戦争御用達であったゴットル経済科学を戦後もそのまま生活科学的な視座として利用できると軽慮した「社会科学者としての経営学研究者の迂闊」
※-1「本日の主題」-戦争用に利用される経済学となっていたゴットルの経済学
とりわけあの戦争の時代において,「社会科学の本質論」を構築するために利用されたゴットル経済学が,確かに背負っていたはずの「戦時日本における経営学者たちの学的倫理問題」は,敗戦後の関連した諸学界において,さらに21世紀になっても,あたかも「亡霊」のようにまとわり着いていた。
ところが,1945年8月以降いつもまでも徘徊してやまなかった,その種の「日本的な学問事情」が,いままでまともに意識され回顧され批判され吟味されたことはなかった。そうであったのであれば,遅まきながらであってもまたいまさらであっても,その付近の問題点に注視し,一度は本格的に吟味されてよかった。
要するに,戦争のための学問として多いに活用されていた「ゴットル経済学」は,戦時体制期における「生活経済学」の立場・思想としてならば,たいそう頻繁に社会科学研究者に語られる「本質論・方法論」になっていた。
たとえばいまからだと30年以上の前に発刊されていた,加藤明彦『社会科学方法論序説-M.ウェーバーとF.v.ゴットル-』風間書房,1991年という研究書は,社会科学の一般理論的な見地としては,ある程度までは深掘りする究明を成就させえていたものの,各論領域,たとえば本ブログ筆者の専門分野である経営学についてとなると,肝心な通説に対する批判的な討究には,まだ甘さ=不徹底を残すほかない内容であった。
加藤明彦はもちろん,「筆者の知る限りでは,ゴットルの構成体論の批判者は……」という断わりも入れていたが,この指摘そのものがその後になっても,なお同じ状態のままに経過していたとしたら,読むものの理解をして納得性を感じさせにくい。
補注)なお,この加藤明彦『社会科学方法論序説-M.ウェーバーとF.v.ゴットル-』風間書房,1991年は,当時の時点でこの本の定価を6000円(+消費税3%)として販売していたが,本文の分量は160頁であり,1頁あたりの単価が37.5円という高さであった。気になっていた点なので,わざとここに付記しておきたい。
※-2 戦争の時代における「生の経済」論の陥穽を当時のゴットル「生活経済学」論の隆盛を通して観取する
本ブログの議論は,ゴットル生活経済学の歴史理論的な問題性=「難関」をとりあげ,その根幹の根元にまで降りて批判的に検討をくわえる作業を,とくに経営学分野における問題次元において試みるものである。
従来,関連した議論は,まだそれほど詳しくなされてはいなかった。ここで最初に手がかりとして言及してみる材料は,日本の経営学者,それも経営哲学を専攻し,大学で経営哲学を講じていたという小笠原英司(明治大学経営学部,1947年生まれ,今年度までにはすでに定年を迎えていた)が,2004年に公刊した著作『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』文眞堂となる。
この小笠原英司『経営哲学研究序説』の著作中には,みのがせない重大な論点が含まれていた。本書の立論においてその有機的な一部分として利用されたのは,70年〔以上〕も昔における「戦争の時代」,日本の社会科学界でもたいそうもてはやされた「ドイツ生哲学に依拠した経済哲学」であった。
しかも,この「ゴットルの経済科学」は,社会科学としての学問が「存在論的価値判断」という哲学的な思考方式を採用してこそ,その理論構成において学問的な客観性が担保できると提唱していた。
しかし,この「判断」にいかほどの信憑性を期待できるのかという疑念は,戦争の時代に幅を利かせたゴットル経済科学が実際に出来させた理論的失敗(発想の錯誤)および実践的蹉跌(社会に残した害悪)によって,よりいっそう強まるばかりであった。
経営学者の場合であった小笠原英司は当初より,戦時体制期における日本の社会科学界においてはこのゴットルの学問が旺盛をきわめたものの,敗戦を迎えるや〔限られた少数の〈確信犯〉以外は〕そのほとんどが失踪していった「学史的な事情」にすら,実は全然気づいていなかった。
小笠原英司の立場はうかつにも,ゴットル的な価値判断にのめりこんでいった。それゆえ,実は自説がおのずと吸いこまれていく陥穽の存在に,事前にはまったく気づくことさえできていなかった。
日本においてゴットリアーネルの代表者の1人である福井孝治は,昭和11年5月に発行した著作『生としての経済』甲文堂書店を,昭和の時代が戦時体制期に入っていく段階になって,ほぼ毎年1回は増刷を重ねていた。
筆者所蔵していた同書2冊の各奥付をみてわかるのは,つぎの増補(増刷)の状況である。
昭和11年5月(初版)
昭和13年9月(増補再版)
昭和15年8月(増補3版)
12月(増補4 版)
昭和16年7月(増補5版)
昭和17年2月(増補6版)
昭和18年1月(増補7版)
昭和19年8月(増補10版〔出版は理想社〕)
くわえて,昭和18年1月から昭和19年8月のあいだにも「増補8版」と「増補9版」が増刷されていた。これは,当時における困難な出版事情から みて相当の売行きだったと観察してよく,ゴットル生活経済学に対する当時の需要がどれほどあったかを想像させてくれる。
経営学者の場合だと,池内信行や藻利重隆のように,経営学や経済学において「存在論的究明」や「存在論的価値判断」を採用・志向した経営学者や経済学者は,戦前(戦中)から活躍しはじめていた。
ここでは,ゴットリアーネル〔ゴットル信奉:追随学者〕であった経営学徒の氏名とその著作(初版など)を列記しておく。
☆ 池内 信行『経営経済学序説』森山書店,昭和15年7月。
『経営経済学の基本問題』理想社, 昭和17年8月。
『経営経済学史』理想社,昭和24年6月。
☆ 藻利 重隆『経営管理論』千倉書房,昭和18年9月。
『経営管理総論』千倉書房,昭和23年5月。
『経営学の基礎』森山書店,昭和32年8月。
☆ 酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』森山書店,昭和12年11月。
『経済的経営の基礎構造』敞文館,昭和18年10月。
『経営学方法論』森山書店,昭和41年6月。
☆ 宮田喜代蔵『経営原理』春陽堂,昭和6月10月。
『生活経済学研究』日本評論社,昭和13年10月。
『企業と国民経済』東洋経済新報社, 昭和32年。
☆ 福井 孝治『生としての経済』甲文堂書店,昭和11年5月。
『経済と社会』日本評論社,昭和14年9月。
☆ 酒枝 義旗『構成体論的経済学』時潮社,昭和17年6月。
『構成体論的思惟の問題』実業之日本社, 昭和19年2月。
『経済の原理-生の学としての経済学-』明善社, 昭和23年11月。
☆ 板垣 與一『政治経済学の方法』日本評論社,昭和17年2月。
『新版 政治経済学の方法』勁草書房,昭和26年10月。
いずれの学者も,ゴットル生活経済学「流」の《戦時統制的な思考方式》を戦後まで持続させていた。その理論の抽象的な性格にかぎっていえば,変質した内実=形跡はなにもなかった。その意味で彼らは「終始一貫した学問の姿勢」を披露してきた。
とはいえ,時代の進展そのものになかに本当は大きな変遷(敗戦を境とする)が生じていたのだから,上記の学者たちの保持していた学問じたいに寸毫の変質もなかったとすれば,つまり,この学者たちの理論に間違いがなければ,時代の変化のほうに「誤り」があったことになり,学者たちの立場に関しては,なにも〈ミス:落ち度〉はなかったことになる。
しかし,戦時体制期における「国家の立場」=全体主義の思想を熱烈に支持しつつ,これに則して自説の立論も構想していた,上記のゴットル的経済学者・経営学者たちの立脚点は,戦争の終結=敗北とともにその地盤を喪失したはずである。
にもかかわらず,このゴットル流「生活経済学」の理論をそのまま同じに戦後にも使いこんでいくという,まともに考えてみれば「とうてい許容できない発想」と「学術作法」が,平然とまかりとおってきたのである。
たとえば,上掲の学者のうち板垣與一の戦後作『新版 政治経済学の方法』昭和26年は,第4章「政治経済学の復興と課題』の冒頭部分を「転換期における新しい経済学の性格を言い表わす……」(163頁)と書き出しているが,同書初版の昭和17年版にも「転換期における新しい経済学の性格を言ひ表はす……」(201頁。右側画像)と,すでに書いてあった。この比較は〈旧かな遣い〉の字句をのぞけばまったく同文であった。
※-3 転換期ということばの意味
贅言するまでもないが当然,戦時中の「転換期」の意味と戦後における「転換期」の意味とは,全然異なるものであった。昭和17年9月に公刊された藤川 洋『転換期に立つ企業経営管理』冨山房は,こう語っていた。
藤川 洋はこのように,大東亜〔太平洋〕戦争に突入直後の日本帝国における経営学研究の課題・方向性を措定・確認していた。これが戦時体制期が「転換期」と称された歴史的な根拠・事由である。
ところが,前出の板垣與一は,その戦争の時代においてだからこそ,強調され提唱されていた「転換期」という用語を,戦後の時代に〈新版〉として公表した同名の著作『政治経済学の方法』のなかでも,なんら修正・改筆もなく使っている。もしも,この不可解な点に気づいた同学者は,黙過していて,放置しておいてよかったのか。
☆ 戦時中いわれた「転換期」とは,
全体主義国家体制を正当とみなす政治理念であった。
★ 戦後にいわれた「転換期」とは,
民主主義国家体制を当然と受けとめる政治理念であった。
この戦争の時代から戦後の時代に移動しつつ,同じ著作の版を重ねていくなかで同じに書かれていた「この2つの文章」は,本当は,「〈転換期〉という用語」に関係させれば当然,それぞれに「別々の含意」をもって使いわけられていた〔と思われていたはずである〕。つまり,まったく別個に異なる「歴史の概念」がもたされていた〔はずである〕。
ところが,この「転換期」ということばが,きわめて普遍的・抽象的に使いまわされており,ファシズムの政治理念にもデモクラシーの政治理念にもただちに具体的に癒着する便宜性ばかりを発揮していた。いわば,歴史的な背景との突きあわせ,みなおし,反省もないまま,それぞれの時代において無原則的・没論理的に,おかまいなしに使用(転用⇒乱用)されていた。
このような歴史概念の無節操な攪乱は,歴史の経過に照らして厳格に判断するまでもなく,露骨に過ぎるひどい矛盾を呈していた。これ以上する説明は無用である。
※-4 無節操な経済学者や経営学者の世過ぎ
だが,前段に列記されていた文献の筆者たちは,前段に説明したようなデタラメ,時代を前後してまともに一貫するとはとうていみなせない無理な論述,要は,途方もなく自家撞着した「戦時と戦後の言説」を,大量に書き残して〔書きちらかして〕きたのである。
そもそも,戦時体制期において,彼らが主張していた「大東亜戦争戦争支持」の論説じたいが問題であった。だが,その問題点は放置した状態のまま,戦後における学問の世界のほうに移動して段階でも,同じに通用させうるかのように装った(そうではない記述もたくさん含めてだが)「彼らの〈新作・新著〉」の発行が,陸続と登場していた。
この前後関係に接してなにも感じず,すこしも驚かないでいられるわけがありうるのか。
たとえば,経済学者としてもまた経営学者としても著作をものにしてきた宮田喜代蔵は,昭和19年1月に公刊された,日本国家科学大系第9巻『経済学2』に寄稿した「企業統制論」をもって,こう主張していた。
ところが,宮田の戦後作『企業と国民経済』昭和32年も,まったく同旨を展示するのだから,一驚させられる。こんどは,こういっていた。
要は「戦争の時代」であり「国家体制がファシズム思想」であるか,それとも「平和の時代」であり「国家体制がデモクラシー思想」であるか,などといったごとき「歴史の〈現実における移行状況もしくは段階〉」に関した認識などとはいっさいおかまいなしに,
なんといっても,「企業と国民経済の構成的な正しさ」は,ゴットル流生活経済学の思考方式によってこそ,普遍的・抽象的に実現できる(?)と説明されていた。宮田はくだんの記述のなかで「生活上正しく」というたぐいの表現を多用していた。これはもちろん,ゴットル「経済科学」論の単なる復唱(オウム的な反復)に過ぎない。
ゴットル『経済の本質と根本概念』福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳,岩波書店,昭和17年12月(上の画像右側はゴットルの横顔)は,「民族経済の正しい構成が決定的なものであり,したがってそのすべての在内構成体の生活力は民族経済がその正しい構成によって生活力を増進する限りにおいてのみ意味をもつ」と断言していた(155頁)。
すなわち,大東亜戦争時においては経済学者や経営学者たちも,民族経済〔国民経済〕における在内構成体=企業・家政の生活力を増進させるよう「学術面から滅私奉公・職域奉仕」し,体制翼賛理論を積極的に展開していたのである。
しかしながら,あの戦争の結末は,いうところの在内構成体の「生活力(Lebenswucht)」を高揚させるどころか,国民経済全体までを破滅させたのだから,これを「転換期」における学問として展示していたゴットル信奉者の経済学者・経営学者たちの責任は大きかったのである。
ところが,彼らは,懲りずもせず敗戦後にまたもや,「同旨のゴットル的思念」を復唱していた。彼らが「転換期」と称して意味させようとした「時代の意味」は,むしろ「彼ら自身の退場」をうながす時代の「転換的な状況変化」ではなかったのか?
※-5 福井孝治『生としての経済』昭和11年
福井孝治『生としての経済』(初版)昭和11年5月はいみじくも,こう断わっていた。
ゴットルについて福井孝治は,こう解説し,位置づけていた。
ところが,ゴットル追随者たちは,敗戦後においてとなれば,完全に反故同然となった自分たちの「戦時中のゴットル的言説」に「徹底的な反省」をくわえることを回避した。
というか,その必要性すらいっさい感じていなかったように振るまっていた。「書き換へ」の必要とは完全に無縁であったかのように,戦後における自分の執筆姿勢を維持してきた。
また「学究としての彼ら」は,戦時期の「従来の理論に対する非難」を受けずにも済んだせいか,戦後の世界に漫然と移住することができていた。こうなると,いつの時代にいても同じ趣旨の提唱をなにひとつ変えることなく,そのままオウム返しに反復しつづけことができる。
福井孝治はさらに,こういった。「人間は単に共存者であるのではなく社会的構成体に於いて一定の地位を占めて共存するのである」ゆえ,「此のやうな立場からゴットルは社会構成体を中心して現実態をその全面的な連関に於いて解明して行かうとする」。だから「吾々は現実の生を正しく観なければならない 」(福井『生としての経済』5頁,65頁)。
いうところで「正しく」と称された《ゴットル的思惟》を導きだすための哲学論が「存在論的価値判断」であった。この噴飯ものというかマユツバものの「似非科学的な判断基準」が,時代普遍的・非歴史科学的に壊れた機械のごとく反復・提唱されてきた日本の経済学界・経営学界の一部領域には,そのように人間たちを突き動かしてきた,なにかの「魔物」のような妖怪が住みついていたのか,とまで勘ぐりたくもなる。
※-6 加藤明彦『社会科学方法論序説-M. ウェーバーとF. v. ゴットル-』平成3年
冒頭で若干話題にしてみた,加藤明彦『社会科学方法論序説-M. ウェーバーとF. v. ゴットル-』風間書房,平成3年は,つぎのようなゴットル解釈を示していた。
なおさきに,本ブログ筆者にもいわせてもらうが,「魔性をもつのがゴットル説」なのである。だが,加藤明彦は,ゴットルの「構成体論にも大きな欠点があ」り,その「構成体論至上主義は全体主義と結びつきやすい」と断わりながらも,「しかし」「いかなる論であろうと,全部誤りではない」(同書,127-128頁)と,部分的に(?)奇妙な弁護論を駆使しながら,こうも主張していた。
「正しい」という修辞=決まり文句を,このように多用・濫用する学的な主張が,ゴットルの経済科学「論」なのであった。
けれども,かつて戦争の時代における全体主義的国家体制の「存在的な正しさ」を論じてはいても,実は,そのなにひとつすら実証することができなかったのがまさに,ゴットルの理論でもあったのではないか。
したがって,戦争中に高唱されていたゴットル生活経済学者たちによる「正しさ」の反復〔という事実の軌跡〕は,戦後においてゴットリアーネルたちのその「理論的な姿勢」を,よりいっそうきびしく疑い,かつ徹底的に追究させるほかない事由を明示してきたことになる。
だが,この種の疑いをまともに抱かれたら即時に,彼ら=「ゴットリアーネルたちの立脚点」は自己崩壊する事態を意味された。だから,ゴットル流「存在論的価値判断」の立場はいち早く,「戦争の時代」から「平和の時代」に体を入れ替えることにし,そのさい,その核心部分には「イチジクの葉」をかざした。
いいかえると,「戦争の時代」を合理化した自分たちの言説に関して「歴史上に記録された事実」,すなわち「自説理論の脱線・錯誤」にはいっさい触れずじまいにした。そのうえで,かつての理論の形成とその実践への応用は,ひたすら記憶の圏外に追いやり,忘失しておくことにした。
もっとも,そうした世過ぎというか見過ぎは,彼らにとってみればいちばん賢明で無難な生き方,いうなれば,学者の立場としても,より得策な姿勢の保持になっていた。
※-7 加田哲二『転換期の政治経済思想』昭和15年
加田哲二『転換期の政治経済思想』慶応書房,昭和15年1月に言及しておきたい。本書はこういっていた。
1939年10月といえば,ドイツ軍がポーランドへ侵攻し,第2次世界大戦が勃発した翌月であった。この大戦の結果はその6年後に出たとはいえ,その間の学問のあり方に向けては,特定の方向づけが強制される研究環境が作られていった。
しかし,「ゴットル生活経済学」に関した明確な事実は,戦時期における日本の「経済が政治-『東亜新秩序の建設』といふ民族の大理想に従属されるべきこと」に(後藤基春『経済主義の克服』モダン日本社,昭和15年,336頁)という結末にならなかった,そういう「結果」が出ていた。
いまは,もう21世紀の時期になっている。だが,いまから45年前に安井琢磨『経済学とその周辺』木鐸社,1979年が,戦時体制から敗戦後の学界事情に関して,つぎのように述べていた点は,21世紀のいまとなっても,実質に変質がないままである。
「経済理論が正当な軌道に返って全身することができず,いわばその反動としてのいびつな空転と停滞を続けた」
「支那事変以来一方には国粋主義が思想界を風靡し,他方には経済機構が戦時的に改編させれるにつれて,英米と中心として発達しつつある近代経済学への理解と関心は次第にうしなわれてゆき,学界の主流に登場してきたものは--あるいは少なくとも学界の流行となったものはさまざまなヴァリエーションをもつ政治経済学,ゴットル経済学,日本経済学のたぐいであった」
「経済学が現実の表面的激動に戸惑いして哲学まがいの観念論に陥るとき,それは多くの場合経済学の頽落を示すものである。ましてこの観念論が現実の動きに対して〈光〉をも〈果実〉をももたらすことができず,ひたすら現実の後を旗を振りながら追従してゆくに止まる場合には,それは経済学の死相を表わすとさえ言うことができよう」(170頁)
以上のように安井琢磨『経済学とその周辺』(木鐸社,1979年)は,戦争中にゴットル経済学にすり寄り,心酔したかのようにこの学説理論をとり入れ,打ち上げ,議論していた社会科学者たちの様子を,描写していた。
前段のごとき安井琢磨の言説は,まことに熾烈であり,戦時体制期における学問に対する「批判とはいえない,それ以前の非難(罵倒)」であった。安井は,戦時体制期における学問・研究のあり方に対しては,さらにつぎのような決定打にも受けとれる批判を繰り出していた。
まったく,語るに落ちた「戦時体制期の社会科学」の容貌が「歴史的に記録されていた」。経営学・経済学など社会科学部門の各学問は,いずれも「社会科学であり歴史科学であり経済科学であり精神科学である」といったごとき基本性格を共通して有する。
それが戦争の問題とむすびついたとたん,社会を壊し,歴史を否定し,経済を無視し,人間の精神を抑圧するためだけだった「学問・科学の展覧会」と化していた。
---------【参考文献の紹介:アマゾン通販】---------