ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(3)
※-0「本稿(3)」の前編2述のリンク先・住所は,以下である。
付記)冒頭の画像資料は,京都大学図書館機構で「蔵書検索」した画面から切りとった一部分である。
※-1 経営生活論の理論的意図-戦時決戦生活論に通じていた意味-
ふつう,経済生活論ということば:表現は,専門用語としてでなくとも,なんとはなしに,常識次元で理解できる。だが経営生活論となると,はてな一度は説明を具体的にしてもらえないとすんなり判りにくい。なにを具体的い指す表現なのか,ただちに想像できそうな,つまり世間一般に通っていることばではなかったからである。
以上のごとき素朴な疑問を断わったうえで,本稿がとりあげている小笠原英司のその「経営生活論」なる用語に関した説明を聞いてみたい。
a)「ゴットルの共同生活論がわれわれの経営生活論に対して,その先駆的学説であることは明らかであ」る。というのは「ゴットルも,経済の科学が人間生活の一面的抽象になりがちであることを批判している」からである。その意味で「ゴットルの認識はわれわれの観点と同様である」。
b) しかしながら,「ゴットルの『生活』はあくまでも経済生活であって,われわれの経営生活と同義ではない」。「ニックリッシュおよびゴットルの所説」は,「いずれも生活を『経済生活』と捉え,経営を『経済経営』と捉える点で,われわれのものとは一線を画す」る。なぜなら,「生活は単に経済生活ではなく,経営は経済経営に抽象されるものではない」。
「経済は,たしかに主要な生活要因であるが,経営学の立場からすれば,それは経済学的経済概念に傾斜しており,その意味で『経済生活』論は部分的生活論にとどまる」「というのがわれわれの見解であった」。
また,「われわれはいわゆる『下部構造論』の単純化された経済決定論を採ることはできない。もちろん……,物質的生活の生産様式が社会的・政治的・精神的な生活過程のあり方全体を制約するというマルクス(Marx, K)の唯物史観を全面否定するものではない」。
補注)以上の小笠原英司的な経営生活論に関する概念規定の説明方法は,端的にいって八方美人的な言及であった。したがって,いまのこの段階では,いったいなにを・どのようにその用語に関して説明したいのか,まだ判りにくい。
また小笠原英司は,明治大学商学部から経営学部への学問的に太い伝統として継承され構築・発展してきた「マルクス主義経営学」に関して,自身なりに本格的な考究を構え,これを通してこの経営学領域におけるマル経的な立場・思想に対してだが,自分なりに思考・吟味した解釈や見解を明確に提示したことはない。
それでも前段における自分なりのマル経認識として,「マルクス(Marx, K)の唯物史観を全面否定するものではない」といわれて断わられても,これは単に感性的な言辞ではありえても,はたしてどのようなじぶんなりの詮議をくわえたうえでそのように断わっていたのか,まだ不詳というか不明に感じるほかなかった。
その意味ではやや衒学的に学者風なものいいであって,実体:中身にかんした説明が必ずしも必要かつ十分ではなかっただけに,そのようにマルクスうんぬんを披露されたところで,その点に関した自分自身の認識のあり方が第3者に確実に伝わりそうにはない。
小笠原英司の論旨に戻ろう。
c)「われわれは『生活』を全体的なものとして捉え,全体的観点から『生活』を捉えることにこだわる」。「それは……人間存在が『全体的なるものである』からにほかならず,『部分的に捉えてはならないもの』であるからにほかならない」。
「われわれは,バーナード-そしてメイヨーおよびサイモン-の経済学批判を継承し,生活論および経営生活論は経済学的思考を相対化しないかぎり,その本然と現実の真像を捉えることはできないと主張する」。註記1)
以上,「経済生活論」を批判したうえでの「経営生活論」の説明は,山本安次郎が『経営学の基礎理論』(ミネルヴァ書房,昭和42年)や『経営学研究方法論』(丸善,昭和50年)などで触れている,アレキシス・カレル『人間-この未知なるもの-』(〔原著 1935年〕角川書店,昭和27年)も踏まえた言及になっていた。
山本安次郎『経営学要論』(ミネルヴァ書房,昭和39年)は,「私は,いま,経営とは何かを考えるとき,カレルに倣って,『経営-この未知なるもの』といいたいのである」と断わっていた。註記2)
この山本の発言〔衣鉢?〕に小笠原も倣い,「カレル(A. Carrel)の『人間-この未知なるもの』という哲学的命題」に言及したのである。註記3)
経済学的思考を相対化する「生活論および経営生活論」は,いったいなになのか? 経営学という学問が経済学的思考を相対化しなければならない事由は,いったいどこにあったのか?
酒枝義旗『ゴットルの経済学』(弘文堂書房,昭和17年9月)は,「経営が構成される」という語句を提示しつつ,「経営は決して所謂経済的概念ではない。それはまさに人間共同生活の煉瓦たるものである」と説明した。註記4)
クリスチャンだった酒枝義旗は,戦時体制期に社会科学をになってきた人間として,正真正銘のゴットリアーネルである立場を巧みに生かし,これを自分の学問を守る防護柵に活用しつつ生きぬいてきた。
それゆえ,戦時体制が強力に推進した国家全体主義理念に抵触して自身が苦悶させられる場面は,上手に回避できていた。小笠原はそうした酒枝の学問,それも主に戦中作ではなく戦後作を媒介に,ゴットルに共感する立場を採用した。
酒枝はくわえて,小笠原も用いる用語「本然」ということばにも言及し,こう述べていた。
「現代の標語である」「人間共同生活に於ける秩序の再建こそ」は,「現代の精神を其の本然に於て捉へること」である。
「経済は倫理たることによって,本然の経済の在り方とは別の何等かの在り方へ『変容』せねばならぬと云ふ,これこそ従来の構成体盲目的な思惟の当然行きつかざるを得ない結論である」。
「経済倫理の問題は経済が変容することではなく,変容してゐた経済が,その本然に自覚的に立ち帰ることでなければならぬ」。
したがって,小笠原が追究する経営哲学論も,「経済生活に於ける永遠なるものの学としての本領を発揮することの出来る」もの,そして,「理論的研究は……如何にして永遠の経済,即ち経済の理念を実現し得るかを明らかにしなければならぬ」と主張した酒枝義旗の主旨と,ほぼ同一の基本性格を共通に有した点は,難なく理解できる。
酒枝はつづけて,こういった。
「存在論的価値判断は人間共同生活の中にあって,それの存続が如何にすれば,よりよく実現されるかを問ふものであり,その限りに於て内在的価値判断と言はるべきであらう」。
「経済の理念の実現は,人間共同生活の存続の立場から批判的に問題とされる」。
「即ち経済的秩序はもともと補完的な秩序である。補完的であると言ふことはそれが本来何ものかに仕へる性格を有つことを示す。然らばそれは何に仕へるのであるか。言ふまでもなく本源的秩序たる協同的秩序と,補足的秩序たる権治的秩序である」。
「斯くて其の時々の経済組織は,人間共同生活の存続強化の観点からして,批判され,或は積極的提示が為されるのである。この二つの段階に於ける存在論的価値判断こそ理論的研究の……構成論の課題に外ならぬ。この構成論に於て理論的研究は事実研究の成果を実践的に取り入れることにより,謂はば理論と歴史と実践とが混然たる一体を為す。かくて経国済民の学としての経済学は初めて其のまさに在るべき形態をととのへ得るのである」。註記4)。
ここで一言したい。「理論と歴史と実践とが混然たる一体を為す」ことはまさに,山本の経営学説も力説していたことである。註記5)
※-2 経営存在論にまとわりつく戦時的性格
本ブログ筆者はいままで,山本安次郎学説に関心を抱き,これを徹底的に究明する立場より研究を進めてきた。そこで感得できた山本理論の根本性格は,「歴史を真正面より語りながらもその現実に完全に不感症:無頓着」といってもよいくらい「歴史科学性を欠如させた経営存在論」にみいだせた。
経営学哲学論の基礎に西田哲学を据え,これにもとづく独自の構想をしめした山本理論は,「欧米〔それももっぱら米と独の〕経営学の綜合と止揚によって,日本だけに固有の経営学説が創造できる」と豪語した。
たとえば,その点を,山本安次郎『経営学研究方法論』(丸善,昭和50年)はこう記述していた。
山本がいわんとしたのは,日本の経営学理論に課せられた「本当の」「世界史的使命・意義」は,この地球上で日本だけの「唯一のものだ」ということであった。
筆者は,こうした語法・修辞を誇大に過ぎた「豪語〔→妄想?〕」と受けとめてきた。さらに,前段引照の a)「近代から現代へ転換」,b) の「本当の経営学」の「世界史的使命」という提唱については,より重大な問題点もあるが,これは後段において論及する。
ところで,最近〔ここでは2000~2001年〕になり筆者以外にも,山本が構想したその「経営学の立場:経営行為的主体存在論」を,「事実上無理であるし,意味もない」と批判し,全面的に否定・排除する日本の経営学者が登場した。
現在〔ここでは2005年2月〕,経営学史学会の第4期(任期,2002年5月~2005年5月)理事長を務めた佐々木恒男(青森公立大学学長)である。註記8)
もっとも,この佐々木による山本説否認は山本安次郎没後における発言であり,遅きに失した感があった。結局,その時期:2000~2001年における佐々木の発言は,その価値を半減させた。
なぜ,山本の生存中にそのような意見を表明しなかったのか。それともその間は,そのような「山本学説」の否定的な批判・評価に到達していなかったのか。あるいは,権威的学者の存在を畏れて敬遠していたのか。なにゆえ,いま:「2000~2001年」になっての発言だったのか。
佐々木はともかく,山本説の解釈をめぐり,その熱烈な信奉者小笠原と全面的に対決するほかない立場を明示した。今後,両者間での学問的な議論が期待されてよいのだが,残念ながら現状ではそうした兆候はみられない。期待薄である。
もっとも,佐々木と小笠原とは,学会活動の面で非常に近しい間柄にある。小笠原英司は現在〔ここでは2005年2月〕,経営学史学会総務担当理事である。だからといって,回避するわけにはいかない学問的使命が,両者のあいだに発生していたはずである。
つぎにここでは,小笠原が「経営生活論」観点を支持する学問だと解釈し位置づけた,ゴットルの認識:「経済の科学」論の戦時的性格を議論したい。
小笠原は「生活とは,……人間性(主体性)という人間存在の根源的要因を実現するような〈生の活動〉にほかならない。そして,このような人間生活こそ,われわれのいう『経営』の原型なのである」と主張していた。というのは,「経営は生活と同型であり,人間生活の基本原理-人間性と社会性-の実現をもって経営性の本質とみる」からだといっていた。註記9)
まえもって指摘しておきたいのは,「経営性」という概念が出ていたことである。この「経営性」という概念は山本も使用したものであるが,すでに宮田喜代蔵『経営原理』(春陽堂,昭和6年)において,「経営の技術的合理性に照応する」概念として用いられていたものである。註記10)註記11)
福井孝治『生としての経済』(理想社〔甲文堂書店〕,昭和11年)は,つぎのように関説していた。
なお,経営成果性(Betriebswucht)ということばは,ゴットルが生活力(Lebenswucht)というものを使用している点を配慮すれば,「経営力」と訳すのが適切である。この経営力は,国民経済の構成体:「経済生活」体である企業経営が発揮すべき「技術的な任務」を意味したものである。
小笠原は「これまで,法,政治,経済,経営系の実践社会諸科学は『生活』という人間行動のもっとも基本的にして中心的な営為を軽視してきたのではなかったか」と問い,みずからこう答えていた。
「生活」概念の普遍的性格を強調する小笠原であったが,戦時体制期に日本やドイツの実践社会諸科学を圧倒的に風靡した,国家全体主義的な「経済科学」に対する初歩的な学識を,決定的に欠いていた。
筆者はここで,ゴットル=オットリリエンフェルトの経済生活論を展開する著作『民族・国家・経済・法律』〔原著初版 1936年〕という題名に,小笠原の「法,政治,経済,経営系の実践社会諸科学は『生活』」という記述表現を,対置させてみたくなった。
前世紀の半ばまで吹きすさんだ戦争の時代の嵐が,いったいどこから巻きおこったものかについて,小笠原の理解は疎遠であったがゆえに,鈍感たりえたのである。
そうであればこそ,山本安次郎理論も同列であったように,ナチス流国家全体主義ならびに旧日帝の国家全体主義に翼賛したゴットルの見地「経済生活論としての経済科学」〔池内信行や藻利重隆の理論源泉もそこにあった〕の真意がみきわめられなかった。
にもかかわらず,今日の資本主義経済社会における経営学を,経営哲学論的に定在化させようと試みた実質的な中身,すなわち「経営生活論」という発想は,いまもなおその「自己完結・完成」的な概念「論」に関して,可能性(としての希望・期待)を提示したままにある
だから,小笠原はこうも論断していた。
科学としての経営学が「没価値性」(Wertfreiheit)の見地に立つという客観主義は,経営の反人間的・反社会的側面に対する傍観主義と表裏をなすものとなるばかりではない。錯誤した論理体系による現代経営論は,無自覚のうちに現代経営をミスリードする誤りをおかすことになるからである。註記14)
ゴットルの「存在論的価値判断」は,「没価値性」(Wertfreiheit)の見地とは対極に位置する主張であった。ゴットルの経済科学「論」とその世界観は,ナチス・ドイツの戦争統制経済体制に協力し,この地球上に多くの残虐・惨状をもたらした。
ところが小笠原は,そうした学史的事実を棚上げできたつもりなのか逆にそのように,基本的には「ゴットルを支持する」という誤導的な発言をしていた。
第2次世界大戦という「戦争の時代」,とくに当時のドイツで盛行したゴットル流経済科学「論」による「存在論的価値判断」が,社会科学的かつ歴史科学的にみて,どのような提唱をおこなっていたか。ゴットルの著作に聞けばよいことであった。彼の諸著作はそれに答える内容で充満していた。その根幹・基底がみえないような読書法をする学究は,研究者としての資質が疑われる。
たとえば,ゴットル,金子 弘訳『民族・国家・経済・法律〔増補訂正版〕』〔原著1936年〕白揚社,昭和17年7月(初版昭和14年8月)は,「ヒトラー・ナチスの第三帝国」の国家全体主義的理念を,どのように解説していたか。なお念のため,「ゴットルはヒトラー政権のために理論を展開したのではない」というたぐいの反論は,事前に排除できることを断わっておく。
◎-1「構成体論」
「公益は私益に先立つ!」
「企業は国民経済の築造に対しては一つの使役的な目的構成体に過ぎぬ」。
「企業そのものは国民経済の使役的な目的構成体に過ぎぬ事を,意識してゐるやうに義務付ける!」
「実にこの構成の技術的統一たる経営は,常に部分的構成体として社会構成体に組み入れられて実存する」。
「社会に於ける生活を終結せしめる部分的構成〔体〕は,必然的に欲求と充足の持続的調和の精神に於いて行はれるのである。かくしてそれは明瞭に一義的に経済体への構成として示される!」
「家政がその広からぬ領域に於て,又真に存在上正しく構成されてゐるか否かは極めて重大な事である。それはこの種の構成体が多数よって,経済的最高構成体たる国民経済の築造に対する広大なる基本層となるからである」。
「家政そのものが一つの構成体として構成される……ならば,欲求と充足の恒久的一致の精神に於いてゞある。即ち家族生活が繁栄し存立する為に必要とする一切のもの,及びそれが為にあれこれの欲求となる一切のものを,他面に於いて努力・利用・所有物の使用・消費であって,この欲求を充足する為に支配し得る一切のものと,出来る限り一致せしめねばならぬ」 註記14)
◎-2「存在論的判断」
「生活上正しいものに関する判断である」。
「構成者が如何なる行き方で多くの経営を総括して,この生々とした結成に至らしめねばならぬかは明らかである。必ずや経営に於ける生起が相互に求め合ひ,従ってこれ等の経営が総て相互に運行せしめ合ふやうにしなければならぬ!」
「即ち諸経営の正しい混合と調合による円形をなす整序,然かもこの経営全体が,その環境ヘ正しく適合する事! これである」。
「生活への構成の観点より見れば在内構成体の生活 [重] 力を高める事が意義をもつのは,これによって同時に包括構成体の生活 [重] 力の促進が行れる限りに於いてゞある」。
「総ての存在上正しく社会構成体を構成する働きはその生活 [重] 力を目指し,出来ればこれを高めんとする」 註記15)。
◎-3「技術の方法と法律の規範」
「技術の『方法』は形式創造的な精神的構成体,法律の『規範』は生活創造的な精神的構成体と見られる」。
「技術は生活への構成の……準備として,直に『目的への道』を示すのではなく,構成者に目的への『正しい』道を,換言すれば比較的最少の費消をもってする道を提示す。かくして初めて技術は本来の意味を発揮して『目的への正しい道の術』となる!」
「技術の『方法』はたゞ事象の……技術的準備構成を保障するに過ぎぬが,『規範』は基礎的に構成する規準として関与する。何故ならばこれは同時に『超人的な』性質を有し,既に生活への構成の動きの中にあるからである」 註記16)
◎-4「血統と民族」
「構成体として実存するものに就ては日常生活はたゞ『血族の生活』,『民族の生活』と云ふに過ぎないであらう。実際にはこれに反してこの場合『生活たる血族』(Sippe als Leben),『生活たる民族』(Volks als Leben)が夫々協同〔共同〕生活の生活実存態としてあるのである。……『血族協同体〔共同体〕』,又は『民族協同体〔共同体〕』と云はねばならぬ」註記17)
最後の◎-4は,よくしられた文句, “Blut und Boden” のことであり,ユダヤ民族など多くの人びとを差別し,殺戮するために昂揚された,偽りの人種的・優生学的な根拠であった。
ゴットルのこのような経済科学の抱懐した政治経済的な思想・イデオロギーが,当時どのような出来事や事件を惹起してきたか,まさか完全に忘れた人はいない。
大東亜戦争中に実業之日本社が刊行した日本国家科学大系第3巻『国家学及政治学1』(昭和17年9月)は,日本の国情に合わせた “Blut und Boden” を,こう解説していた。
皇国とは,天皇の神ながらの御人格の『国土及臣民』の上に限りなく拡張されて行く範囲であり,御稜威の及ぶ範囲そのものに他ならぬ。註記18)
【補 述】 古屋芳雄『国土・人口・血液』(朝日新聞社,昭和16年6月)は,「民族力としての源泉としての人口が考へらるゝ時に,人口政策は血液の問題となって来るし,血液の問題となればまたそれの国土との関係も自ら明〔か〕になって来る」,と述べた著作である。
古屋芳雄『国土・人口・血液』は,「今欧羅巴で最も恐れられてゐるのは『逆淘汰』の問題であらう。独逸の民族政策の如きもただこの現象の防止のために行はれてゐるといっても過言ではない。逆淘汰とは読んで字の如く淘汰が逆に行はれることである。……優良強健な分子が次第にその子孫を喪失し却って不良劣弱な分子が増殖して行くことをいふのである」と,前段に指摘した日本民族の将来を心配したのである。註記20)
日本帝国は当時,日本民族より劣等・下位の肉体的資質・文化的伝統しか有しえない人間として,台湾や朝鮮,満州の先住民族・人種を認識し,確固たる差別・偏見を抱いていた。したがって,帝国の領土を増殖・拡大するにともない必然的に,日本民族が「逆淘汰」されるのではないかと恐怖もし,いわば自業自得の不安にさいなまれていたといえる。
古屋芳雄『民族生物学』(高陽書院,昭和13年11月)はそのせいか,「敵は外にあるのではなく,内に在る」と叫んでいた。註記21)
つまり,それら識者たちは,あたかも「イソップ童話:狼少年」の境地にはまりこんでいたのである。
※-3 「本然の経営」論
小笠原『経営哲学研究序説』にもどろう。
小笠原の経営哲学は,こう主張する。第1に社会貢献をかかげ,その達成のために会社存続をはたし,事業成果への報酬として利潤をえることが経営倫理上の命題であるとともに,企業が継続事業体としての本然を実現するための経営合理の必然でもある,という常識を回復する必要がある。
つまり,「本然を正しく仮設できない認識が,存在を歪曲して認識し,錯誤による認識が非本然的現象を発生させ,これを本然と再錯誤することによって,さらに本然から逸脱した現象が一般化して人々の思い込みを強化する」ことを強調する思惟方式を,小笠原は示していた。註記22)
さきにも,「これまで,法,政治,経済,経営系の実践社会諸科学は『生活』という人間行動のもっとも基本的にして中心的な営為を軽視してきたのではなかったか」と問うた小笠原は,さらにこう答える。
ⅰ)より善き(良き)生活への再設計は,まずは生活の4側面〔「生計≒企業」,「就労・社会参加≒事業」,「協力・人間関係≒組織」,「生活の自律化≒管理」〕それぞれの問題として捉えるべきであろうし,さらにそれぞれの側面から全体の構造を再構成する問題として検討すべきであろう。経営の公共性について語るとき,また問題とすべきは事業経営の問題である。
ⅱ)〈生活〉の《生》の収支が単なる経済的価値計算を超えた問題であることに気づき,困難ながらも〈より良き(善き)生活〉に向けて自律と自尊,利他と共生,信頼と公正の公共心を回復する可能性もつのではないか。
ⅲ)ラスキンによれば,「生なくして富は存在せず」,富の意義は生の目的への奉仕によって確定されるものとなる。註記23)
なお,ゴットル『経済の本質と根本概念』は,こう説明していた。小笠原の見解と比較・対照すべき文章である。
ゴットル『経済と現実』は,こう断言していた。同上に比較・対照したい。
理論をまったき科学的厳密性において行ひさへすれば,すでにそれだけで経済科学が生活上正しい経済政策と正しい関係に立つに至るといふことが経済学における思惟の転換の齎す本来の勝利なのである。註記25)
これらは,酒枝義旗なりのゴットル祖述によっていいなおすと,「人間共同生活の全一性の根本的な体験を出来る限り生々と表現せんとすること」であり,「専門科学的思惟の働きに先立つものであり,且つこれを基礎づけるものとしての意味を有つ。ゴットルはこれを存在論的省察と呼ぶ」ものであった。
そして,「人間共同生活に関する学問を総称して社会科学と呼ぶならば,社会科学の思惟は,みな予言的性格を負ふものでなければならぬ」 註記26)
だから,「株主中心主義が利潤至上主義の『錦の御旗』とする実態は,事業経営の本然を歪曲する」ものと批判した小笠原は 註記27) ,さらに,自説の核心「事業経営の正道」をこう記述する。
筆者はここまで,小笠原の「経営哲学論」的な経営学本質論・方法論の基礎:「経営の本然論」を聞いた結果,おおげさではなく,同学の者として暗然たる面持ちにならざるをえなかった。
かつて,戦時日本に対面をせまられた経営学者も,「社会科学の思惟」としての「予言的性格を負ふ」て,「経営の本然」論を高くかかげていた。だが,われわれは「その惨めな末路」を思いしらされた。事後,早くも80年近くもの歳月が経過してきた。
戦時体制期に公表された日本学術振興会第38小委員会報告『公益性と営利性』(日本評論社,昭和16年9月)という書物は,
当時において具体的に「強度の国防国家の体制を整へ,東亜新秩序を建設するに欠くべからざる前提の要件」を,すなわち,小笠原流にいえば抽象的になるのだが,戦争を遂行中の国家による,「事業への社会的要請に対して適切な事業経営によって応答すること」と措定したうえで,議論を展開していた。
小笠原のいうような「経営哲学論」,「抽象的な創造性・全体原理」の経営理念が,戦時体制期における「事業への社会的要請に対して」,「経営存在論と経営規範論として具体化」したとき,実際のところ,どのような事業経営「形態」がその時々において要求されることになるのか,ということが「理論と実践」をめぐって,眼目の話題となるはずであった。
この種の指摘は,けっして現実離れの空想に向けられたものではなく,先学がたどってきた学史的な経過において,実際に現象してきた様相に対峙していたさいに提唱されたものであった。あるいはまた,これから逐次に提唱されていくものとなるに違いあるまい。
21世紀もすでに4分の1もの時間が経過した現時点であるが,そのような敷衍をおこない,議論を詰めておく必要は当然不可避でもあり,これを妨げる事情はなにもない。
日本学術振興会『公益性と営利性』昭和16年はまた,村本福松の口からこういわせていた。
1941年9月に公刊された本のなかで,日本の経営学者が発言したまさしく「ゴットル的な内容」と,21世紀に入って小笠原が自著のなかで「発言した内容」とは,時代環境を完全に異ならせていたとはいえ,なにゆえか「相似形的にであっても完全に近いほど酷似」していた。
村本福松は,ゴットル経済科学の思考方式に則しながら,戦時国家「全体主義的なる思考」に立ち,「国民経済の発展に仕へる手段的装置」である「企業経営に対する要諦であるところの公益性の発揮」を論じていた。
小笠原は,「事業への社会的要請に対して適切な事業経営によって応答する」,「経営の全体の全体性にふさわしい原理」を論じたうえで,さらに,「事業による社会構成への寄与(公益),これが経営目的のアルファでありオメガであ」ると結論していた。
戦時体制期,帝国日本の公益=「事業による社会構成への寄与」は,歴史的・具体的に回顧してみるに,はたしていかなるものと認識されていたか。
その事実を,前掲『公益性と営利性』1941年はつづけて,平井泰太郎の口からこういわせていた。
平井康太郎は戦争の時代,「公益優先の原理」すなわち「国家の国防経済確立」「高度国防国家の運行」にしたがうべき,「企業本然の姿」すなわち「国家の為の職能的分担」「生産力増進の為の国家機関」を強く提唱した。
そのような戦時期日本における経営学者の提唱は,前出の酒枝義旗『ゴットルの経済学』も学問的に要求していた。それは,つぎのような,「国家理念」に応える「経営理念」を意味するものだった。
酒枝義旗は,国家から企業へ,さらに「家と家制度」の生活根幹〈性〉まで議論をすすめるかたちで,「人:国民の問題」をとりあげていた。なかでもの後半の記述部分は,美濃口時次郎『人的資源論』(時潮社, 昭和14年12月,八元社,昭和16年3月,→ 改訂増補昭和18年9月)を名ざしした批判になっていた。
しかし,戦時体制期こそ実は,〈人間主体〉がもっとも正直に,人的「資源」らしく,つまりモノ:生ける物体じたいとして,とりあつかわれた時代であった。当時は,最戦線で敵軍に立ちむかい戦う将兵が,もっとも重要な「人的資源」であった。くわえて,銃後の軍需産業で働く労働者も,「人的」資源(産業戦士!)の見地よりとりあつかわれる対象であった。
※-4 補 述:その1
吉田敏浩『ルポ 戦争協力拒否』(岩波書店,2005年1月)は,2003年6月8日放送のNHK「日曜討論」で,当時自民党幹事長だった山崎 拓が,「自衛隊という資源を,人的資源をわれわれがもっている以上,しかもそれに尨大な予算を維持しているわけだから,それを国際貢献に使わないという手はない」と,薄笑いを浮かべながら発言した事実に言及していた。
吉田はさらに,「人的資源」という用語は,1938〔昭和13〕年4月に公布された『国家総動員法』の第1条において,
「本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」
というように,使用されていたことも指摘する。
つまり,かつて国民を戦争に駆り立てたあの国家総動員法が正直に規定したごとく,「人的資源」ということばは「人格も意志も認められず〈統制運用〉される対象」として,物資といっしょくたに人間をあつかつ概念であった。
結局,戦前⇒戦中⇒戦後をつうじて「国家の非情な本質は連続性をもつ」という事実を踏まえて,現在の状況をみぬいていかねばならない。註記32)
日本の労働科学を創生させた,暉峻義等(てるおか・ぎとう)という研究者は,『人的資源研究』(改造社,戦時・準戦時経済講座第11巻,昭和13年1月)という著作を公表していた。
暉峻がその同書「序」で強調したのは,
「国家の使命と国民生活の動向とが,現に国民の要請してゐるものは,資源としての数量ではなくして,国民能力の質的構成の更に一層強力なる発展とその維持である」,
「国家人的資源の涵養の手段としての教育の革新と,国民それ自体の能力の質的向上並に強化を目標とする諸政策の強力なる実行の必須なるを思はしめる」ということであった。註記33)
それでは,暉峻『人的資源研究』の眼目は,いったいどこに向けられていたのか。
戦時体制期まで日本の男子は,20歳で徴兵検査をうけ入営するのが「人生の通過儀礼」になっていた。当時すでに,日本男性の体格が劣化しつつある現実が,壮丁検査をとおして問題化していたのである。
同書第11章「国家防御力としての壮丁の体力」の末尾部分は,こう論及していた。
以上,労働科学者暉峻義等の記述には,「国民生活」という用語が頻繁に使用されていた。経営学者小笠原英司もこの「国民生活」という〈ことば:表現〉に特定の意味をこめて駆使していた。
※-5 補 述:その2
井上俊夫『始めて人を殺す-老日本兵の戦争論-』(岩波書店,2005年1月)は,「1銭五厘」〔もしくは赤紙〕で召集・徴兵され,戦争に送りこまれた日本臣民の1男性が,いいかえると,アジア・太平洋〔大東亜〕戦争を生きぬいた老日本人が戦争を告発した書物である。これに聞こう。
「これは三八式歩兵銃というもんだ。この小銃の銃身の中程をよく見てみろ。そこに菊のご紋章がはいっているだろう。
これは『気を付け!』
…… 恐れ多くも天皇陛下よりお下賜くだされた貴重な兵器である
…… 『休め!』……」。
「貴様たちのような兵隊は1枚の召集令状でいくらでも集められるが,この小銃は貴様たちの命よりもはるかに値打ちのある兵器なんだ。死んでもこれを手からはなしてはならぬ。もしもこの銃を紛失したり,こわしたりするようなことがあったら,貴様たちの命はないものと思え」。
「私は……分裂行進の中にいて,まるでゼンマイ仕掛けの人形のような動きをしていると,もはや「自分」とか「個人」といったものが完全にかき消されてしまっているのに,なぜか全身に熱い血潮が心地よくかけめぐり,気分もいつになく昂揚してくるのだった。いかにも自分は,軍隊という強固な集団の中に身を置いているのだという実感が腹の底からわきあがってくるのだった」。註記35)
井上俊夫は,戦後60年も経ったいま〔当時の〕,旧日本陸軍〔旧日本海軍も同じだった〕が帝国臣民を兵士に調達し,彼らを「人間並みどころか,小銃1丁より安価な〈存在=生きもの〉としてしか評価しなかった」事実を,旧日本帝国の一兵卒だった時期の記憶を呼びもどし,再び指摘したのである。
あの戦争の時代,兵士を教練していた兵舎・基地や,侵略・支配をおこなっていた戦地:他国において,陸軍兵士にあてがわれる「物的資源=武器の小銃1丁」よりも「人間である兵士」が低い価値しかないと公言されていたのである。
「国:天皇:義のために勇猛果敢に戦い,しかも喜んで死ねる」『人的資源としての日本帝国軍人』の根本精神に叩きこまれたのは,徹底した「自己を完全に無にできる=人命軽視の価値観」であった。
大日本帝国の君主は「生き神様」の天皇であって,この国の陸軍兵士は,「自分の命よりもはるかに大事な武器」だとされた「物的資源:三八式小銃」を,その雲上人から貸与(下賜?)される関係に置かれていた。
旧日本軍における「人間価値」観に関していえばむしろ,人間じたいを「人的資源としてあつかう」以前の,すなわち,生物的存在である人間そのものを虫けらあつかいする態度がまかりとおっていたのである。
前出,酒枝義旗『ゴットルの経済学』における「人的資源論〈批判〉」の論調が,いかに現実離れの形而上学的な抽象論であったか,また,いかに的をはずした戦時労働経済論であったか,あらためてきびしく批判されねばならない。
戦時日本は太平洋戦争末期〔後期〕にいたるや,絶対的な「戦力不足」の窮状に立ちいたっていた。その結果,帝国軍人・兵士の動員不足を補うため,それまではほとんど動員の対象に想定していなかった「朝鮮や台湾など植民地出身の若者」を,無理やり徴兵することにした。
戦時体制の深化にともないその悪影響を確実にこうむってきた「国家人口統計的な変質内容」は,当時酒枝『ゴットルの経済学』の論じていたような「経済構成体論」を成立させるうえで必要不可欠だった「在内」経済構成体上の諸条件を,日本帝国内外においてすでに崩壊させていたといえる。
酒枝は戦争中,目茶苦茶に「見当外れの戦時経済構成体論的な思想論」を展示してきた。にもかかわらず,敗戦後になってもつづけて,なにごともなかったかのように,それでいて,戦争中と同じの視点・発想での「経済構成体」論を振りまわしていた。彼はそれでも事後,まったく憚るところがなかったとなれば,並み神経ではなかった。
いまとなってみる酒枝の学問にかかわる姿勢は,研究者として似非「経済科学者の姿勢・立場」を記録しただけでなく,知識人としては「犯罪的な言説」さえ披露したものだったというほかない。
戦時体制期はその意味で,人格的主体:人間を端的にただ人的資源とみなした時代であった。にもかかわらず,その人的資源的な発想の基盤とされた「近代唯物主義」を,観念面でのみは非難・否定しようとしたのが,酒枝義旗流〈御用学問〉であった。
小笠原「経営哲学論」,つまり山本「経営」学説に魅惑され,ゴットル経済科学「論」に共鳴して主張された「経営学の基本的観点」は,上述の村本福松や平井泰太郎,そして山本安次郎などが,国家のための「戦争協力の経営理論」を高唱したあげくのはてに破綻した,という歴史的な事実に目を向けていなかった。
経営学は社会科学として,理論性はむろんのこと,歴史性,経験性,実証性を尊重すべき学問であるが,「経営科学:社会科学としての経営学」よりも,「経営哲学:社会哲学としての経営学」に目移りした小笠原は,そうした経営学が科学として基本的に要請される諸要件を,軽視することになる視点を造りあげていた。
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【付記】「本稿(3)」の続編「(4)」のリンク先・住所。
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