関東大震災「問題」を再考する(1)
※-1 前 論
「本稿」は全3編からなる構成の第1編としての記述である。「関東大震災問題を再考する(1)-関東大震災時虐殺事件裁判余録など-」と題して論及する。
また,この「本稿(1)」の初出は2009年9月3日,更新 2021年8月29日,そして,本日2023年8月29日に改訂作業をくわえて,再掲することにした。
ちょうど1世紀前の1923年9月1日「関東大震災直後に起きた虐殺事件」は,朝鮮人などをどのようにして殺していたところで,たいした罪にはならなかったのは,いったいどうした時代的な背景・事情があったからなのか?
なお,ここでは,甘粕正彦がその時に乗じて殺したとされるアナキストの大杉 栄らの事件には,つぎの事実のみ触れておく。後段の記述内容とも関連する含意をもつとだけ断わっておきたい。
--関東大震災直後,庶民(帝国臣民)たちは,当時日本に居た植民地・朝鮮人の人びとを「殴って殺すも突いて殺すも同じ」だったという恐ろしい状況を,みずから創りあげていた。
しかも事後,当該の庶民たちは裁判にかけられたけれども,この「殺人者の裁判において展開された『審理における珍問答』に笑いの渦」が巻き起こっていたりもしたしだいで,「法廷における珍事ならぬ異常」をなんとも思っていなかった「帝国時代における〈神国的な精神〉の狂気ぶり」には,度しがたい異常心理=社会病理が発揚されてい。
この記述は100年前,つまり,その1923年9月1日発生した関東大震災の渦中において,当時日本に8万人ほど居住していた朝鮮人たちが「毒を井戸に投入したり」「徒党を組んで凶悪な犯行におよんでいる」という,それも国家・体制側が提供していた官製の流言蜚語のために,帝国臣民が在郷軍人たちが中核になり,その同じ被災者であった朝鮮人たちなどを,いいように思う存分に突いたり,切ったり,刺したりして殺してきた記録が残されている。
そうした大正後期におけるに対する天変地異を契機にして群集心理的に異民族を殺しまくるといった,けっして狂気でもないかたちで突発していた集団殺人行為は,官製のデマを直接の原因にしていただけでなく,帝国臣民の精神心理のなかにも,それにたやすく応じる時代環境があった。
※-2 現在,東京都知事を務める小池百合子は,9月1日に記録された歴史上のその大事件に関しては,つぎのように報道された不遜・傲岸な態度をいまもなお維持している。この都知事の反動形成的な隣国人「感」は,差別意識を心底に根強く控えているとみられるほかない
こうした小池百合子の都知事としての態度を敷衍すると,最近評判になっていた著作,辻野弥生『福田村事件-関東大震災・知られざる悲劇-』五月書房新社,2023年7月(初版は崙〔ろん〕書房出版,2013年公刊)を紹介しておく必要がある。
この本については,感想としてこういう反応が示されていた。アマゾンのブック・レビューに投稿されていたものである。
辻野弥生の同書が明らかにした「関東大震災」直後に,朝鮮人に対する一連の虐殺事件と「同じ具合に殺された」「四国からの行商人たちが集団で殺されていた事件」が起きていたのである。辻野の本,この表紙カバーを画像にして紹介しておく。
都知事・小池百合子都知事は,関東大震災関連の虐殺事件として同時に発生していたこの福田村事件が,東京都(当時は東京市)内ではなく千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)で起きたである点はさておき,
四国の香川県から行商に来ていた「同じ日本人であったが,四国の訛り」が原因して,殺されてしまった一行9人についても,ともかく大地震で命を失った帝国臣民たち,ここではひとまず,千葉県の場合「被害として死者・行方不明者1,346人」(そのうち1,255人は家屋の全潰が原因で死亡)と,なんら区別する必要などない「虐殺事件」だったと,確信をもって断定するのか?
ただし,同じ日本人だからこの福田村事件の犠牲者のほうは,別個に慰霊する余地があるとなど,小池百合子が応えるとしたら,こうなると完全にそのリクツは支離滅裂である。もっとも,小池はそこまで突っこまれるそうな関係の発言をしておらず,あとは逃げまわっていただけである。
なお,森 達也が出演して議論した関連のユーチューブ動画サイトもあるので,これもつぎに案内しておきたい。
「○The News ● ジャニーズ,木原副長官 映画『福田村事件』」といまの社会 / 空気を壊さぬテレビ・新聞の行く末【森 達也,望月衣塑子,尾形聡彦】」
『Arc Times』2023年8月15日(日付は推定),https://www.youtube.com/watch?v=NbpdRvgP0ws
【参考文献】-アマゾン通販から-
以上,本日(2023年8月29日)の時点で追論してみた記述である。
※-3 本稿の本論について
要点・1 1910年に旧大日本帝国は,旧大韓帝国を植民地にした
要点・2 1919年に朝鮮では「3・1独立運動」が起きていた
要点・3 1923年9月1日の関東大震災直後に発生させられた朝鮮人大量虐殺は,以上の要点「1→2」→「この3」を「ホップ⇒ステップ⇒ジャンプ」の因果をもって,歴史必然的に突発したと解釈もできる
--『論座』https://webronza.asahi.com/ に,今年(ここでは2021年)7月前半において,加藤直樹の執筆になるつぎの諸稿が掲載されていた。なお加藤はさきに,関東大震災直後に発生した朝鮮人虐殺事件に関して,つぎの2著を公表していた。
▲-1『九月,東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』ころから,2014年。
⇒「本書の宣伝〈謳い文句〉」 関東大震災の直後に響き渡る叫び声。 ふたたびの五輪を前に繰り返されるヘイトスピーチ。1923年9月,ジェノサイドの街・東京を描き, 現代に残響する忌まわしい声に抗う--路上から生まれた歴史ノンフィクション!
▲-2『 TRICK トリック 『朝鮮人虐殺』をなかったことにしたい人たち』ころから,2019年。
⇒「本書の宣伝〈謳い文句〉」 工藤美代子,産経新聞,日本会議,自民党文教族,小池都知事,百田尚樹…… 彼らがかかげた「虐殺否定」は,幼稚な “フェイク!” だった?
『九月,東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』( ころから が出版社名)の著者が,ネット上に蔓延する「虐殺否定」がまっとうな「論」ではなく,タネも仕掛けもある「トリック」であることを白日の下に晒す。
▲-3 加藤直樹は前述に触れたことだが,先月(ここでは2021年7月)前半に『論座』向けに,つぎの寄稿をしていた。各稿がそれなりに長めであって,全体としてそれなりに詳細な議論がなされている。前掲した2著の続編とみなせる内容である。
なお,以下の『論座』に掲載された諸稿は,現在は休刊したこの『論座』ゆえじかには閲覧できない。『朝日新聞』の購読者であればその全文は現在でも閲覧・購読できる。
加藤直樹は上記一覧の稿文を介して,関東大震災における朝鮮人虐殺否定論を主張する「ラムザイヤー教授の7つの問題点」(先行研究の無視・実証的な手法欠落・無理な推論ばかり)に対して,ひとつずつ反証をくわえ,論破するための追究をおこなっている。
なお最近作,渡辺延志『関東大震災「虐殺否定」の真相―ハーバード大学教授の論拠を検証する-』筑摩書房,2021年8月も,加藤直樹と同じに「ラムザイヤー教授の『朝鮮人虐殺』論文」をとりあげ,基本的な疑問を提示している。もちろん,当時まで日本人兵士が体験してきた〈歴史:彼ら1人ひとりの自分史〉に関連する疑問である。
日本社会で弱い立場の〔日本〕人たちが,兵士として「不逞鮮人」との戦いの前線に送られ,過酷な戦いを強いられた。兵役を終えて郷里に戻ると,在郷軍人として管理され,米騒動の反省から警察が自警団を発足させるさいに,その核として組みこまれた。そこへ震災が発生し流言が流れた。その内容は朝鮮戦線での体験を思いおこされるリアリティーがあった。
どうにかしなくては,身を守らなくてはとの思いから武器を求め,ためらうことなく朝鮮人を殺したのではなかったのか。震災に遭遇すると自警団には多くの地域住民が参加した。数の上では在郷軍人よりも多かったのだろう。そうした点をとらえ政府は,自警団は震災直後に突然誕生したことにして,責任を押しつけようとしたが反発は強かった。
もたらされたのは数千人を虐殺するという深刻な事態だった。まったくなかったことにはできなかった。そこで責任を問われることなく処理しようとして権力の側が考え出して手段は,事実を曖昧にするために新たなフェイクニュースを流布するというものであった。
そうして作り出された偽りの現実は,多くの日本人にとって快適な環境であり,その世界に日本社会は朝鮮人虐殺を押しこめ,できるだけ触れないようにして今日に至ったといえるのではないだろうか。
註記)渡辺『関東大震災「虐殺否定」の真相―ハーバード大学教授の論拠を検証する-』216-217頁。
補注)以上の記述:引用は,「20世紀前半における日朝・日韓間の歴史」を,もう少しくわしくしらないと分かりにくい内容であるが,さらにつづく全体の記述を通して理解してほしい点となる。
明治時代から旧日帝が朝鮮(韓国)を侵略し,植民地にしつつ支配してきた時期,この帝国がどのくらい朝鮮人を殺してきたか,いまの時代に生きる日本人側はほとんどしらない。
その間,日本軍兵士たちが独立運動や抵抗運動をする朝鮮人たちを鎮圧・掃討する任務に就かされ,いったいどれほど殺してきたかに関する〈歴史知識〉とは無縁である〈歴史教育〉しか,かつての帝国臣民たちは受けていなかった。
21世紀もいまでも基本的には同じく,ほぼ〈無知に近い状態〉であるが。
本ブログのこの記述を読んでもらう前に,できれば以上の加藤「稿文」や渡辺『著書』にじかに目を通してほしいところであるが,ここでは,加藤の稿文は標題でのみ観てもらい,また渡辺の『新書』からは前段の箇所を引用しておくことで,そのだいたいの主旨は感じとってもらえたことにしておき,さらに記述をつづけていきたい。
補注)『論座』にはさらに,関東大震災に関連する寄稿が,加藤直樹以外にもなされている。
※-4 関東大震災直後の朝鮮人〔など〕に対する殺人行為
本ブログ〔の「旧々ブログ」のことで,ここでは2009年の〕9月1日の記述で筆者は,関東大震災〔1923年9月1日〕直後に惹起させられた朝鮮人や中国人,くわえて社会主義者・無政府主義者の虐殺事件,すなわち,当時の日本帝国の一般臣民および警察当局・軍隊(憲兵隊)などによる残虐行為に言及していた。
付記)その「旧々ブログ」の2009年9月1日の記述は,2021年8月28日に復活させ再公表していたが,現在は未公表状態であるので,「本稿(1)」につづく「本稿(2)」「本稿(3)」につづけて別途,あらためて公表しなおしてみたく考えている。
⇒ 1917年2月,帝政ロシアで革命が起きてからこの地には世界で初めて社会主義国家体制が登場することになり,1922年12月30日にソビエト連邦が正式に発足した。その世界史的な背景を踏まえて,「関東大震災が起きた大正後期はどんな時代であったのか」というと,体制批判をするマルクス主義社会科学の勃興・隆盛を恐怖した大日本帝国『創られた天皇制』のなかで,関東大震災直後における朝鮮人大量虐殺が起きた」のである。
日本国内におけるより具体的な話に戻る。
当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)などで発生した朝鮮人殺戮事件の場合は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事であった。
本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度〔この数値の幅の大きなブレに注意する必要がある,いまだにその正確な統計がない〕の朝鮮人を殺させた。しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。
それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。
補注)その残虐行為の実際を描いた絵図は,後段で紹介する。
本庄町などの虐殺事件に関する裁判について,当時の新聞はつぎのように報道していた。裁判の様子については,後述においてさらに重ねて具体的に紹介するが,さきに以下のようなその〈雰囲気〉をしっておく必要がある。
すなわち,この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し,護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,のちにはさらに恩赦も与えられ,受けた刑をとり消してもらっていた。
筆者は以前の記述中で,第2次大戦後後に法務省の高官が,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(池上 努『法的地位200の質問』京文社,1965年,167頁)といってのけた事実に触れたことがある。
関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,その発言よりも32年前の起きた悲惨な出来事であった。けれども,大正時代においてからすでに,庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じく大地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を抱くだけでなく,本当に・本気で実行に移していた。
※-5 裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する
1) 殺人行為の様子
1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅しつづけて合邦し,植民地にしたのが,大日本帝国であった。朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。ところが,この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどういった政治意識が醸成されていたかといえば,朝鮮民族を心底ではひどくみくだしつつも,その分以上に非常に強く恐れる感情が必然的に,逆方向で形成されていた。
関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」と聞かされたために,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんと措置(始末)してもかまわぬ」と考えた。ある意味でこの考えは歴史の流れのなかでは,「理の必然」的に生起した政治・社会意識であった。
国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺あるいは射殺するなどの虐殺をおこなった。こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。
「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった。
註記)前掲『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件-』13頁。
本(旧々の)ブログ:2009年9月1日に紹介してみた萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその虐殺の現場を記憶に留めておき,これを頼りにして描かれた絵画である。
ここでは,北原糸子「描かれた関東大震災-絵巻・版画・素描-」,神奈川大学『年報 非文字資料研究』第6巻,2010年3月から白黒写真で収録されているいくつかの画像を紹介しておく。(クリックしてからさらに拡大させて観てほしい)
つぎの画像も挙げておく。このうち上の絵は,河目悌二の描いた「作品」である。これは,新井勝紘『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』新日本出版社,2022年8月の口絵から借りた。
これらの画像のなかをよくみると,「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっている。そのまわりの人たちは,「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」構図に描かれている。これはきっと,萱原白洞の場合,自分の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を,絵画として復元させておいたものと推察できる。
これら絵画を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に鳶口や棒切れをもった者などが描かれている。前段の著作『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件-』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子が,この絵画には正直に表現されている。
上掲した写真は,関東大震災時における殺人行為を,ありのままに写し,現わしていた。現役の軍人もおり,「在郷軍人」も軍帽をかぶって出動していた。
つぎの写真はよく目にするものの一葉である。民間人が「殺した朝鮮人〔まれに朝鮮人と間違えられた日本人も殺されている〕2体」を,それも民間人はとくに棒で突き抜くかのような格好で,記念写真を撮るためであったかのように構えている。
朝鮮人たちを殺すためにもち出された「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」。
註記)前掲『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件-』167頁。
補注)以上の記述に関連しては,「萱原白洞」と「河目悌二 関東大震災」で検索すれば,たくさんの「殺戮を描いたこの2人の絵」が検索一覧として出てくる。
2) 裁判の様子
さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件-』はその一場面を,つぎのように描写している。
a) ある被告の答弁。裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると「そうです。そうですが首は落ちませんでした」といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。満廷もクスクス笑う。事件とは思われぬ光景だ(158-159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。
b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。〇〇万治は「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。
c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。
d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。
殺人者たちを裁く法廷すべてにおいて,このような哄笑がわき起こっていたわけではない。それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。
そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表的な一部分として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。
したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとり事例のように,人殺しの犯人たちにしてはずいぶん軽くもふざけたような口調さえ聞こえてくる。仮にでも,殺された遺族たちがそうした裁判の場に同席していたら,
つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲側がでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて,強く疑われてよい。
要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。帝国市民たちが多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺してきた。
しかもそれだけでなかった。軍隊組織の一部である憲兵隊が,社会主義者・無政府主義者も,ついでにといっていい要領で,つまり無法なかたちでもって彼らを捕縛したり虐殺までしていた。これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
補注)ところで,関東大震災直後に日本の庶民たちが朝鮮人たちを虫けらのように殺しまっくったその大前提には,つぎのような大事件がすでに存在していた。
この事件の本質は,あえていまの時代にまで敷衍させていうと,つぎのように作文できるかもしれない。なお,文中に登場した三浦梧楼は当時,朝鮮特命全権公使であって,現地での最高責任者であった。この人物が,いちおう殺人行為としては,「朝鮮王妃を虐殺する計画・立案者」になっていたとはいえ,実は,その黒幕となっていた人物たちが別に,日本本土にはいた。
話を現代に戻すことにしよう。アメリカ軍もしくはCIAの関係者の策謀・工作によって日本の皇后が暗殺されるという事件が,もしも,万(百万?)が一にでも起きたとする。アメリカは実質,現在の日本(米日安保関連体制のもとでの)に対しては「宗主国の地位」を,実質的に堅持しているのだから,この指摘は現実性ウンヌンの論点としてはともかく,完全に妄想とはいいきれない。
首相次元であればアメリカは日本国外務省を手先に使いまわして,その何人もの政治家を引きずり降ろしてきた実績を有する。ロシアのプーチンはこれまで,自分の政敵とみなした人物は200名ほどは暗殺してきた。ここまであからさまでなくとも,現代における日本の政治のなかで「政治的事情がらみでの不審死」がけっこうな数,発生している。
ただし,このように表現したら大いに反発する人たち(もちろん日本人のこと)もいる。もっとも,マイケル・グリーン(ジャパンハンドラーズの1人)は「日本の首相は馬鹿にしかやらせない」と広言していた。小泉進次郎が関東学院大学からコロンビア大学大学院修士課程に入れてもらえたのは,このグリーンの口添えがあって実現した「アメリカ式情実入学の一例であった。
だが,その米日間の服属関係は,その領域を研究の対象にする政治学者であれば,ただちに是認する “日米間の政治的な力学的な相互の関係” であった。もしも,前段に表現したごとき「その種の重大事件」が実際に起きた場合は,事件そのものとして発する “ことの重大性” はこの上ないものになる。
ところが,かつて旧大日本帝国は隣国の王妃を惨殺していたのである。そうだったとすれば,その後の1923〔大正12〕年に起きた関東大震災直後の朝鮮人大量虐殺事件「など」,たいした出来事ではないと受けとることも可能である。
閔妃が暗殺されたあと当事者(犯人たち)は裁判にかけられたが,こちらも竜頭蛇尾のなりゆきとなった。関東大震災直後に朝鮮人たちを殺した日本の庶民に対する裁判は和気あいあい(!)に審理されたというから,贅言を俟つまでもなく,推してしるべしというところか。しかも,こちらが先行していた。
ここでは,前段の記述に関する文献として,角田房子『閔妃暗殺』新潮社,1988年,金 文子『朝鮮王妃殺害と日本人』高文研,2009年を挙げておきたい。
また,崔 文衡著,金 成浩・斉藤勇夫(翻訳)『閔妃は誰に殺されたのか-見えざる日露戦争の序曲-』彩流社,2004年は,つぎのように説明されている本である。
日韓(日朝)関係史のなかには,この種の深刻な歴史問題がいくつも包蔵されていた事実を,日本の庶民たちの次元では,どれほどの人たちがしっているか? 北朝鮮による日本人の拉致問題をしらない者は,おそらくいない点とは,対照的である。
日本ではテロリストに分類されるはずの安 重根は,日本の伊藤博文を暗殺したとされても,韓国は英雄視されている。この安と伊藤との関係をしらない日本の若者はけっこうな数いるはずである。だが,閔妃暗殺という重大事件をしる若者は,ごくまれもまれだと推察しておく。
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