日本はスゴかったのか,いまもスゴいのか,これからもスゴいのか,すこぶる分からぬ21世紀日本事情の幽玄的な恐怖
※-1 最近の日本事情の「お寒さ」-北陸電力志賀原発は大丈夫か,事故など起こしたら周辺地域はどうなる?-
a) 最近(今日は2024年1月17日だが),森田 実『アメリカに使い捨てられる日本』日本文芸社,2007年4月という本を古書で入手し,読みはじめたところ,いまから17年前に公刊されたこの本であったけれども,2024年になっている「日本の現況」を,予測ピッタリに当てたというまでなく,なんというか,ごく自然につまり簡単に(!?)その予測を的中していた。
というのは,2024年の段階になった日本の政治・経済・社会・文化は,バブル経済が破綻してからすでに30年以上もの時間が経過してきたなかで,いまだに「いっこうにこの現況(窮状)」からはい出せる予兆をつかめないまま,停頓状態にあるからであった。
そうした現時点においてもなお「冴えないでいる日本事情」のなかに,さらに追加的に飛びこんできたその実例が,この正月も元日午後4時10分ごろに発生した能登半島地震(激震の震度7を記録)に対する「岸田文雄政権のモタモタした対応ぶり」であった。その「高水準(?)の無能・無策・無為ぶり」そのものには,本当に呆れた。
いうなれば,「丸出だめ夫」風に発現させていたこの「世襲3代目の政治屋」の鈍感ぶりは,今回においてもそのありのままに,世間に向けて発信されつづけてきた。
b) 防衛省自衛隊3軍も在日米軍も,能登半島地震の発生翌日には,すでに出動態勢をととのえ,この地震災害に対応するための準備ができていた。だが,なにせ国家最高指導者の指揮ぶりが,脳天気という以前に,生来からの生体反応の鈍さぶりのためだったのか,この肝心である国家非常時事態に至っても,
この首相はそもそもふだんから,緊急事態が発生したときこれに対してどのように「統合指揮体制」を執るべきかに関して,事前に「心の準備」をしておかねばならなかった。ところが今回,国家最高責任者として迅速に指揮を発動・展開させねばならなかったにもかかわらず,最低限は必要不可欠となる「采配」が,実効性あるものとしてまともになしえなかった。そのために,岸田文雄は首相としての大規模自然災害に対する基本姿勢を明確に構えられらず,初動態勢も不調・不活発であった。
その後,能登半島地震の被害状況が明らかになるなかで岸田文雄は,自分はテレビ番組に出演するなどしていたが,自然災害で苦しむ現地の人びとなど,まるで念頭になかったかのような表情で,政局の話題や自分の利害についてならば嬉々として語る姿を披瀝してきた。
c) 以上のごときに把握された「世襲3代目の政治屋」である岸田文雄が現実に首相であるにもかかわらず,愚鈍・朦朧でありながらかつひどく自己チュウ的に振るまってきた「この正月以降における言動」については,『日刊ゲンダイ』のつぎの記事が的確に批判をくわえていた。ここでは,リンクのみ記しておくが,興味ある人は読んでほしい。
すでにあちこちから指摘されていた事実だが,この「世襲3代目の政治屋」である岸田文雄は,自分がいま総理大臣である地位そのものを,なんとかして1日でもより長く保てるかにしか関心がない。その点を,人生における第1の目標に据えてきた人物である。
いみじくも「自分は首相として一番関心があるのは人事だ」と,わざわざのたまった御仁であったから,その事実からは否定しようがない。自然災害の参加で苦しむ人びとが「3日間にパン1個ずつしか口にできなかった」というひどい現実の状況があったなかで,
この「世襲3代目の政治屋」は,自分の関心事のほうだけを,テレビに出演してにこやかに語ったり,自党の連中と会食をともにするなどといったふうに,きわめつけの唐変木ぶり,いいかえれば「異次元の鈍感力」を国民たちに向けて発信することに関してだけは,怠りなかった。この「政治家完全失格の世襲政治屋」に,なにか期待できることがあるのかと,失望する以前に絶望するほかない。
このグウタラ首相に対しては,「いつまで〈世襲政治屋流に愚かな演技〉ばかりを繰り返す」のは,いいかげんにしろ,ついでに首相の椅子からも離れろといって,三行半を突きつけるしかあるまい。
d) 2024年1月1日に発生した今回の能登半島地震は,この震源地にかなり近い場所に立地する北陸電力の志賀原発にも,もちろん大きな損害を与えた。ところが,岸田文雄は首相になってから間もなく「原発の再稼働と新増設」を提唱していた。
しかし,数日前に地震学の専門家がこう説明していた。今回はたまたま数千年に一度の確率で発生したと判断されるこの「能登半島地震」(本震は震度7の「激震」を記録)は,能登半島北側地域の東西に幅広くに,地下の深度約10㎞付近に分布する震源地域をともなっており,震度5の余震を数十回も群発させいた。
ところが,この志賀原発のごときオンボロ原発(1号機と2号機)がすぐ近辺に立地していた。しかも,今回の能登半島地震発生にともない,この志賀原発はかなりの損傷を受けていたとなれば,東電原発事故の「3・11」を思い出すまでもなく,いまさらのように戦慄を覚える。
e) しかし,北陸電力志賀原発の場合,いまだに再稼働ができない状態を13年近くもの長期間つづけてきた。この原発が未稼働であったからよかったものの,能登半島地震のさい「震度5弱に襲われた」だけでも,かなりの損傷がこの原発施設では発生していたとなれば,それこそクワバラ,クワバラであった。
ここでは志賀原発の話題については,つぎの原子力情報資料室が,2024年1月18日(明日である)に開催を準備しているつぎのシンポジウム案内を紹介しておきたい。
f) 志賀原発にも大きな影響を与えた能登半島地震よりも何十倍・何百倍もの地震のエネルギーを発散させる超巨大地震が「南海トラフ」の変動発生によって起こされることは,すでに確率的な予想としてますます高まってきた現状にあるが,
この南海トラフが惹起させる大地震と大津波は,これが発生したとなると,いまのまま自民党政権の国家体制では,その大災害の到来にまともに対応することは不可能だと予測するほかない。
河田惠昭は,もしも本当に南海トラフ超大地震が発生したとなるや,日本は最貧国に落ちこむとまで指摘していた。すでにこの国は「衰退途上国」と化しており,2023年にはGDPでドイツ(人口は日本の3分の2)で抜かれ世界で第4位に落ちたと,すでにその経済統計上の事実として報道されていた。
「パー券裏金問題」に明白であったように「目先の〈いまだけ,カネだけ,自分だけ〉」が最大の関心事である議員しか抱えていない「現政権の自民党政権」に,南海トラフを原因とする超大地震が実際に起きたさい,はたして「国の体裁をとった緊急事態対応」が可能かといったら,現状ではおそらくというまでもなく,とうてい不可能である。
阪神淡路大震災のとき首相であった村山富市は発生後2日目に被災地に入った。東日本大震災のとき首相であった菅 直人は翌日に現地にかけつけた。
ところが,今回の能登半島地震は1月1日に発生していたが,その後2週間の1月15日に岸田文雄は現地入りした。この文雄流ののんびり感は,まさに度しがたいほどの「異次元ならぬ4次元的な鈍感さ」を,バカ正直に披露した。
以上,2024年1月時点において,直近の話題をとりあげた記述になっていた。以下では,ここまでの議論を受けてこんどは,本ブログ筆者が以前の2017年11月1日に書いてあった文章を復活・再掲する構成となるが,
昨日と一昨日に吟味した「ケント・ギルバートがネトウヨばりにひよって,いわばゲロを吐くかのように書き散らしてきた〈日本ヨイショ論〉」に向けてみた「批判」に,さらに連結させうる論述をおこなうことなる。
※-2 日本はいま「日本,スゴイと外国人〔主に白人〕にいわせている」が,ナチス・ドイツにも似て「人間に生来である個性ごと特徴の相違」を許さない『偏見と差別の国』か?
要点:1 日本は黒髪の人間しか・いない国か,ナチス・ドイツのときは金髪と碧眼の人間しか・いない国(ただしこちらでは「なるべく金髪と碧眼」だったが)とされた虚構を思いだしたい
要点:2 人間の姿・形が全員同じであるわけなど全然ないのに,いまだに,それが同じであるように強要する21世紀日本の恐ろしさ
すでに故人となったが,安倍晋三流になる「美しくない国・観」がこれまで,ふつうといえないような「差別と偏見」に満ちた国家「日本」をつくってきたのか?
「大学講師が『韓国は恥ずかしい国』 恐怖感じたレイハラ」,大貫聡子,『朝日新聞』2017年9月18日16時52分,https://www.asahi.com/articles/ASK8Y2R13K8YPTIL003.html
学校や職場で,自分のルーツや国籍に向けられた配慮のない言葉やふるまいに苦しんでいる人たちがいる。ヘイトスピーチ対策法で排外的なデモをなくす動きは進むが,身近なところで差別が置き去りにされていないか。海外で認識が定着している「レイシャルハラスメント」について考えてほしいと,大阪市のNPOが活動を広げている。
京都府内の私立大に通う在日コリアン3世の女性(22歳)は,幼稚園から高校まで朝鮮学校に通い,本名を名乗る。「日本名のほうがきれいなのに」「同じ日本人でしょ」。アルバイト先でこんな言葉をかけられる。「良かれと思っていっていることはわかる。でも自分を否定された気持。また傷つけられたらと思うと,心を開いて話をするのが怖い」。
補注1)「日本名のほうがきれいだ」という先験的な価値判断じたいに関していうと,その基準が絶対的に存在するわけでない点は,日本人であれ外国人であれ「理解はできるはず」である。
だが,そこのところにこそ,実は「差別と偏見」の価値「感」がもぐりこんでいる。それも,確たる理由もゆるぎない根拠もなにもないにもかかわらず,ともかくそうなのだという予断が,前段のマンガのなかに登場した人物のように発言する人びとの精神構造のなかには,控えている。
しかも,その断定となって吐かれるセリフは,なんとはなくでも,多少は自信をたずさえて表現されるゆえ,始末に悪い。この「隠されている価値判断」は,いつ・どこから・どのように生まれており,そして固まっていたものなのか?
戦前・戦中までの大日本帝国時代は「1等国は日本」であり,以下に「2等国の(植民地だが)朝鮮」「3等国の台湾(中国)」という国民・民族に関する上下の序列が決められていた。
敗戦後も,この価値感=他民族・異民族に対する蔑視の立場が消え去ることがないまま,そして,21世紀になった現在であっても完全に払拭できないで,なんとはなしにだが根深く受けついでいる。さらには,その変態的な継承は「嫌韓・嫌中感情」のなかにみごとに維持されていたせいか,その醜い悪花ならばみごとに咲かせた。
ただし,前記のごとき「日本人・民族的な人種・民族に関する序列づけ」のさらに上方をあおぎみると,「外国人:白人」が位置し,陣どっている構図が開けていることは,誰しもがなんとはなしであっても,理解できる日本社会内の現実的な観方であった。
その事実を全面的に否定できる日本の人びとはいない。自分だけは,そういう意識はもたないと断言できる人でも,まだ,日本社会のなかには「白人に対する劣等感を残している」事実が,完全には否定しきれない。
またテレビ放送のなかで最近は,「外国人(そのほとんどが白人系〔なら誰でもいいらしいのだが〕)に「日本はスゴイ,すばらしいデスネ!」と褒めてもらうための番組が複数ある。アジア系(黄色人種)やアフリカ系(黒色人種)がその番組に登場することは少なく,いくらか足しになる程度ならば登場させている。
補注2)「日本称賛番組はなぜ気持ち悪いのか? 日本の魅力を日本人に伝えてどうする」『雨宮の迷走ニュース』2017年4月11日,
https://www.amamiyashion.com/entry/nihonshosan という記述から,
以下では見出し(☆)のみ参照・紹介するが,これにくわえてごく一部の段落のみは,その前後に引用もしておくのが,つぎの引用である。こう指摘していた。
〔記事に戻る→〕 大学の講義で,衝撃を受けたことがある。非常勤講師が「韓国は恥ずかしい国」「韓国は近代国家ではない」などと繰り返した。強い恐怖を感じ,教室にいてはいけないような気がして涙がとまらなくなった。
補注3)大学のなかで教員がこのように,嫌韓・嫌中の感情を「講義の内容」として吐露したという情報は,本ブログ筆者としては,初めて伝え聞いた。驚くべき事実である。
最近では大学もみずから “倫理綱領” を制作・準備し,内外に向けてこれを遵守する基本姿勢を公表しているが,前段のような教員の発言は授業の内容とすらいえない程度に悪い,つまり非倫理的,反道徳的なものである。この話が本当だとしたら,この教員が所属する大学じたいの問題となる。
社会主義国家体制,それもソ連などが崩壊する以前の時代であれば,講義のなかで社会主義革命の必要性を説く「おバカ教員」がいた事実は,本ブログ筆者も昔勤務していた職場で実際に確認できている。だが,21世紀のいまとなって,嫌韓・嫌中の発言を授業のなかで話題にし,実際に発言する教員は,完全に失格である。
大学のなかでネトウヨ意識まる出しの話を教室内でするなどといったトンデモな教員は,ただちに大学から追放(懲戒免職)されるべきである。もっとも,その程度にまでもともと「質の悪い大学」内で起きている実例だとしたら(思いあたる大学の名がたくさん出てこないわけではないが,ここでは口には出さないでおく),この種の大学内ではもともと許されている教員側の言動なのかもしれない。いずれにせよ,そのような大学が実際に存在していたら,この大学そのものがそもそも不要であったというほかない。
〔記事に戻る→〕 ドイツ人の父と日本人の母をもち,1997年から日本に住むコラムニストのサンドラ・ヘフェリンさん(41歳)も「モヤッとする」経験をしてきた。職場では取引先から「日本語,話せるの?」「本当に日本人?」となんども聞かれ,会社に相談しても「外国人慣れしていない人も多いから」と受け流された。
最近は「日本人」の素晴らしさを声高に訴えるテレビ番組や本が多いことも気になっている。「そこでいう『日本人』に外国にルーツをもつ私たちの存在は含まれているのかと考えると複雑な気持ち。白人至上主義のように特定の民族の優位性をうたうのも差別だ」
補注4)ここまで話が進めば,最近,テレビに登場する外国人(その風采のみめ・かたちがそうだといえる人たちのこと)と日本人の混血児であるタレント・芸能人は,そのほとんどがネイティヴの日本語を「べらべら」話し,感覚的にも「とっても」日本人みたいな印象を与える。彼らの場合,日本生まれで日本育ちという人も多いのだから,そうなる点は当然も当然である。
だが,すがた・かっこうが,たまたま「日本人離れ」(このことば,いったいどういう意味があるか判っているのか?)しているせいか,いまここで引用している前後の文章に書かれているような待遇を,日常的に受けている。こうした生活の状況のなかで非常な迷惑をこうむっている彼ら・彼女らは,まことに嫌なやりとりをいつも強いられている。
〔記事に戻る→〕
NPO法人多民族共生人権教育センター(大阪市生野区)は昨〔2016〕年,外国にルーツをもち日本在住の102人にアンケートをした。職場で日本人しかいない前提での会話や組織運営がされていると感じたことがある人は86人,84.3%にのぼった。結果を冊子「なくそう! 職場のレイシャルハラスメント」にまとめた。
ヘイトスピーチの深刻化を機に実施したアンケートだったが,想像以上に多くの声が寄せられた。「あなたの国はどうして ✕ ✕ なの?」と国の代表者のように扱われたり,「外国人だから考え方が違う」とルーツを考え方や人格と結びつけて評価されたりしていた。
センターの文 公輝(ムン・ゴンフィ)事務局長は「就職や進学など,入り口で差別されることは少なくなった分,現場での差別が顕在化しているのではないか」と話す。
人権問題に詳しい丹羽雅雄弁護士によると,「レイハラ」を訴える訴訟は各地で起きている。だがセクハラやパワハラが社会的に「あってはならないこと」と認識されている一方で,レイハラ対策については遅れを感じている。
「黒人差別があった米国やナチスがあったドイツには差別を包括的に禁じる法律があるが,日本にはない。差別はダメという判例は積み重なりつつあるが,社会規範にまでは至っていない」とみている。
文さんはこういう。「ともに働き,学ぶ場にさまざまなルーツをもつ人がいることへの認識が浸透していない。まずは事業主や管理者があってはいけないことだと明確に示すことが大切だ」
註記)以上で本文は,金 明秀の箇所はのぞき,http://digital.asahi.com/articles/ASK8Y2R13K8YPTIL003.html?iref=pc_rellink 参照
※-3「髪の黒染め指導で『精神的苦痛』 生まれつきの茶髪,高3が大阪府提訴」『朝日新聞』2017年10月28日朝刊
1)スポーツ選手,有望なのは黒人系混血児
この記事の見出しが目に入ったときは,びっくりさせられた。「彼ら」がオリンピック選手,もちろん日本〔国籍〕人の選手として大活躍する時代に変わっている。
ここではさきに参照しておく記事になるが,生島 淳稿「 “ハーフ・アスリート” は日本のスポーツを変えるか? スポーツ界が日本社会を『先取り』する」『文春オンライン』2017/05/11 が,こういう文章から書き出していた。
--スポーツ界でのハーフ・アスリート達の活躍がめざましい。その背景にはなにがあったのか。今後の流れはどうなるのか。さらに,日本社会において,彼らがスポーツ以外の領域で果たしうる役割を考察する(出典『文藝春秋オピニオン2017年の論点100』)。
補註)混血児が多いのは,ただ国際結婚が増えていたからとだけ,答えておけばいいのだが,このような結果がスポーツ界にももたらしはじめた別の出来事が,現在にいたり注目されている。つぎの図表では国際結婚の件数が過去において多かった事実を,統計をもって明示している。
そして,「東京五輪」で活躍が期待されるハーフ・アスリートたちの存在は,リオデジャネイロ五輪で金メダル12個を獲得した日本の活躍を振り返ったとき,はっきりと新しい流れを感じさせるとして,いわゆる「ハーフ」の選手の活躍を,2020年東京オリンピックにおいて期待するというのである。
この記事に挙げられている選手は。ベイカー茉秋(東海大),ケンブリッジ飛鳥(ドーム)のほか,つぎの氏名が列記,一覧されていた。
以上の,オリンピック競技で有望だと評価されている選手たちはみな,肌の色は黒人系ないし褐色系との混血児である。これに対して,テレビで人気の「日本スゴイ系」番組に登場する外国人たちのほとんどが白人系である事実は,みごとなまでに対照的な様相だといえる。
2)『朝日新聞』記事の引用
生まれつき茶色い髪を黒く染めるよう教諭らからなんども指導され精神的な苦痛を受けたとして,大阪府立高校3年の女子生徒が,府に約220万円の賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こした。〔2017年10月〕27日に第1回口頭弁論があり,府は請求棄却を求め,争う姿勢を示した。
訴状によると,生徒の母親は2015年4月の入学時,生徒の髪が生まれつき茶色いことを学校側に説明。黒染めを強要しないよう求めた。しかし教諭らは,黒く染めるよう指導した。生徒は黒染めに応じていたが,色が戻るたびに染めなおすよう指示され,2年次の2016年9月には黒染めが不十分だとして授業への出席を禁じられた。翌10月の修学旅行への参加も認められず,現在も不登校が続いているという。
生徒側は,「黒染めで頭皮や頭髪に健康被害が生じた。精神的苦痛も受けた」と主張。「高校には生徒が健全に発育できる環境を作る義務がある」としたうえで,今回の指導は「違法な指導だ」と訴えている。大阪府教育庁は朝日新聞の取材に「係争中なので答えられない」とした。(引用終わり)
「髪の毛」の関係でいえば,ここでは「天然パーマ(縮毛)」が話題になりうる。縮毛(しゅくもう)とは,毛髪が縮れていることで,とくに頭髪のことをいう。縮れ毛(ちぢれげ)ともいい,人工的に創りだすパーマネントウエーブの手法が開発され,自然の縮毛のことを天然パーマと呼ばれてもいる。
この天然パーマも日本の学校内では,禁止事項のひとつである。それは,髪の毛の色合いと同じに指導されるべき「肉体的な特性」に分類され,措置されている。
しかも,人間がもともと自然に備えているその特性であるにもかかわらず,指導を受けて矯正されるべき特性(個性?)だと,一方的に判断されてきた。この事実は年配の人たちを問わず,日本の学校における〈生活指導〉に関する事情として,周知の点である。
前項にも出ていたように,2020年東京オリンピックで活躍しそうな混血児選手たちの頭髪がどういう状態(色合いも含めてでもいいが)にあるのかと,こちらの点に向けても「関心を特別に向けること」じたいが,実は,人間に対する「差別的な視線」を用意する可能性となる。
歌手の千 昌夫が自分の持ち歌のなかに『味噌汁の詩』があった。歌詞は千 昌夫が作っていたが,こういう文句が含まれていた。
「しばれるねぇ。冬は寒いから味噌汁がうまいんだよね。…… 金髪? きん……金髪だけはいいじゃないべかねえ」
だが「縮れ毛(だけ)はいい」とはいっていなかった。
千 昌夫の白人女性,それも金髪女性好きは有名であった。しかし,白人系の混血児では,2020年東京オリンピックでメダルをとれそうにもないらしいから,千にとっても “皮肉といえば皮肉” なものである。
※-4「日本の教科書では語られない人種差別のおそろしい真実,たった60年前のこと。アメリカ人は凄惨な歴史の再来を恐れている。」『BuzzFeed News』2017/02/18 10:01,https://www.buzzfeed.com/jp/bfjapannews/qs-usr?utm_term=.rhnxvWy06#.rhnxvWy06
この記事は,アメリカにおける人種差別(もっぱら黒人差別)の歴史をくわしく解説している。とくに,たくさんの白黒写真をかかげており,白人が黒人に対する差別を “当然とする感情” をよく理解させてくれる構成になっている。
以下では,冒頭部分だけ引用(参照)しておくが,じかに閲覧してみることもお勧めしておく(⇒「リンク」は上に指示)。
「アメリカは根本的に白人の国だということを体現すると極右は喜んだ」
著名な権利擁護団体「南部貧困法律センター(SPLC)」が指摘するのは,トランプ大統領当選後のアメリカ。白人ナショナリズムの台頭を指摘する。1970年に 4.7%だった外国生まれの住民は2015年に 13.7%まで増えた。移民が押し寄せた1910年(14.7%)や1920年(13.2%)と同水準である。
その後も白人の割合は減りつづけ,「白人アイデンティティの崩壊を生んでいる」という。そして人びとは恐れている。ジム・クロウと呼ばれる人種差別の再来を。白人と黒人を分けるアメリカ南部の州法。
1964年の公民権法によって違法になったが,いまでも差別はアメリカ社会に根深く残る。「ジム・クロウ時代」に,どんなに憎しみが広がり,暴力が横行していたかは,日本はおろか,アメリカでも伝えられることは少ない。
1970年に 4.7%だった外国生まれの住民は2015年に 13.7%まで増えたわけだが,移民が押し寄せた1910年(14.7%)や1920年(13.2%)と同水準である。
白人の割合は減りつづけ「白人アイデンティティの崩壊を生んでいる」という。そして人びとは恐れている。ジム・クロウと呼ばれる人種差別の再来を。白人と黒人を分けるアメリカ南部の州法。1964年の公民権法によって違法になったが,いまでも差別はアメリカ社会に根深く残る。
「ジム・クロウ時代」に,どんなに憎しみが広がり,暴力が横行していたかは,日本はおろか,アメリカでも伝えられることは少ない。「クリスマスに欲しいのは唯一,クリーンな白人専用の学校」「人種隔離を守れ」。学校で人種隔離を続けることを求める白人女性ら。警察官に向かって叫ぶ。
(引用終わり,さらに長くつづくが,後略。興味ある人は自分でのぞいてほしい)
※-5 ケント・ギルバートというお調子者が加担した『嫌韓・嫌中差別』問題
『LETERA-本と雑誌の知を再発見-』2017年10月28日,http://lite-ra.com/2017/06/post-3254.html の記事に「K・ギルバートの中韓ヘイト本に版元の講談社内でも批判の声! 組合報に『まさかこんな差別煽動本が』『目の前が真っ暗になる絶望』」というものが出ていた。
本ブログ筆者が利用するアマゾン広告のなかでは,アマゾン側に出品を任せる形態の「本の広告」になると,ケント・ギルバートが最近(だいぶ以前に)公刊し,大いに売れていた本が,勝手によく広告されていた。
売れる本だから広告にもよく出てくるという寸法であった。それはともかく,このリテラの記事を紹介したい。前項※-4までの記述にも深く関連した内容になっている。なお,全文は長いが,すべて引用する
a) 先日,本サイト〔『リテラ』〕では,ケント・ギルバート氏のベストセラー『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社)の実態が,中国人や韓国人への憎悪を煽る悪質なヘイト本であることを指摘し,版元である講談社が老舗の出版業界最大手であるにもかかわらず “ヘイト本ビジネス” に手を染めたことを批判,「もはやこの国の出版文化は末期的というしかない」と断言した。
ところが,この国籍や民族でひとくくりにして,
「『禽獣以下』の社会道徳や公共心しかもたない」
「彼らは息をするように嘘をつきます」
「自尊心を保つためには,平気で嘘をつくのが韓国人」
「その病的なレベルについていえば,韓国人が世界一」
などとひたすら悪罵を連ねるヘイト本は,本サイトの論評後も売れに売れつづけ,現在,出版不況の中で50万部に届こうかという大ヒット中。あまつさえ,講談社社内で表彰すら受けたという。
「売れたものが正しい」といわんばかりの講談社の姿勢には,まったく目眩〔めまい〕がしてくるではないか。
しかし,ここにきて,ケント氏のヘイト本をまっとうに批判する声が,出版物を読者に届ける立場の人びとからも出はじめている。たとえば,大手書店チェーン・ジュンク堂書店の難波店店長である福嶋 聡氏は,インターネット言論サイト『WEBRONZA』註記)に,「K・ギルバート氏の本で心地よくなってはならない」と題する論評を寄稿。同書の問題点を鋭く指摘し,大きな話題になった。
註記)2017年08月25日,http://webronza.asahi.com/culture/articles/2017082400006.html
いや,それだけではない。『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』の内容と,その大ヒットを手がけた講談社の姿勢に対し,ほかならぬ講談社社内からも強い疑問が呈されたのである。講談社の労働組合が不定期で出している「組合ニュース」と呼ばれる会報があるのだが,その最新号で,複数の社員が『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』をめぐる自社の姿勢を問題視している。
たとえば40代男性社員は「講談社がケント・ギルバート氏の口を借りてヘイト本を出してしまったことと,批判をものともせずにそれを顕彰していることに恐怖を感じています」と吐露している。さらに,社内でマンガ編集を担当しているとみられる30代女性が「組合ニュース」に寄稿した文章は,まさにこの講談社のヘイト本問題の本質と重大性をつくものだった。
b) 講談社の女性社員が組合報に書いたヘイト本を出版した自社への強い批判。この女性〔前段〕は,定期的に差別についての講習をおこなっている講談社は,〈日本最大規模の出版社としての良識とプライドをもった会社〉だと,入社以来信じてきたという。
だが,いまやその講談社で,中国人や韓国人を「禽獣以下」だの「息をするように嘘をつく」だの「病的」だのという完全なヘイト本が生み出され,本社ビルのショーケースのなかに堂々と飾られ,書店でもポップ付きで平積みにされている。女性社員はこう続ける。
そのうえで,『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』というヘイト本を国内出版最大手の講談社が手がけたという事実を,この社員女性は問いなおす。本に携わった管理職も含む多くの人間は,自分の部下や同僚に中国人や韓国人がいて,隣で仕事をしていることを考えたのか。その同僚たちが自分が差別されていると感じることを想像したのか。そして,その人たちがもし,なにもいわなかったとしても,講談社がヘイト本を出版したという社会的意味を,ちゃんとみつめなおさねばならない,と。
数年前から書店に溢れ出した嫌韓反中のヘイト本は,悪罵や憎悪の扇動を正当化するために,あれやこれやと「理由」や「根拠」をつけている。だが,それらはネット上に転がっている悪質なデマであることも多いし,ケント氏の本がそうであるようにそれらしい名目を使っておきながら,その実,洞察など皆無であることがつねだ。ヘイト本の著者たちは,そうして逃げ道をつくりつつ,批判されると「言論弾圧だ」と騒ぎ出す。
c) 講談社はルワンダの「千の丘ラジオ」〔1994 年 4 月から 7 月にかけて起こったルワンダ虐殺を扇動する上で重要な役割を果たした放送局〕のようにならないでほしい。しかし,この講談社の女性社員がいうように,その本の「読者の心」になにが残るのかといえば,結局のところ,中国人や韓国人への差別感情にほかならない。
ネット右翼的な言辞を活字に刷りなおして,差別を商売にしているのだ。それは多様性を重んじ,文化を広めるという出版の理念に反しているばかりか,差別主義にもとづく犯罪,ヘイトクライムを助長する行為でしかない。講談社の社員女性はこう記している。
1994年のルワンダ大虐殺では,多数派のフツ族系の民放ラジオ局「千の丘」が,少数派のツチ族への民族憎悪を扇動するキャンペーンをおこなった。「隣のツチ族に気をつけろ」「奴らはゴキブリだ」「カマやナタを用意しろ」。
こうした民族差別の言辞をメディアを通じて広めることによって,それまでフツ族たちのすぐ隣で生活してきたツチ族たちが大勢殺された。ジェノサイド全体の犠牲者数は50万人とも100万人ともいわれている。
ルワンダ虐殺から20年以上〔2024年ならばちょうど30年〕が経った日本では,排外主義団体が「良い朝鮮人も悪い朝鮮人もどちらも殺せ」「ゴキブリたちを潰せ」などと路上でがなりたて,ネットでも日々ヘイトスピーチが溢れかえっている。そして「売れるから」という理由で乱造されるヘイト本の数々。
ケント氏の本もまた,「日本人とは別物」「禽獣以下」などという差別のアジテーションとともに売り出され,書店に並び,すでに45万部以上が刷られてしまった。それは,差別を煽るナショナリズムを駆動させている安倍政権や,朝鮮人虐殺の犠牲者への追悼をとりやめた小池百合子都知事など政治ともたしかに連動しながら,出版文化を “ヘイトスピーチの拡声器” へと変質させてしまうものだ。
その意味でも,今回紹介したように,書店員や講談社内部からもケント氏のヘイト本に対する強い批判,拒絶感を表す意見がでていることは,少ないながらも “希望” といえよう。
d) 一方,担当編集者はインタビューでみずからのマーケティング的センスを自慢。しかし,講談社がこうした声を真摯に受けとめ,出版文化の担い手としての自覚をもち,ヘイト本から手を引くかというと,残念ながら,いまのままではそうはいかないだろう。それどころか,ケント氏の件で味をしめた講談社が,今後,ますますヘイト本ビジネスに邁進し,他の大手もこのヒットをみて続々と参入してくる可能性が高いといわざるをえない。
実は,最近,『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』の担当編集者である間渕 隆氏が,出版業界紙「新文化」のインタビューに答えているのだが,氏にいわせれば「ビジネスとしての出版はオセロみたいなもの」であり,「どんな本を出せば,どれぐらいの石をひっくり返せるかだいぶわかってきた」という。
また,これまで『住んでみたドイツ8勝2敗で日本の勝ち』(著・川口マーン惠美)などの “日本スゴイ本” も手がけてきた間渕氏によれば,〈普通の日本人の書き手がどれだけ「日本は外国に比べて優れている」と書いても「弱い」〉が,「欧米人と結婚した日本人であれば『日本はダメ』でも売れる」のだという。同じく,ケント氏のヘイト本が売れた理由についても,サラっとこういってのけている。
「ここまで伸びたのは,ケント・ギルバートさんというアメリカ人が『日本人と中国・韓国人は別物ですよ』といってくれたからだと思います。欧米人の書いた反中国・反韓国本だからこそ,特定の人たちだけでなく,多くの日本人に受け入れられたんでしょうね」
要するに,本作りは徹頭徹尾マーケティングで,ケント氏の本も例外ではなく, “読者ニーズがあり,売れるとわかる” ならば,ヘイト本だろうがなんだろうが大いにアリらしいのだ。
こういう編集者がしたり顔で〈ヒット作のノウハウ〉を語り,業界紙がそれを「 “時代の空気読む感性” 磨き続ける」なるタイトルを添えて嬉々としてとりあげる。頭が痛くなってくるが,これが出版界の現状なのだろう。
もちろん,出版を法的に規制することは反対だ。しかし,差別やジェノサイドを扇動するような出版文化などあってはならないし,だからこそ,作り手や送り手は,その出版物の正体がいかなるものか,慎重にみきわめる必要があるはずだ。
もっとも,講談社のような大手の編集者が,出版は「文化」ではなく「ビジネス」であると開きなおっているようでは,もはや牛に対して琴を弾ず,なのか。出版にかかわるすべての人たちに,このままでいいのか問いたい。(宮島みつや)(『リテラ』引用終わり)
「差別やジェノサイドを扇動するような出版文化などあってはならない」のだけれども,なんといっても BUSINESS だから,つまり金儲けのためであれば,ケント・ギルバートを書き手にして,「日本人の劣情」に訴える編集手法(排外・独善の差別思想)であっても “ソレデ,いいのだ” といえた編集者の品性は,根幹から問題だらけである。
嫌韓・嫌中の思考方式(というかヤマト民族的〔?〕な差別と偏見の気分)が商売の種になり,利用できるのであれば,これを積極的に活用してなにが悪いのかというふうに,開きなおっていられるその品性は,この国の人びとの奥底に潜む「恥ずかしくて,けっして誇れない」それなのだが,「差別と偏見」の正直な心情として捨てきれないでいる感情であり,自分たちの本性を開放させる基盤を提供していた。
さて 「日本スゴイ系番組」にはほとんど登場しない “黒人系の混血児” たちであるスポーツ選手(アスリート)に限っては,オリンピックで活躍してもらえるかもしれないから大歓迎であるが,韓国人・中国人(在日する者たちが中心の対象になっているかも)は気に入らない,嫌いだという発想・感性は,日本人自身の精神内部に秘められている,それも「白人への劣等感」を裏返しにした「非白人系人種・民族への抜きがたい」,おまけに重層的に複雑である「差別と偏見」の意識を,正直に表現させている。
ところでオリンピックといえば,第2次大戦前で最後の開催となったベルリン・オリンピックでは,当時,大日本帝国の植民地であった朝鮮の選手が,第1位(孫 基禎,손 기정)と第3位(南 昇竜,남 승룡)を占めた。当然のこと日本側は,それをすなおに喜べなかった。
あまり注目されていなかったが,第3位に入った南 昇竜に関する,こういう解説(ウィキペディア)を聞いておく。
--明治大学在学中は箱根駅伝で活躍。1936年,ベルリンオリンピックで日本のマラソン代表となり銅メダルを獲得。このベルリンオリンピックの最終選考レースで南は1位となるが,選考会の記録が低調だったため南と孫を含む4名(ほかに鈴木房重・塩飽玉男)をいったん選出し,現地予選で3名に絞ることとなった。
朝鮮半島出身の2名は,あとからベルリンに向かっていた走り幅跳び代表の朝隈善郎から「選手団の役員は2人のうちどちらかを落とすつもりでいる」という電報を受けて危機感をもち,勝ち残るために現地でハードトレーニングを提案した。
このトレーニングとの関連は不明確ではあるが,最終的に鈴木房重が体調を崩して現地予選を途中棄権し,孫と南の両方が本番に出場してメダルを獲得した。明治大学を卒業し,第2次世界大戦後は祖国である韓国に戻り,選手生活を続けた。
ケント・ギルバートの嫌韓・嫌中本は,この日本と日本人の意識を再び1世紀も昔に戻したいのか? 安倍晋三首相がケント君の本を読んだかどうかについて,本ブログ筆者は寡聞にしてしらない。
要は,異人種・他民族のもろもろの要因からいいとこどりはしたいが,彼らといっしょに住む,隣に暮らすのは嫌だといったふうな「お尻の穴の小さい」日本の民族なのであれば,外国(海外)にいる日本人はすべて即刻,日本国に帰国し〔引き揚げ〕なければなるまい。そうしなければ理屈がまったく通らない。一貫性がない。
もっとも,鎖国の時代でもあるまいに,そのような対応はとうてい不可能である。だが,特定の国籍の人びとや一定の民族に対してのみ抱かれる「差別や偏見」の社会意識が,この国に特有な「鎖国(自己閉塞)的な感覚・劣情」として,いまだにのさばりつづけ徘徊している。
ケント・ギルバートは,そうした日本社会の頑迷固陋をよく理解していながらも,図に乗ったかのように加担した白人系アメリカ人であった。「嫌韓・嫌中大好きな人たち」からしたら,ケントは「俺たちの仲間」であり,白人として「日本のネトウヨ」名誉会員「待遇」を与えられている,とでも表現したらよい。
結局,こういうことがいえるかもしれない。「この国の人たち,もしかすると,最近はいつも,「とても不幸に感じている者たち」が大勢いるらしいと。ケント・ギルバートも,もしかしたら,その者たちに似たなにか問題を抱えているのかも……。
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