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社会科学方法論-高島善哉の学問(6)

 「本稿(6)」は,高島善哉による社会科学論を連続してとりあげ議論している。本日の要点は,つぎの2点として設定しておく。なお,この記述の初出は 2014年11月20日,更新を2020年2月25日におこない,さらに本日改筆するかたちになった。

  要点:1 高島善哉の社会科学論における風土の概念

  要点:2 現代の社会科学方法論は,高島善哉を超えられないのか?
 

 ※-1 社会科学における「風土の概念」の意味

 1) 風土の概念と日本社会

 本日の記述は「本稿(5)」(2014年11月19日,前回)につづいて,いよいよ高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』(竹内書店,1966年)の内容に立ちいった論及となる。

本ブログ筆者の蔵書,表紙カバーに乱れあり
発行年は筆者記入

 同書は「階級と民族のあいだに風土というカテゴリーを挿入して,現代社会科学の基礎理論を」「深めてみたい」という問題意識を具体的に披露した著作である。

 高島善哉が和辻哲郎『風土』(岩波書店,昭和10)に触れていたことを,もう一度確認しつつ,本日の記述をおこなっていきたい。

 高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』は,1998年にこぶし書房が『高島善哉著作集第4巻 現代日本の考察』として復刊していた。ともかく,本書の目次をつぎに紹介する。

1 日本回帰とは何か-序説(その1)-
2 戦後民主主義と新しいナショナリズム-序説(その2)-

3 日本の近代化と近代主義の超克
4 ビキニの灰の意味するもの

5 戦後日本の進歩と反動
6 民族と階級-現代ナショナリズムの焦点-

7 低迷するナショナリズム論議の核心-何を,いかに問題とすべきか-
8 左右の争点としての愛国心-戦後日本のナショナリズムについて-

9 風土に関する八つのノート
10 ナショナルなものとナショナリズム-むすび-

高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』目次

 この『現代日本の考察-民族・風土・階級-』は,「民族と階級,そのトポスとしての風土」を「地理学的・文化人類学的・哲学的な風土論」としてとらえ,批判的に考察する。いわば,風土論の再構築をめざした「ナショナリズムの社会科学論」である。ここで〈トポス〉とは「共通の観念を想起させることで,特定の場所を意識させ」,この「特定の場所に導くことで,人間関係を構成する位相」を意味する。

 註記1)紀伊國屋書店ホームページ, http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4875591144.html
 註記2)トポスの説明, http://d.hatena.ne.jp/keyword/�ȥݥ�

 社会科学論を講じる学究として高島善哉が「風土の概念」に到達し,これを学問の構想として自身の理論展開のなかに著わしはじめたのは,戦後の共著,高島善哉・水田 洋・平田清明『社会思想史概論』(岩波書店,昭和37年)の終章「現代社会思想史の課題」においてであった。

 2)「風土に関する八つのノート」の前章

 高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』は9「風土に関する八つのノート」で,風土に関する考察を本格的・集中的におこなっているが,同書はくわえて,ほかの箇所で「風土の概念」が必要であるゆえんを,たびたび強調していた。

 a)「日本文化の風土的性格」 明治維新の以前には,日本と大陸から仏教や儒教を受けいれて,それが,

  イ) 日本古来の土着の思想や感情と個性的な混血をなしとげていた。しかし,
  ロ) 明治維新の以後においてはまた,そのような混血がなしとげられたとはいえない。

 そういっていた高島であるが,ただし,ロ) のほうのそれが「なしとげられたといえない」のは「なぜかということについてはここでは論じない」と断わってもいたので,本ブログ筆者はある疑念を感じた。

 というのは,高島は同時に「日本人も仮に時間的・社会的な条件さえ与えられたなら,外来文化を受けいれてそれを個性的〔ユニーク〕なものに土着化することができる」「素質をもっている」と論断していたからである(以上〔「3.日本の近代化と近代主義の超克」〕84頁参照)。

 明治が始まった1868年からほぼ百年近くが経ったころの1966年において,そして敗戦後21年が過ぎた「その〈いまの時点〉」においても,日本・日本国の文化なりの「混血がなりとげられたとはいえない」とは,けっしていえまい。

 日本は明治以来,資本主義産業化(殖産興業・富国強兵〔実態は貧国強兵)への進路をとるかたちで近代化路線を推進させてきた。敗戦がその途中に入ったものの,それなりに社会経済的な基盤を造りあげてきた。

 高島が『現代日本の考察-民族・風土・階級-』を1966年に公表するときまではすでに,この国は経済大国になる条件をととのえていたはずである。

 補注)高度経済成長期とは「1955年~1973年まで19年間」を指している。当時,日本経済は年平均で10%もの成長を続けた。その時期には技術革新が起こり,自動車産業や電気機械業,化学工業,造船業などの製造業が躍進し,会社の規模を拡大していった。

 国民経済における庶民生活では,耐久消費財の「冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ」が “三種の神器” と呼ばれる現象が生まれ,家電市場がそれに応じて拡大したのである。人びとの生活水準も向上した結果,耐久消費財の普及がいちじるしく進展をみせた。

 以上,20世紀第3四半期における日本経済の発展「高度経済成長」を踏まえた解釈として,「日本の近代化の百年をとってみれば,まだ雑種とまでいかない雑居の文化であるというほかあるまい」(〔同上〕85頁)という高島なりの判断は,社会科学的な観点にまつわる論点はさておき,文化史あるいは文明史観から検討をくわえてみると,いささか粗雑な歴史解釈を感じさせるほかない。

 もっとも,〈雑種〉とか〈雑居〉という表現をもちだすならば,ヨーロッパ諸国におけるたとえば,イギリスやフランス,スペインの文化に関しても,雑種・雑居であった歴史の展開を具体的に併せて想起しておくことになれば,日本にのみ雑種・雑居というコトバをもち出し特徴づけて論説する根拠は,一気に薄まってしまうのである。英語(米語)のばあいはそもそも,その特性を語源学的にさかのぼって探ってみればよい。

 要は,〈雑種〉〈雑居〉ということばでもって,高島流におおざっぱに議論するのであれば,そのような類推的な批判も無理なく導きだせる。このへんの論点は,本日記述の最後部で「補論」をしつらえて関説することにしたい。

〔高島,記述に戻る ↓ 〕
 b)「風土の性格」 風土とは自然的なものにしろ,社会的なものにしろ,それ自身がひとつの自然的な性格を有する。風土はまた,ひとつの民族の奥深いところにあって,その民族の発想のうえにみのがしがたい大きな力を及ぼしている。しかし,風土概念だけで現実の民族運動が説明できるわけではない。

 また,政治的・経済的イデオロギー的に,ある態度を採ることなしにその自己主張を貫くことができるわけでもない。

 風土概念だけで民族問題に接近するとなれば,民族は「ひとつの共同体」であるとか「宿命的なつながり」があるとか,そういった強調にならざるをえない。

 風土概念の重要性を認めながらも,それを足場としてまた媒介として独立の民族を形成してくれる,もうひとつ高い次元の契機を民族のなかに求めなければならない。

 それは,かつて提唱された八紘一宇や大和魂とかゲルマン魂とかの〈民族精神〉ではなく,民族の気質・民族の個性としての発想が適切である。高島は,これこそが風土概念によってとらえようとする対象であると強調する。それは民族のなかにあり,それ自身が民族の構成員でありながら,その民族を主体的に引っぱっていく力をもっているもの,すなわち〈階級〉である。

 高島の結論的な提唱はこうである。「階級こそ民族と世界を結びつけるものであり,民族の民族性を国際性まで高めうるもののであり,その意味で階級こそ主体である。私たちはこのような見方を身につけることによって初めて,現代ナショナリズムの焦点に迫ることができる」(以上〔高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』「6.民族と階級」〕184-186頁参照)。

 3)「階級こそ主体-風土概念の前哨-」

 「階級こそ主体」といった高島の主唱,これを21世紀の現段階において受けとめることになれば,本稿の前回記述,「社会科学方法論-高島善哉の学問(5)」2023年6月14日〕が触れていたように,その前面にせり出ている〈空想性〉に注意しなければならない。

 高島は,論稿「戦後の経済及び社会観」(高島善哉・永田 清・大河内一男『戦後経済学の課題〔1〕』経済学選書,有斐閣,昭和22年9月所収)をもって,敗戦直後に沸きおこっていた「平和国家・文化国家の建設に強力に寄与せねばならぬとの機運」に応えるために,こう主張していた。

  a) 「社会科学的ヒューマニズムの科学性と実践性を歴史の科学として統一し綜合することに成功した最初の人は,弁証法的唯物論の主唱者マルクスであった」。その「社会科学的ヒューマニズムは単に行為の理論ではなくて,その前に歴史の理論を求める。歴史の理論は資本主義社会の発展に即してこれを分析する経済学によって与へられる」。「これは資本主義に内在する立場である」。

  b) 「しかし,単に資本主義に内在するだけでそれに超越することをしらない者は,資本主義体制の全体的把握をなすことはできない」。「空想的社会主義者の非空想性は今日これを高く評価しなければなるまい」。「社会科学的ヒューマニズムは科学的社会主義から最も多くのものを学び得るし,また学ばねばならない。今日それはあらゆる種類の誤解や歪曲や俗流化から護られることが特に重要である」(高島「戦後の経済及び社会観」74頁)。

 だが,1947年の高島論稿「戦後の経済及び社会観」の観点が,1966年の著作『現代日本の考察-民族・風土・階級-』においても,そのまま難なく通用しえたかといえば,これには疑問が付く。

 21世紀のいま:2023〔2014,2020〕年にもなって観察する高島の社会科学「観」についていえば,「空想的社会主義者の非空想性は今日これを高く評価しなければなるまい」という地平から「積極的に評価できる内実」は,もうなにもなくなったも同然である。

 前段に a) として記述した部分「社会科学的ヒューマニズム」の立場は,b) として記述した部分「歴史の理論は資本主義社会の発展に即してこれを分析する経済学」に対して,有機的・全面的に生かされうるような〈相互関連性〉を発揮しえないでいる。

 高島が予期した結論からの乖離が,いったいなにに原因していたのか? それは「民族を主体的に牽引する力をもつ階級」に関する過大な期待,いいかえれば「階級観における〈歴史の理解〉」の不全性,これを体よくいえば「未完の唯物史観」あるいは「唯物史観への過剰な信頼」にあった,ということになる。

 高島は「階級こそ民族と世界を結びつけるものであり,民族の民族性を国際性まで高めうるもののであり,その意味で階級こそ主体である」と規定していた。けれども,ここでの〈階級〉とは「空想的社会主義者の非空想性(※)」の未完性をみごとに反証した。

 あえて指摘すればややこしい表現になるが,その「空想的社会主義者の非空想性(※)の現実性」は,「現実的資本主義者の非現実性(#)」の視線を投じられたとき,もろくも,そちらの「非空想性の現実性」は,こちらの「非現実性(#)の空想性」によって,みごとに食われてしまっていた。いわば,すっかりそのお株をとられたのである。

 

 ※-2「風土に関する八つのノート」1966年〔その1〕-第1のノート:民族と階級を結ぶもの-

 1) 社会主義国と民族問題

 社会主義的ナショナリズム,一口にマルクス=レーニン主義といっても,スターリンやフルシチョフと毛 沢東のあいだには発想の違いがあって,教条主義とか修正主義とかいった問題とは違う次元の問題である。

 一民族が他民族の文化や風習を受けついだとき,その民族独自の受けとりかたがある。これはその民族の発想法の問題であり,その民族の体質とか気質といわれるものと深く結びついている。高島はこれを「風土という概念」でとらえると提唱したのである。

 高島は,かといって「中ソの対立をただ私の風土概念をもって解き去ろうとするものではない」と断わってもいた。この対立は優れて政治的かつ戦略的・戦術的であって,同時にまた,社会主義体制の発展過程における両国民の段階の違いでもある。

 さらには,両国民が置かれた国際的な状況への対決のしかたの違いでもある。現代の社会主義的ナショナリズムといっても,複雑な諸契機の統一物なのであり,けっして民族性の違いのみから中ソの対立を説明できるのではない(以上〔高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』「6.民族と階級」〕191-192頁)。

 民族の「歴史的・地理的な成長過程」とその民族の「実在性」とは,どのように結びついているのか。誰もこの問題を進んで明らかにしようとするものがなかった。もしこの問題の重要さに気づいたなら,そこから風土理論への道はいま一歩である。

 風土という概念は,民族の「歴史的・地理的な条件」とその「実在性」とを〈科学的なしかた〉で結合してくれる。そうなれば,民族の実在性が一人歩きをしたり,ある不思議な神秘的な想像力を振るったりしなくなる (以上〔高島,前掲書「7.低迷するナショナリズム論議の核心」〕201頁)。

 2)「風土に関する八つのノート」-第1のノート:民族と階級を結ぶもの-

 高島善哉は1964年4月,一橋大学の教授と学生の共同で自由な研学の場として「現代史研究会」を設けた。その第1回の報告者として高島がとりあげた論題が「階級と民族の接点としての風土」であった。その報告の要旨は『一橋新聞』1964年4月30日,第757号に掲載された。

 この一文は問題提起の段階に留まっていたが,各方面の注意を惹いた。この問題の重要さはその後,中ソ論争やベトナム戦争,インドネシアの新事態などの発展によって明らかになった。

  a)「なぜ風土を問題にするか」 第2次世界大戦後の世界史の動向は,「階級と民族の結びつき問題」が現代史の抱えているもっとも根本的で重要な問題のひとつであることを教えている。

 それは単に実践的・政策的な問題であるばかりでなく,同時に理論的な問題として,しかも社会科学的な認識の問題として現前している。『社会科学入門-新しい国民の見方考え方-』(高島善哉,岩波新書,1954年)はそうした問題提起をおこなっていた。

 高島善哉のこの『社会科学入門』1954年は,前人未到の問題領域にたどりついていた。「階級は主体であり,民族は母体であるという命題」を提唱した。くわえて「この階級と民族を結びつけるものとして風土の概念をもち出そうとするのであった」。

 その構想は,共著の高島善哉・水田 洋・平田清明『社会思想史概論』(岩波書店,昭和37年)の終章「現代社会思想史の課題」においても,思いきって公表されなおした。

 しかし,残念なことにこの書物が出てからすでに3年半〔ここでは当時での話〕にもなるのに,この提案に対す学界の反応はほとんど皆無に近かった(以上〔高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』「9.風土に関する八つのノート」〕191-192頁)。

  b)「理論的な結合は困難か」 階級と民族の媒介事項として風土概念をもち出すことは可能か? 風土とはなにか? このあいまいな概念はもっと分析し,整理されねばならない。

 このままでは,階級と民族を理論的に結合するという困難な問題は,さらにもうひとつ困難でやっかいな問題を背負いこむことになるだけである。高島はこの難所からの脱出の道を探索することになった。

  c)「階級と民族とは範疇次元が違うか」 資本主義体制の内部でも,そして社会主義体制の内部でも,民族は階級や体制を超えている一面をもっているという意味において,民族は階級とは次元を異にする範疇である。

 しかし,民族はいつでもひとつではなく,もともとひとつである民族を分裂させるものは,基本的には階級である。少なくとも資本主義体制内部ではそうである。分裂の要因は民族の側にあるのではなく,その原因は階級の側にある。この意味では階級は主体であり,歴史的・社会的主体なのである。

 だが問題は,単に資本家か労働者か,そのどちらが民族の一体性を守りぬくことができるかという点だけでなく,ひとつの民族が民族としてもちつづけているあるもの,これを仮に民族性ということばで表現するならば,主体としての資本家階級もしくは労働者階級に対して客体として対立するのではなく,いわば肉体として母体として,ある共同の培養的な作用を及ぼしているところに,この問題の複雑さがある。

  d)「風土概念の構造を考えるために」 風土概念を分析してふたつの契機を析出する。ひとつは〈自然的風土〉であり,もうひとつは〈社会的風土〉である。自然的風土は社会的風土の担い手であるばかりでなく,この両者のあいだには非常に長い期間にわたって相互浸透の差超がおこなわれ,そこにひとつの民族性といわれるものができあがってくる。この民族性なるものは,もちろん絶対不変のものではなく,歴史的・社会的条件の大きな変化によってかえられてもいくのである。

 敗戦した時以降の日本でのように,他の民族によって完全に占領されてしまい,ことばがかわるとか文化が変容するとかいったことでもないかぎり,日本人はやはり日本人であるという一面をもちつづけるに違いない。

 いったい,日本人とはなにか? このような問いかけがなわれたとき,意識するとしないとにかかわらず,日本的風土とはなにかという問いが発せられているのである

  e)「史的唯物論を手がかりに」 風土概念の構造を闡明するには,哲学者の問題提起や文学者の直観に学ぶだけでなく,そこからさらに社会科学者としての道を開く必要がある。なによりも地理学者・文化人類学者などの助力が要請され,他方で,自然と社会・肉体と精神を統一的に掴むことができるような「歴史観・人間観」が求められねばならない

 史的唯物論は高島の問題意識に対して有力な手がかりを与えてくれる。「風土と生産力とを結びつけることによって私たちの理論的な道が一歩向上するのではないか」(以上〔高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』「9.風土に関する八つのノート」〕238-242頁)。

 ところで,高島が「史的唯物論(唯物史観)」に依拠したのは,社会科学論として出立点としては必らずしも不適切であったとはいえない。しかし,史的唯物論の側において風土論を展開するさい,いつもつきまとう危険性がある。それは「経済的一元論」である。高島のいう現代「マルクス主義の陥りやすい欠陥」=「合理的一元主義」である(高島善哉・ほか『社会思想史概論』372頁)。

 しかしながら,その克服のメドが十全にみとおせていなかったところに,高島流「風土論」の特質の限界があった。

【補 論】 植村邦彦「高島善哉における『民族と階級』」(関西大学経済学会『関西大学経済論集』第46巻第4号,1996年11月,1-21頁,註記)は,「本稿(3)」(2023年6月9日)が小熊英二の議論を引照しつつ批判した論点に関連させて,つぎのごとき指摘をしていた。2箇所から引用する。

 ◆-1 高島は,その最後の著作においてもなお,「生産力の理論と同様に,風土の理論というものもまだできあがっていない。というよりはむしろ,ほとんど手つかずの状態であるとみるのが正しい」と述懐せざるをえなかった。

 この点に関しては,高島が高く評価する飯沼二郎や玉城 哲・旗手 勲の風土論が,ともに農業技術という人間が自然に働きかける実践に即して自然の規定性(気温や年間降雨量・乾燥指数などと農業類型との対応)を考え,風土の問題を「生産様式」の具体的な在り方へと関連づけていること,そして他方では,そのような自然的規定性をけっして人間の形質(形態的・生理的な各種の遺伝的性質),つまり,高島のいわゆる「人種」には関連づけていないことを指摘しておかねばなるまい。

 形質人類学が対象とする人間の形質の差異を「社会科学的風土論」の枠組に組みこんで意味づけることには,根本的なところで無理があるのではないか。

 註記)植村,前掲稿,15頁。

 ◆-2 高島の「民族と階級」に関する三部作はすべて未完の覚え書きであり,彼自身が「民族と階級」を媒介するのに不可欠なライフワークと見定めた「生産力の理論」も「風土」の理論も,みずからの手で完成させることなく終わった。

 高島は,唯物論的な歴史観を豊富化する理論体系を構築しようとして,新たな学問的領域につぎつぎに果敢な挑戦を試み,最新の学問的成果との知的対話をたえず繰り返した。たしかに彼の試みのスケールの大きさは,戦後日本の思想家群像のなかでも稀有なものに属する。だが,この試みの壮大さによって,彼は逆に,時代に制約されたさまざまな「流行」理論に足をとられたのである。

 高島は,「人種 / 種族」という自然的存在が「国民国家」という近代の政治的形成体によって形態規定されたものとして「民族」を理解した。そして,その「民族=国家」の内部における社会変革の主体として,つまり「日本民族のエネルギー」の担い手として,「階級」を位置づけていた。

 いいかえれば,高島における「民族と階級」とは,あくまで,ひとまずは「単一民族国家」という「幻想の共同体」の枠組みを前提としたうえで,その内部で両者がどのような関係にあるのか,という問いであった。

 高島の試みは未完成に終わらざるをえなかったが,ここから考えるヒントをえられるとすれば,彼の試みの根本的な限界は,「民族と階級」を関連させようとした枠組設定の仕方にあった。

 「民族性は,史的システムとしての資本主義の主要な制度的構築物である」とすれば,「民族と階級」の関連を探るべき枠組は,資本主義世界経済という場なのである。

 また「制度的構築物」としての「民族」の社会科学的概念把握のために依然として必要なのは,歴史や伝統という言葉で修飾された「民族/国民」の虚構性・擬制性の徹底的な解明による,その「脱構築」の試みなのである。

 註記)植村,前掲稿,17頁。
 

※-3 総括的議論 

 前出にも指摘のあった,本ブログ内の「社会科学方法論の高島善哉の学問(3)」2023年6月9日が言及していた点については,こういう問題がまだ残されていた。

 まず,敗戦をはさんで大日本帝国の「多民族的な諸実体」が,いつのまにか,日本国の「単一純粋民族という実体」(→「幻想の共同体」)に急変したという歴史的な背景事情があった。

 つぎに,高島が社会科学論的に討究してきた「民族と国民の理論枠組」のなかに登場させたはずの風土論が,実は,十全には対象化できないままにきた「日本国内に厳在しつづけた民族問題」があった。

 敗戦後日本の政治過程における「闇市の問題」「日本共産党の動勢」などに,一時期的・部分的にではあっても深く・強く,関与・参加してきた在日朝鮮人・台湾人たち,すなわち,旧植民地出身の異民族社会集団の実在は,高島善哉の社会科学論を構想される契機のなかには,もともと考慮されておらず,入りこむ余地すらなかった。

 その意味では,当時を囲む時代状況をその大枠として踏まえ観察してみるに,高島善哉の社会科学論は,みずからの存在する足場において現実遊離の学問部分を,当初の発想から包蔵していた。

 「戦後日本の実相・実態」がどのように「社会科学者の視座」から捕捉・把持されていたのかという論点をめぐり,そこには学問に従事する者に不可避であった高踏性,換言すれば「現実遊離の危険性」が回避しきれていなかった。

 なぜならば,社会科学論として意識する「体制・民族・階級・風土」のいずれの問題要因に対して,この国においては明治帝政以来,その根源から関連を有してきたはずの現実的な諸要因,換言すれば,在日朝鮮人・台湾人という旧植民地出身者〔など〕の存在(→ときに不逞鮮人に位置づけられてもきた相手)であった。

 さらにまた,この国のなかには,治安維持法が必死になって真っ向から摘発にすべき日本共産党という政党集団(←非ニッポン民族的であり「目の仇」にされるべき政治団体)が,いつも徹底的に忌み嫌われるべき存在として混在してもいた。

 旧大日本帝国時代においては「不逞鮮人」たちが自国の独立運動を唱えてきたがために,この帝国にとっては重大な国際政治・社会問題でありつづけた。敗戦後も長期間,日本政府は戦前・戦中と同じ視点にもとづく処遇(不法行為)を,在日韓国・朝鮮人に対して与えつづけてきた。

 そうした時代的な経緯をたどったのち,ここからやぶにらみ的に登壇してきたのが,21世紀にもなって蠢動してきた「在特会」のような,きわめつけの単細胞で,ひたすら保守・反動・極右・排外主義を標榜するエセ愛国主義の病理集団であった。

 また,日本共産党は敗戦後になっても,体制側から非合法的に敵視されつづけている。この日本国内の正式な公党は,昔からすでに「合法的な政党」になっていた。ところが,いまでもなお,その旧時代的な帝国主義的な「赤呼ばわり思想」の余韻を,なお重く引きずっている体制側政党集団からは,不当に邪視されている。

 日本共産党は基本の党是としてはもとより天皇・天皇制は認めていない。いうなれば「打倒の対象」でしかなかったはずである。ところが最近は,この思考を一時停止させている。ただしこの姿勢は単に選挙対策である。

 補注)現在の日本共産党は天皇・天皇制の存在を現実には認めていないわけではない。関係する党是をすでに変更していたが,かといって,この問題をいつも時限爆弾的に背負っていることは,否定できない。

【参考記述】  現在における日本共産党の「天皇の制度」に関する正式な見解は,つぎのとおりである。あれこれくわしい議論を展開しているが,要点(核心)はこう説明されている。

 党は,一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は,民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく,国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには,民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。

 天皇の制度は憲法上の制度であり,その存廃は,将来,情勢が熟したときに,国民の総意によって解決されるべきものである。

 註記)「天皇の制度と日本共産党の立場 志位委員長に聞く,聞き手 小木曽陽司・赤旗編集局長」『赤旗』2019年6月4日,https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/06/post-807.html(「HOME⇒日本共産党の政策⇒天皇の制度⇒「天皇の制度と日本共産党の立場-志位委員長に聞く」)

 補注)この日本共産党の「天皇問題」に関する意見は,「民主共和制の政治体制」を唱えるかぎり,天皇・天皇制は認めない立場にある。「将来,情勢が熟したとき,国民の総意によって解決されるべきものである」という主張は,現実逃避の立場を意味する。

日本共産党の「天皇の制度」に対する立場

 マルクス・レーニン主義が天皇・天皇制を認める事由はなにもない。ロマノフ王朝を殲滅したのは誰か? 昭和天皇が敗戦後に一番恐怖したのは,ソ連の社会主義(=共産主義)であった。

 米日安保条約体制のもとでこそ,彼は,ようやく安心して夜を眠れる人になっていた。これが実は,いまも日本がアメリカに実質においては属国である現状を説明できる「歴史上確固たるひとつの理由」であった。

 高島善哉の社会科学論は,社会科学的な究明にさいして無視できないはずのこうした『日本社会の歴史的な諸相』=研究対象を,より具体的に構成化しえないで終わっていた。

 社会科学の方法論であるゆえ,これはひとまず,どこまでも抽象的な論理をもちいて議論させねばならないにせよ,最終的に観て,その対象論における関連要因の摂取・照合・観察において基本的な不足・欠落を残すほかないとすれば,この方法論は『方法論として必要かつ十分な研究要件を整備・確立できていなかった』と判断される。

 最後にこういう論点を指摘しておく。

 治安維持法(1941〔昭和16年〕3月10日法律第54号)は,さきに1925〔大正14〕年4月22日法律第46号として制定されており,国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取締まることを目的として制定されていたものが,その1941年になると全面改正されていた。

 この法律は,同じ1925〔大正14〕年5月5日法律第47号として制定された普通選挙法(衆議院議員選挙法;1900〔明治33〕年3月29日法律第73号)を全面改正,ただし成年男子のみによる普通選挙を規定)との抱きあわせで制定されていた。

 明治天皇制:日本帝国主義は,民主主義の根本理念⇒民主共和制をひどく恐怖し,生理的にも嫌悪していた。というのは,「明治憲法の根本精神」は元来,天皇・天皇制の再生利用という古代復古によって急造された《悪霊・怨霊の政治世界》を形成させたからであり,当然のこと,双方の政治思想は根本から対立的であった。

 明治帝政国家は,近代政治の合理志向的な制度構築とは異次元の霊界,つまり,天皇家の古代(?)神道世界の新しい(!)構築に支えられた神話物語を,無条件に頂点に戴く「近代的(!?)国民国家体制」であった。それゆえ,民主主義⇒民主政になる国家体制を志向する方途とは,最初から「水と油の関係」のごときに不適合である点を運命づけられていた,いわばグロテスクの政体であった。

 21世紀の現代になってもなお,日本国憲法のなかには天皇・天皇制の骨格が残置させられており,旧套の国家神道路線が敗戦後になってからは,もっぱら皇室神道の衣をまとい生きのびている。「政教分離の原則」などははなから形骸化してきた皇室神道史を展開させてきた。日本国憲法のもっとも分かりやすい基本矛盾・自家撞着のありかは,説明の要もない。

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