平成天皇が靖国神社を潰そうとしていると,2018年6月に発言した宮司小堀邦夫の意図はなんであったのか
※-1 本記述が論じる話題
2018年6月の出来事であったが,当時の。靖国神社宮司小堀邦夫は『天皇は靖国を潰そうとしている』と非難し,辞職を余儀なくされた。天皇家はそもそも「A級戦犯合祀の撤回(廃祀)」を望んでいた点は,昭和天皇が生存中から判明していた事情であったが,靖国神社側は四の五のいって分祀は絶対にできないなどと,そのさい実に奇妙なリクツ(分祀は不可能だ!)を盾にして,天皇家側の願いなどいっさい聞く耳をもたない。
そこへ,先代天皇であった明仁の本意が読めこめなかった靖国神社第12代宮司小堀邦夫(1950-2023年,)の愚かな発言は,この靖国神社に歴史的に淵源していたとみなせる矛盾に触れる内容があったがため,事後,悶着を惹起させた。結果,小堀邦夫は定年前に辞職せざるをえなくなった。
明治維新以降,天皇家にとって大切な神社になっていた「靖国の本質」--その死神神社あるいは戦勝神社,官軍専用の霊的墓地」であった点--とは,実際のところよく咀嚼,理解できていなかった靖国のこの宮司が,自分が務めるこの戦争神社の真義に無知であったかのような〈軽はずみな発言〉を放っていた。
その事実は,もとは国営であった神社であり,かつて帝国日本が遂行していた侵略戦争から排出された死霊を収納しておいたうえで,さらにその死霊を戦争督励のためによみがえさせる要領で,いいかえれば,戦争遂行のために霊的に利用するための施設としてのこの靖国神社であった点,あるいは,その基本的な性格が,つまりは,天皇・天皇家とは国家神道的に一心同体であったという本質的な宗教上の特性を,生半可以前というか,ろくすっぽ理解できていなかった宮司の軽率な言動を意味していた。
なかんずく,靖国神社は本来,天皇家のための戦争督戦神社であった。ところが,1945年の帝国日本の敗北は,東京裁判にもとづいてA級戦犯の死霊も排出させられた。その結果,しかも,その後においてその死霊がこの官軍・勝利神社に合祀されたがために,すでに「敗戦神社」になっていたこの靖国神社の「敗戦後史的な根本矛盾」が,いまさらにようにだったが否応なしに剥き出しになっていた。
※-2 靖国神社宮司小堀邦夫の発言に関する報道など
1)「靖国神社宮司 天皇陛下についての『不適切発言』で退任へ」『NHK NEWS WEB』2018年10月10日 19時36分,https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181010/k10011666441000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001)
東京の靖国神社のトップを務める宮司が神社の運営などを話しあう委員会のなかで,天皇陛下について不適切な発言をし,混乱を招いたとして,退任することになりました。退任することになったのは,靖国神社の小堀邦夫宮司(68歳,当時)です。
小堀宮司をめぐっては,一部の週刊誌が今〔2018〕年6月におこなわれた神社の運営などを話しあう委員会のなかで,「陛下が一生懸命,慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていく」などと天皇陛下を批判する発言をしたと報じられています。
引用の途中だが,以下に関連する画像資料をいくつか挙げておく。
〔記事に戻る→〕 靖国神社によりますと,調査に対して宮司はこうした内容を発言したことを認めたということで,不適切な発言で混乱を招いたとして,宮内庁に謝罪するとともに〔2018年10月〕10日までに退任する意向を伝えたということです。
宮司はことし3月に就任したばかりで,神社のトップが半年余りで退任する事態になりました。退任は,今〔10月〕月26日に開かれる総代会で正式に決まるということです。靖国神社は「委員会での各委員の発言などの回答は控えます」とコメントしています。(引用終わり)
さきにここで,靖国神社の歴代宮司(第1代から第12代まで)を一覧しておく。
どうやら靖国神社の宮司は,天皇・天皇制のあり方に関して,なにかを正直に批判することは禁忌であったらしく,小堀邦夫は宮司を辞めざるをえない状況が醸し出されていた。確実にいえることは,靖国の宮司「小堀邦夫」は,天皇明仁の「平成流皇室生き残り戦略」を,真正面からことあげしたかのように受けとられ(そして,決めつけられ)た結果,靖国神社の宮司職をうしなったことになる。
※-3 靖国神社生成史からする若干の議論
前項※-2では靖国神社の第11代宮司になった徳川康久 2013〔平成25〕年1月19日~2018〔平成30〕年2月28日については,補注を入れてちょっぴり言及してあった。
この徳川泰久という人物を手がかりに,すなわち,靖国神社の宮司を泰久が退任させられた事情に関連させるかたちで,この神社の本質を考えてみるのもいい。
1) まずとりあげる材料は,「徳川家末裔宮司による靖國神社『賊軍合祀論』発言で議論百出」『NEWSポストセブン』2017年2月22日, 07:00,https://www.news-postseven.com/archives/20170222_493915.html である。
--英霊を祀った靖國神社トップの発言が大きな波紋を呼び,そのあり方が問われる事態に発展している。「靖國神社に “賊軍” を祀っていいわけがない。もしそんなことになったら,俺は短刀一本で刺し違えてやる!」
ある右翼団体の幹部は,顔を真っ赤にしてまくしたてた。穏やかでないものいいだが,現在いわゆる “右翼の世界” において,靖國神社はここまで人の感情を揺さぶる問題の震源地になっている。
発端は昨〔2016〕年6月,共同通信が配信し,静岡新聞や中国新聞などの一部地方紙に載った靖國神社宮司・徳川康久氏のインタビューだった。内容の柱は,2019年に迎える靖國創建150周年に向けた事業計画や,その意気ごみに関することだったのだが,徳川宮司は明治維新の意味あいに関して,こう語ったのだ。
「私は賊軍,官軍ではなく,東軍,西軍といっている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ,価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗をかかげたことで,こちら(幕府軍)が賊軍になった」
補注)日本近代史の研究がすでに指摘してきたように,その「錦の御旗」は本物ではなく,西軍側が捏造して使用していた。
靖國神社とは,明治維新のなかでおこなわれた戊辰戦争の “官軍” 側戦死者を祀るためにできた「東京招魂社」(明治2〔1869〕年創建)をルーツとする。戊辰戦争は明確に「官軍 vs 賊軍」という対立構図のなかでおこなわれた戦争だ。
徳川宮司は,江戸幕府将軍・徳川慶喜のひ孫。徳川家の末裔が “薩長神社” とも呼びうる神社の宮司を務めているのは不思議に思えるが,戦後の靖國神社では旧皇族・華族出身者が宮司を務める例がしばしばあり,その流れで「大きな異論もなく徳川さんが就任した」(神社関係者)という。
補注)靖国神社は薩長中心の神社(!)であるということは,戦争での勝者の犠牲者(霊)だけを祀ることを意味する。つまり,戦争用のそれも勝利神社である点に本当の意味があった。
ところが,大東亜(太平洋)戦争は,その根本義を “大逆転的に全面否定” する「大日本帝国の敗戦」という結果になっていた。それでもなお,21世紀の現在でも “薩長神社” をウンヌンしているこの靖国神社というのは,はたして宗教的な機関として本来の役目・機能を果たしているのか(?)という疑念を,みずから招き入れていた。
その官軍以外の死者(賊軍)を排除することを当然とした靖国神社の性格は,古来からの日本神道の伝統はもちろん,仏教の基本精神もまっこうから全面的に否定する,つまり敗者としての死者は完全に排除するといった,いうなれば,宗教とはとうてい思えない基本精神を,初めから保持し発揮するという異様な存在形態を採っていた。
この種の問題にはいっさい触れないまま,一方では,徳川泰久宮司のごとき発言「賊軍の犠牲者も合祀したい」に対して猛烈な反対が巻き起こり,退任させてしまう靖国神社があると思えば,
他方では,そこを囲んで存在する日本神道界や右翼たちの抱くこの元国営神社に対する歴史認識(基本的に錯誤のそれ)が,堂々とかつ横柄にもまかり通るような「九段下のこの元国営神社」は,その根本的な存在意義がいまさらのように問われている。
〔記事に戻る→〕 しかし明治維新から約150年,現役の靖國神社宮司が「戊辰戦争に “賊軍” はいない」といわんばかりの発言をしたことで,関係者に与えた衝撃は少なくなかった。賊軍のことを「こちら」と呼んだことからも,その血筋が育んだ “史観” のようなものがかいまみえる。
2) 神道学や靖國神社の歴史に詳しい識者のなかで,こうした “賊軍合祀論” を是とする向きは少ない。神道学者の高森明勅氏はいう。
「靖國神社とは原則的に,『国家の公的な命令により命を落とした方々』をお祀りする場所。個人の正義感で西南戦争を戦った西郷隆盛や,各藩ごとの意向で動いていた戊辰戦争の旧幕府軍をも合祀すると,合祀対象の境界に際限がなくなる。靖國神社がその時々の政治情勢に翻弄されることにもつながりかねない」
補注)この高森明勅の意見は,宗教学的な基本見地から評価するに,相当に奇怪であった。
というのも,まず「その時々の政治情勢」にしたがって靖国神社も創建されていたし,つぎに,旧日本帝国主義の侵略路線を支えるための国家神道的にきわめて特殊な,いいかえれば,日本の神社史の伝統からは〈異端の神社〉として建造されていた。
それゆえ,そのときどきの時代的な背景や事情だけを絶対視して吐かれたその独自なのだが,ただに狭隘な史観は,専門家から提示する見解としては軽率であるどころか未熟そのものであった。だいたい,最初からそのリクツは自家撞着にはまりこんでいた。
高森明勅は,神道学者の立場から「原則的に」とは断わっていたものの,「『国家の公的な命令により命を落とした方々』をお祀りする場所」が靖国神社だという定義は,いまの時代において常識的に判断しても,また厳密な意味で評価しても,まったく通用しない学術的な見解にはほど遠い独断になっていた。
つまり,過去における問題と現在における問題とを,まず基本から仕分けしたうえで,靖国神社にまつわるそれぞれ論点を議論し,なおかつ関連づけて慎重に主張するのではなく,異質の問題をかかえているはずの過去と現在の問題それぞれを,意図的にであったかどうかさえ他者に不分明にさせた状態でもって,故意にごた混ぜにしたかのごとき主張を開陳していた。
要は「『その時々の政治情勢』にしたがって靖国神社も」,その基本的な性格を変質させつつ時代の流れに適応してきたし,「敗戦後は宗教法人としての時代対応」をおこなってもきた。
現在のところまで,靖国神社が「『国家の公的な命令により命を落とした方々』をお祀りする場所」だと,それこそ国家的次元の意識水準においてみなされているわけでも,実際にそのように利用されているわけでもない。
この点は現実的に観察して判断する意見であって,宗教施設である靖国神社にいって前段のように否定される要因を,それでも宗教的精神の視野で認めるかどうかまでも含めて全面否定するものではなく,ましてや,そのように意識し考えたい関係者の気持ちまで排斥しうるものでもなかった。
高森明勅のいいぶんはその程度での確信度に留まっていた。つまり靖国信仰としてならば,当事者の内的信念として認めることにやぶさかではない。しかし,「鰯の頭も信心から」の論点と「靖国信仰の虚構的な国家次元の精神構造」は,敗戦の問題を契機にすでに雲散霧消したと形容するのがふさわしい「敗戦体験」をしていた。それゆえ,しかも「敗戦の象徴であるA級戦犯」を,あえて合祀した靖国神社に対してとなれば,
3) その絞首刑に処されたA級戦犯のおかげがあってこそ,敗戦後史のなかでも日本国憲法第1条から第8条に規定される「天皇の立場・地位」も継続的に保持されてきたにもかかわらず,そうした敗戦後史的な均衡状態を真っ向から撹乱するためだったがごとき,そのA級戦犯の靖国への合祀は,昭和天皇の立場にとってみれば,「青天の霹靂」というよりは「脳天をハンマーで叩かれた」ごとき気分にされたも同然であった。
〔記事に戻る→〕 “賊軍” 側の立場に立つ人の評価も微妙だ。『明治維新という過ち』(毎日ワンズ)で薩長勢力による明治維新の “欺瞞” を鋭く追及した作家・原田伊織氏は,
「戊辰戦争当時,東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを貼ったのは明らかに薩長ですが,その責任や是非を問わず,当時ありもしなかった言葉に置きかえて流布するのはおかしい」と手きびしい。
徳川宮司自身は “賊軍” の合祀につき,「無理だ」「ただちにそうしますとはいえない」といった発言をしており,すぐにも事態が動く可能性は低い。しかし,ほかならぬ靖國神社の宮司が,これまでの “靖國史観” に挑戦するような発言をおこなったことは事実で,靖國の今後を警戒感とともにみている人びとは多い。
なお,この問題で靖國神社に徳川宮司へのインタビューを申しこんだところ「一連の状況を鑑み,他紙も一様にお断わりさせていただいております」との返答だった。明治維新から150年,いま「徳川の逆襲」が始まろうとしているのか。
補注)靖国神社宮司第11代徳川泰久は結局,以上に関連する問題のために退任した。第12代宮司の小堀邦夫は,この記述の対象になってもいるように別途,天皇家を真っ向から批判する発言をしたという1点をもって,退任を余儀なくされた。いったい,靖国神社とはなんであったのか?
4) ここでは,樋口篤三『靖国神社に異議あり-「神」となった三人の兄へ-」同時代社,2005年から,つぎの個所を引用・紹介しておく。
靖国神社を非常に大事に考えている皇室・天皇家は,このような旧帝国臣民たち(の遺族たち)の悲歎にどう応えてきたのか? 天皇明仁〔2024年6月現在は「上皇」〕が天皇であった時期,戦地めぐりをするかのように,あちこちを訪問をしては,陸や海に向かい頭を下げ,空をみあげては祈りを捧げていた。
だが,そうした当時の平成天皇夫婦の慰霊の旅をもってすれば,「日本帝国時代の膨大な戦没者たちは,誤った戦争による『犬死に』なのか」という疑問を,誰もが一挙に払拭させうるかといったら,あにはからんやそれは,とてもおぼつかない。
天皇明仁(天皇裕仁の息子)が,とうてい始末しきれるはずもなかったのだが,ともかく「敗戦までにおける天皇裕仁(父)の行跡」をたどりまわるほかない,そうした慰霊の旅を,永遠におこないつづけていくかにも映った人生を過ごしてきた。そのように形容できる明仁の行為を,われわれ(国民・市民たち)は,なんと受けとめていたか?
いずれにせよ,大東亜(太平洋)戦争中に,戦闘行為のなかで死んだ皇族将校(男子皇族は初め〔少年期〕から将校に任命されていた)はいなかった。三笠宮は一時期,中国戦線に配置されていたが,途中で日本に戻っていた。
天皇家が明治以来,国民(帝国臣民)たちに負っている莫大・膨大な戦争責任の無限的な重さは,どのように償おうとしても無理難題である。そこで,靖国神社の「対・国民向けの効用」が期待され,実際にも利用されてきたことになる。いうなれば,「敗戦後史においては靖国的に欺瞞であった宗教精神による慰撫」が演じられてきた。
5) ところが,1978〔昭和53〕年10月17日,靖国神社にA級戦犯が合祀された。このA級戦犯こそを踏み台にたまま,成立させられていたのが『「天皇」対「合祀された英霊」という関係図式:二項関係』であった。ところが,そのあいだに突如,よみがえったのようにして割りこんできたのが,その「招かざる客(戦死者でない英霊も含まれていたが)のA級戦犯」であった。
このA級戦犯は,天皇裕仁の身代わりになって死刑台に登ってくれた者たちであったゆえ,この者たちが靖国神社の合祀された状態で,これに対して天皇が「親拝して(いちおう頭を下げて)祈祷し,祭祀する神道的な宗教行為」となれば,これがいったい,いかなる事態を意味するかは「一目瞭然」であった。
天皇の立場にとってみれば,とうてい堪えきれない「敗戦後における靖国的な光景」が,現前していたことになる。だから昭和天皇夫妻は,1975〔昭和50〕年11月21日におこなった敗戦後8回目の靖国神社参拝を最後にして,この世を去った。
そして,その息子の明仁も孫の徳仁も,めいめいが天皇になってから今日まで,靖国神社には一度も足を運んでいない。すなわち,天皇家側のA級戦犯合祀に対する執拗なまでの反発・排除の精神は徹底している。
靖国神社へのA級戦犯合祀が必然的に派生・誘発させた「本当の意味」は,実は,敗戦後史における天皇・天皇制のすべてを否定したところにあった。
以上,のっけから長々と靖国神社「本質」論を述べた。本日の記述本筋に戻ることにしたい。
※-4)「『皇室批判』報道,靖国宮司が退任」『朝日新聞』2018年10月11日朝刊32面「社会」
靖国神社は〔2018年10月〕10日,小堀邦夫宮司(68歳)が退任する意向だと発表した。後任の宮司は26日の総代会で決定する。小堀宮司は,神社内の研究会で「陛下は靖国神社をつぶそうとしている」などと皇室批判をしたと週刊誌で報じられ,波紋が広がっていた。
同神社が発表した広報文は,「宮司による会議でのきわめて不穏当な言葉遣いの録音内容が漏洩いたしました」と週刊誌報道に言及。小堀宮司が陳謝のため宮内庁を訪れ,宮司退任の意向を伝えたことを明らかにした。
補注)この靖国神社側の弁明は「小堀の発言が漏洩された事実じたいが問題なのであって,洩れていなければ問題はなかった」というふうにも受けとれる。
天皇・天皇制に関しては,あくまで正式にという意味でいうと,表面的には,絶対的な価値があるかのような〈やりとり〉があったと解釈しても無理がない。そこには,当該問題を考えるにあたり,いつも “引っかかり” を感じさせるその種になる「問題の背景基盤」が示唆されていた。
〔記事に戻る→〕 同神社では今〔2018〕年2月,前任の徳川康久宮司の発言が「神社創建の趣旨に反し,賊軍合祀の動きを誘発した」などと問題視されて,徳川氏が辞任。小堀氏は3月1日付で第12代宮司に就任したばかりだった。神社関係者によると,〔10月〕17日から開かれる秋の例大祭は宮司代務者が執りおこなうという。
※-5 「靖国神社の宮司退任へ 不穏当な言葉遣い漏洩」『日本経済新聞』2018年10月11日朝刊38面「社会1」
靖国神社は〔2018年10月〕10日,会議でのきわめて不穏当な言葉遣いの録音内容が漏洩した小堀邦夫宮司(68歳)が退任する意向を示したとのコメントを発表した。後任は26日の総代会で正式決定するという。
補注)ここでも出ているが,「きわめて不穏当な言葉遣い」とは,誰を念頭:基準に置いての表現かは,あらためていうまでもない。
小堀宮司をめぐっては,6月の靖国神社の社務所会議室で開かれた「第1回教学研究委員会定例会議」で,皇室を批判する発言をしたと一部週刊誌に報じられていた。同神社広報課は「会議内容などの回答は差し控える」とコメントしている。
なお,小堀宮司は京都府立大を卒業後,皇学館大大学院などを経て伊勢神宮の神職に就き,今〔2018〕年3月に宮司に就任していた。
※-6「靖国神社宮司が天皇批判! 『天皇は靖国を潰そうとしている』…右派勢力が陥る靖国至上主義と天皇軽視の倒錯」『リテラ』2018年10月10日,https://lite-ra.com/2018/10/post-4305.html
この『リテラ』の記事は,いま記述している問題・論点の背景事情を分かりやすく説明している。ということで,前段までの本ブログ筆者の論及を思いだしながら,できれば重ねて読んでほしいものである。
1) 先週発売の『週刊ポスト』」(小学館)2018年10月12・19日号が,靖国神社の宮司による衝撃的な“天皇批判”をすっぱ抜いた。
「陛下が一生懸命,慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが,そこには御霊はないだろう?」
「はっきりいえば,今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」
記事によれば,今〔2018〕年6月20日,靖国神社の社務所会議室でおこなわれた「第1回教学研究委員会定例会議」で,靖国宮司・小堀邦夫氏の口からこの “不敬発言” は飛び出した。小堀宮司は皇太子夫妻に対しても
「(今上天皇が)御在位中に一度も親拝なさらなかったら,いまの皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」
「皇太子さまはそれに輪をかけてきますよ。どういうふうになるのか僕も予測できない。少なくとも温かくなることはない。靖国さんに対して」
と批判的に言及したという。
小堀宮司は『週刊ポスト』の直撃に対して「なにもしらないですよ」などと誤魔化しているが,すでに,録音された音声が動画で公開されており,靖国宮司が今上天皇を猛烈に批判したことは疑いない。
いうまでもなく,靖国神社は戦前・戦中の皇室を頂点とする国家神道の中枢であり,いわば「天皇の神社」だ。そのトップである宮司が,今上天皇が皇后とともに精力的におこなってきた各地への “慰霊の旅” を全面否定し,「靖国神社を潰そうとしている」と批判するとは,ただごとではなかろう。
補注)この段落の論調は「天皇絶対視」に触れている。
複数の神社関係者によれば,神職のあいだでも「小堀さんは分かっていない」「神道の慰霊はさまざまな場所でおこなわれるものだ」「靖国のことしか考えていないのか」などの反発の声があがっており,大きな波紋を広げている。当然,保守系言論人を巻きこむ一大騒動に発展するものと思われた。
ところが,である。この『週刊ポスト』のスクープから一週間が経つというのに,反応したのはごく一部のメディアだけ。一般紙はまったく後追いせず,あの産経新聞ですら沈黙状態なのだ。それだけではない。普段,「首相の靖国参拝」をあれだけ熱心にがなりたてている極右メディアや安倍応援団もまた,完全に無視を決めこんでいる。これはいったい,どういうことなのか。
2) 富田メモに残された「昭和天皇が靖国神社に参拝しない理由」
そもそも,小堀宮司による “天皇批判” の背景は,来〔2017〕年4月末日をもって退位する今上天皇が,即位してから一度も靖国を参拝していないことにつきる。しかし,それは昭和天皇の意志を引きつぐものであり,当然の姿勢といえるだろう。
周知のとおり,昭和天皇は,1975年〔11月21日〕の親拝を最後に,靖国参拝をおこなわなかった。その直接の原因は,1978年に松平永芳宮司(第6代)がおこなったA級戦犯合祀に,昭和天皇が強い不快感をもったためだ。
実際,日経新聞が2006年7月20日付朝刊でスクープした通称『富田メモ』には,その心情が克明に記されていた。当時,昭和天皇の側近であった元宮内庁長官・富田朝彦が遺した1988年4月28日のメモの記述である。
「松岡」というのは国際連盟からの脱退でしられる近衛文麿内閣の外相・松岡洋介。「白取」とは松岡とともに,日独伊三国同盟を主導した元駐イタリアの白鳥敏夫のことをさす。両者とも戦後にA級戦犯として東京裁判にかけられたが,昭和天皇がわざわざ「その上」といっているように,この「あれ以来参拝していない それが私の心」は,松平宮司による14名のA級戦犯合祀そのものにかかっていることは自明だ。
ところが当時,『富田メモ』の発表で大混乱に陥り,驚くべきペテンと詐術を繰り返したのが右派勢力,とりわけ,現在の安倍晋三を支える極右応援団の面々だった。いま,あらためてその御都合主義に満ちた反応を振り返ってみると,連中が,今回の小堀宮司による天皇批判に沈黙を貫いている理由もおのずと理解できるだろう。
3)「昭和天皇の思い」を攻撃,無視した極右文化人たちのご都合主義
たとえば, “極右の女神” こと櫻井よしこ氏はその典型だ。『週刊新潮』の連載で「そもそも富田メモはどれだけ信頼出来るのか」(2006年8月3日号)とその資料価値を疑い,さらにその翌週には,3枚目のメモの冒頭に「63・4・28」「Press の会見」とあることを指摘,
「4月28日には昭和天皇は会見されていない」「富田氏が書きとめた言葉の主が,万が一,昭和天皇ではない別人だったとすれば,日経の報道は世紀の誤報になる。日経の社運にもかかわる深刻なことだ」(2006年8月10日号)と騒ぎ立てた。
しかし,実際には「63・4・28」というのは富田氏が昭和天皇と会った日付であって,「Press の会見」はそのときに昭和天皇が4月25日の会見について語ったという意味だ。
要するに,櫻井氏は資料の基本的な読解すらかなぐり捨てて,富田メモを「世紀の誤報」扱いしていたわけである。いかに,連中にとって,このA級戦犯の靖国合祀に拒否感を示した昭和天皇の発言が “邪魔” だったかが透けてみえる。
もっとも,本性をさらけ出したのは櫻井氏だけではなかった。たとえば百地 章氏,高橋史朗氏,大原康男氏,江崎道朗氏ら日本会議周辺は,自分たちの天皇利用を棚上げして「富田メモは天皇の政治利用だ!」と大合唱。
長谷川三千子氏は「これじたいは,大袈裟に騒ぎたてるべき問題ではまったくありません」「ただ単純に,富田某なる元宮内庁長官の不用意,不見識を示す出来事であつて,それ以上でもそれ以下でもない」とか(『Voice』2006年9月号,PHP研究所),小堀桂一郎氏は「無視して早く世の忘却に委ねる方がよい」(『正論』2006年10月,産経新聞社)などとのたまった。
また,あの八木秀次氏も富田メモについて「この種のものは墓場までもっていくものであり,世に出るものではなかったのではあるまいか」とうっちゃりながら,「首相は戦没者に対する感謝・顕彰・追悼・慰霊をおこなうべく参拝すべきであり,今上天皇にもご親拝をお願いしたい」(『Voice』2006年9月号)などと逆に,天皇に靖国参拝を「お願い」する始末。
いったい連中は天皇をなんだと思っているか,あらためて訊きたくなるが,なかでも傑作だったのは,長谷川氏,八木氏と並んで “安倍晋三のブレーン” のひとりとされる中西輝政氏だ。中西氏はどういうわけか,この富田メモを同〔2006〕年7月5日の北朝鮮のミサイル発射,そして安倍晋三が勝利することになる9月20日の自民党総裁選に結びつけて,こんな陰謀論までぶちまけていた。
いずれにせよ「七月五日」と「七月二十日」(引用者注:富田メモ報道)に飛び出したこの二つの「飛翔体」は,確実に「八月十五日」と「九月二十日」に標準を合わせて発射されていることだけは間違いなく,それぞれの射程を詳しく検証してゆけば,それらが深く「一つのもの」であることが明らかになってくるはずである」(『諸君!』2006年9月号,文藝春秋)。
こうした「保守論壇」の反応は,保守派の近現代史家である秦 郁彦氏をして「多くの人は,みたいと欲する現実しか見ない」(ユリウス・カエサル)という警句を思い出した」「はからずも富田メモをめぐる論議は,一種の『踏み絵』効果を露呈した」(『靖国神社の祭神たち』新潮社)といわしめた。
結局のところ,昭和天皇が側近にこぼした言葉を “北朝鮮のミサイル” と同列に扱う神経をみても分かるように,「富田メモ」が明らかにしたのは,昭和天皇のA級戦犯合祀への嫌悪感だけでなかった。
つまり,ふだん天皇主義者の面をして復古的なタカ派言論をぶちまくっている右派の面々たちは,ひとたび天皇が自分たちの意にそぐわないとわかると,平然と “逆賊” の正体をむき出しにし,やれ「誤報だ」「無視しろ」「まるでミサイル」などと罵倒しにかかる。そのグロテスクなまでの政治的ご都合主義こそが連中の本質であること暴いたのだ。
4) 戊辰戦争の “賊軍合祀” を主張して辞任に追いこまれた徳川前宮司
事実,こうした自称「保守」による反天皇的反応がみられたのは『富田メモ』の1件だけではない。
今上天皇〔明仁天皇〕が2013年の誕生日にさいした会見で,日本国憲法を「平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,さまざまな改革をおこなって,今日の日本を築きました」と最大限に評価したときも,八木氏が「両陛下のご発言が,安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねない」「宮内庁のマネジメントはどうなっているのか」(『正論』2014年5月号)と攻撃した。
また,一昨〔2016〕年の生前退位に関する議論のなかでも,安倍首相が有識者会議に送りこんだともいわれる平川祐弘東大名誉教授が「ご自分で定義された天皇の役割,拡大された役割を絶対的条件にして,それを果たせないから退位したいというのは,ちょっとおかしいのではないか」と今上天皇を「おかしい」とまでいい切った。
こうした流れを踏まえても,つまるところ,今回の靖国神社宮司による天皇批判は,極右界隈がいかにご都合主義的に天皇を利用しているかをモロにあわらしているとしかいいようがないだろう。
「保守論壇」や産経新聞がいまだに小堀宮司の「今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ」なる発言になんら反応をみせないのも,要はそれが,戦中に靖国が担った国民支配機能の強化を夢みる連中の偽らざる本音だからにほかなるまい。
そのうえで念を押すが,そもそも靖国神社という空間じたいが,きわめて政治的欺瞞に満ちたものだ。事実,靖国神社に祀られている「英霊」とは戦前の大日本帝国のご都合主義から選ばれたものであり,たとえば数十万人にも及ぶ空襲や原爆の死者などの戦災者はいっさい祀られていない。
“靖国派” は「世界平和を祈念する宗教施設でもある」などと嘯(うそぶ)くが,実際には,靖国神社を参拝するということは,先の大戦に対する反省や,多くの国民を犠牲にした贖罪を伴った行為とは真逆の行為なのである。
だいたい,靖国の起源は,戊辰戦争での戦没者を弔うために建立された東京招魂社だが,この時に合祀されたのは「官軍」側の戦死者だけであり,明治新政府らと対峙し「賊軍」とされた者たちはいっさい祀られていない。そのご都合主義的な明治政府の神聖化≒国家神道復活の野望は,靖国の人事にも現われている。
小堀宮司の前任者である徳川康久前宮司は,今〔2018〕年2月末,5年以上もの任期を残して異例の退任をした。表向きは「一身上の都合」だが, “賊軍合祀” に前向きな発言をしたことが原因というのが衆目の一致するところだ。
徳川前宮司は徳川家の末裔で,いわば「賊軍」側の人間であった。徳川氏は,靖国神社の元禰宜で,神道政治連盟の事務局長などを歴任した宮澤佳廣氏らから名指しで批判され,結果,靖国の宮司を追われたのである。
補注)宮澤佳廣は以前,本ブログ筆者の旧ブログが,靖国問題に関して別のある問題(鎮霊社)について論じた点をめぐってだが,この本ブログの筆者が「噛みつい〔てき〕た」とかなんとか形容していた。
つまり,他者の議論が気に入らないからといって,相手を神社脇の狛犬あつかいしたわけでもあるまいに,それにしてもこの宮澤も実は,櫻井よしこ,百地 章,高橋史朗,大原康男,江崎道朗,長谷川三千子,八木秀次らと同列の人間であった。
ちなみに,神社本庁の説明によると「狛犬は高麗犬の意味で,獅子とともに一対になって置かれているとする説もあり,その起源も名称が示すように渡来の信仰にもとづくもので,邪気を祓(はら)う意味があるといわれています」との謂いであった。
〔記事に戻る→〕 その後任に送りこまれたのが,伊勢神宮でキャリアを積んだ小堀宮司というわけだが,複数の神社関係者によると「小堀氏を直接推したのはJR東海の葛西敬之会長だが,その葛西氏に入れ知恵をしたのが,神社本庁の田中恆清総長と神道政治連盟の打田文博会長だと囁かれている」という。
真相は定かではないにせよ,田中・打田コンビといえば,昨今の「神社本庁・不動産不正取引疑惑」(過去記事参照,https://lite-ra.com/2018/09/post-4272.html) でも頻繁に名前がとり沙汰されるなど,神道界で強権的支配を強めている実力者だ。
いずれにせよ,靖国神社の理念が「祖国を平安にする」「平和な世を実現する」などというのは,まったく現実味のない虚言であり,その本質は国家のために身を捧げる “新たな英霊” を用意するためのイデオロギー装置にほかならない。
5) 小堀宮司になって金のため〔収益を上げるため〕のみたままつりを復帰させた(境内に露店商を復活させた)靖国
同時に,戦争世代・遺族の減少によって寄付金等の右肩下がりが止まらない靖国にとって,「天皇親拝」の実現は,二重の意味で “生き残り” をかけた悲願でもある。
靖国神社は德川宮司時代の2015年,夏の「みたままつり」での露店出店をとりやめていた。德川氏は「若者の境内でのマナーの悪さ」「静かで秩序ある参拝をしてほしい」などを理由に挙げていたが,実際,祭りにさいした暴行や痴漢などの性的被害なども靖国内部で報告されていたという。
結果,参拝客が激減したのだが,その消えた露店が,小堀氏が宮司となった2018年に復活している。そのことからも連中の本音がうかがえよう。德川宮司批判の急先鋒であった前述の元靖国神社禰宜・宮澤氏は,当時,靖国の総務部長として露店中止に強く反対していた。
著書『靖国神社が消える日』小学館,2017年は,「将来の靖国を支える若者の教化という観点に立てば,あれほど多くの若者を集め,しかも『平和を求める施設であることをアピールするためにはじめられたこの試みは,大きな成功をおさめた』とまで評価されていたみたままつりを活用する方が,はるかに合理的で生産的でした」と書いていた。
補注)宮澤佳廣は「靖国神社を戦争神社,遊就館を戦争ミュージアム」と誤解させる「危険性」に言及していたが,この誤解は「誤解などではなく,そのとおりに正解そのものであった」ことは,靖国神社とその境内にある遊就館を一度でも見学すれば,たやすく理解できる。
〔記事に戻る→〕 ものはいいようだろう。しかし,実際は,靖国神社が喉から手が出るほど欲しがっているのは,信仰につながる卑近な “PRとゼニ” なのだ。
煎じ詰めれば,A級戦犯が合祀されている靖国の「英霊」ではなく,各地で亡くなった戦争犠牲者を分け隔てなく慰霊する,それこそが平成の天皇の責務だと自覚した今上天皇〔当時〕のあり方は,国家神道的イデオロギーの復活を目論む集団からみて,あるいは今後の先細りを宿命づけられた靖国神社という宗教法人にとって,まさしく「不敬」の点などは,いっさいばからずに攻撃したくなった “目の上のたんこぶ” であったに違いない。
6)だが,それはしょせん,八つ当たりでしかない。気鋭の政治学者である白井 聡は,著書『「靖国神社」問答』(小学館)の解説文のなかで,靖国の歴史的欺瞞の分析を踏まえたうえで,こう提言していた。
「してみれば,われわれがめざすべきは靖国の「自然死」である。多くの人が,靖国の原理を理解すること,すなわち,そこには普遍化できる大義がないことをしり,「勝てば官軍」の矮小な原理を負けたのちにも放置しながら,あの戦争の犠牲者たちに真の意味で尊厳を与えるための施設としては致命的に出来損ないであり続けているという事実をしることがなされるならば,誰もがこの神社を見捨てるであろう」
靖国神社と靖国至上主義を叫ぶ右派勢力は天皇を攻撃する前に,まず,自分たちの姿勢を考えなおすべきだろう。(『リテラ』参照終わり)
だが,最後にこういう断わり入れておく必要があった。天皇家は靖国神社を自家用の神道的施設,それも非常に重要な慰霊のための宗教機関として,ぜひとも,いつかは戦前・戦中体制と同じに復活させたい,その方途でとり戻したいと企図している。
もっとも,白井 聡がそこまで踏まえた議論・主張をしている様子はうかがえなかった。白井の視線にも映っていた「靖国神社」は,たしかに「出来損ない」であっても,皇室:天皇側にとってみたら,もしも「A級戦犯」を除去させえたときのこの神社は,非常に使い勝手のいい「天皇家のための宗教施設」として再び取りもどせる可能性を,21世紀のいまであってもまだ残している。この靖国的な状況が取りもどせることを,天皇家側は切望しているはずである。
天皇家側はけっして明確には説明しないものの,そのいいぶん(本心・本音)は,いまの靖国神社のあり方であるならばこれは絶対に要らない,としか応えようがなかった。
だが,A級戦犯合祀がなくせる時点が到来しだい,そのときからはもとどおりにこの靖国神社は使えると想定している(そうなる時期を待ちかまえている)。この期待は,「靖国神社の明治以来における本性」の再生そのものを意味しないとはいいきれない
昭和天皇は1975年11月21日の秋季例大祭を最後に,靖国神社には参拝にいけなくなってはいた。さらにその息子,孫の代になってもなお,この神社へ直接参拝には出向いていない。
だが,彼らは皆,その後も「勅使の派遣を通して『靖国神社を一番の特別あつかいしている』」事実に関しては,なにも変化は生じていない。
この事実はなにを物語っているか?
A級戦犯の合祀さえ解ければ,靖国神社はいつでも皇室の圏内に完全に戻せるという考え方は,皇室:天皇側が以前からもちつづけていた「本当の意向:願望」であった。また「戦争神社の本義」は本気で変えないまま,そのような期待を抱きつづけているという点も,けっして見逃してはいけない問題性として残されているままである。
最後にこういった指摘を聞いておきたい。
少なくとも,敗戦後史における昭和天皇の統治観念は,この稲垣久和の指摘のとおりでありつづけ,寸毫も放棄されていなかった。息子の平成天皇や孫の令和の天皇は,父・祖父とまったく同じではないものの,靖国信仰の核心部分において基本的に異なる事由はみいだしえない。
なにせ,日本国憲法が彼らの存在理由を法律的な基盤を提供しつづけてきたのだから,そのように理解するほかない。ということで,マッカーサー元帥に深甚の感謝……。
皇居内にある宮中三殿は,いったいなんのために設営されているのか。天皇たちはそこで,いったいなにを祈っているのか。仮にでも国民のためだとしたら,信教の自由を定めている日本国憲法の基本的な見地に抵触しないか。
日本に住んで暮らしている人びと全員が神道の信者ではない。断わっておくが,ここで「神社非宗教論」もちだすなかれ。ヘリクツ以下・未満にも達しえない幼稚な神道観は御法度である。神道も宗教は宗教である。神道には古神道から連続するもろもろの宗派に関した分類もあるが,ダテに存在していた宗教が神道ではあるまい。
とくに国家神道(この用語は敗戦後史のなかで占領軍のGHQ当局が創った用語であったが)という表現は,いまとなってはそれなりに適切に,明治以来の「本来の宗教の正道」から脱線しつくしていた靖国神社の,いうなればその本末転倒性を,換言するとその「国教」類似まがいをとらえてであったが,適切に指摘していた。
大日本帝国が終焉した何十何年あとになっても,「日本は神の国」などといったヨタ(ゲロ)を吐いていた,例の「サメの脳ミソ」の持主の元首相がいたが,こうなると神道という宗教が,そもそも根本からして,いかにいいかげんでデタラメ三昧であったかを,不必要にもわざわざ傍証させるハメにもなっていた。
結局,国家神道ための「皇室的な宗教施設」であった靖国神社は,明治以来の「その畸型的な宗教観念」「戦争を煽る宗旨」が,いつも問題にならざるをえなかった。
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