ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(4)
※-0「本稿(1)」のリンク先・住所のみ冒頭で案内しておきたい。
付記)冒頭に借りた池内信行の画像は関西学院大学ホームページから。
※-1 戦争に奉仕した事業経営「論」:「公社」論
山本安次郎『経営学研究方法論』(丸善,昭和50年)は,〔間違いなく小笠原よりもさきにだが〕「経営学にとり『経営』はアルファであり,オメガである」といい,「経営」の概念をこう説明していた。
「経営が本来的に『事業経営』であることを忘れ,単に経営一般として問題とし,『事業』を忘れてしまうのが従来の経営学であった。われわれは経営学の対象たる経営がまず『事業経営』であることを高調せねばならない」。
「経営は経営の身体としての経営組織,事業組織によって現実に商品を作り事業を営み,その作られたもの(商品)によって初めて経営となるのである。主体的とはこの意味で,行為的であり,生産的である」。
「この点について明確に態度を確立できたのは,昭和15年から16年にかけてのことである」。註記1)
そうだとすると,戦時体制期〔1937~1945年〕においてすでに山本が会得したという「事業経営」概念は,当時の時代背景のなかでどのように展開されていたのか。
山本安次郎『公社企業と現代経営学』(建国大学研究院,康徳8〔昭和16〕年9月)は,旧日本帝国のもとにおける社会科学としての経営学の任務を,こう高唱していた。
山本『公社企業と現代経営学』は,本文に入ると,こう唱えていた。
「現に,日本は日本精神即世界精神の自覚に於てかゝる転換期の指導者として偉大なる世界史的使命を担って立つのである。吾々は世界史の創造者として真にこれを担って立つ日本を自覚し,以て世界を転換せしめねばならない。しかし,世界の転換はアジアの転換に於て行はれねばならない。アジアの転換が同時に世界の転換を意味するのでなければならない」。
「経営学の現代的任務とは何か? ……今日の世界史的転換期に於ける大東亜の建設,同時に世界新秩序の建設,これが東亜を担へる吾が日本の課題に属するのであるが,この課題と国力,特に経済力との矛盾,こゝに危機が最も端的に現はれてゐる。
しかも,その危機は日に日に増大し,尖鋭化し,正に脅威的な形態さへとって迫ってゐる。勿論,危機はこれを克服せねばならない。だが,しかし,それは如何にして可能であるか? こゝに一切の問題が集中する」。
「要するに……現代的企業の形成理論従って経営理論の確立,これが経営学に課せられたる現代的任務であり,……その現代経営学は……公社経営論であり,根本的には,作田博士の謂はゆる『国民科学』に属すべきはいふをまたない」。
「現代的企業は計画経済的再生産の自覚的担当者といふことが出来る。いま,かゝる形態の企業を,作田博士に従って,『公社』と呼ぶならば,この公社こそ近代的企業形態に対する現代的企業形態の特質を最も鮮明に浮き上らすものである。公社は正に現代的企業そのものに外ならない」。註記3)
山本さらにいわく,「生の現実」,「大東亜の建設,世界新秩序の建設といふ世界史的課題」,「真に国民経済本然の姿」等々。註記4)
小笠原は,戦時体制期に山本が公表した著作『公社企業と現代経営学』の真意を理解できていない。山本学説において理論的に占める「公社」概念の歴史的源泉をしらずに,このことばを表相的に言及するのでは, 註記5)
まさしく「論語読みの論語しらず」になる。論語をもち出して孔子に怒られるならば,単に一知半解の,ひどく生半可な山本学説の解釈であったとのみ断わっておけばよい。
山本はまた,「私のかゝる問題を一気に解決に導いたものは作田先生の『公社問題』であ」るともいっていた。そうでもあるなら,作田荘一の著作も多少はひもとき参照しておくことも,研究者としては最低限必要な作業ではないかと思う。
ところが,小笠原『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』(文眞堂,2004年)はただ一箇所で,山本の記述を引用するなかで間接的に,作田の『経済の道』に触れるにとどまっていた。
作田荘一『経済の道』(弘文堂書房,昭和16年4月30日〔同年5月10日にはもう3刷を重ねていた著作〕)は,「公社の創設」という章を収め,同書の最後章は「皇国経済の道」と題していた。作田荘一には,『皇国の進路』(弘文堂書房, 昭和19年4月)という著書もあった。
作田荘一が「公社」概念を提唱したのは,旧日本帝国の属国:カイライ国家「満洲国」経営〔統治・支配〕のためだった。作田は,満州「建国大学」で,創立以来しばらく,副総長を務めていた。同大学の副総長の地位は,中国人(当時は「満人」といわれた)の総長を差しおき,実質的な最高責任者を意味した。
作田荘一『満洲建国の原理及び本質』(建国大学研究院現代学教本第2篇,満洲冨山房,康徳11〔昭和19〕年4月)は,こう主張していた。
「惟神の道」! 第2次世界大戦:太平洋戦争の結着がすでにみとおせたこの時期になってもまだ,祝詞(のりと)のように神がかり的な強がりを発散させていた,それも「当時の日本」を代表する社会科学者作田荘一がいたのである。
文中で「現代国家たる労働国家群」とは,いわゆる「持たざる国」の日本自身を,そして「近世国家たる資源国家群」とは,いわゆる「持てる国」の英米などの当時日本の敵国,ならびにこの日本も含めた国々を指していた。
しかも,欧米=「近世」,日本=「現代」というぐあいに時代区分したかったごときに,彼我の特徴を弁別しようとしたところは,それこそ時代錯誤の牽強付会であった。いまさらあえていうまでもなく,当時干戈を交えていた日本と欧米諸国の「経済力ならびに精神力の統合力」は,事実に即して判断すれば,実際のところは,その「逆の力関係」にあった。
山本『公社企業と現代経営学』(1941:昭和16:康徳8年)も,「現代」という語を経営学のまえに付して盛んに使っていた。第2次世界大戦で「現代」性を欠き,前近代的ともいうべき「近世」的魔術で国民を鼓舞しつつ,「日本神州論」「大和魂」などの精神力一辺倒で戦いぬこうとしたのは,いったいどこの国であったのか。
大東亜〔太平洋〕戦争の時代,日本の総理大臣を務めた東條英機は,英米との戦争にまで進展したその戦いに「勝てるのか」と問われ,「日本には大和魂があるから敗れない」と,大真面目に答えた。
しかしながらその答えは,戦いに挑む兵士が「戦意(モラール)が高いとか低いとか」「日本の物量,わが国においては兵器・武器が大量・豊富に準備・充実されている」とかいった問題,
換言すれば,戦争そのものを一国の立場からいかほどまで実力として蓄えたうえで,戦い抜くための生産力を確保できるかといった現実的な問題は,東條英機の頭のなかにあったとしても,片隅に押しやられていた。
実際の話,戦時体制期の経営学者たちも実は,東條と同じような知的水準でものをいっていた「節」が多分にあった。もっとも,それが本心かどうかに関しては,やや判断しかねる彼らもいなかったわけではない。
けれども,全般的な問題の性質としてはなにせ,精神的な内面に関したことがらでもあったゆえ,その戦時的な真義を彼らの心理的な根柢までをのぞきこむ分析作業を試みるにしても,相当の困難がともなっていた。
【参考文献】-【参考文献の紹介:アマゾン通販】を借りて紹介するが,以下の書物はアメリカ側で公表された重要な文献である-
さて,作田荘一の「経済の道」「公社」という概念に倣い,「経営の道」の政策的な実現を「公社」に求め,これにおいて「企業本然」を原理的に表現しようとしたのが,山本『公社企業と現代経営学』(康徳8:昭和16年9月)の基本的な理論の構想であった。
山本『経営学研究方法論』(昭和50年)は,注記のなかでこう語っていた。
満州建国大学で山本の同僚だった村井藤十郎は,『公社法論』(建国大学研究院,康徳7〔昭和15〕年8月)なる著作を,さきに公表していた。
村井は,「現代国家が経営国家となること,並びに現代国家経済が資本主義的弊害の徹底的なる除去にすゝみつゝあることは,最早や世界史的必然とも称す」註記8)べき時代状況を,こう説明していた。
ちなみに,前出の平井泰太郎は戦時体制期に,村井藤十郎の「現代国家が経営国家となること」という概念に相当する提唱を,「経営国家学」の構想にしめしたことも,ここでは付記しておく価値がある。註記10)
ともかく,当時の「現代史的動向」のなかで「歴史的当為」だった国:「満州国」は,いまや幻の国となった。当然,山本の提唱した公社企業「概念」も砂上の楼閣となり,絵空事に終わった。
その事実は,山本の表現を借りれば,「経営学を世界的視野から典型的に考え,これを凝集的に見」た 註記11)ものとされたところで,その結末であった事実に変わりはない。
あるいは,「わが国の経営学界の世界史的使命と考えざるを得ない」と過信されたあげく,「著者〔山本にとって〕不動の見地が確立できたと思う」「方法論的研究の総決算的体系化を試みたもの」註記12)の顛末でもあった。
すなわち,ゴットルのいうように,「国民経済の枠内にある無数の構成体はすべて国民経済と結びついて栄枯盛衰をともにする」 註記13) かたちでもって,「世界史的使命」であり「不動の見地」だと盲信された「戦時期:山本学説」の満州国経済・経営「公社論」も,結局は滅亡したのである。
くわえて,「戦後期における山本」は,「私見によれば,むしろ社会主義経済こそ経営学の沃野であり,その将来性を期待せしめるものというべきであろう」註記14)と予測した。だが,いまでは,この結論も指摘する必要がないほどに,明白な謬見であった。
さらに,山本のつぎの主張は,小笠原にもぜひとも答えてもらいたい論点である。
筆者は,こうした山本の記述に接し,深甚なる疑問を抱くほかなかった。山本の理論構想は,世界各国に現象する経営現実をなにもかも,自説を実証するための材料と解釈できていた,まるで手品であった。学問の世界にそのようにまで便利な理論装置があるなら,筆者もぜひとも入手したい。だが,筆者は「学問に王道なし」という格言を尊重・支持する。
とりわけ,山本『経営管理論』(有斐閣,昭和29年初版)は,きわめて不可解な論及を披露していた。
山本は同書「序」で,「各種の経営管理研究の基礎理論として経営管理論の試みであ」り,「いわば経営の管理論的考察の原理的解明である」「本書は経営学的に純粋な経営管理論への試みである」と断わったあと,つぎのようにも自説を説明した。
筆者は,すでになんども分析・批判した中身なのでもう繰りかえしたくないのだが,再び言及しておく。
山本のそのような「戦後における主張」は,「戦時体制期の終焉」とともに自説が破綻した「事実:理論的な欠点ないしは蹉跌」には目をふさぐものであった。すなわち,自身にとっては「都合の悪い歴史的展開」を無視したまま,持論の「高度に抽象的な妥当性」のみを,ひたすら反復・再論・高唱するという「反学術的・没理論的・無自覚的な態度」を充満させていた。
山本は,自著『公社企業と現代経営学』昭和16〔康徳8年〕9月を,戦後にも誇れる著作だと力説していた。これは大問題である。この著作の中身は,戦時的性格,いいかえれば旧日本帝国の東アジア諸国侵略を正当視し,大いに昂揚する観点・立場で,経営学の研究をおこなっていた。
要するに山本の同書は,好戦的性格をもっていた,といいなおして語弊はない。その基本的な「要素」「側面」「資質」は,戦後になってどのようにして,同書から分離させ脱色することができいたのか。
同書はまた,敗戦後に民主化された日本政治経済にも通用する中身を有するとまで揚言してもいたが,この点は摩訶不思議というか,そこまで論断しえた自信のほどは,異様なまで「歴史の事実」を軽んじるどころか,みずから寸断したと,他者には受けとられて当然であった。
それでもなお,山本『経営管理論』「序」は,「恐らく何人もこの行為的主体存在論の立場に帰着せざるを得ない」,「生の根源から存在論的に究明しなければならない」などと自信をこめて再言していた。註記17)
ここまで山本が過信的に自説を強調するのを聞いた筆者は,もはや耳を塞ぎたくなるほどであった。
「本稿」の前編記述中で指摘したとおり,たとえば佐々木恒男は2000~2001年に,山本の「経営学の立場:経営行為的主体存在論」を,「事実上無理であるし,意味もない」と全面的に排除した。筆者は同じことを,佐々木のその発言よりも四半世紀以前から,集中的に議論をおこない指摘・批判してきた。
日本の経営学者には,社会主義経営学を専攻する者もいた。その1人である大島國雄は,ソ連邦の崩壊が近づいたころに公刊した著作『社会主義経営学』(1989年8月)のなかで,こういっていた。参考までにいえば,ドイツでベルリンの壁がなくなったのは1989年11月9日であり,ソ連邦が正式に消滅したのは1991年12月21日であった。
この大島の発言をどう解釈するかはさておき,山本の経営学説:「経営行為的主体存在論」のほうは,過去に2度,理論上の過誤を犯した。
ひとつは,敗戦を機に生じた出来事で,「満州国企業経営の崩壊・消滅,公社の出現」を,理論的に予測することはしたけれども,政策(論)的に実現することはできなかったことである。
ふたつは,1989年を境に余儀なくされたことになる「社会主義経営学の未来」を,完全にみあやまったことである。
どんなに優秀・卓抜な経営学者であっても神ではなく,ただの人である。過誤を犯さないという保証もむろんない。これは当然であり必然でもありうることである。
しかし,ともかくそれはそれだとして,事後になってから問題の関心事は,その過誤を過誤として,認知,反省し,克服する努力を,それもどのように試みてきたかという事象:次元に移る。
小笠原は,『経営哲学研究序説』第Ⅲ部「経営実践」第12章「経営戦略と事業-事業使命論の原理-」第3節「事業経営と〈社会〉主義経営」の冒頭で,
「現代経営は『企業経営』から『事業経営』へと新たに転回すべきである。かつて山本安次郎が『企業経営から事業経営へ』と述べ,さらに『会社から公社へ』と主張したのも,以下に〔小笠原が〕述べる内容とほぼ軌を一にするベクトル上にあったと理解できる」と記述していた。
しかしながら,山本学説の歴史的源泉をしらずにそのように信奉したかのごときであった,それでいながらなお,その衣鉢を継ぐと告白した小笠原『経営哲学研究序説』の基本構想は,徹底的に解剖され,批判されねばならない必然的な宿命を,その学理的な構想段階からして背負いこんできたわけである。
山本安次郎が敗戦前に,たいそうな自信を込めて提唱した「満州国における公社」概念は,その自信のほどがどこのなにに由来する理論であったのかという問題意識を充てて,いまとなっては(21世紀も第1四半期が終わった時期であれば),より厳格に徹底的な分析・批判をほどこされるべき,かつての「理論構想」であった。
※-2 学問の姿勢-ゴットルと山本学説の共通的性格:戦時性
小笠原は『経営哲学研究序説』2004年を上梓するに当たり,山本安次郎の「経営行為的主体存在論」(1941年には論著に公表された)に依拠しつつ,ゴットルの主張などを「経営生活論」に読みかえ,「経営哲学理論」を構想したのである。
本稿の検討は,意外と単純な結論に到達した。
小笠原の見解を批判し解体するためにはまず,山本安次郎の経営学説を衣鉢にして継ぐと宣言したその立場を検討し,つぎに,ゴットルの経済生活論を経営生活論に読みかえた,その「経営哲学理論」を分析すればよいことになった。
以下に,ゴットル経済科学「論」の要点を復習しておきたい。
a)「経済とは欲求と調達との持続的調和といふ精神においての人間共同生活の構成である」。
企業は「要するにたゞ民族経済のための営利的な欲求調達の巨大な装置といふ意味しかもたない」。「そこで経営は,存立し得んがためには,無条件に,より包括的な統一体に編入されざるを得ないのである」。
「共同生活の生の現実態として確固として存する」ためには「構成体がより良く構成され」,「経済への構成は……民族経済の正しい構成が決定的なものであり,したがってそのすべての在内構成体の生活力(Lebenswucht)は,民族経済がその正しい構成によって生活力を増進する限りにおいてのみ意味をもつ」。註記19)
b)「すべての事物におけると同じく,技術的進歩の操縦においても窮極の決定権が営利経済に認められることはもはや許されないのであって,それはむしろ国民経済そのものの要請に,窮極においては国民の生活上の必要に,属すべきものである」。
「すなはち国民協同体の生活力を増進するものは端的に生活上正しいものとして妥当することが出来る。構成体論的思惟が生活の現実から得る認識はここにその頂点に達する」。註記20)
c)「企業及び市場の如き欲求充足の機関が如何に目立ち,如何に人々の注意を惹こうとも,これをば今日の経済生活の中核と見做したり,或ひは一般には何時でもさうであるように,これをば『経済』そのものですらあるかの如く云ふのは決して当を得てゐない」。註記21)
d)「吾々は現実の生を正しく観なければならぬ」。「企業の全体は国民経済のための欲求調達の巨大な装置の中核を形成するものである。此の装置が経済生活の中に組み込まれてゐることは,今日の経済生活の最も大きな特徴である。然し我々は此の装置に目を奪はれて,営利生活を経済生活と考へてはならない」。註記22)
なかんずく,小笠原『経営哲学研究序説』は,戦時期〔戦争の時代〕にもてはやされたゴットル経済科学論に強く共鳴しつつも,しかし,敗戦後になってみれば,戦時期における「カイライ満州国の経営生活の実相」がすでに一挙に空相と化した,「山本学説の核心」に依拠したはずの「生活学としての経営学」論であった。
小笠原の同書は,その意欲的な立論構想にもかかわらず,社会科学的な問題設定に関してボタンのかけちがいがあった。なによりも,ゴットルや山本の学問思想に固有の「かつての戦責問題」については,完全に無知・無縁なまま議論を始めていたとなれば,あれこれとあちこちでギクシャクとして不協和音を発するほかない「理論の源泉」を,背景にかかえる顛末になっていた。
山本学説を過大に評価した小笠原は,つまるところ,その「亜流」学者にすらなれなかった。ただ,その「縮小再生産」を営為する1人の経営学者となった。だからなによりも,ゴットル経済科学論から借りた「経済生活論」から山本安次郎風の「経営生活論」にまで解脱しえたかのように「構想したつもり」であった。
すなわち,小笠原英司のその自説は,「ゴットルの『生活』はあくまでも経済生活であって,われわれの経営生活と同義ではない」と断わっていたとはいえ,「ゴットルの共同生活論がわれわれの経営生活論に対して,その先駆的学説であることは明らかであろう」 註記23)とまで論断していたはずであった「論理の運び」が,
『経営哲学研究序説』2004年における非常に重要な概念を基本的に構築するさいにもちいられていたにもかかわらず,その後,というのは,筆者が「本論文」をもって小笠原に向けて「このような批判的な見地」を提示して以来,そのゴットル経済科学論「経済生活論」の部分は,いっさいがっさい放擲したかとみまがう経緯が観取できていた。
ところで,山本安次郎に師事したり,彼の理論的構想を継承しようとしたりした次世代の経営学者が,小笠原以外にもいなかったわけではない。しかし,筆者のみるかぎり,山本学説が次代に残した〔と山本自身が説く〕課題を超克し,一歩前進させ,一定の研究成果をあげえた後進はいない。
この評定は本来,山本学説の本質に帰因するものであった。筆者のこのような指摘が誤りだと反論できる関係者がいるなら,ぜひとも批判を返し,議論してほしい。
※-3 ゴットル理論の過度抽象性
中村常次郎『ドイツ経営経済学』(東京大学出版会,1983年)は,第3編「経営経済学の規範化の進展」第3章「規範的・全体主義的経営経済学-ハインリッヒ・ニックリッシュの変貌-」で,ゴットル経済科学論にも妥当する鋭利な批判を提示していた。
a)「超歴史的な理論性格」 ニックリッシュは,「経営経済学の対象を欲望充足経済と規定し,企業を独立の派生的経営としてこれを経営を包摂せしめた」。そのために「資本主義的企業の本質は,一切の歴史的・具体的規定を脱落して抽象的・超歴史的な欲望充足経済として規定された」。
「彼が最も一般的・抽象的な問題を分析しながら,それに具体化の手続を付加することなく,直ちに最も特殊的・具体的な諸現象の解明にその論議をそのまま適用しようとする態度を示し,当時の民主主義的・共同体的な企業の外貌を本質的要素として一方的に高揚せしめ,他の諸条件および諸要素を度外視してこれを永久的な本質であるかのごとくに強調した」。註記24)
中村がここで「当時」といったころのドイツは,ナチスが政権をにぎる寸前の時期であった。中村はつづいて,こうも論及する。
b)「認識対象の普遍的永久性」 ニックリッシュの「認識対象の拡大化を通じての抽象化ないし普遍化に」「よって経営経済学そのものの歴史性の希薄化がもたらされた」。
「その抽象性と普遍性との故に」「経営はまさしく一つの永久的範疇として問題とされており」,「企業はいうにおよばず家計経済その他のおよそ一切の経済単位の中に認められるごときものとなる」。
「全体-肢体関係を中心とする」「経営の肢体的編成または肢体的組織の構造がそのものとして社会有機体説に連な」り,「普遍主義=全体主義の理論構成たり得る性格を有していた」。
「そのような問題からのみする限り,むしろ問題は理念的意味を濃厚に帯びることになり,かくては普遍的抽象化の問題を超経験的にして規範的な性格をもつ理論の形成に直接的に結びつけることなる」。
「新たなる理論的意図は」,「経営経済の全体主義的構想を企てようとするにあったかごとくである」。註記25)
中村はその間に,池内信行『経営経済学序説』(森山書店,昭和15年)の第2篇『経営経済学の認識対象』〔全3分冊の第2分冊として昭和14年に刊行〕を批判する註記を挿入し,「ニックリッシュ経営経済学の構想がナチス企業観と多くの点に相通じる」といった池内自身の記述も引用していた。そしてさらに,こうも批判した。
c)「正しい経営・経済論」 ニックリッシュの「経営経済学の課題」は,「根本的な価値規準の設定による正しい経営のあり方,さらに進んでは正しい経済のあり方」という点においてその「規範的な性格」をみいだせる。
そこでは,「規範科学的態度と有機体説的方法とからして,正しく,かつ調和的な経済社会が当為的価値として構想され,これと資本主義経済社会の存在価値とが一致することによって,現実在の正当性が挙証さるべきことが要請されていた」。註記26)
d)「時局適合性と規範性」 ニックリッシュは結局,当時「社会民主主義の衰退とともに漸く抬頭しつつあった全体主義的思潮に通じる価値規準の設定により,正しい経営のあり方,さらに進んでは正しい経済のあり方を教示しようとしていた」。
しかし「その基礎づけはあくまでも超歴史的な人間の本性に根差す良心の法則から与えられるものとなし,またその関係の究明をもって経営経済学の課題をなすものとしていた」。
「かくして,彼の経営経済学は,その抽象性のために,一見,理論科学としての外貌をもってはいたが,その実質においてはかえって極めて高度の時局適合性と規範性とをもつものとなっていた」。註記27)
ところで,池内信行の弟子であった吉田和夫は,『経営学大綱』(同文舘,昭和60年)をもって,経営学という学問の性格を,こう規定していた。
この発言は,日本の経営学界でいままで蓄積されてきた関連の業績を,十全に顧慮したものではなかった。註記29)。
吉田は,「斯学界の全貌」を歴史的に十分観察しえたうえで,その見解を提示したのではない。その意味でいえば,「今後の検討課題がある」という表現は,なお不適切な要素を抱えていたままであった。
吉田は,統一的な基礎理論にもとづく「体系思考」(Systemgedanke)があるかないかによって,「純粋科学としての企業経済学」と「応用科学としての企業経済学」とを厳密に区別したいと述べた。
そのうえで,ニックリッシュ経営経済理論のばあい,主観的な認識構成説の立場に立ちながらも,国民経済学と私経済学,あるいは私経済学と私経済政策との論理的区別がまったく不明確だったと述べ,その問題点を批判した。註記30)
吉田はさらに,『グーテンベルク経営経済学の研究』(法律文化社,1962年)で,「転換期の理論」であったニックリッシュの理論は,「従来の生活外観的な理論と異なって,とにかく主体的な,形成的な面を生かしたという点において高く評価されねばならないが,しかしそれが結局,全体主義に身をゆだねざるをえなかったという点においては,するどく非難されねばならない」と,その政治経済思想に関する問題性を批判した。註記31)
前段においても中村常次郎が,ニックリッシュの理論が「全体主義の理論構成たり得る性格を有していたこと」を批判していたが,吉田のニックリッシュに対する批判も同旨であった。ニックリッシュへの批判はこれまた,ゴットルへの批判でもあった。
池内信行自身も,「ニックリッシュの欲求充当説は,……ゴットルの思考と相通じるものをもっている」,「この意味からいってナチス的というよりはむしろファシズムのものだ」,と解説していた。註記32)
※-4 吉田和夫『ゴットル-生活としての経済-』2004年12月
ところで,21世紀の現段階になって吉田和夫は,『ゴットル-生活としての経済-』(同文舘,2004年12月)を刊行した。彼は,「実は,この家庭と国家という社会的構成体に真に経済なるものが見出されると主張するところに,ゴットルの核心がある」註記33)といってのけ,以前の論調とは根本的に矛盾するほかない見解を披露した。
吉田は先述のように,ゴットルの理論がナチス国家社会主義思想に対して役だったと述べていながら同時に,「総じてゴットルの理論はこの時代の経済理論やナチスの経済政策にことさらに影響を与えたものではなかったといわれている」とも断わっており 註記34),前後する論及において不可解,一貫しない記述をおこなっている。
要するに,2004年の吉田『ゴットル』は,こう主張した。
a)「21世紀の経済思想」 「ゴットルの思考は,21世紀に生きる思想として意義をもつのではなかろうか」。「21世紀をむかえて,ほんとうに平和な,落ち着いた,各人の個性を発揮できる社会の到来が望まれている今日,いまや共同体性の深化を問うゴットルの経済観が改めて見直されてよいのではなかろうか」。
「いまや新たな世紀を迎え,とくに人間と環境の危機を背景に改めて経済と技術の問題が問われんとしている今日,われわれの進むべき方向についてこのゴットルから何かを学び取ることができるのではなかろうか」。註記35)
b)「時代が要求する学問」 ゴットルの「よさ」は,「いまや持続可能な社会〔sustainable society〕が真剣に問われている今日」,「いまや世の中は,欲求充足にまつわる行為のみが経済であるという見方で覆われている。人間問題や環境問題が台頭し,われわれの将来への不安が募る一方である。この際,ゴットルではないが,根本的に経済なるものの本質に目を向け,改めて経済の原点から出発することが必要である。経済とは秩序であるという言葉の意義は余りにも深い」。註記36)
c)「新たな認識」 「われわれの経済学はいままでその学問的建設をめぐってマルクスに学び,ウェーバーに学んできた。そのマルクスからは主として資本の論理を,そしてウェーバーからは主として組織の論理を学んできた。いまやわれわれはゴットルから生活の論理を学ぶ必要がある。幸いわれわれの先駆者たちはたとえ,ファシズム期にあったとしても,ゴットルに学び,ゴットルに求めるというゴットルへの研究の道を開かれてきた。いまやこの道を新たな認識でもって進める必要がある」。
「最も根源的な人間共同生活の構成という人間の問題になぜ思いをいたさざるをえなかったかというゴットルの基本的な問題意識をいまや改めて今日的な問題として理解する必要がある。ここに新たなゴットルへの取り組みがある」。註記37)
d)「永遠の経済:生活の論理」 「企業中心の経済から生活中心の経済への転換である」。「基本的には,われわれの生活の営みにおいて常に行なわれてきた『欲求と充足との持続的調和』という経済的配慮を改めて認識することを意味する。この経済的配慮それ自体は永遠なるもの,いいかえれば『永遠の経済』なるものであって,それを貫く論理が『生活の論理』なのである」。註記38)
e)「存在論的価値判断」 それでは,「ゴットルは,真の経済なるもの,すなわち,欲求と充足との持続的調和の精神の下,人間共同生活を構成するという構成そのもの」を,どのように構成するというのか。「この正しさをめぐる存在の在り方についての判断が,構成体の生活力を促進し,構成体の持続と存立をますます高めることになる。まさしく,存在そのものが当為を求めるのである」。
そして,「この存在論的価値判断が可能となるためには,まず経済を,人間共同生活の『経済への構成』として把握しなければならないということ,さらには『理解』という認識方法によって,生の現実への特殊な通路を形成しなければならないということ,この2つの前提が必要となる」。
「とはいえ,実際,個々にわたって存在論的価値判断を下すことはきわめて難しい。しかし,だからといって直ちに,学問的認識としてこの判断を否定することは行き過ぎであろう。構成体の生活力を促進するという存在の在り方についての判断は存在論的には十分認められるところであろう」。註記39)
結局,吉田の「ゴットル経済科学論」も,「存在論的価値判断」という難関に逢着した。この哲学・形而上的な価値判断問題の困難さは,戦時体制期において経営経済学の「存在論的究明」をあらためて構想した「師の池内信行」が,ファシズム期における侵略戦争に率先協力する「経営経済理論」を垂範し,破綻させていたことからも,明白なことである。
吉田『ゴットル』は,池内の『経営経済学の基本問題』(理想社,昭和17年9月)は本文でとりあげ参考文献にも挙げているが,『経営経済学序説』(森山書店,昭和15年7月)には触れていない。
この『経営経済学序説』は,戦時国家全体主義に職域奉公する基調理論を,池内が声高に提唱する著作であった。吉田和夫が池内信行のこの戦時作をしらないわけはない。
前出,吉田和夫『経営学大綱』(昭和60年)の巻末「経営学文献考」の「戦前のわが国経営学」にも,戦時体制期における池内の文献,『経営経済学序説』および『経営経済学の基本問題』は出ておらず,その代わりのつもりか,『経営経済学論考』(東洋出版社,昭和10年)だけをかかげていた。
吉田はまた,「池内先生の戦後の代表作」『経営経済学総論』(森山書店,昭和28年)の「経済本質観は」「依然ゴットルであった」と説明するが,この著作は実は,池内の理論的を特質をそれほど反映していない。
池内の同書はむしろ,経営学「概論」風の性格が強い。それよりも,戦時中の著作『経営経済学序説』(昭和15年)および『経営経済学の基本問題』(昭和17年)こそ,ゴットル的な〔くわえてハイデガー的ともいっていいが〕特質を,深く湛えていたのである。
つまり吉田は,恩師である池内信行の『経営経済学序説』(昭和15年)のような,「戦時体制:戦争の時代の雰囲気を強烈に臭わした著作はその所在を表記したくなかった」と推測するほかなかった。
なぜか。筆者はあえて,こうたくましく推測する。
池内研究室に所属していた時期の吉田は,マルクスやウェーバーの研究に傾いて,ゴットルに目を向けなかったにもかかわらず,池内はそれを自由にしてくれたというが,註記40)
しかし,そのことにこそ関連させうるような,なにか特別な事情があったのではないか。戦時体制期→敗戦へと日本の時代が推移するなかで池内信行が感得した《なにもの》かが,そこに介在していたのではないか。
※-5 補述-池内信行と吉田和夫-
吉田和夫『ドイツ合理化運動論-ドイツ独占資本とワイマル体制-』(ミネルヴァ書房,1976年)は,以上までの議論に関連するつぎの記述を与えていた。
戦前の私経済的収益性と共同経済的生産性との矛盾の問題は,今日でも重要と思われるが,これは体制の問題をぬきにしては解明できない。
さらに決定的なことは,戦後の経営経済学が極端にいって,かかる体制の問題を無視したために,経営経済学の対象を,歴史的に生成した,意味もった現実としてではなく,まったく認識する人間に依存しない,中立的な,意味をもたない現実とみなしたことである。
この認識では,経営経済学はついに,社会科学でもっとも重要な生きた人間の姿を把握することはできない。経営経済学の対象がけっして中性的な分野ではなく,その対象たる「社会的現実は,歴史的に生成した利害・権力・価値・意識・伝達構造でもって貫かれている」(Hundt und Liebau)ことをしらねばならない。
そのように歴史主義的思考がまったく欠けているために,今日の経営経済学の中心とも思われる「家計と企業」の問題(公害・高物価などによる家計の破壊)を,ついに戦後の経営経済学は正しく企業と国民経済との矛盾の問題として把握することはできなかった。
こういって吉田は,「経営経済学がどのような方向に進むとしても,ここに,歴史主義的思考の復活を強く主張したい」と主張していた。註記41)
--以上の論及は,本文で考察した吉田和夫の経営経済学「観」の〈幅〉というか,そのなかでの〈揺らぎ〉を,如実に表現したものであった。「歴史主義的思考」の,いうなれば「双面性」が問題となる。
歴史主義的思考を徹底させるといわれた点に反して,吉田流に指摘された「企業と国民経済との矛盾の問題」は,歴史通貫的な,いいかえれば体制無関連的な要素を強調するあまり,「歴史主義的思考」そのものを軽視しかねない傾向をもっていた。
なぜならば,国民経済との関連における企業存在の問題は,資本主義経済体制の時代にこそ登場した研究対象であり,そこに介在する「家計」の問題をテコにして,資本主義段階の時代特質から突きぬけるごとき「普遍的・抽象的」な「歴史主義的思考」を強調するのであれば,近現代的な社会科学としての経営経済学の基本性格をないがしろにした,と批難されるのは必定であった。
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【断わり】 「本稿(4)」の続編「(5)」できしだい,ここにそのリンク・先住所を指示する予定。
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★ 上から3冊は吉田和夫の著作である。