を論理的に展開し敷衍して経営学を作ろう」とはしない立場(◆1)でもって,「経営の現実を眺め,経営学の文献をしり,そのうえであの方法を適用して打ち立てよう」とした見地(◆2)に一貫して立っていたからといって,そこになにも疑念が介在する余地がないと首尾よくいいわけできるか。

 無理を承知したうえで,そのように絶対的に矛盾する,それも「学者の論理の展開」としてはだいぶ申しわけの苦しい,すなわち,それら「◆1」と「◆2」との連絡に関して「立論の一貫性」にほころびがなかったとは,けっしていいきれない「戦前→戦中→戦後」への学的軌跡を,佐々木吉郎の学問はたどってきた。

 われわれは,時代の状況=要請に応えてひたすら,カメレオン的に論調を変化させていくほかよかった「社会科学としてのマルクス主義的経営学」に,いかほどに今日的な評価を与えうるのか,どのような値うちがみいだせるというのか?

 最後に付言しておく。國際經濟學會編『北支經濟開發の根本問題』(刀江書院, 昭和13〔1938〕年6月)は,つぎのような布陣でもって,共著者がそれぞれの論題を執筆する内容の編成であった。

  楢崎 敏雄「北支経済開発の指導原理」
  崎村 茂樹「北支農村経済の諸課題」
  川西 正鑑「北支の工業開発と立地問題」
  佐々木吉郎「北支経済開発と企業形態」
  金原賢之助「北支に於ける貨幣・金融問題」

 これらは,日中戦争開始後,日本軍が占領統治下に置いた中国の各地域を,植民地として有効に支配していくために必要不可欠な諸政策を提言・議論するものであった。佐々木吉郎も経営学者としてこの論陣にくわわった1人であった。

 北支経済開発という戦時体制期における問題については,少し分量があるが,史実としてつぎの資料を紹介しておくと便宜である。前段でのように佐々木吉郎は「北支経済開発と企業形態」の執筆を担当した経営経済学者であったことになる。

     ★ 北支経済開発方針(に関する閣議了解事項)★
         = 昭和12年12月21日 閣議了解 =

 以下に引用する「本文は昭和12年11月16日第三委員会決定,同年12月21日閣議供覧」である。

 閣議諒解事項(一)

 一,主要交通運輸事業,主要通信事業ニ付テハ満支ヲ通ズル一会社ノ一元経営ハ之ヲ認メザルコト
 二,北支政権ノ財政強化ニ努メ以テ北支ニ於ケル公共事業其他ノ開発諸事業ニ寄与セシムルコト
 三,北支対第三国国際収支ノ維持改善ヲ図ル為有効適切ナル方策ヲ講ズルコト
 四,北支ニ於ケル産金事業ハ我国国際収支ノ観点ヨリ特ニ速カニ着手セシムルコトトシ今後ニ於ケル調整ニ際シテモ此ノ事情ヲ考慮スルコト
 五,北支ニ於ケル経済開発殊ニ工業開発ノ計画ヲ樹ツルニ当リテハ内地産業ノ実状ニ考慮ヲ払ヒ且事情ノ許ス限リ内地ニ於ケル当該企業ノ技術,経験及資本ヲ利用スル様措置スルコト

 閣議諒解事項(二)

 日満支ノ交通,通信ノ円滑ナル連絡ニ資スル為北支ニ於ケル交通通信事業ヲ経営スル機関ハ満鉄並満洲電々会社ト常ニ緊密ナル関係ヲ保持セシムル様措置シ尚満鉄並電々社員ノ大陸ニ於ケル活動ノ適性並今次事変ニ於ケル活動ノ実状ニ鑑ミ交通々信事業ノ経営ニ際シテハ之等ノ人員技術経験等ヲ充分活用スルノ方針ヲ執ルコト

 註記)収載資料:国立公文書館所蔵公文別録 84,ゆまに書房,1997.5 57-58頁,当館請求記号:YC-98,引用は,国会図書館『リサーチ・ナビ』https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00156.html から。

北支経済開発方針

 日中戦争が1937〔昭和12〕年7月7日に始められていた。北支地域を「第2の満洲国」めざしたその第1歩が,この『北支経済開発方針』昭和12年12月21日閣議了解に表現されていた。

以上の北支経済開発方針が,経営学者の立場にとってもっと近づいた意味を有したつぎの要綱もあった。

        ★ 北支那開発株式会社設立要綱 ★
         = 昭和13年3月15日 閣議決定 =

 帝国政府決定ノ北支那経済開発方針ニ基キ日満北支経済ヲ緊密ニ結合シテ北支那ノ経済開発ヲ促進シ以テ北支那ノ繁栄ヲ図リ併テ我国国防経済力ノ拡充強化ヲ期スル為北支那開発株式会社ヲ設立スルモノトス

 一,本会社ハ特別法ニ基ク日本法人トス
 二,本会社ノ資本金ハ三億五千万円トシ日本政府及日本政府以外ノ者ニ於テ夫々一億七千五百万円宛ヲ出資スルモノトス
  日本政府出資ノ中約一億五千万円ハ現物ニ依ルモノトス
  日本政府以外ノ者ヨリノ出資ハ一般ヨリ之ヲ公募ス
  本会社ノ資本金ハ政府ノ認可ヲ受ケ増加スルコトヲ得ルモノトス
 三,本会社ニ対スル日本政府以外ノ者ノ出資ニ対シテハ優先配当権ヲ認メ又会社ニ対スル一定期間ノ利益補給ニ依リ配当ノ確実ヲ期スル等適当ナル優遇方法ヲ講ズルモノトス
 四,本会社ハ左ノ事業ニ投資又ハ融資シ其ノ事業ヲ統合調整スルモノトス
  (一) 主要交通運輸及港湾事業
  (二) 主要通信事業
  (三) 主要発送電事業
  (四) 主要鉱産事業
  (五) 塩業及塩利用事業
  (六) 其ノ他北支那ノ経済開発促進上特ニ統合調整ヲ必要トスル事業ニシテ政府ノ認可ヲ受ケタルモノ
  本会社ハ右ニ掲ゲタル諸事業ヲ実行スベキ子会社ノ設立ニ当リテハ予メ政府ノ承認ヲ得ルモノトス
 五,本会社ハ払込資本金ノ五倍迄社債ヲ発行スルコトヲ得ルモノトス
  政府ハ右社債ノ元利支払ニ付保証ノ方法ヲ考慮スルモノトス
 六,政府ハ本会社ニ対シ登録税並ニ開業ノ年及其ノ翌年ヨリ九年間所得税及営業収益税ニ関シ特典ヲ与フルモノトス
 七,本会社ニ総裁一人,副総裁二人,理事五人以上,監事二人以上ヲ置ク
  総裁及副総裁ハ勅栽ヲ経テ政府之ヲ命ジ理事ハ株主総会ニ於テ選任シ政府ノ認可ヲ受クルモノトス
  本会社ニ顧問ヲ置クコトヲ得顧問ハ政府ノ許可ヲ受ケテ会社之ヲ委嘱スルモノトス
 八,政府ハ毎営業年度ノ投資及融資ニ関スル計画其ノ他重要事項ノ認可(別紙ノ方法ニ依ル),監理官ノ設置,軍事上又ハ本会社ノ目的遂行上必要ナル命令等ニ依リ本会社ヲ監督スルモノトス
  軍事上又ハ本会社ノ目的遂行上必要ナル命令ニ因リ政府ノ補償ヲ要スルガ如キ場合ハ予算ノ範囲内ニ限ルモノトス
 九,政府ハ新政権ヲシテ本会社及其ノ子会社ニ対シ適当ナル優遇方法ヲ講ゼシムル様努ムルモノトス

 別紙
 一,北支那開発株式会社ノ毎営業年度ノ投資及融資ニ関スル計画又ハ其ノ変更ノ認可申請ハ遅クモ年度開始又ハ変更計画着手予定期一箇月前迄ニ為サシムルモノトス但シ其ノ計画ノ変更ニシテ軽易ナルモノニ付テハ簡易ナル手続ニ依ルコトヲ認ムルモノトス
 二,政府ハ投資及融資ニ関スル計画又ハ其ノ変更ノ認可ニ関シテハ年度開始又ハ変更計画着手予定期迄ニ処理スルモノトス

 閣議諒解事項
  一,投資及融資ニ関スル計画トハ資金ノ使用ニ関スル計画ノミナラズ其ノ資金ノ調達ニ関スル計画ヲモ一体トシテ包含スルモノトシ,其ノ認可申請ニ当リテハ子会社ノ事業計画ヲ添附セシムルモノトス
 二,軍事上ノ命令ヲ発スベキ場合ニハ予算ノ関係モアリ予メ関係庁ト充分協議スルモノトス
 三,先ニ閣議ニ於テ決定セル昭和十三年中ノ物資需給並ニ輸入計画ニ於テハ本会社ノ目的遂行ノ為必要ナルベキ物資並ニ外貨資金ハ一部ノ鉄道材料ノ如キモノヲ除キ之ヲ見込ミ居ラザルニ付本会社ノ目的遂行ノ為ニハ関係各庁共同ノ努力ヲ以テ出来得ル限リ物資及外貨資金ヲ差繰捻出スルノ外ナク本会社ノ事業ハ斯クシテ生ジタル物資並ニ資金ノ余裕ノ範囲内ニ於テ之ヲ行フモノトス
 四,本会社ハ自己又ハ其ノ子会社ガ現地ニ於テ第三国(満洲国ヲ除ク)ヨリノ物資其ノ他ニ因リ外貨資金(新政権ノ通貨ヲ除ク)ノ必要ヲ生ズルガ如キ業務ヲ為サントスルトキハ予メ政府ノ承認ヲ受クルベキモノトス
 
 註記)収載資料:国立公文書館所蔵公文別録 84,ゆまに書房,1997.5 69-73頁,当館請求記号:YC-98,引用は国会図書館『リサーチ・ナビ』https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00163.html から。

北支那開発株式会社設立要綱

 マルクス主義的経営経済学:佐々木吉郎がこのように「戦時期における日中間の歴史」に刻印してきた文献史から読みとれる実相は,日本経営学界の圏内では非常に高名な社会科学者として尊敬を集めてきた大学人の真価を,新しい角度から根底よりみなおすべき契機を提供していたといえる。

 ちなみに付言しておけば,20世紀の最後の10年間も含めて21世紀の現段階に至るまで,日本におけるマルクス主義的経営学者は,みじめにも全滅したかのような様相を呈している。
 

 ※-6 付 論 -明治大学経営学部ホームページ-

 明治大学経営学部のホームページにある「経営学部の歴史」( http://www.meiji.ac.jp/keiei/history/ )には,佐々木吉郎「讃歌」に相当する文章が書かれている。その内容を引用しておく。

 補注)この段落の文章として復活させたブログ記事は,11年前の2011年に書いていた。という時間の経過があって,前段のホームページは削除されていて,みつからない。

 現在,2022年2月時点でそれに該当する代わりの記述は,つぎの箇所にある。なお,次段からの引用は2011年に参照したホームページからとなる。

  ⇒「経営学部の歴史」https://www.meiji.ac.jp/keiei/outline/history.html

 --「教育は今日に役立つ人間を作るのではない。明日に役立つ人間を作るのだ」といった「創設者は,明治大学総長を務めた佐々木吉郎である」。「佐々木は,商学部教授として長年,経営経済学を講義し,佐々木経営学とも称されていた。彼は,1927年から3ヵ年(!),ドイツで勉学し,ドイツ経営学の草分け的存在となっていた」。

明治大学経営学紹介

 その佐々木が中心となり,戦後の経営学の隆盛に鑑み,商学部から分離し,「商学」と区別される「経営学」,すなわち製造業やサービス産業の経営管理を対象とする専門の学部を創設したのである」。

 だが,戦前からのドイツ経営学の伝統とともに,1950年代,アメリカの影響を強く受けて経営学は,理論的深化だけではなく,実証的方面でも大いなる進歩を遂げた。

  1970年代から1980年代にかけて,日本経済は発展し,また企業の国際化が進んだ。この時期には,膨大な貿易黒字や資本輸出が示すように,日本企業の強さが注目の的となり,日本型経営が盛んに研究された。日本経営学の誕生である。しかし,時代は変わる。1990年代に入り,バブルがはじけるとともに,日本型経営にもさまざまな疑問符が投げかけられた。

  1995年には,経営管理,経営会計,経営文化の3コース制が採用され,専門に特化したスペシャルティー教育が志向された。とくに経営文化コースは,従来,リベラル・アーツを重視してきた経営学部が,専門学部としての経営学部の枠にとどまらない文化や歴史を教育する専門コースを設けた点で画期的であった。

 経営は最終的には人柄の問題であり,そのためには専門知識だけではなく,幅広い,かつ深い「教養」が必要とされている。そのためのコースとして経営文化コースは出発した。   

「失われた十年」とも形容される世紀転換期の日本は,さまざまな問題に直面しているが,こうした経営環境の激変を受けて,2002年から,従来の経営学科という1学科制から,経営,会計,公共経営という3学科制に移行した。とくに,公共経営学科は,90年代に入って俄然脚光を浴びるようになった NPO(non-profit organization),NGO(non-governmental organization)に着眼し,教育をおこなおうとするものである。(引用終わり)

 以上の記述につづけては,「多様なる大学院への改革」「不変のミッションを求めて」が語られて終わる。

 本ブログ筆者の,しりあいである明大経営学部のある教員の話では,アジアの某国「○○○工科大学」との単位交換にもとづく相互乗入れ履修制度の確立のために,彼は奔走させられているとのこと(この話題も2011年時点でのもの)。

 結局,以上の明治大学「経営学部の歴史」のなかには,もうまったく,マルクスの〈マ〉の字すら出てこないことが印象的である。
 

 ※-7 補 論-明大経営学部「マル経・経営学」は,いまや竜頭蛇尾か

 明治大学経営学部関係では以前,人事・労務管理論を担当する教員として木元進一郎がいた。この木元が定年で明大を去るのは1996年であった。そしてその後任に迎えられたのが黒田兼一であった。

 この黒田がまた定年になるのは2019年であったが,この定年を迎える年次に公刊した著作が,『戦後日本の人事労務管理:終身雇用・年功制から自己責任とフレキシブル化へ』ミネルヴァ書房,2018年11月であった。

 本書については2019年5月24日,アマゾンのブックレビューが「経営哲学史学研究者」によって書かれていた。評価としては満点の「☆の数の5点」をつけて,以下のように論評していた。

 --明治大学旧商学部の伝統であった経営研究の立場のひとつ,佐々木吉郎に発し,木元進一郎たちからさらに黒田兼一にも継承されてきたはずの「マルクス主義経営学」は,つぎのように変容したのではないかと指摘されている。以下の 1) から 5) は,経営学者のT・Iの批評であった(2019年3月)。

 1) 本書は日本の人事労務管理が生み出した諸矛盾に強い関心を向けている点では,……諸問題を資本主義社会という体制構造的問題との関連において論ずることがほとんどなくなっている。

 2) 協調的労使関係が抱える暗部に目をふさぐよう求めるかのような姿勢において,「専制的支配」と「民主的支配」を経営者視点そのままに転倒的に認識することでよいものかどうか,疑問とせざるをえないところである。

 3) 本書は,日本の人事労務管理の矛盾に満ちた性格を把握しつつも,資本主義社会の特殊歴史的性格への関心の希薄性と「管理の二重性」論への無理解のために,こうした関連性への自覚的認識による批判性において説明するに至っていないことが特徴的である。

 4)「先人たちが汗水流し,激しい労使対立から作りあげてきた『働き方・働かせ方』を崩してはならない。それをグローバル時代のいまに再生する道を探らねばならない」という本書末尾の謎めいた警鐘は,なにを意味しているか。上にみた文脈からして,「崩してはならない」のは「フレキシビリティと自己責任」の管理ではありえず,前身の能力主義管理でもないことになるはずである。

 5) 現行の協調的労使関係を「崩してはならない」と神聖視することは大きな矛盾であり,ライシュの指摘する日本の弱体な民主主義を強固なものに覆すのは「法律や政治ではない」とすることは狭きに過ぎるとともに,ディーセント・ワーク実現のためには現場労使の「真摯な労使交渉によるしか道はない」とすることは空虚に過ぎよう。(引用終わり)

 本ブログ筆者が実際に黒田兼一『戦後日本の人事労務管理』を読んでみた感想は,以上のように指摘がなされた理由や事情を理解させるのに十分なものがあった。

 1989~1990年から一挙に崩壊しはじめた社会主義国家体制のその後を受けてなのか,日本のマル経経営学者たちも一気にその気勢を失い,完全に意気消沈したかのような学問的な状況に追こまれていた。とはいっても「万事,盛者必衰だ」とみなして済まされる事情でもあるまい。

 今回における黒田兼一の著作が,仮にでもその径路の末端:どん詰まりで生まれた成果だとしたら,これはまことに侘しいかぎりである。この黒田の学問上に生じていた変質は,かつての佐々木吉郎の姿を彷彿させると形容したら,過敏な観方になるか?

 いまの時代にあってこそ,マル経の路線に則る経営学者の活躍が期待されてもいいはずだと思いたい。だが,実態はほぼ全滅状態である。もしかすると黒田兼一の著作『戦後日本の人事労務管理』2018年は,その弔鐘をみずからの手で打ち鳴らすために公刊したのかとまで思わせる。

 黒田兼一は,かつて信念を抱いたマルキストたる任務を遂行する意味で学問研究に従事してきたものと思われる。だが,明大の定年を迎えるころまでには,そこから離脱した境地のなかで「学究としての生涯」を区切ることになっていたのか。この本からは,そのような印象を強く受けるのである。

 前段に登場させた経営学者のT・Iは,黒田兼一の本書の中身に対して「批判性」の視座が喪失した事実に触れ,さらに「本書」末尾の謎めいた警鐘は “なにを意味しているか” わかりえない,と苦言を呈していた。

 だがもっとも,黒田兼一の立場に向けてその「視座の喪失」だと指摘された批判点は,ある種の韜晦になる評言であった。これをより率直に表現するとしたら,T・Iから黒田に投じられたその苦言は,「マル経経営学の敗北宣言」を裏声的に告白した論調を “批判していた” ともいえる。

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