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西田哲学・ハイデガー存在論・戦時日本社会科学(後編)

【断わり】「本稿(後編)」はつぎの前編を受けているので,できればこちらをさきに読んでもらうことを期待したい。

 

 ※-4 ハイデガーとナチス

 1) ジェフ・コリンズ,大田原眞澄訳・細見和之解説『ハイデガーとナチス』岩波書店,2004年-,「この本の題名」はそのとおりに偶然の符合を指摘たのではなかった。

 「本稿(前編)」 において触れてみた論点は,植村和秀『昭和の思想』講談社,2010年11月のつぎのごとき見解であった。

 --大東亜戦争を開始させた「ハワイ海戦」(1941年12月8日,旧日本海軍の真珠湾奇襲)は,「ペルシャに対するギリシャ人」のように「不可能を可能にした出来事になった」。

 植村は,かつて大日本帝国において実現されたその「創造的な先例」に関連させていえば,「西田と京都学派を,その構想において再評価すべき時が来た」という具合に,実は,かなり大きな錯覚にもとづく記述をしていた。

 1945年までの出来事に関する歴史的な評価は,時系列的に追跡しながら,論理的にも厳密になされるべきであるのに,まったく筋違いの方途で議論していた。しかも困ったことに,敗戦後にできあがった日本とアメリカとの国際政治関係の本質をしかと弁えない迷論であった。

 西田幾多郎もこの弟子筋に当たる弟子たちもきっと,草場の陰から失笑のさざ波を,そうした「現世における西田哲学」右派論に向けて送っていたはずだと,端で観察するほかなかった立場からでも思わざるをえない。

 ジェフ・コリンズ『ハイデガーとナチス』2004年は,こういっていた。

 ドイツは存在を再発見する民族として,その偉大さを世界にしらしめることになる。言語を通じて古代ギリシャの源流に直結するドイツ民族をさしおいて,この任務にふさわしい民族は他にはない。こうして哲学は民族革命のなかにその役割をみいだしていくことになる(48頁)。

ジェフ・コリンズ『ハイデガーとナチス』引用

   

 ドイツ・ナチスの時代においては「古代ギリシャの源流に直結するドイツ民族」が存在したといわれている。これと同じように,大日本帝国の時代においても「『ペルシャに対するギリシャ人』のよう」な「日本原民族の存在」(?)が強調されていた。

 そのあたりに共通する思考方式に関してならば,どうしも不可避に随伴する問題性を観過して超越したまま,ただちに「西田と京都学派を,その構想において再評価すべき時が来たと,私は思います」などと,極端なまでに軽率な結論をいってのけた植村『昭和の思想』の問題性がどこにあったか,あえて指摘するまでもあるまい。

 コリンズ『ハイデガーとナチス』は,「ハイデガー式ナチズム」を「ことによると歴史的,政治的な現実性を完全に欠落させたところから立ち上がってくる,とうていありえない怪物的な言葉かもしれない」(51頁)という認識を提示していた。植村も多分同じに,旧大日本帝国の蹉跌・大失敗に「怒りなし,後悔なし,懸念の言葉なし」(54頁)という発想をなしえた立場だったとしか,推論できない。

 2) 国家全体主義への加担

 ハイデガー『存在と時間』は,個別化・細分化に陥った近代諸科学の批判的再編という方向を示している,独自な「学問論」の呈示でもある(98頁)。

 しかし,ハイデガー「みずからの存在論=実存論にもとづく既存の論理,学問,社会の刷新,それを果たしうる危機的な,しかし可能性に満ちてもいる未曾有の状況--。こういう意識とその後のナチズムへの加担は,ハイデガーのなかでおそらくは密接につながっていた」(99頁)。

 さて,実をいえば京都学派も完全に同じ志向性を意識していた。

 注意したのは,戦時体制期における大日本帝国が展開していた大東亜共栄圏思想への加担を無視して,この京都学派による哲学的な思想の営為が対面していた「現実的な課題」を語ることはできなかった点である。

 ましてや,敗戦後へと時代が移行していった流れのなかでも,戦時期における「そのなんらかの意図」を継承・発展させたいと想到したその立場」であったとしたら,そうは簡単には評価しえない「歴史問題の複雑な脈絡」のなかに迷いこんでいったはずである。

 ハイデガーのばあい「ナチズム体験を経て,『存在と時間』は結局のところ途絶する。そのさい,ヘーゲルにとってのナポレオンに相当するものが,ハイデガーにとってのナチスだった」のである(100頁)。

 それでは,京都学派にとっては,その〈ナポレオン〉や〈ナチス〉に相当するものは,いったいなんであったのか? それは〈天皇〉であった。だから,植村『昭和の思想』もこういっていたのである。

 フランス人ナポレオンを「世界精神」と表象することのできたヘーゲルと,ヒトラーをラテン的世界の歪曲に抗してギリシア ‐ ドイツと続く存在へと思索を復興しうる民族の体現者とみなしたハイデガー --。

 それは,「近代」をあくまで達成されるべき課題とみなしていたヘーゲルと,「近代」をもはや克服の対象と考えていたハイデガー,その両者のあいだに横たわる差異でもある。

 そしてこれがまた,いわゆる「大東亜戦争」(アジア・太平洋戦争)下で日本の論壇において盛んに語られた「近代の超克」という問題と密接につながっている(102-103頁)。 

 以上のごとき論旨になっていたとすれば,植村和秀『昭和の思想』講談社,2010年11月に問わねばならない争点の浮上は避けえなくなる。

 そもかく植村和秀は,「西田と京都学派を,その構想において再評価すべき時が来たと,私は思います」と述べていたとはいえ,どだい,京都学派の彼らがいっていた「『大東亜戦争』(アジア・太平洋戦争)下,日本の論壇において盛んに語られた『近代の超克』という問題」は,なにひとつ解決も克服もなされていなかったどころか,ただ,問題そのものが放置・放擲されてきたのではなかったか。

鈴木大拙は日本「精神」を海外に紹介するのに
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 ハイデガー『存在と時間』の共同体論・民族論はナチ加担とむすびついていた。ハイデガーは1939年の時点で,自分の「歴史性」という概念こそがナチ加担の基礎にあったことを,けっして弁明的にではなく,むしろ積極的に認めていた(106頁)。

 そしてまた,こちらの京都学派の「近代の超克」という発想は,天皇・天皇制に基礎を置いた日本帝国の欲望を実現させるために営為された「哲学的な思想」であった。だが,この試図は大失敗した。それで済まされていた問題と思えない。

 3) 経営学者の「近代の超克」論

 たとえば,社会科学の一分野である経営学の領域において,前掲『中央公論』流の「近代の超克」論を戦時体制のなかで討究したのが,山本安次郎の「公社企業」論であった。経営学者であった山本安次郎は,戦争中に満洲国「建国大学」の教員として,結論的には完全に「歴史的な失態:歴史の読み違い」を犯していた。

 植村和秀がいうような,「あくまで『世代』とともに,『世代』の内部で,『共同体』の生起,『民族』の生活としてなされる『決意』」(107頁)が,山本の場合では「大東亜戦争の時期に〈固有の経営理論〉」の独創的な提唱となって,力強くつまり確信をもって立論されていた。

 それにもかかわらず,敗戦後になるといつのまにか,その核心の提唱はいったん消去されていた。この消去が意味する社会科学的な意味が奈辺にみいだせばいいのか,いちいち断わるまでもなく明白なことがらであった。

 山本安次郎『公社企業と現代經營學』(〔旧満洲国新京〕建國大学研究院, 昭和16年9月)は,こういっていた。

 すなわち,「大東亜といふ建設を思ふ」(66頁)のは,「大東亜の建設といふ合言葉」(54頁)のもと,「日本は日本精神即世界精神の自覚に於てかかる転換期の指導者として偉大なる世界史的使命を担って立つのである。 吾々は世界史の創造者として真にこれを担って立つ日本を自覚し,以て世界を転換せしめねばならない」(3頁)からだと,山本安次郎は自身の確信を披露していた。 

 経営学者である山本安次郎が提唱していたこの「経営学の現代的任務」とは,「世界史的転換期に於ける大東亜の建設,同時に世界新秩序の建設,これが東亜を担へる吾が日本の課題」(6頁)としてみいだせる,と定義されていた。その社会科学論としての立場からの提唱は,まさしく,戦時体制期において発信させられていた「西田哲学」および「京都学派の哲学」の思想に相当し,よく合致していた。

山本安次郎はシベリア抑留を体験していた


 さて,コリンズ『ハイデガーとナチス』は,以上のごとき学問が提唱されるさい「結局のところ」「ハイデガーは『民族』という表象を付与している」点に,とくに注意を喚起していた。しかも,これは「現存在が本来的な『民族性』と表象できるならば,そこに成立するものこそは,いわば『理想的』なナショナリズムの地空である」(コリンズ,前掲書,110頁,111頁)からだ,という理由を添えての発言であった。

 日本の経営学のばあい,その「現存在=本来的な『民族性』と表象でき」て,「そこに成立する『理想的』なナショナリズムの地空」とは,なんであったか。これは「明治維新」以降,帝国主義時代において創造されてきた天皇・天皇制の “それ” であった。

 ここでの問題は実は,大東亜戦争の「その後=敗戦後」になっても消滅させられずに,いうなれば,手を変え品を変えては,そのまま持続されていった事情にもみてとれる。

 4)ここでは,山本安次郎「経営学説」の「歴史的な淵源・国家全体主義の由来をしらずに語るなかれ」と叱責されても,なんらおかしくなかった浅薄な「経営学理論」理解を紹介しておきたい。

 経営学者山本安次郎は,その後も「戦時期の構想」に起源する経営「学説」をさらに解明していこうとした学者の立場からは,けっして離れることはなかった。その意味では,戦時期に提唱した〈前述のような自説〉を,撤回することもみなおすこともないまま,換言すれば節操もなにもないかたちで,それも静かに,かつひそやかに敗戦後に移行(潜行)していった。

 その種の学問の足跡に気づいた他者が,その種の学史的問題を看過するほうがおかしい。それでもつぎのように,戦後における山本安次郎の学問営為を評価する経営学がいた。以下に引用する段落のなかでは,この冒頭に出ていた文言「いずれにせよ」の用法は,理解に苦しむほかなかった。が,ともかくつぎの引用をしておく。

 いずれにせよ,わが国の経営学研究およびその学説史研究ほど,その位置づけが曖昧で誤解されてきた分野も少ないかもしれない。本稿ではドイツとアメリカの両方の経営学について検討するのではなく,主としてドイツの経営経済学を例にとりつつ,部分的にはアメリカとの比較も含みながら試みることとしたい。

 ……わが国経営学研究の状況に対する反省の問題意識がかつてなかったわけではない。たとえば,池内信行や山本安次郎なども強い問題(危機)意識を持っていたといえる。

 たとえば,戦前にアメリカとドイツに学んだ池内信行は,経営学の成立を近代(西洋)社会と近代(西洋)科学としながらも,それじたい体に「限界」があり,したがって「自覚された経営経済学史はいまのところ,まだうちだされていない」として,学問を生み出したその背後にある “精神” や “学問的エートス” が必要であると主張した。

 また,山本安次郎も欧米の経営学研究を渉猟し,いずれもが経営の研究ではないとして,経営の本質を本格的に研究する経営学を提唱した。山本は,
みずから述べているように,その基盤を西田哲学に求めている。両者ともに経営学の学としてのあり方を問うたという意味で,こうした学問の方法につ
いての問題意識は貴重なものといえよう。

 したがって,かつてのわが国の経営学研究においても,こうした科学のエートスの必要性を認識していた研究者達がいたことは留めておく必要がある 15

 以上のような議論の過程の中で,筆者はわが国における従来の経営学研究,とりわけ学説史研究についての整理の必要性を強く感じていた。上に
指摘したように,従来の日本の経営学研究はドイツ経営学とアメリカ経営学等の混在と,その研究方法の中にはそれらの「翻訳―紹介」的研究が多くみられていたことにより,そこでは経営学研究に関する誤解や曖昧さがみられたからである。

 註記)大平浩二「経営学説史の研究-科学史としての経営学説史研究の方法:エクスターナルアプローチ導入の試み-:」明治学院大学『経済研究』第159号,2020年,162頁)。

15(注記の番号)について大平浩二はさらに
以下の説明をくわえていた

 以下は山本安次郎自身の発言であったが,大平浩二が説明のために引用することになった文章になっていた。「昭和十五年以降西田哲学の本格的な研究を契機とするもので,それ以降の著書論文はすべてこの立場に貫かれている」。

 つまり,旧大日本帝国の敗戦という事実経過,そして中国東北に建国されていた「旧・満洲(帝)国」に設立された『建国大学』の教官となった山本安次郎は,「経営行為的主体存在論」という西田哲学風の経営本質論を,その地における官立大学を足場にして構想した。

 そしてその経営理論の基礎を貫く社会科学論は,戦前・戦中における「旧日帝のための経営学」を志向していた。山本安次郎の「満洲国」向けの戦時経営学は,戦争の時代における代表作,『公社企業と現代経営学』建國大学研究院,康徳8年9月(非売品)により,明晰に表白されていた。

 康徳とは満洲(帝)国の元号であり,その8年とは昭和16〔1941〕年であった。繰り返す。山本安次郎は「昭和15年」の「それ以降の著書論文はすべてこの立場に貫かれている」と,戦後も30年以上が経った時点で,あらためて明言していた。

 前段で登場させた大平浩二は,論稿をものにするにしても,画竜点睛を欠く文章をわざわざ書いて公表した。このような寸止めにもなりえない「中途半端,咀嚼不足,隔靴掻痒」になるような作文は,不要・無用であったというほかあるまい。


 ※-5 西田哲学への入門的初歩の課題

 ここではあえて,中学生向けに執筆された著作,櫻井 歓『西田幾多郎 世界のなかの私』朝文社,2010年新版が「西田哲学」を学ぶ者に対して,以下で引用するように解説・指摘していた点を,紹介しておきたい。

 本ブログの筆者は,経営学者山本安次郎に関しては,「こういう事実」を理解しえたつもりでいる。つまり,それは「自己や人生について問う人はみな,人類の歴史のなかのある時代を生きながら,そのことを問うてきたのだ」(10頁)といわれるごとき,その「存在論的な事実=歴史の時空的な展開模様」のことである。

 この事実をみずからは問わぬままに,ただひたすら「他者に向けてのみする説法」には,異常なまで熱心であった経営学者が山本安次郎であった。

 いうなれば,西田幾多郎にしても,「京都学派の哲学者」にしても,経営学者山本安次郎にしても「私たちはただ環境の影響を受けるだけではない。むしろ私たちは,環境に働き返していくものなのだ」(160頁)というべき厳然たる「歴史の経過」のなかで醸成されてきた「自己の経歴」の「累積的な発展の様子」は,消しさることができないで,これからも存在しつづけていく。

 その事実は,学究であるならば,自分が制作してきた論著が未来永劫に残されたことになる手順として,重々承知していたはずである。だから,本ブログ筆者がここでいわんとしている意味は,簡単に諒解してもらえる。

 本日のこの記述は,植村和秀『昭和の思想』講談社,2010年11月に決定的に欠落していた重大な論点を突きつけたつもりである。 すなわち,植村和秀が「西田と京都学派を,その構想において再評価すべき時が来たと,私は思います」といった立論は,

 歴史的な問題意識に疎遠である〈呑気な発想〉でなければ,なにかの勉強不足による〈うっかり発言〉ではないかと受けとめられるしかなかった。

 そうした構想,学的な発想じたいは,もとより「その評価のあり方じたいの意味」をめぐり,問われていたことになる。

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