姜 尚中教授の履歴にアイマイにしか紹介されない時期があるのはなぜかという素朴な疑問,タレント教授か教授タレントか?
※-1 姜 尚中の経歴に分かりにくい時期があるのは,どうしてか?
在日韓国人2世としてたいそう活躍してきた姜 尚中教授であるが,当人が自身の履歴を紹介してきたなかに,ある点に関していまだによく把握できない部分(伝わってこない時期)が残されたままであった。この種の単に素朴な疑問がいまだに解消できないでいる。
#大塚久雄 #恩師 #国際基督教大学 #東京大学 #聖学院大学 #本位田祥男 #ウェーバー
この記述はその「事実」に注目したかたちで,この人気教授の学究かつ人間としての生きざまなどを観察してみたい。すでに日本社会のなかでは有名教授になった姜 尚中の立場ゆえ,このような問題意識を充ててとりあげられ議論されるのも,その人気あってのなりゆきだと解釈してもらいたい。
1) 姜 尚中の「人物紹介-略歴-」
姜 尚中(カン・サンジュン: 강 상중,73歳〕は,在日韓国人の政治学者,思想家,エッセイスト。
姜 尚中 は,1950年8月12日に熊本県熊本市に生まれた国籍を大韓民国とする在日韓国人2世。東京大学名誉教授で,現在は熊本県立劇場館長,長崎県の学校法人鎮西学院初代学長を務める。
2014年4月に就任した聖学院大学学長「職」は,理事者とのもめごとが生じ,1年度だけ務めて退任した。
2) 専門は政治学・政治思想史
とくに,そのアジア地域主義論,日本の帝国主義を対象としたポストコロニアル理論研究。姜 尚中の主著から1冊だけ挙げよといわれたら,ウェーバー関連の業績であるつぎの書物を示すのがいいと思う。 この本は,文章の運びがなかなかごつい(重厚な)構成である。
『マックス・ウェーバーと近代-合理化論のプロブレマティーク-』御茶の水書房,1986年11月,岩波書店〈岩波現代文庫の新刻版〉,2003年1月。
学究や研究者としての大学教員が公表する業績は,人それぞれであることは当然であるが,姜 尚中の場合〔も〕若かりし時期の成果のほうが,学術的にはより秀でていたと観ることが可能である。
ともかく,東京大学に勤務してからは日本社会のなかで評判がたいそう湧きあがり,すっかり人気教授になった姜 尚中であった。
3) 本ブログの筆者の観察し,感知しえた点としてだが,彼自身による「履歴の紹介」に関して不明瞭な時期(前後関係)が,なぜなのか,意図的であったかのようにして残されている。
その疑問を闡明させてくれる情報は,これがなぜか,なかなかみつからない。なぜ,そうなっているのかさえ,実は不詳のままである。別に隠す履歴などなにもないはずの有名な先生に関して,素朴な疑問を投じて詮議することになるが,この記述の狙いである。
なお,この記述の初出は2014年6月25日であり,その後,2020年8月1日,2023年2月3日と更新を重ね,本日で4回目の改訂・補正版となる。
本稿が主に論じたい題材はつぎの2つの要点として提示できる
要点:1 姜 尚中:花開いた在日インテリのバカ受け
要点:2 「大学の恩師」とは,いったい誰のことか?
※-2 姜 尚中『マックス・ウェーバーと近代合理化論のプロブレマティーク-』御茶の水書房,1986年11月に関連する話題
1) 「大学の恩師」は大塚久雄?
『朝日新聞』2012年8月13日朝刊の記事であったが,「東大大学院教授・姜 尚中(カン・サンジュン)の講演録」,「まなあさ(まなぶ@朝日新聞)」の「さあ知の世界へ-『 LIVE 』白熱」「2. 無駄なことをしてみよ」に,いままで日本のマスコミにはあらゆる方面に出ずっぱり,八面六臂の人気活躍学者:姜 尚中が登場していた。
本稿の記述はまず,この記事を読んでの感想から本論が始まる。本ブログの筆者にとっては「なんらかの疑問を抱かざるをえない」彼(姜)の発言が,そこには含まれていた。そう感じるほかない「避けて通れないある論点」を,確かに観てとったつもりになった。
さて,その記事のなかでの発言であったが,姜 尚中は「大学の恩師で,経済史が専門の大塚久雄さんからも,私は貴重な教えをいただきました。それは『無駄なことを学ばなければ,何が大切かは分からない』ということです」と語っていた。
つまり,姜 尚中はそのように「大塚久雄」は「大学の恩師」だと語っていた。
また,「大学の恩師」=大塚久雄であると述べた点について姜 尚中は,他所でおこなった講演のなかでも,もつぎのように触れていた。
「大学の恩師で,経済史が専門の大塚久雄さんからも,私は貴重な教えをいただきました。それは『無駄なことを学ばなければ,なにが大切かは分からない』ということです」。
注記)「さあ知の世界へ~姜尚中」『さぶろうのWORDS OF LOVE』2012-08-20 00:20:0,https://ameblo.jp/lovemedo36/entry-11332943774.html
本ブログの筆者は,以上のように大塚久雄に言及した姜 尚中の発言に対して,「?」という印象をもった。「大学の恩師」という姜 尚中の表現じたいに関して,若干,引っかかるものを感じた。
「大学・大学院時代の指導教授としての恩師」だとはいっていない。しかし,前後して「大学の恩師」といういい方が,なんどかなされていた。
2) 姜 尚中の専門は政治学で,とくに政治思想やナショナリズム論を研究している。大学は,早稲田大学政治経済学部から同大学院政治学研究科博士課程を修了しているので,こちらが出身校としての母校である。指導教授は藤原保信。
だから当然のこと,「大学の恩師」は藤原保信ではなかったのか?〔もっとも,恩師は何人いてもかまわぬが・・・〕,という疑問がただちに湧いてきた。
姜 尚中(Kang Sang-jung)のホームページにかかげられている,彼の「プロフィール」から経歴(略歴)の部分を画像資料にして,つぎにかかげておきたい。
3)「大学の恩師」とは誰を指すのか?
『 Archive for the 書評 Category 』というブログ(出版社「新評論のブログ」)が2010年8月11日,「姜 尚中さん,故藤原保信氏の思い出を語る! 『学問への情熱と弟子への心遣い』」と題した一文を掲載していた。このブログはもちろん,
「姜さんが付録月報にエッセーを寄せてくださった藤原保信著作集(全10巻・完結),好評発売中です! (姜さんのエッセーは,第3巻『西洋政治理論史(下)』の付録で読めます!) 姜 尚中が恩師と尊敬する藤原保信。その政治哲学の真髄をぜひ著作集で!」と,
自社の出版物を宣伝することも忘れていなかった。
註記)http://www.shinhyoron.co.jp/blog/category/営業部ニュース書評 なお現在,この住所は削除されており,リンク切れである。
また,『読売新聞』〔2010年〕8月11日(水)朝刊「私の先生」という記事のなかであったが,「姜 尚中さんが恩師・藤原保信氏について語っています!」と題した記事のなかで,姜 尚中は,藤原保信の人柄と政治学に対する姿勢を述べ,「恩師が示してくれた愚直なほどの学問への情熱と弟子への温かい心遣い。いまもときどき思い起こします」と懐かしそうにしめくくっていた,という。
4) 藤原保信は長野県安曇野市の出身
安曇野市市のホームページには,藤原の画像が出ているページがあった。これを借りてつぎにかかげておくが,このホームページの紙面に記載されている「藤原保信(ふじわら・やすのぶ,1935-1994年)」の解説を,つぎに参照しておく。
豊科南原(とよしなみなみはら)に生まれ,南安曇農業高校,早稲田大学政治経済学部を卒業,1965年,早稲田大学大学院政治学研究科博士課程を修了,1974年,早稲田大学教授。
政治理論のパラダイム転換に中心をすえた政治思想研究をおこない,『近代政治哲学の形成-ホッブスの政治哲学』『ヘーゲル哲学講義-人倫の再興』『西洋政治理論史』等を著わした。
『朝日人物辞典』(朝日新聞社)によると,「精緻(聖地)で重厚な理論構成で政治思想の多彩な世界を広角度から分析・表現した」といわれている。
政治思想学の分野から,現代の諸問題解決のための未来社会への深い洞察・提言で注目され,姜 尚中氏の今日への進路を導いた恩師。姜 尚中氏(東京大学大学院教授)も「我が心の師」として『婦人公論』2008年8月7日発行号で紹介している。
注記)「藤原保信」『安曇野市ゆかりの先人たち』2015年10月29日更新,https://www.city.azumino.nagano.jp/site/yukari/2300.html
5) 藤原保信の主要著書は,以下のとおりである。
以上の著作は『藤原保信著作集 全10巻』新評論,2005~2008年として復刻,再刊されている。
藤原保信の公刊した専門書の研究業績と姜 尚中の公表した各種の書物とは,比較するまでもなく,恩師のほうが圧倒的に学術性が高い。もっとも,姜 尚中のほうは,大衆受けする書物も積極的に公刊してきた。
6) 姜 尚中が公表してきた書物は,年齢を重ねていくにしたがい,一般向けの啓蒙書が多くなった。姜 尚中は端的にいえば,マスコミ,それもテレビによく出演するような,たとえば齋藤 孝(教育学者,明治大学文学部教授)と似た面相をもつ,「タレント教授」ならぬ「教授タレント」だとも形容できる。
姜 尚中の「大学の恩師」である藤原保信が,一貫して学術研究書を制作・公刊してきたのに比べ,姜は,2000年の初めの10年期も半ばを越えるころになると,マルチタレント化したせいもあってか,それ以前から出ていた兆候=方向性でもあったが,本格志向になる学術研究書(の比重)は減ってきた。
それでは,「恩師を超える」ことが困難になるのではないかと危惧した「同学の士」もいたはずである。もしかするとこのままでは,「恩師の肩を踏み台にしてでも超えるべき学問の使命」に照らして判断するに,「不肖の弟子」になってしまう危険性がないではない。
姜 尚中は1950年生まれなので,2023年中には73歳になる。恩師の藤原保信は59歳で他界していたから,まだ姜には挽回の機会がないとはいえない。
以上の論及は「姜 尚中」の「大学の恩師は誰?」と問うていながら,これに関する議論:答えは,十全になしえず,まだ出せていない。しかしここで,その議論はひとまず先送りさせておき,その前にほかの話題をはさみこむかたちを採って,しばし,関連するほかの話題に言及してみたい。
※-3 姜 尚中の世評-とてもよい(?),彼の評判-
1)「群馬県のある女性」(2010年8月13日)
この女性,自分のブログ『こころのままに 貴方への手紙世阿弥 「風姿花伝 まことのはなより」』において,つぎのような文章をつづり,語っていた。なお,この文中での「朝日新聞9面」とは,同紙 2010年8月13日朝刊に掲載された姜 尚中執筆の記事を指していた。
これはあたかも「姜 尚中〈教:信者〉」のような語り口である。これを読んでいるほうが「頭がボーッ,としてくるような文章」である。姜 尚中「独特のソフトな語り口は女性ファンを魅了してやまず,辛 淑玉女史にいわせると『神父さんが懺悔しなさいといっているようだ』ということになる。
註記)「姜 尚中著『悩む力』」集英社新書(2008年5月)-人とのつながりの中で,自分らしく生きるために悩む事が力なのです」『ようこそ! 千田孝之のホームページへ』http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/etcgenkou3/syohyou158.html
さてここで,つぎの補注になる文章を挿入しておく。
補注 1)【2012年8月24日:追補】 この日の『日本経済新聞』「朝刊」に,姜 尚中『悩む力』(集英社〔新書〕,初版 2008年5月)の売行きが「めでたく」「100万部突破!」と謳う広告が出ていた。 第3面の下部3分の1の紙面を充てた,この本1冊のための広告である。
新書判で定価¥714(税込)であっても,百万部売れたとなれば,東大の先生のご本がたいへんな販売数に到達したことになる。それも姜の専門書ではなく,専攻する学問と直接には関係の薄い中身を話した教養本である。
おもしろいのが,本書に推薦の辞を送っている3名である。そのうち2名は女性,俳優の吉永小百合と前東大教授の上野千鶴子〔東京大学名誉教授,立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘教授〕である。
とくに上野は『カンさま,わたしも学びたい」などと,いくら宣伝料をもらったかしらぬが「歯の浮くような」お世辞を贈呈していた。筆者のしるイメージで厳密にいう(!?)。これは,上野先生〔の採っている学問様式の独特な志向性〕に照らしても,彼女らしくない語り口に「感じる」。
補注 2)【2020年8月1日:追補】 つぎの記事-2) のことであるが-も参考にしておきたい。
2)「韓中日新冷戦:日本の親韓派議員も『韓国たたき』」(韓国紙『朝鮮日報(日本語版)』2010年8月20日,http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/08/20/2012082000602.html 東京= 車 学峰(チャ・ハクポン)特派員)
韓国バッシングには,日本国内の代表的親韓派議員たちもくわわっている。代表的な親韓派議員とされる前原誠司民主党政調会長は〔2010年〕8月19日,テレビ番組に出演し「(李 明博大統領による天皇謝罪要求発言は),失礼きわまりない。大統領の任期の間,日韓関係を好転させるのはむずしいのではないか」と語った。
前原氏は,民主党の議員連盟である「戦略的な日韓関係を築く議員の会」の代表として韓国を頻繁に訪問し,次期首相の有力候補といわれている。前原氏は韓日通貨スワップ協定に関連し「(李大統領の発言と)まったく別だと切りはなすべきではない」と述べ,通貨スワップ協定の見直しもありうることを示唆した。前原氏は,中国を牽制するため韓国と日本が戦略的同盟を結ばなければならない,として両国友好関係の構築に力を注いできた。
在日韓国人2世の姜 尚中東京大学大学院情報学環教授(当時)は8月18日,ソウル市内でおこなわれた金 大中元大統領の逝去3周忌記念講演で「とくに日王(天皇)に対する(李大統領による謝罪要求)発言がもっとも大きかった。独島(日本名:竹島)問題だけでは事態はこれほど大きくならなかっただろう」と述べた。さらに「李大統領の独島訪問と日王に対する謝罪要求は,韓国に友好的だった日本国内の左派勢力の反発まで 招いている」と語った。(引用終わり)
3) 巷の,姜 尚中「評」(2004年3月6日の記述)
「在日韓国人である学者・姜 尚中さんは,日本人は愛国心をもってはいけないと日頃から主張しています。でも朝まで生テレビの常連である彼をみると,姜さん自身が自筋金入りのナショナリスト(韓国人として)であると確信します」。
【その理由】
☆-1 反米デモなど韓国での民族主義の暴走を批判した金 泳三が話題にあがると,姜さんは最悪の大統領と批判した。
☆-2 北東アジアの平和のためとか,日本はアジアで孤立するとか理由をつけて,朝鮮の都合がいいように日本を誘導しようとする。
☆-3 韓国を批判する発言に対し,顔を赤くして興奮し憤る。(姜さんがナショナリズムを克服していたら,そんなに感情的ならないはず)。
☆-4 拉致被害者を約束通り北朝鮮に返せとの主張をかえていない。
「韓国では自国のナショナリズムは良くて,日本のナショナリズムは悪いとされています。姜さんも,そんな韓国の風潮にしたがっているだけなのではないのでしょうか?」
註記)「姜 尚中さん,ナショナリスト疑惑」http://mimizun.com/log/2ch/korea/1078584800/ 04/03/06 23:53 id:a6UoKmds
この〈巷〉から上がってきたの声のなかには興味ある指摘があった。それは姜 尚中が「顔を赤くして興奮し憤る」と指摘された点である。テレビに登場する姜 尚中の語り口に関しては,さきほど言及した群馬県の女性が,こういっていた。
つまり,「そのゆったりとした話かた」からは「そこに安らぎが生まれ」,「決して急がない間あいを」「人はしばし待ち続け」るがゆえに,「耳が心とつながって受け入れてしまわざるをえない」「これぞ宗教です」と,まるで宗教的な感性の次元で返す激賞=惚れこみぶりであった。
この女性はきっと,姜 尚中が「顔を赤くして興奮し憤る」場面を,一度も観劇したことがないに違いない。
本ブログの筆者がしるかぎりでいえば,姜 尚中がまだ若い時期,なにか自分の考えや意見に合わない発言が相手側にあると,一気に態度を急変させ「顔を赤くして興奮し憤る」(怒鳴る)場面に遭遇したことがあったと聞く。
これは,実際にこの種の場面を体験した人たちから聞いた話である。それだけではない,実は私の娘(会社に勤務する社会人だが)も,またほかの人から「同じように彼が感情を激越に表出する場面に遭遇した」ことを聞かされている。
※-4 本ブログでの言及,および本日の結論
1)「姜 尚中 & 鄭 大均」
鄭 大均『姜 尚中を批判する-「在日」の犠牲者性を売り物にする進歩的文化人の功罪-』飛鳥新社,2011年11月と題した本があった。
姜 尚中が鄭 大均(この人,父は 韓国人,母が日本人)の批判を受けるさい,批判を繰りだす鄭 大均の側においてこそ,実は,この鄭「自身の生まれ・育ってきた」環境・歴史が無縁とはいえないところに,本ブログの筆者は,在日問題の周辺に漂う「悲哀」を感じとれるつもりになった。
確かに姜 尚中の実像は,日本社会のなかですでに創られてきた彼自身向けの虚像にすっかり覆われていた。姜の姿がよく見透せないまま,あたかも霧がかかり,靄っていたかのような印象を,強く抱かざるをえなかった。
「ああ,ぺー・ヨンジュン様」ではないが,「ああ,カン・サンジュン先生」に 「大変身させられていた」のが,姜 尚中にまとわりついていた虚像的な実像ではなかったか。
鄭 大均が姜 尚中に向けて露骨に表わした苛立ちは,鄭自身の出自や成長の過程も,実は率直に反映されていた。それゆえ鄭は,なおさら過激な表現を使い,感情をさらけだした反発を示していた。
話を最初に戻そう。『朝日新聞』2012年8月13日朝刊「まなあさ(まなぶ@朝日新聞)」「さあ知の世界へ-『 LIVE 』白熱」という記事になかで,姜 尚中が口にした,こういう文句があった。
「大学の恩師で,経済史が専門の大塚久雄さんからも,私は貴重な教えをいただきました。それは『無駄なことを学ばなければ,なにが大切かは分からない』」といっていた点が,それであった。
だが,厳密な意味で解釈しておく。大塚久雄が姜 尚中に対して『大学あるいは大学院で指導教授であった』という『子弟関係での恩師』といえる間柄にあったことはない。姜は東京大学経済学部で大塚ゼミに所属していた事実はないし,大学院時代も大塚は指導教員ではない。姜は早稲田大学・大学院で学び,藤原保信を指導教授としていた。
すなわち「学部・大学院(早大)に姜が在学していたとき」についていうと,大塚が姜のゼミの先生だったとか大学院の指導教授であったとかはありえない。あるいはさらに,そのほかのなんらかの研究指導上の関係が,つまり,大塚の立場が姜の上司に当たる研究環境があったとでもいえる,換言すれば,この2人が直接に「師弟の(ような)関係」であったといえる時期も,どこにもみつかるわけがなかった。
本当に「大塚久雄が姜 尚中の『大学の恩師』でありえたか否かについては,依然,姜の “不鮮明な自己紹介” しか与えられていない以上,本ブログ筆者が着目し,指摘していたごとき「関連の疑問点」は,いつまで経っても解消できないでいる。
なかんずく,本ブログの筆者は寡聞にして,「大塚久雄が姜 尚中の《恩師》だ」とみなせるような,あるいはそれに類似する立場にありえたという話はしらない。この理解が間違いであるというのであれば,誰でもよいので,ぜひとも教えてほしい。一番さきに教えてほしいのは,もちろん姜 尚中自身である。
「大学の恩師」という表現を目一杯に拡大させて考えたところで,以上の疑念は消えない。ただし「恩師」ということばだけに止目してみたら,いくらかは以上の疑念に答えうる「スキマ的な概念」として使えるかもしれない。
2)「カン・サンジュン & 本ブログの筆者」
本ブログ筆者の個人的な経歴に,ここで若干触れておく。大学院時代の「恩師」は,ローマ字の頭文字でいうと,T・N(1907年生まれ)という教員であった。
戦前,このT・Nがまだ若いとき東京大学経済学部の学生時代,そして同学部の副手・助手になっていた時期,本位田祥男(ほんいでん・よしお:1892年3月生れ)という非常に珍しい姓の指導教授の研究室(ゼミ)で,大塚久雄(1907年の遅生まれ)とともに学び,研究に励んでいた。
筆者は,T・Nから姜 尚中の話については,間接的にでも--この場合は大塚久雄⇒T・Nを介した話ともなりうるはずだが--一度も聞いたことがない。
その点は,まだ姜 尚中が無名のころであったから,そうなっていたのか? だが,そういうよりは,早稲田大学の学生・院生であったのが当時の彼であったから,そのようにしかなりえなったのではないか?
姜 尚中は,早稲田大学政治経済学部大学院博士課程まで藤原保信を指導教授としていた。この関連でいえば,いったいどのような意味で「大塚久雄」が自分の「大学の恩師」といっているのか,もうひとつ解しかねる。とくに「恩師」ということばからは疑念しか生じてこない。
学問の世界では,非常に広い意味では「そのような・いいかた」(どこそこ大学の誰々先生には「学恩がある」とかなんとか)も,口にしていけないことばではない。ときに,自分の指導教授ではない先生に向かって,そうした表現がなされることは,しばしばある。
その先生の本を読んでたいそう勉強になった〔させてもらった〕 という関係でも,実は「学恩」という表現は使用されもする。しかし,その関係性のなかに「恩師」という表現は入りこみにくい。むしろ,そのような表現は使えないといったほうが適切な理解になる。
それでも姜 尚中は,「大塚久雄氏からの直接的な指導を」「正式に」「どこかの機関で〔大学院であるいは研究所で部下として〕受けていた」かとでも聞こえるように,いいかえれば,他者からいかようにでも解釈されうる〈ものいい〉を「工夫していた」と感じる。
姜 尚中の発言:「大塚久雄は『大学の恩師』」という文句からは,舌足らずでありながらも同時にまた,奇妙というか奇怪でもあるかたちをとってだが,その「大塚久雄が自分の恩師みたいに修辞されていた」と受けとられかねない「いいまわし」をしていた〔と,この点だけは間違いなく推察される〕。
だが,その表現方法に対しては,一言で決めつけて,つぎのように断っておくことが必要である。
つまり,そのアイマイさのなかに充填された〈誤導的な要素〉が,他者に向けられるさい「最大限に好意的に解釈されてほしかった対象」であるかのように方向付けておきたかったらしい。いいかえれば。そうした〈印象〉へと向かう《ベクトル》を汲みとってもらう期待をこめていた。それゆえ,読者たちはそのような『示唆』をなんとか受けとめてほしい,多分「忖度してほしい」といいたいかのように,それも,そう簡素には観取できない〈表現の方法〉が採られていた。
3) 大塚久雄と姜 尚中の接点はありえたのか
ただし,大塚久雄(1907年-1996年)の経歴をみると,なにがしか,関連する要素がまったくなかったとは断定しにくい。大塚久雄は,1930年に東京帝国大学経済学部入学,1933年卒業後,経済学部助手として同大学に残り,しばらく法政大学非常勤講師も兼任したあと,この大学で助教授として採用され ていた。
1933年--法政大学非常勤講師
1935年--法政大学助教授
1938年--法政大学教授
1939年--平賀粛学のあおりで辞職した本位田の実質の後任というかたちで,東京帝大経済学部に助教授に就任。以降,多くの後進を育てる
1968年--東京大学を退官,その後・1970年に国際基督教大学教授
註記)以上についてさらにくわしくは『東京大学経済学部五十年史』1976年参照。
姜 尚中の経歴は「1996年 ドイツ エアランゲン大学に留学〔1979年~1981年〕の後,国際基督教大学準教授などを経て」--そのまえに明治学院大学講師(非常勤と思われるが)も勤めていたので,ひとまずこちらは,1981年度ないし1982年度あたりに任用されていたと解釈しておくが--,さらにその後は「1998年 東京大学社会情報研究所助教授」という順序をたどっていく。
また,姜 尚中は,大塚久雄『共同体の基礎理論』岩波現代文庫(2000年)の解説を執筆した事実もある。
4) 小 括
以上の事実にもとづく範囲内で判断をすると,こうなる。不詳の諸点がまだあり,いまの時点では調査が尽くせないまま,それでもいくつかの仮定(推測)を置いた(たくましくした)うえで,以下のような「いちおうの結論」(推認にあらず推断)を示しておく。
国際基督教大学で大塚久雄が教員であった時期は,大塚が63歳になる1970年度にこの大学に赴任していた。対して,姜 尚中が国際基督教大学に教員として赴任した年度がいつなのか,いまのところ判然としてない。たとえば,大塚が65歳になる1972年度中に姜 尚中が国際基督教大学に赴任することはありえない。当時の姜はまだ早大の学部・大学生であった。
そこで,大塚久雄と姜 尚中が同じ大学における同僚としての接点がありえたかに関して考えてみたい。大塚久雄は,国際基督教大学において定年〔1977年度であった〕以降も,非常勤講師(特任ないしは客員教授として)で出講していた時期があった。1982年度になったとき,大塚は満75歳である。1982年度は姜が明治学院大学にポスト(非常勤と理解している)をえたころである。
要は,情報の制約があって前段のようにしか推論するための材料が集まっていない。だが,姜 尚中が「大塚久雄」は「大学の恩師」であるといった意味あいが,ともかく,まだよく理解できないでいる。どうやら,指導教授という意味ではなかった。しかし,姜は,そうであるとも他者には受けとられる余地=余韻を残すような 《ものいい》を,なんとはなしにしていた。
いうなれば,けっして明示はされていないゆえ,どうしても特定の曖昧さを漂わせる表現になるほかない点として,つぎのように指摘できる事情があった。
姜 尚中は「自分という存在」に関して「大塚久雄との〈なんらか特別の関係性〉」があると「示唆したかった意図」を,独自に構想していたと推理できる。しかし,この構想:推理を完全に裏づける経歴上の説明は,なぜか姜自身によって「必要かつ十分」に与えられていない。思えば,ずいぶん不思議というか奇妙な「事態・経緯」になっていた。
すなわち,学問的な位置関係に関して「恩師だ」と「呼べそうな特定の間柄」が,姜 尚中と大塚久雄とのあいだで一定の濃さをもってがうかがえるのかどうか,依然不詳である。この自身の経歴に関した説明が,他者の側において「依然不詳である」と理解されるのは,いささかならず珍妙な現象だというほかなく,まれにしか発生しえない事例である。
すなわち,「姜 尚中と大塚久雄」に関しては,姜側において特別に設えられた「自分史の舞台」の上では,両者の関係を『大学の恩師』(師弟関係?)と形容できるような「邂逅があった」し,その種の「歴史の場面」が生まれていたのだ,そのように『想像してほしい』と『訴えていた』と『受けとる』ほかない。
その付近の話題(疑問!)をめぐって姜 尚中は,自分自身が日本の社会に向けて,ホノカにであってもいいから,確実に伝達しておきかった「経歴関係についての “なんらかの自画像” に関する想定」を,他者にもなるべく感じてとってもらい,共有してほしかったのだ,としか解釈できない。
しかし,その「想定されている〈なにもの〉か」は,結局「奥歯に〈大きな小石モノ〉がはさまった」かのようにしか語られていなかった。それゆえ,その事情に関した詳細はいまもなお明らかにされえない。
さて,今日のこの話題を読んで,みなさんにはどう感じてもらえるか? 本ブログ筆者が「無駄なことを詮索してみた」とは,けっして,思っていない。
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