旧大日本帝国が建国させた属国「満州国」の記憶,そこには満鉄という大鉄道会社があった
※-1 旧大日本帝国が戦前,中国東北部に満洲国(旧満洲帝国)というカイライ国家を造ったが,この属国を実質,植民地的に経営していくためにその脊柱となる鉄道網を構築し,これを管理・運営するために会社として満鉄,正式名を南満州鉄道株式会社という大会社を国策事業として創設させた
満鉄は単なる鉄道会社ではなく,国策会社として日本の中国東北部(満洲)経営の中心的機関のひとつであった。日本にとって満洲は対ロシア戦略上重要な地域であった。満鉄は一貫して大豆,石炭,鉄鉱石など資源開発にあたり,また張作霖政権とのあいだで新線敷設交渉にもあたった。
補注)この段落は,井村哲郎「〈読書〉加藤聖文『満鉄全史』」『日本経済新聞』2007年1月7日朝刊。
すなわち,戦前・戦中(敗戦まで),日本帝国の属国「満洲(帝)国」において,主要交通機関として大動脈の機能を果たしていたのが,南満洲鉄道株式会社(略称・満鉄)であった。その歴史的な事実と意味を思いおこし,いくらか議論をするための『小論』を立てることが,本日のこの記述の目的である。
「満洲国」は1932〔昭和7〕年3月1日に建国されていたが,満鉄はその前年に起こされた「満州事変」1931年9月18日にさいしては,即座に,鉄道会社の立場から軍事支援する方針を立て,全社態勢をもって組織的にその作戦に協力することになった。
『満鉄社員健闘録』全3篇,満鉄社員会,1933・1934・1936年という本が当時,制作・発行されていた。これらの本は,満鉄の社員たちが満州事変(昭和6年9月18日)の発生に応じて,全社的な態勢をととのえて,この事変(有事)に協力した〈詳細な記録〉を収集し,編成していた。
補注)この全3巻の本と類似する本がある。つぎの2著である。
城所英一編『鐡路鮮血史』満鐵社員會,1935年。
鷹巣清治著『支那事變大陸建設手記』滿鐵社員會,1941年。この本は,『満鉄社員健闘録』の第4篇となった。後段で関連する記述がある。
戦争事態において鉄道が兵站の機能を果たすことはいうまでもない。最近「プーチンのロシア」が起こしたウクライナ侵略戦争でも,鉄道の機能が兵站のためにいかほど重要であるかは,道路を介して自動車輸送に頼る方法に比較すれば,一目瞭然である。
要するに,満鉄という巨大会社は,明治時代から「中国東北地域」を侵略・支配してきた旧大日本帝国が,実質的に国策会社として設立した「特殊な鉄道会社」であった,満洲と指称したその地域を支配するための交通網を整備・運営し,旧大日本帝国の侵略主義路線を交通機構面から有機的に支援してきた。
※-2 「旧・満洲国」に生きてきた旧大日本帝国の臣民たちにとって「忘れたくとも忘れられない思い出」のひとつが「満鉄」の存在
1) 天野博之『満鉄を知るための十二章-歴史と組織・活動-』2009年3月
天野博之『満鉄を知るための十二章-歴史と組織・活動-』吉川弘文館,という著作が2009年3月20日に公刊されていた。本書は「誰も知らなかった満鉄の真実」を探り,「新資料でその全貌に迫る!」意図ともって制作されたと謳っていた。
さて満鉄とは,南満州鉄道株式会社(South Manchuria Railways Co.)の略名として広く使われてきた社名である。
この満鉄は,日露戦争(1904-1905年)直後の1906〔明治39〕年,満洲軍野戦鉄道提理部を母体に設立され,1945〔昭和20〕年日本の敗戦まで,中国東北(旧満洲,のちに「満洲(帝)国」)地域に立地,経営されてきた「半官半民の所有形態をまとう特殊会社」であった。
なお,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は「南満州鉄道」の項目の説明で,満鉄の本社は「大連から『満洲国』首都の新京〔現在の長春〕に移った」と記述している〔→「初め大連市,のちに新京特別市に本社が置かれ」と書いている。
以上は,以前:2009年3月31日になされていた記述であったので,本日:2023年3月21日あらためて確認してみたところ,上記ウィキペディアのなかからは該当する記述・段落はなくなっていた。実は,前段の〔以前の〕説明は間違いであった。新京には〈支社〉が置かれていたが,本社が大連に所在しつづけていたことに変りはなかった。
以下の画像資料も添えておく。
満鉄は,中国東北地域で鉄道事業を中心に広い分野にわたる事業を展開してきた。同社は,どこまでも旧大日本帝国の軍事力を政治的背景に,国家的見地より満洲植民経営を動脈網として支え,のちに「満洲事変」および日中戦争を起こす日本を,事業組織としての立場から国家とは一心同体的に〈現地で「後方(というよりも前面で)支援した経営体」〉であった。
満鉄はその意味で「日帝そのもののための国策会社」であるという特殊の性格を有していた。
明治以来の日本は東アジアを侵略していき,まず台湾・朝鮮を植民地として支配統治下に収めた。さらには,中国へその歩を進めて領土を拡張させていくための橋頭堡を確保しようと,日露戦争後には「中国東北:満洲地域」に侵出した〔当初は長春-大連間の鉄道施設・付属地の経営から始まる〕。つづいて,この満洲の地に「満洲国」を建国させて,これをソ連と対峙する軍事・兵站基地化すると同時に,中国侵略をさらに進展させるための足場にした。
2)天野『満鉄を知るための十二章』への若干,読後感
本書『満鉄を知るための十二章』に論述されている南満州鉄道株式会社の歴史や組織・活動は,端的にいうと「満鉄の表側のそれら」にしか触れていない。満鉄や満洲国関係の研究文献は,研究者や専門家が数多く公表してきている。現在までには,中国側の関連業績も日本語訳本になって公刊されてもいる。
著者の天野博之は,1935年に中国〔当時「満洲国」〕大連市で生まれ,1947年日本に移住し大学卒業後,小学館勤務を終えたのち,2004年から財団法人満鉄会理事(広報担当)になる,という〈主な経歴〉の持ち主である。
本書は,満鉄をしるうえで手ごろな格好の入門書である。その点に関していえば,この会社およびこれを囲む中国・満洲〔満洲国〕の歴史的事情は,ごく簡略に言及されるに止まる。この点は,本書の性格〔体裁・分量〕や執筆の意図に鑑みても当然と思われる。
しかし,19世紀末葉の日中関係を「事実史として描くこと」とは無縁であるかのように記述されている本書は,「かく輝きたりし」満鉄の「栄光史」にしか言及しえない筆致になっている。
天野『満鉄を知るための十二章』の「あとがきに代えて」にみられる記述を,つぎの文章中に引用しながら,あらためて本書の見地を考えてみたい。
満鉄そして満洲・満洲国の歴史は,当時において列車全部に空調〔全車両空気調節密閉式窓〕を装備した特急「『あじあに乗りて』」という体験においてだけでなく,日本帝国主義支配のもとで植民地経営をおこなってきた「国策会社:満鉄」も「記憶にとどめた」い(303頁)というのであれば,
いわば「生粋の満洲っ子」だった著者が敗戦後「引揚げてきた東京の有名住宅地の汲取り便所の不快感と冬の寒さには泣かされ」,「これは炭礦のあった〔満洲国〕撫順地区だけが許された特別な生活であったことを,あとにしった」(304頁)という経緯を,単なる旧懐的な回顧談に止まらせず,歴史的な展望を拡げられる視点を意識的に用意しつつ,より透徹させた立場から議論しなければならない。
3) 満鉄会編『満鉄四十年史』2007年から天野『満鉄を知るための十二章』2009年へ
財団法人満鉄会で理事を務める天野博之は,同会が編纂した『満鉄四十年史』財団法人満鉄会編,吉川弘文館,2007年11月,556頁+68頁 の第2部「資料編」(235頁以下)を作成・執筆している(天野『満鉄を知るための十二章』〔はじめに〕3頁)。
この『満鉄四十年史』の「本文編」を論述したのは,すでに『満鉄』岩波書店,1981年,増補版:日本評論社,2007年という著作を公刊している鉄道史専攻の原田勝正であった。この原田『満鉄』は,つぎのような解説を与えていた岩波新書である。
日露戦争後,ロシアから鉄道利権を引きついで設立された満鉄は,鉄道業を中心にさまざまな関連事業を一手に掌握して,中国東北部に一大王国を築き上げた.特急あじあに象徴されるように,「王道楽土」の夢をかきたてながら,一貫して日本の対中国侵略の拠点となった満鉄.この巨大企業の実態と,創立から解体までのドラマを描く。
いまから百年前に設立された巨大国家事業「満鉄」。満鉄の成立から衰亡の過程を,当時の史資料をもとに再構成し,増補版では新たに終戦以後の問題までを,政治・歴史的側面からつぶさに解説する。
そして,原田『満鉄』1981年の目次は,こう立てられていた。
さらに,財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』2007年の主要な「章」目次をのぞくと,つぎのとおりである。
そこで,天野『満鉄を知るための十二章』の目次も参照する。本書は『満鉄四十年史』を参照,活用して制作されている。
天野『満鉄を知るための十二章』は要するに,「近代日本のマンモス国策会社=満鉄」に関して「内部資料や社員の証言を多用し,事業や歴史のほか,これまで語られていない婦人社員・中国人社員・弘報・能率・二つの教育などを取り上げ,知られざる実像に迫る」著作であった。
※-3 天野『満鉄を知るための十二章』を批判する
天野博之『満鉄を知るための十二章-歴史と組織・活動-』(吉川弘文館,2009年)の執筆意図は,原田勝正『満鉄』(岩波書店,1981年)のように満洲・「満洲国」の「政治・歴史的側面」をつぶさに描写することにはなかったにせよ,
過去において「満洲国」=満鉄の庇護のなかで暮らしてきた執筆者として,その政治と歴史の裏幕を直視し〔え?〕ない〈満鉄の歴史〉を書いたとすれば,これで〈満鉄の正史〉そのものといえるかどうか,そのように万全を期せる著作でありえたか疑問が生じる。
鉄道産業経営史を専攻する原田勝正も,以下のごとき留意の必要に関しては,きっと賛同してくれると思うので,あえていわせてもらう。
最近は,社史を執筆する作業においては,あくまで史実に即して記録し,ありのまま記述・解説する制作姿勢が要求されている。たとえ,その会社にとってはあまりみたくもなく触れたくもない現実があっても,目をふさいだり封印したりせず,真正面からとりあげ論及する。これは,将来に向けてその文献的な価値も発揮しうる「社史作成」にとって,必須の学術的前提でもある。
ましてや,『満鉄四十年史』の資料編纂にかかわった人物が執筆者となって「満鉄物語」を,より客観的に徹して記述したいのであれば,この会社内外で起きた長も短も,利も不利も,明も暗も,正も邪も,そしてなによりも,旧日本帝国と満洲〔帝〕国を有機的に組織した特殊会社・国策会社,率先して帝国主義に不可避の不正義=侵略に加担してきたこの満鉄の歴史を〈ありのままに記述する〉ことは,不可欠の作法・留意すべき配慮である。
『朝日新聞』1982年2月8日朝刊「読書」に寄稿された,原田勝正『満鉄』1981年の書評は,昭和期の「満鉄は,国際的にも危機の焦点となったゆく」のであり,「この危機の打開に,政党にかわって主導権を握ったのが軍部であり,柳条溝の満鉄線爆破事件をきっかけに,日本は15年戦争に突入,その揚げ句,日本の満洲支配は崩壊するのである」と,最後の段落でまとめていた。
たとえば,蘇 崇民,山下睦男訳『満鉄史』葦書房,1999年の原著者序文は,こう記述している。むろん,中国人研究者の発言であった。
天野博之も,満洲国に居住していたとき,自分の環境が「特別な生活であったことを,あとにしった」と正直に告白していた。旧日本帝国が1945年8月まで,満鉄を経済的な手段に,そして満洲国を政治的な道具に使いながら中国東北地域で「侵略と略奪」を重ねていた。そのさい,日本帝国主義の「すべての活動」は「満鉄」によっても積極的に支持され,応援を受けていた。
原田『満鉄』は,満洲〔帝〕国のその本質を「事実上『第2の日本帝国』をつくっていく」(171頁)根元に求めていた。満鉄はまず「満洲」支配の主柱となり,そして「満洲国」運営の支柱ともなって,それら同源である「2つの帝国」を円滑に運営・進行させるための会社組織であった。
最近作の,加藤聖文『満鉄全史-「国策会社」の全貌-』講談社,2006年は,「日露戦争によって始まった日本の満洲進出は,満鉄に始まって満鉄に終わった」(129頁)ととらえたうえで,それだけに「日本の近代は」「満洲を抜きにしては語れない」(206頁)と指摘する。
しかも,中国「東北・満洲に対する過敏な中国とそれとは正反対の無自覚な日本というギャップこそが現在噴出している日中歴史問題の根底にあり,このギャップが存在することすら自覚されていないこと」も警告している。
ところが,天野『満鉄を知るための十二章』は,満洲・満洲国に関する歴史入門書である性格をもつにもかかわらず,加藤『満鉄全史』が注意深くも指摘する〈全史としての満鉄〉具体像を描くことを,意識してか無意識かは分からぬが,最初から回避している。
【参考記事】
すなわち,天野『満鉄を知るための十二章』は,満鉄の表面〔前面〕史としたい満鉄史はよく描いてはいるものの,裏面〔背面〕史としたい満鉄史にほとんど論及がない。
天野の同書が,全体の記述を均衡のとれた中身とするためには,有終の美を飾れなかったどころか,悲惨・醜悪な末期を迎えた《満鉄の姿容》も率直にとりあげ,その実態を,まともに記述すべきではなかったか?
天野『満鉄を知るための十二章』は,巻末の参考史料一覧に関連文献を枚挙している。なかでも,満鉄会編『満鐵社員終戰記録』財団法人満鉄会,平成8年は,敗戦を喫した「日本帝国:満洲〔帝〕国」の悲惨な終焉一幕を記録した書物である。
だが,城所英一・ほか編『満鐵社員健闘録 第1・2・3・4篇』満鐵社員会,昭和8・9・11・16年(冒頭の記述では3篇までを挙げていて,第4篇は別名の著作として説明してあった)や,「満洲事変四周年及殉職社員記念碑竣工記念出版 満鉄社員健闘録姉妹篇」として公表された『鉄路鮮血史』満鐵社員会,昭和10年などは,直接その書名を参考文献に挙げていない。
ただし,それらの本は,満鉄社員会『満鉄社員会叢書(全62冊,署名省略)』〔西暦19〕27年1月~43年9月)とまとめて記した一項のなかに収納させるかたちとしており,一覧のなかでその書名をいちいち記すことはせず,ひとまず伏せている。
前段の『満鐵社員健闘録』全4冊と『鉄路鮮血史』は,「満洲事変」および「支那事変」において,日本軍の使用する鉄道網=兵站路を確保・維持するために働く「国策会社の社員たち」が体験した戦闘行為などを,詳細に記録した書物である。
それに対して満鉄会編『満鐵社員終戰記録』は,敗戦後数年間〈現地の逆境〉において満鉄社員が体験させられた艱難辛苦での悪戦苦闘ぶりを,大勢に語らせ,記録した書物である。
いずれにせよ,『健闘録』と『鮮血史』はそのように,中国を侵略する日本軍に対して,満鉄社員があたかも戦闘員であるがごとく全面的に協力する姿を記録していた。
1935年生まれの天野博之は,1981年に中国を訪問したとき,満洲「撫順は天野さんのセンチメンタルジャーニーですね」といわれた(天野,〔あとがきに代えて〕305頁)と語っている。
しかし,その種になる地平の記述に終始するだけであって,ただみたいモノだけを視野に収めようとした〈満鉄入門書〉が『満鉄を知るための十二章』なのだとしたら,それではまさしく「鼎の軽重が問われる」「満洲体験」の語りとなる。
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