甘粕正彦の「満洲国」から武藤富男の「明治学院」へ
※-1 本日の記述に関する予備知識
武藤富男(むとう・とみお,1904〔明治37〕年2月20日-1998〔10年〕2月7日])は,ウィキペディアの説明をのぞいてみたが,すこしごちゃごちゃした記述なので,以下においては,参照するが補正しつつ紹介する。
武藤富男は敗戦をさんで,戦前期は日本の裁判官および満州国の官僚を務め,戦後期は日本の牧会者ならびに実業家となって,日米会話学院院長やキリスト教牧師などの立場・仕事に従事し,つぎのような職位・役目をこなしてきた。
『キリスト新聞』の社長・会長,教文館の専務・社長・会長。
明治学院院長。この明治学院では東村山高等学校を創設し,初代校長を務めた。また,明治学院大学の総合大学化に貢献した。
そのほか,恵泉女学園理事長,東京神学大学理事長,敬和学園理事長,キリスト教文書センター理事長,日本聾話学校理事長,東京サフランホーム理事長,雲柱社理事長なども歴任。
名誉法学博士と名誉神学博士を授与されている。
武藤富男の「来歴」に関して,敗戦時まで,やはりウィキペディアを参照して紹介する。こちらはそのまま引用できる文章である。なかなかの苦労人であった事実が垣間みえる。
なお,武藤一羊(むとう・いちよう,1931年9月14日- )という人物がいるが,武藤富男の息子である。左翼系の人士であれば「知る人ぞ知る」人物であった。日本の社会運動家で,1983年から2000年にかけて,ニューヨーク州立大学・ビンガムトン分校の社会学教授となっていた。
キリスト教徒や多少はキリスト教に関する知識がある人であれば,その「一羊」という名の由来は一目瞭然である。
しかし,この記述全体の論旨に即していうと,旧・満洲国時代の武藤富男が国家官僚の1人として,「満洲国の政治社会」のなかにおいて,みずからが息子とはまた別の「一羊」をみいだしたり,これにクリスチャンの立場から接するごとき「宗教実践的な生活」を,必らずしも十分に成就できていたのではない。
つぎに武藤富男の画像2点,敗戦前と敗戦後における上半身の画像をかかげておく。観たからに,各時代の雰囲気をよく反映させたがごときに,その違いがよく伝わってくる写真2葉となっている。
※-2 宗教人としての人生の軌跡-甘粕正彦に関する著作にみた武藤富男の姿-
1) 武藤富男〔戦時期〕
佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社,2008年5月30日発売。本文 475頁)を読んだことがある。ノンフィクション作家佐野眞一の叙述は手堅く,甘粕正彦に関する新しい資料や情報を独自にいくつも発掘・活用し,本書を上梓していた。
補注)その後,佐野眞一は作家として採っていた手法に関して,致命的な批判を受けていたが(盗用問題),これは指摘にのみとどめておく。
もっとも,本ブログ筆者の興味を惹いたのは甘粕正彦自身ではなく,本書中になんども氏名が登場した武藤富男という人物である。武藤の長女:那智子の回顧談となるが,父:富男は,かつてこう語ったことがあるという。
※-3 明治学院〔1988年〕
さて,明治学院は1988年10月19日〔その後の,1989年1月7日に死去する〕昭和「天皇の病状悪化に伴い,世間では行事の自粛等が行なわれているが,いわゆる『Xデイ』については,すでに学部長会議で,『当面特別なことはしない』と決めている。
つまり現天皇が亡くなっても,休講にするとか,白金祭を中止するよう学生に刊行するとか,反旗を掲げるとか,そのようなことは一切しない,ということである」という《学長声明》を発表していた(岩波書店編集部編『ドキュメント明治学院大学1989―学問の自由と天皇制-』岩波書店,1989年4月,〔学長 森井 眞〕2頁)。
『ドキュメント明治学院大学1989―学問の自由と天皇制-』の「解説文」を借りて,当時の明治学院をかこんでいた社会情勢を,以下,ごく簡単に紹介する。
「1988年秋の天皇の容体急変以降,日本を包んだ異様な雰囲気の中,明治学院大学での動きはきわめて異例なものとなった」「自粛ムードに弔意の強制」
「天皇絶対化に反対する学長声明」「天皇問題を考える特別講義群」「そして人々からの激励,正体不明の脅迫」「ルポ・対談・座談会を加え,学問の自由をめぐる貴重な事実を再現する」
「昭和天皇の容態急変以後,日本を包んだ異様な雰囲気の中,明治学院大学での動きは異例なものだった.天皇絶対化に反対する学長声明,天皇問題を考える60余の特別講義など,学問の自由を考える為の貴重な事例報告」
註記)前掲,『ドキュメント明治学院大学1989―学問の自由と天皇制-』http://bookweb.kinokuniya.co.jp/ 参照。
武藤富男が,上記の時期よりもそれ以前の時期において,明治学院院長を務めていた時期は,1962年から1977年の15年間であった。武藤はその間,大学組織において1965年に社会学部(社会学科・社会福祉学科)を独立させ,文学部にフランス文学科を設置し,1966年には法学部(法律学科)第1部・第2部を設置するなど,大学経営者としての手腕を振るっていた。
『ドキュメント明治学院大学1989 -学問の自由と天皇制-』が記録する「天皇制」の問題は,武藤が明治学院院長を辞してから10年ほど経過していたころ発生していたが,この出来事が進行している時期にも彼はまだ生きており,長寿だった。
※-4 武藤富男〔戦後期〕
武藤富男という人物は,満州国官僚の時代からキリスト教信者であった。しかし,戦争中に敵国アメリカの大統領死亡を喜び「万歳三唱」を家族に繰り返させたと,実の娘が語っていた。
だが,敗戦後における武藤は,国家官僚の地位・立場をさっさと棄て,「キリスト教徒としての自分の生活空間」を上手に構築していき,相当の出世を成就させていった。
武藤は敗戦後,官僚を辞してキリスト教の牧会者になったけれども,明治学院の関係者には,戦争の時代,率先して神社参拝を「植民地のキリスト者」にまで強要した冨田 満(1883~1961年)という,当時の日本基督教団議長がいた。
この冨田 満は,日本キリスト教史にあって,痛恨の,消しがたい汚点を残した「聖職者」である。
途中だが参考にまで,こういう「変身=転向」の実例を紹介しておきたい。柳田謙十郎という哲学者がいた(1893~1983年)。この柳田は戦争中まで,観念論に立脚する哲学者だったけれども,1950年ころからは観念論から唯物論に公然と移ると宣言した。
実は,『ドキュメント明治学院大学1989―学問の自由と天皇制-』という書物の制作・公表は,戦争の時代の真っただなかにおいてこそ,明治学院関係者〔学院長体験者〕のその冨田 満牧師が,キリスト教精神の基本的立場を廃棄・放逐したうえで,
「日本帝国の国家神道の宗教的な立場」=「意識」を「物神」的に支持しただけでなく,日本および植民地各国(各地域)の人びとに対しても「神国日本」の「国家神:昭和天皇」を礼拝するよう強要してきた史実を,反省する意味もこめられていた。
しかし,2000年ころだったと思うが,明治学院大学学長を務めたことのある中山弘正経済学部教授(ソ連経済論専攻)に対して本ブログ筆者が,満洲国時代における以上のような「武藤富男の事績」を正直に伝達・示唆したところ,これには相当に苦慮・苦衷したような応答をもらったことを憶えている。
なぜなら,1995年6月10日,敗戦50周年にあたり,当時の明治学院学院長中山弘正は学院の礼拝において,そのような『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』を表明していたからである。これは「過去の反省のうえに未来を築かなければならない」という決意から,キリスト者として,教育者としての自己検証をおこなったものである(明治学院敗戦五十周年事業委員会編『未来への記憶-こくはく 戦後五十年・明治学院の自己検証-』ヨルダン社,1995年参照)。
ただし,明治学院のその「過去の反省」とはもっぱら,冨田 満牧師など明治学院が戦争中に犯した「反キリスト者的な行動」を前提していたはずである。
要は,安藤 肇『深き淵より-キリスト教の戦争体験』キリスト新聞社,2005年(復刻版で,初版は 1959年)は,「日支事変勃発とともに戦争協力にふみ切った日本のキリスト教会は,敗戦の時まで一貫して,その姿勢をくずさなかった。二,三の例をひろってみよう」といい,まず最初に「富(ママ)田統理の伊勢神宮」をとりあげていた(109頁以下)。
またさらに,松谷好明『キリスト者への問い 改訂版』(一麦社,2018年)は,いまなお「神学者たちも,戦前のことについては戦後ほぼ沈黙しています。何事もなかったようです。教団統理社の冨田 満についてでさえ,戦後70年を経ても信頼できる評伝が1冊もないのは異様です」と指摘している(33頁)。
だが,戦後において第7代明治学院院長となった武藤富男に関していえば,『ドキュメント明治学院大学1989-学問の自由と天皇制-』1989年や『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』1995年は,以下に説明するように「武藤の存在」を念頭にはまったく置いていなかった。
--こういうことであった。
イ) 武藤は,戦争の時代においては「鬼畜米英」の日本精神=大和魂を素朴に抱いていた。
ロ) そして武藤は,敗戦後はいち早く「カムカム エブリボディ(Come, come, everybody・・・)」〔→1946年2月1日から1951年2月9日までNHKラジオで毎週月曜から金曜日の午後6時から15分間,平川唯一(ただいち)よって放送された『英語会話教室』〕の方向に転進・衣替えした。
ハ) しかも武藤は,これらの宗主替えは,満州国時代から基督教会にかよっており,当時その長老を務めていたという自身の経歴などを足場にしてのものであった。
※-5 明治学院と武藤富男 -満洲国から観かえすと…… -
明治学院は要は,戦争中に国家から抑圧された過去を有する「キリスト教ミッションスクール系の被害者:学校法人」であった。
けれども,同時にその抑圧行為の手先ともなった人物,牧師の「冨田 満=身内の加害者」を,戦中から引きつづき戦後も,学院長の理事長に据えていた。また,富田 満は死する時期まで,日本のキリスト教会の世界では絶大な権能の持主でありつづけた。
しかし,問題は冨田 満だけで留まっておらず,あちこちに冨田の相似形がいたことも事実であった。
戦争中「満州国」の高級官僚として日本帝国主義を無条件に支持していた事実を記録していたのだが,敗戦を境に,キリスト教の伝道者になった武藤富男を,明治学院は学院長に戴いてもいた。
敗戦後における武藤富男は,GHQの敷いてくれた民主主義路線に,いくらか躊躇しながらもすばやく乗りかえ,以後は「キリスト教信徒としての人生」に活路をみいだしていく人物となっていた。
しかし,『ドキュメント明治学院大学 1989-学問の自由と天皇制-』1989年や『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』1995年は,この武藤の軌跡・事績を観察の圏外に置いたまま,その存在を直視できていなかった。
この武藤富男が戦中から戦後にかけて記録してきた〈注目すべき履歴〉は,明治学院の関係者たちの視野に入ることはなかった。つまり,武藤の過去:戦時期における履歴を,彼らがなにひとつしらなかったとは思えない。けれども,そうであったにせよ,はなはだ迂闊というほかない「ミッション系学校法人:明治学院内部における〈歴史認識〉」が残ってしまった。
武藤富男の著作である『満洲讃歌』吐風書房(奉天),康徳8〔昭和16年〕,『満洲国の断面-甘粕正彦の生涯-』近代社, 昭和31年,『私と満州国』文藝春秋,昭和53年の3冊を枚挙すれば,彼の人生・履歴における出立点が奈辺にあったかが理解できる。とはいえ,ともかく,武藤は当時からすでにクリスチャンであった。
『満洲讃歌』はたとえば,こう記述していた。
我が満洲国に於ては全体主義を標榜して,協和会運動に依って国民が一致団結して,国を造りあげて行かなければなりません。それには統制といふ事が必要である。各自が我が儘気儘で行動して居たのでは力は出て来ない。団体となって,言葉を換へて言へば,国家全体が一つの軍隊組織になって事をやって行かねばいけないのです(229頁)。
ナチス党のやってゐることを見ますと,難しい理屈を言はずに,物事は簡単明瞭に決めてこれを実行して行く。これが一番よい政治だと思ひます。この点に就て我々は反省しなければなりません。難しい理屈を言ってはいけない。主義綱領は簡明直截で誰にでも分る様にしなければいけない(256-257頁)。
満洲は東亜勃興の中心地である。ここで民族共和の理想を実践して,すばらしい国家を作ったなら東亜全体は起ち上る。ヨーロッパを見て来ると自分の国の位置がはっきり分かる。我々が満洲に職を奉じ東亜復興の大事業に参画してゐることに新なる喜びと責任と誇りとを感ずる。之がヨーロッパ訪問の結論であります。(康徳6,7,治安部にて講演)(271頁)。
補注)康徳とは満洲国の元号,康徳6年は1939:昭和14年。満洲国が送りだした使節団(正式名:訪欧修好通商使節団)のヨーロッパ訪問は,昭和13年7月30日から昭和14年1月28日まで,甘粕正彦を「副団長」に26名の団員を組織して実施されていた。くわしくは,武藤富男『私と満州国』文藝春秋,1988年,第3章「使節団訪欧」参照。
武藤富男はその自著『私と満州国』のなかでは,つぎのごとき「殺しの場面」を描いていた。
「満洲国」そのものを讃歌・支持し,実際にこの国における高級官僚としてその運営・発展にたずさわってきた人物:武藤富男は,敗戦を契機に,「キリスト教徒であった・である」というまさしく,当時における世過ぎには非常に好都合な自己の信条・立場を利用しつつ,しかも日本基督教会を足場に自分の人生を転回させえ,大いに活躍していくことにあいなった。
武藤富男『私と満洲国』1988年の記述は,旧「満洲国」の歴史と存在について,どのような感情と理性をもって回顧しているのか,いまひとつ判りにくい。もしかすると,よき思い出と化した「満洲国」の幻影がまだまだ,彼の脳中を全面的に占めていたのか?
戦後になって武藤は「公職追放」を受けた。A級戦犯には指定されなかったが・・・。しかし,ともかく,占領軍からの致命的なお咎めは免れえたのである。戦争中の「国家官僚の立場」,そして,敗戦以降は逆に,大いに歓迎・推奨されるようになった「キリスト教徒の立場」を強く意識しながら武藤は,宗教界における有為の人士として縦横無尽の活躍をしていくことになる。
個人的な話題になるが,明治学院に教員職として勤務するある知人がいた。幼いころからよくしっている彼は,明治学院に勤務する関係があってか,キリスト教徒であった。
しかし,この知人にして,以上に指摘したような明治学院における「武藤富男〈問題〉」は,まったくしらなかった。明治学院は「冨田 満」を「加害者である」という観点でとりあげ,論じ,批判していたが,そうだとすると武藤富男は,どういう位置づけがなされうるのか?
結局,武藤富男がいったい,どのようにとりあげられてきたのかといえば,明治学院内部では皆無の事象であった。本ブログ筆者は,中山弘正に対して「以上のような武藤富男の履歴」に関して尋ねてみたことになったが,だいぶ苦悶させる場面を作ってしまい,こちらの立場として,いささか沈鬱な気分を抱いた。
だが,本ブログ筆者が中山弘正に送ってみたその問いは,結果的に無視された。明治学院にとっては「触らぬ神に祟りなし」という措置にした気持も理解できないわけではない。ひとまず,歴史への円満な妥協が図られたと思われるが,そのまま「関連の歴史の事実」が永久に埋没したままになるとは思えない。
明治学院関係における具体的な戦責問題は,冨田 満も武藤富男もその行跡は,あたかも闇のなかに投じられたままである。少なくとも,本ブログ筆者のこの記述による指摘は,「戦争の時代」にその2名のたどってきた経路を思いださせる手がかりを留保したものと考えたい。
しかし,ここには依然,大きな疑問が残っていた。もう一度いっておく。武藤富男『満洲讃歌』(吐風書房(奉天),康徳8〔昭和16年〕)を読んでみればよい。仮にでも,この本の内容が武藤の本心でなかったとすれば,戦後の過程おいて武藤が大いに活躍しながら,さらにあれこれ発言してきたことば・表現してきた思想も,けっして本心とはみなせなくなる「おそれが大」である。
そうした理解が論理面と歴史面において間違いがあると反論できる人は,おそらく,1人もいないはずだと考えている。明治学院の戦責問題は要するに,冨田 満だけに限定されて済むごとき性質ではなかった。
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【断わり】 最初の本,『キリスト教学校の「犯罪」-明治学院大学〈教科書検閲〉事件 「学問の自由」シリーズ』社会評論社は,来月:2023年6月に発売予定である。
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