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阿部武司編著『大原孫三郎-地域創生を果たした社会事業家の魂-』の読後感

 ※-1 問題提起としての一言

 2017年8月,PHP研究所から阿部武司編著『大原孫三郎-地域創生を果たした社会事業家の魂-』という本が出版されていた。

 本ブログ,本日のこの記述は同書をめぐり,あれこれ考えをめぐらしてみようとする一文である。

 いきなり冒頭からとなるが,以下の議論にとって要点となると踏んだ問題意識を,つぎの2点に前もって明記しておく。

 ▲-1 歴史的視点にもとづく研究志向となっていたけれども,歴史価値「観」に関する詮議が未然であったのか,基本的な問題意識がなんでありどこにみいだせばよかったのか,明解に伝わってこなかった。

 いうなれば,「経営史的に実証ベッタリズム」の「本質論・方法論なき執筆姿勢」に接したことになってしまい,これには容易ならぬ違和感を抱かされた。

 ▲-2 社会科学の研究志向として,いかなる立場・志向・価値観が「方法論的な基本態度」として準備されていたのか,さっぱり不詳というか,もしかするとそれ以前にそうした指摘が不要だったのかという感想を述べるほかないほど,その種の関心がもとから不在だった「経営史の研究成果」。

問題提起と問題意識と問題指摘

 さきに,大原孫三郎の画像をかかげておく。

岡山大学関連・頁より


 ※-2 阿部武司編著『大原孫三郎-地域創生を果たした社会事業家の魂-』PHP研究所,2017年に関した「読後感的な基本の疑念」

 本書のなかからつぎに抽出する段落:記述は,おそらく,編著者の阿部武司がもっとも不得意であると推察できそうな領域に関した「自身の論評」ではなかったか。

 すなわちこれは,戦前・戦時体制に関した意見の表明としては,そもそも説得力を欠く言及になっていた。わざわざ,問題究明の奥行きをみずから狭隘にした立場の表明は,学問の作法としていえば要注意であった。 

 1930年代に倉紡から労研が離れていくなかで,彼(暉峻義等)が日本の社会衛生学を,「労働者の生活と労働,そしてその疲労と健康の保護の問題」への論及を欠き,

 「人口,国民栄養,国民に資質構成と生存能力と遺伝」と対象とする民族衛生学へと傾斜させたこと,戦時期の産業報国運動に労研を積極的に編入し,戦後公職追放になったことなど,いくつかの問題を生んだと,しばしば批判されるが,

 それにしても暉峻と労研が日本の社会衛生学及び労働科学を構築していった功績は不滅というべきであり,この研究所を昭和恐慌期まで倉紡内の批判から守り抜き,さらに1930年代半ばまで個人として支援し続けた孫三郎も偉大であった(272-273頁)。

改行は引用者

 以上の言及は,比較する材料をあれこれ並べて論述するさい,ひとまずは異質であらざるをえない,換言すれば「局面を違えた」『諸論点』を,故意であるかどうかはしらぬが,あえて齟齬させたかたちになる説明にさせてでも,強いてそれらを混在させていた。

 換言すると,ひとまずこう整理しておけばよい。
 
  ★-1「戦時期における暉峻義等の学問展開(営為)」の問題

  ★-2「暉峻義等の研究業績(功績)全体」の問題

  ★-3「大原孫三郎の事業家としての偉大性」の問題

 こうして整理してよい「3点の問題」をめぐってだが,それぞれについて識別はできているけれども,初めから一挙に統括的に連関(超越的に融合)させる次元においてのみ,ともかく理解せよと迫っている。

国士舘大学のHPに求めた顔写真・画像資料は現在は削除

 要するに,前段で★印を付けた3点の項目は,基本の思考としては短絡的にでありながらも,そのうえで無理やりであったが,たがいに無媒介的に結合しつつ,しかも総体として(分かりやすくいうと,ごった煮状態で)あつかわれる次元において,しかも都合よく「加えられたり・減じられたりして」から,その『総合評価としての最終評点』の地平から,つまり逆方向からのみ観るのがよい,とでも聞こえる説法をもって記述されていた。  

 だが,そういう案配に購読指導をされたとなると,いわゆる「プロクルステスの寝台」に乗れと,強要されている気分にならざるをえない。学問の討究にあっては,研究対象への接近を試みるさい,初めから「これは要るけれどもあれは排する」と断定したがる判断とは,無縁でいたほうが好ましい。「関連するであろう」と想定される問題要因を,最初から排除するがごとき意向をチラつかせた学究の姿勢はいただけない。

 阿部武司はとりわけ,「批判」という用語を不必要に仕分けして使用しているつもりである。まず,戦時期における労働科学者に対する「批判」がある。つぎに,世界恐慌の時期に労働科学研究所に対して投じられた「批判」がある。しかし,このふたつの批判が相手にする対象は,議論する問題の対象としては,もとより別物であったとしても,根柢・底面で無関連という位置づけにはなりえない。

 全論の構成(自編著作)のなかではともかく,「労研」の「功績」は独自に蓄積されていたのだから,ともかく文句なしに「尊いものだ」という具合に,つまり,別途に考察されるべき論点ではあれこれあるものの,このあたりの区別そのものは意識してしながらも,

 総体の理解としてならば,労研の「功績は不滅」であるし,だから大原「孫三郎も偉大」であったと位置づけられるゆえ,この労研に対する批判は,全体のなかでは排斥される仕儀とあいなっていた。

 いいかえれば,わざわざとりたてて並べて,とりあげ比較するまでもないのだけれども,あえて労研が挙げえた “功績の面” を強調するためであったせいか,前者:暉峻義等の「人物批判」に対して,後者:大原孫三郎の「人物評価」を対置させる体裁を採ったかたちで,いうなれば「単純化された相対主義」の「論理構成」を前面に配置させていた。

 結局,前者「論点」に対する批判があっても,「こちらの重み」はそれほど「問題」として感じる余地はなかった,とでもいいたい意向が表明されていた。

 しかしながら,そうした具合でもって「学的な批判」に応えようとした基本姿勢は,実は,基本的には別々のもの同士を,無理やり同じ平面に並べて「事前に加減しておこうとする」操作方法を押しつけていた。それゆえ,どの道, “こじつけの論法” の併用なくしては,ただに “逃げ腰” の説論にならざるをえない。


 ※-3 一般思想史の考究を徹底的に欠いていた(=回避していた)かのような史観(?)の迷路

 経営史専攻者に特有である「事実史だけに拘泥する立場」が,阿部武司の編集にはめだっていた。そうであったためか,「暉峻義等の学問の成果と思想の軌跡」をも論究したはず三浦豊彦『暉峻義等-労働科学を創った男-』リブロポート,1991年を代表作として,ほかにもいくつも与えられている関連の業績に対する言及や吟味が,十全になされていたようには思えない筆致を結果させていた。

 前段に引用した文章のなかで,それも「しばしば批判される」と表現されていた,「戦時期」における「学問と思想」の問題に対して,暉峻義等が無縁の立場に終始いたというのであればともかく,それがどのような関与の仕方であれ,戦争の時代の流れのなかに本格的に研究者の立場から参画していかざるをえなかったのが,暉峻義等が当時置かれていた利害状況であり,そしてもう1人の同僚,桐原葆見のそれでもあった。

『労働科学の生い立ち』口絵から

 その人物の1人(暉峻義等)を経営「事実史」の観点から考究するに当たり,この人物の支援者であった大原孫三郎と密着した議論が必要である経緯は承知したうえで,なおかつ,前者(暉峻)に対する経営の「理論史」や「思想史」の視座からする解明が,必要不可欠の研究課題になっている点は,否定できない。

 本ブログでは以前,保城広至『歴史から理論を創造する方法-社会科学と歴史学を統合する-』勁草書房,2015年3月,佐藤俊樹『社会科学と因果分析』岩波書店,2019年1月の2著を挙げて,経営史の研究者側における “社会科学性の認識不足” を議論したことがある()。

 阿部武司の発言はまさしく,その「不足」に相当する事例のひとつであって,それもなおなぜか,自身がその種の立脚点(問題意識の準備)を誇示できるかのようにも放たれていた。

 補注)この段落中の()の点は,以前利用していたブログサイト(プラットフォーム)に掲載,公表していた〈議論〉であり,現在は未公表の状態にある。近日中に復活・再掲するつもりである。

補注

 大原孫三郎の事業家としての偉大な足跡はいったん置いてしても,暉峻義等があの「戦争の時代」に参画していった「戦時体制という国家基盤」に残された,この “労働科学者の足跡” はみたくないかのごとき見解には,びっくりさせられる。とはいえ,そうした経営史研究の方向性は,阿部武司にだけ特有のものではなかった。


 ※-4 戦時体制期を抜いた,置き去りにした日本経営史,この通史に大きな穴:空白を意図して設けていた本があった

 たとえば,ヨハネス・ヒルシュマイヤー = 由井常彦『日本の経営発展-近代化と企業経営-』東洋経済新報社,昭和52年は,実に不思議なことであったが,戦時体制期,つまり1937年から1945年までを,わざわわざ外す「日本経営史」を編集していた。

 本ブログ筆者は,そのような日本経営に関する「通史」(?)がありうるのかと,当然のことのように疑問を抱いていた

 ところで当時,日本経済新聞社は毎年恒例であるが,『日本経済新聞』1978年3月1日朝刊の紙面をもって大々的に広報した《経済図書文化賞》の一著に,このヒルシュマイヤー = 由井常彦『日本の経営発展-近代化と企業経営-』東洋経済新報社,昭和52年を授賞作に選んでいた。

 さらにくわえて驚かされたのが,その経済図書文化賞を授けられた日本経営史「通論」の著作のことを,「ビジネス・ヒストリーの労作としてきわめて意欲的であり,また体系的なものということができる」と講評した,作道洋太郎(当時,大阪大学教授)の発言であった。

 註記) 「J・ヒルシュマイヤー = 由井常彦著『日本の経営発展-近代化と企業経営-』」『朝日新聞』1978年3月23日朝刊17面,作道洋太郎稿「えつらん室」。

 ヒルシュマイヤー = 由井常彦『日本の経営発展』は「戦時体制期:1937年から1945年」を除外した日本経営通史をまとめていたにもかかわらず,これでどうしたら「体系的なものということができる」経営史の著作になりうるのか,それこそ一驚させられた

 この作道洋太郎に疑問を感じないほうがおかしいに決まっている。どういうことかといえば,一般史として昭和史を語るときに「戦時体制期:1937-1945年」を抜いておいたら,このようなあつかい方で,つまり戦前から戦中をわざわざ除外した歴史を書いたら,通史を書いたことにはなりえないことは自明も自明。

 以上の論旨は,つぎのようにあらためて論じなおしておこう。

     ★ 戦時体制期を論じない不思議な日本経営史の本 ★

 このヨハネス・ヒルシュマイヤー = 由井常彦『日本の経営発展-近代化と企業経営-』東洋経済新報社,昭和52年という本は,もちろん経営学分野の専門書であるが,不思議な内容構成を展示していた。

 この本は,江戸時代から現代までを各時代ごとに社会経済的背景や担い手,企業内・外の組織,価値体系の各側面から国際比較し,近代化達成の因をさぐった通史である,と説明されている。第21回(1978年)の日経経済図書文化賞を受賞していた。

 ところが,「ビジネス・ヒストリーの労作としてきわめて意欲的であり,また体系的なものということができよう」註記)と高く評価されていながら,この『日本の経営発展-近代化と企業経営-』は奇妙なことに,戦時体制期〔昭和12-20年;1937-1945年〕には触れず,とりあげていない「日本経営史の理論体系」を編成していた。  

 註記)前掲にあったが再度記す。『朝日新聞』1978年3月23日朝刊「えつらん室」,作道洋太郎「『日本の経営発展-近代化と企業経営-』,ヨハネス・ヒルシュマイヤー・由井常彦」。  

 日本経営史を概説する著作から戦時体制期を対象外にしておく措置は,体系性という理論の立場からも,あるいは歴史を論じるための一貫した立場からも,完全に逸脱した書物の制作,その内容構成であった。  

 たとえば,といって挙げるのが適当だと思うが,経営史学会編,山崎広明編集代表『日本経営史の基礎知識』有斐閣,2004年などは,第4部に「戦中・戦後の企業経営:1937~55年」を収めていた。

 またたとえば,前段で氏名が出ていた作道道太郎も編者にくわわっていた『日本経営史』(三島康雄・安岡重明・井上洋一郎との共編)有斐閣,1980年)は, 第Ⅲ章「大正・昭和前期の経営」を

  第1節「第1次大戦と昭和恐慌期(大正初年から昭和5年まで) 

  第2節「15年戦争期(昭和6年から20年まで)

として編成していた。

 ほかにも類書はいくらでもあるから,それぞれ調べてみればよい。日本経営史の書物としての編成内容から「戦時〔体制〕期」を除外して,しかも通史を書くというのは「信じられない」「経営史・学書」の中身であった。

 前掲した経営史学会編『日本経営史の基礎知識』有斐閣,2004年などは,経営史学会が企画・公刊した書物であった。この本の第4部「戦中・戦後の企業経営:1937~55年」に相当する時期に関する記述が,ヒルシュマイヤー・由井共著『日本の経営発展-近代化と企業経営-』からは完全に削られていた。

 という相違から観て,ヒルシュマイヤー・由井共著『日本の経営発展-近代化と企業経営-』の場合は,とりあつかいづらい,戦時体制期の日本企業史を忌避する「日本経営史の概説(?)書」を公刊した。だが,この方法は完全に落ち度を意味した。

 要は,こういうあつかいであった。「平時の企業経営史」であっても「戦時の企業経営史」であっても,経営史としては “同じ事実史” を指すことに異論を唱えられる人はいないと思う。

 戦時であれ戦前であれ戦後であれ,日本の企業経営は歴史的に歩んできた事実じたいは,時計の針が進むのに応じてとなるわけだが,歴史の記録として逐次に展開され,順次に蓄積されてきた。

 この流れのなかからだが,特定の時期を,それも通史を書くのだといった「日本経営史」の本が,昭和の時代から「戦争の時代」は,いったん抜いて書きましたという発想は,そもそもの話からして許されないなどと決めつけて宣告する以前に,もとよりありうるはずなどなかった『「昭和経営史」の調理方法』であった。

 要するに,「平時」的な経営史のなかの途中に,あたかも割りこんできたがごとき「戦時の経営史」は,「満州事変」⇒「日中戦争」から「日米戦争」にまで戦線が拡大されていく「15年戦争」のなかで,「大東亜・太平洋戦争」と呼ばれた戦争史の時期が終わるまでのうち,しかも「日中戦争」としてのその期間にかぎっては,日本経営史の記述からなぜか,わざわざ除外していた。 

 なお,ヒルシュマイヤー = 由井常彦『日本の経営発展』は,冒頭〈はしがき〉において,謝辞を捧げた人物の1人に作道洋太郎の姓名を挙げていた。この事実は,作道が前段で触れたように,この本の体系(編成内容)を「ビジネス・ヒストリーの労作としてきわめて意欲的であり,また体系的なものということができる」と講評せしめる事由になっていたのかもしれない。
 

 ※-5 「△△賞」を授けられた名著が好著とはかぎらず

 本書に対するアマゾンのブック・レビューが1点のみ投稿されていた(ここでは,2019年6月9日閲覧による話題だが,本日2024年12月20日の時点だと2点に増えているが,実際に読めるレビューは以下に引用するものだけである)。

 このブックレビューの寄稿者・藤森かよこは,「日本アイン・ランド研究会」の会員だと,1人で勝手名のっており,評点は「5つ星のうち 5.0 」の満点を与えていた(2018年1月22日)。ともかくその全文を以下に引用しておく。

     日本アイン・ランド研究会 ひとり会員 藤森かよこ ♥

 5つ星のうち 5.0 再販して!!! 江戸期から1970年代までの日本の産業発展の歴史を知りたいならこれ!
 (2018年1月22日に日本でレビュー済み) 

 もともとは英語で出版されたものの日本語版である。アメリカでは,まだ版を重ねている。名著ですから。ドイツ人神父と日本人研究者が,江戸期から1970年代までの日本の産業経済の発展と推移をきちんと整理提示分析している。
 
 江戸期の豪商たちが,いかに明治になって財閥として立ち上がっていったのか。幕藩体制の大名たちが華族となり,いかに投資家として資本を蓄積し,産業界と結びついていったのか,その他の有力企業家たちの群像。ほんとうに優れた学術書は,小説よりもはるかにワクワクさせてくれる。

 すでに絶版なのは残念だ。これと同時に,山本七平著『勤勉の哲学』や『日本資本主義の精神』と,小室直樹著『日本資本主義崩壊の論理』と,広瀬 隆著『持丸長者』シリーズ3作を,あわせ読めば,江戸期からバブル以前の日本の経済産業の全体図と,それを推進したエトスがわかる。

藤森かよこ・ブックレビュー

 本ブログ筆者にいわせれば,再版するときがあったらだが,ぜひとも戦時体制期の時代を増訂し,穴埋めする手当をほどこしてほしいものである。

 由井常彦は1931年生まれ,御年93歳である。ヨハネス・ヒルシュマイヤー(ドイツの経済学者)は1921年に生まれ,1983年に他界していた。そうはいっても,いまとなっては,増訂版を書いてもらい「戦時体制期」の欠落を補足してほしいと希望したところで多分,これはかなわぬ希望である。

 ところで,J・ヒルシュマイアは『日本における企業者精神の生成』という日本語訳のある本を公刊していたが,これは東洋経済新報社から昭和40(1965)年に発売されていた。本書は明治期の企業者活動に関する研究書であったので,戦時体制期ウンヌンの問題は埒外であった。


 ※-6 基本的な疑念-労働科学のほうに話題を戻す-

 ここで,阿部武司という経営史専攻者の話題に戻る。経営史研究者としてどのような思想・信条をもっているにせよ,またどのような研究の志向を採るにせよ,事実としてあった暉峻義等(や桐原葆見)の研究・営為は,戦争の時代において記録してきた「理論と実践」も,例外などなく考察の対象である。そうでなくてもいいなどとは,学究であるかぎり,絶対に口に出していえない。

 暉峻義等にしても桐原葆見にしても,「百%近くは褒めるしか手がない」と自信をもって断定できる人がいるとなれば,とくに異論を意見する気にはなれない。けれども,人間の生む学問的な業績に関して,そのような評価の方法はありえない。

 前記の両名は,研究者としての「人生には山あり谷ありであった」。「山はよくみえるのでみてやるが,谷の底はあえてのぞくまでもない」というのでは,学究の採るべき方法とはいえまい。

 学究の業績は,好むと好まざるとにかかわらず “清濁併せ(!?)呑みこむ要領” をもって,徹底的に総合的な究明が与えられるべきである学問作法の問題は,なにかの好き嫌いの嗜好とはいっさい無関係に,終始一貫されるべきであった。

 いいかえると,学問研究の客観性・公平性・妥当性・実証性などに関しては,目配りのゆきとどいた準備をしておきたく,かつまた,評価や価値観や信条(心情)をめぐる各自の立場のかかわらせ方においては,特定の理由や根拠も明示するなしに,好悪の感情・感傷を表面に出しすぎる見地の披瀝になるとしたら,学問にたずさわる人間のやり方としては,むろん御法度である。

 暉峻義等や桐原葆見が戦争の時代に協力していかざるをえなかった理由や原因は,なんであったのか。そのさい,彼らの本心や意図がどこにあったかという論点が,経営事実史から摘出できないわけではあるまい。むしろ,まさに,そこからこそたぐり出すべき論点があった。経営史研究の立場であればそうした指摘は多分,「釈迦に説法」だと思いたい。

 しかし,阿部武司編著『大原孫三郎-地域創生を果たした社会事業家の魂-』の言及を聞いていると,そうした方向の探索は無用であったか,あるいは放置されていた,としか解釈できない。

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