経済学史研究と経営学史研究の橋渡し,大塚久雄から中村常次郎へ
※-1 比較経済史研究が経済学史の研究にまで円滑に打通しえない理論の状態で,経営学史の領分にまで言及する視圏となれば,経営学理論史の把握は不全に終わるほかなかったのか
戦前の記事,東京帝国大学経済学部の本位田祥男ゼミで,大塚久雄と中村常次郎は1学年ちがえて在籍していた。片や経済学・経済史研究の大家となった大塚は非常に高名な社会科学者である。片や経営学で個別資本論史研究を構築し,展開した中村常次郎は終生,経営学界のなかでも地味な存在でありつづけた。
付記)冒頭の画像・右側の中村常次郎は『秋田魁新報』から借りた。
※-2 経済学者大塚久雄と経営学者中村常次郎の近しい関係
最近,齋藤英里「比較経済史の誕生-大塚久雄『株式会社発生史論』に関する一考察-(1・2・3・4) 」『武蔵野大学政治経済研究所年報』 (第10,14,15,19号) ,2015年2月,2017年2月,2017年10月,2020年2月という論稿を,たまたま偶然であったが,ネット上でみつけた。興味がもてる論稿であったので早速,一読することにした。
齋藤英里のその論稿は,阪本尚文「福島学派の遠雷-草創期福島大学経済学部の教官群像と井上紫電の軌跡」,福島大学行政社会学会『行政社会論集』第33巻第4号,2021年3月のなかに,つぎの段落を充てて記述されていたのを,実はさきに気づき,その後に読むことになった。
阪本尚文「福島学派の遠雷-草創期福島大学経済学部の教官群像と井上紫電の軌跡」は,本文に付した註記のほうで,「近年,齋藤英里は初期の中村の経営経済学が大塚のイギリス資本主義像を基礎として展開したことを説得的に論じている(「比較経済史の誕生-大塚久雄『株式会社発生史論』に関する一考察(4)」『武蔵野大学政治経済研究所年報』第19号,2020年,143-145頁)と追記していた。
その指摘に注意を惹かれた本ブログ筆者は,その齋藤英里の論稿,前述したその全4編も,追って併せて読んでみたところ,とくにつぎの2点について感じるところがあった。
ひとつは,経済史研究の大枠にもなりうるはずの経済学史研究の前提を意識したうえで,この問題構成の枠組内から発想してもよい議論,いいかえると問題意識が希薄である点。
ふたつは,経営学史研究における中村常次郎の位置づけ・評価にも言及しているが,そのあつかい,つまり経営学領域における理論分析としては,論旨の徹底においてものたりなさ残す点。
以上に指摘した2点の疑念は,社会科学の研究3部門である「理論・歴史・政策」といった「全体的な眺望」のもと,必要かつ十分に吟味されないままでの「個々の経済学者,経営学者に関する評価や位置づけ」は,必然的にどうしても不全・未熟な作業になるおそれが残る。その種の問題があらためて惹起させられたのである。
たとえば,白杉庄一郎『経済学史概説』ミネルヴァ書房,1956年は,「経済学史は科学的体系をもった経済思想の歴史である」し,「経済学とは区別された経済思想の歴史--いっそう正確には政治経済思想史--は経済学史の構成契機として,経済学史に所属する。もちろ,それが経済史に所属する局面をもつことは否定されがたいが,それの体系的な研究は専門としてはむしろ経済学史の領域に所属せしめられるべきであろう」(2頁)と定義的に説明していた。
そのようにして,白杉庄一郎『経済学史概説』が唱えた「経済学史と経済史」の学問・理論的な内的関連付けを尊重するとしたら,前掲した齋藤英里の「比較経済史の誕生-大塚久雄『株式会社発生史論』に関する一考察」4編は,経済学史と経済史の相関的な重みづけで,やや拙速の感が否めなかった。
経済史の領野があり,いってみればその上部に展開してきた経済学史の展開模様に関連させていえば,しかも経営学史と経営史の領域にまで連なる議論をしたかたちでもってすれば,
昭和21〔1946〕10月に中村常次郎が当時,大学の講義のために制作した著作,『経営経済学序説1』(福島,文化堂印刷所)に関連した話題となるが,「初期の中村の経営経済学が大塚のイギリス資本主義像を基礎として展開したこと」(阪本尚文「福島学派の遠雷-草創期福島大学経済学部の教官群像と井上紫電の軌跡」7頁・脚注20)に触れた点は,それなりに有意義な指摘であった。
だが,そこでの問題のとりあげ方はあくまで,経済学史・経営学史の領野に重点があったと観てとれる論点を,なぜかあえて,経済史の分野にまで引きずりこむあつかいをしており,これが不可避に特定の疑問を誘起させていた。
というのは,経済史を専攻する識者だとしても,経済学史の研究蓄積を基本面と無縁でいられる事由はもとよりなんらないはずである。という事情となれば,経済学史的な視野ももちこんで議論したほうが,より生産的な理解が期待できそうであったなところを,あえてその局面を遅滞させる対処をしていた。
経済学史の研究成果を踏まえてとなっていたが,経営学史の分野でも「経営学〔理論〕史と経営史の関連する」「研究各層の連なりや重層関係」を意識しつつ,たとえば,つぎの画像資料にしてみた理解に提示されている研究の視座が提示されていた。これらはいまから40年前後も昔の主張であった。いずれも註記中で論及する体裁になっていた。
※-3 経営学史の問題を議論するのに「経済史からの制約,経済学史からの制約」を想起させるごとき方途
前段に紹介してみた2つの画像資料は,森 哲彦『経営学史序説』千倉書房,1993年と海道ノブチカ『西ドイツ経営学の展開』千倉書房,1988年の「学史研究の視点・立場の構成方法」に関する,それも,それぞれ註記を記述した段落における説明であった。
なぜ,註記の段落に移してそのような説明がおこなわれていたかといえば,学究であればすぐに諒解がいく執筆作法の点であるが,ここに登場する人物の裴 富吉に関しては,さらに付言しておくべき関連の事情があった。
裴 富吉は,中村常次郎が東大経済学部を定年退職後に移動した中央大学商学部の大学院において師事した後進であった。この裴が『経営理論史-日本個別資本論史研究-』中央経済社,1984年を,つぎのような内容に組んで制作されていた点を想起しておく必要がある。
序 章 個別資本論史研究の意義
第1章 経営学の理論-中西寅雄の経営学説-
第2章 経営学の方法-中村常次郎の経営学説-
第3章 経営学の論理-馬場克三の経営学説-
第4章 経営学の展開-三戸 公の経営学説-
第5章 経営学の発展-武村・片岡・淺野・松本・仲田の各説-
終 章 個別資本論史研究の今日的意義
要は,この裴 富吉『経営理論史』が1984年に公表されてから早40年近くが経つ現時点においてもなお,中村常次郎「独自になる経営理論形成」が,斯学界では的確に認識されていない。
そうした経営学界側の理論状況を反映してなのか,齋藤英里「比較経済史の誕生-大塚久雄『株式会社発生史論』に関する一考察-(4) 」『武蔵野大学政治経済研究所年報』第19号,2020年2月は,大塚久雄と中村常次郎との理論的親近性について,「大塚『〔株式会社〕発生史論』は,経営史家や経営学者にはどう評価されたのであろうか」(139頁)と問うていた。
その問題指摘は大いに学問上価値があった。ただし,経営学方面の関説になると齋藤英里の同稿も,本文中で言及するよりは,註記のほうで関連する論及を記述する形式を採っていた。なぜ,本文ではなく註記だったのかという点は,学究の立場にある者であればあえて説明など要らない。
そして,本文のほうでは「本稿では戦時期から敗戦直後に焦点を当て,酒井正三郎(1901-1981),北沢新次郎(1887-1980)による書評や,中村常次郎(1907-1980),川島武宜(1909-1992)らへの影響をとりあげる」(140頁)と断わっていた。しかし,その注のなかでは,ただこう述べるに留めていた。
以上の註記における指摘については,前掲した裴 富吉『経営理論史-日本個別資本論史研究-』1984年が,基本的に関連する研究書として,だいぶ以前に刊行されていた。こちらの著作はどのような利用の仕方であれ,いくらかでも参照するいとまがあれば,以上のごとき〈註記内の記述〉は本文に,もう一度立ち返るかたちをとり,書きなおす余地があってもいいと推察する。
以上,齋藤英里が2020年2月に公表した学術論文のなかでとりあげた,大塚久雄と中村常次郎の関係に注目し,経営学の観点から特定の「若干指摘」をおこなってみた。裴『経営理論史-日本個別資本論史研究-』1984年からすでに39年が経過したが,先行研究への目配りという点でいささか疑問を感じたところを,以上の記述をもって率直に述べてみた。
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