「家畜-社畜-国畜」という表現と「故安倍晋三君の日本神州観」や「金 正恩君の朝鮮聖国観」をめぐる政治人類学的なる小考
※-1「本稿記述」の由来
a) 本稿は最初,旧々ブログの2011年12月26日に公表され,その後2015年11月11日,ブログサイトの異同にともない改訂の作業をくわえ,旧ブログに再公表していた。
さらに本日2024年9月23日,ここに三度,復活させ再掲することになった。このさいもむろん,必要な補筆や思い当たった加筆をおこなっている。
当初,本稿は藤本篤志『社畜のススメ』新潮社,2011年11月という本に接し,実際に読んだところから書きはじめていた。今回の記述では後半部のほうで,藤本の見解は紹介する。同書の議論は,つぎのようなセリフをもって象徴される内容になっていた。
▼-1 われら社畜サラリーマンの処世術
▼-2 社畜から国畜へ,そしてさらに家畜へという輪廻
もっとも,最近日本における産業社会・労働経済の環境は,労働者階層(階級)の立場にとっては非常にきびしい,などというよりはすでに,残酷と形容するのがふさわしいほどにまで変質させられてきた。
とりわけ,安倍晋三の第2次政権(2012年12月26日~2020年9月16日)は,この「世襲3代目の政治屋」が「美しいはずのこの御国」を,「うそのウソによる嘘のための政治」によって,もはや取りかえしがつかないほどに体たらくの国家体質にまで堕落・腐敗させた。
b) 今日から4日あと2024年9月27日には,あの統一教会風「政教一致」の自民党政権が,あまつさえ「例の裏金問題」をまったく解決も清算もしないまま,このたびは,9人もの総理大臣になりたい面々が「アベノミクス・アベノポリティックス」の後始末すらも,くわえては放置した状態で,つまり,なにごとに関しても自民党的手法であるネコババの要領で問題をごまかしきろうとする基本精神を発揮しつつも,ただいま「首相になりたいその9人のレース」を開催中である。
自民党国会議員のなかからは世襲のなんと4代目政治屋まで登場しているが,前段の自民党総裁選でも小泉純一郎の息子で次男坊の進次郎が立候補していたが,このバ▼ボン風采のボンボン君が,いったいなにを口に出したかと聞けば「解雇規制の緩和」を唱えたのだから,これに対しては世間の側から一斉に避難が巻き上がっていた。
この「世襲4代目の政治屋」のボクちんは,安倍晋三もそれはそれはひどい「世襲3代目の政治屋」であったけれども,進次郎の場合はそれ以上にもっとひどい無教養・不勉強ぶりをみずから暴露させていた。
つまるところは,あの竹中平蔵流の新自由主義観や規制緩和論からの受け売りひとつとして,その「解雇規制の緩和」を再度,自民党総裁選でぶち上げた。ところが,当人自身が実は,そのことばの意味をよく理解していなかったのだから,世間のほうからは非難ごうごう,猛烈な嵐のごとき反撥が湧き上がってきた。この点は,あまりにも当然のなりゆきであった。
c) ちなみに竹中平蔵は,出身大学の一橋大学に提出した博士論文はなぜかその審査に合格しなかった,という非凡な経歴の持主であった経済学者であった。
ただし竹中平蔵は1994年,大阪大学から博士(経済学)の学位を取得していた。学位論文は『日本経済の国際化と企業投資』であった。つまりは「捨てる神あれば拾う神ありか」ということであった。
その程度の “不可解さを湛えたゆえ,学識水準に疑いをもたれかねなかったそうした人材” が,これまた政治屋になって,この国の政治・経済をクタクタに疲弊させる旗振り役を,遺憾なくはたしていた。
21世紀になってからのこの国は,森嶋道夫『なぜ日本は没落するか』(岩波書店,1999年)を,文字どおり地でいくほかない歩みを,なぜか偶然ではなく着実にたどってきた。今年は2024年,この森嶋の本が公刊されてからちょうど四半世紀が経ったが。
小泉純一郎政権(2001年4月26日から2006年9月26日)のあいだすでに,日本の政治・経済は「自民党をぶっこわすのだ!」と叫んでいたこの純一郎の政権時に,「自民党ではなく日本そのもの」をぶっこわすだけに終始していた。
その後,民主党政権(2009年8月30日から2012年12月26日)が成立していたものの,売国的な立場を遺憾なく発揮した外務省体制などの「非国民的な執務志向」などにより,この政権は崩壊し,またその後にも統一教会味の自民党政権が復活したために,この国の政治と経済はいよいよ「衰退途上国」たる容貌をより明確に具現する経緯を歩むことになった。
d) 田代秀敏・稿「日本の没落を予言した2人の天才 森嶋通夫と小室直樹」『週刊 エコノミスト Online』2021年12月13日,https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20211221/se1/00m/020/028000c は,こう述べていた。
現在進行中である自民党総裁選は9月27日に投開票し,新しい首相に就く予定の自民党総裁を選出する段取りになっているが,小室直樹や森嶋道夫が確実に予告した21世紀のそれも第2四半期が最終的に区切られるころには本当に,この国はヨレヨレのクタクタ状態だらけの3流・4流の国家にまで落ちぼれる予兆を,確実に抱えている。
以上,本日(2024年9月23日)の幕開け的な記述をおこなってみたので,つぎは13年前に書いてみた内容のほうを以下に復活,再掲することになる。この国はいったいに,なにも変わっていないどころか,むしろ悪いほうへ悪いほうへと突きすすむばかりであった。
e) もうすぐ首相の任期を終える立場の岸田文雄は,今年の元日に起きた能登半島地震の被災地が,この9月下旬になって数日来,豪雨(線状降水帯)にみまわれ,その被災後の日常生活を仮設住宅で過ごしていた人びとが,こんどはなんと床上浸水の被害に呻吟している最中であっても,それでも自分としては部下に適切に指示を出しておいたつもりなのか,
さっさとアメリカ訪問にそれも嬉々とした表情を満面に浮かべて出かけていった。もちろん女房も同伴であった。過去3年間ほどの「通信簿」で,岸田文雄の首相としての為政ぶりを評価するとしたら,「1点ばかりか,ないしは赤点だらけだったその結果」などおかまいなしに,いまごろになってだが,夫婦でお手々つないでそれもかなり気取って訪米……。
いまや「3・4流の国家にまでなりはてさせた」自民党政権の責任はとてつもなく大きいのだが,この首相は「世襲3代目の政治屋」として,どうみても庶民たちの生活感覚とは完全に隔絶した世界に生きていた。
以前,自分の息子を「首相秘書官」にとりたてていたが,手前味噌の縁故採用どころか,内政の私物化・自営化もはなはだしい迷采配ぶりであっただけに事後,みごとに「失敗する人事となった結果」を呼びこんでいた。
しかも,岸田文雄はその息子のを「世襲4代目の政治屋」(自分の後継者)にするつもりなのだから,周囲から観たら「なにを愚かなことをするのか」というよりも,すでにいまから「完全にアウトで没収試合」みたいな悪采配を犯していた。それでいて当人は,その種の外部からの悪評など屁のかっぱという風情にもなっていたゆえ,世襲の政治家たちの常識のなさだけは,ひとまず一流品とみなせる。
f) 要は,世襲政治屋の人間的な鈍感さ,神経のマヒぶりは目を覆わんばかりであり,結局は日本の政治をダメだらけにしてきた。広狭の定義の厳密さにもよるが,自民党国会議員のうちすでに世襲者が4割を超えた。このような世襲政治的な奇観を呈している国は,世界中で日本以外,どの国にもない。
このような国家体制をつづけていくなかで自家中毒を起こすほかない政治制度をこのまま放置していたら,森嶋道夫『なぜ日本は没落するのか』1999年の予告は,2050年よりも早めに実現させられるハメになる。
※-2 藤本篤志『社畜のススメ』新潮社,2011年11月20日
紀伊國屋書店 bookweb に紹介されている本書の「詳細」は,こう解説していた。
「社畜」なんて哀れで情けない存在だ-。この「常識」は本当なのだろうか? 「自分らしさ」を必要以上に求め,自己啓発書を鵜呑みにすることから生まれるのは,ずっと半人前のままという悲劇だ。
そこから抜け出す最適の手段は,あえて意識的に組織の歯車になることである。「ワーク・ライフ・バランス」「残業は悪」「転職によるキャリアアップ」等の美辞麗句に踊らされない,現代サラ リーマンの正しい戦略を指南する。
本書の目次はこうなっている。
著者の藤本篤志〔フジモト・アツシ〕は, 1961年大阪生まれ,大阪市立大学法学部卒,USEN取締役,スタッフサービス・ホールディングス取締役を歴任し,2005年(株)グランド・デザインズを設立して代表取締役に就任。
藤本の人物紹介については,その後に公表されていたつぎの説明も参照されたい。
この藤本篤志『社畜のススメ』新潮社は2011年11月20日に発刊されたいたから,いまは約13年も経った時点にいる。どうだろう? 私はいつまでも非正規雇用の立場に置かれてきたから,できたら「社畜でもいい正社員になりたい」などと希望する人たちが,いるかもしれない。
昨日(2024年9月23日)だったが,家の同居人が久しぶりに米をスーパーで買ったが,以前いつも調達していた特定の産地米ではなくとも,2千数百千円で買えた5㎏入りの米がなんと3千4百円に値上がりしていたとの話。
むかし,貧乏人は麦を喰えとのたもうた首相がいたが(池田勇人),マリー・アントワネットとみたく,パンがなければケーキを食べれば,などといった趣旨と,根本ではそれほど変わりがなかった。
しかし,最近までつづいたそれも安倍晋三の第2次政権以降における日本の国民生活としての消費実態は,「3食にも事欠く人たちがけっこうな人数厳在する事実」をもって,いまでは「衰退途上国」としての実感をさらに強くだが,それも日常的に感じさせるほかない状態にまで落ちこんできた。
自民党の裏金問題は実質,その事実を真摯に解明し,なおかつ反省する余地すら,いっさいもちあわせない自民党議員たちの存在によって,日本社会の上下分断化現象を当たりまえの様相だとまでみなす「彼らの観念」を浮き彫りにしている。
いわゆる格差社会の問題だといわれてもなんのことやら,よく判らないという向きには,ひとまずつぎのように説明しておきたい。日本の格差社会の原因としては,とくに経済格差の要因からその背景を説明すると,こうなっていた。
経済格差とは,個人や国,地域などの間に生まれる経済力の差を指す。具体的には,すでに保有している資産や所得の差,生活環境の優劣などになる。
この経済格差が広がると,学習意欲や就労意欲があっても,教育や雇用の機会に恵まれず,低賃金・重労働の仕事にしか就けない人が増加し,その結果,貧困の連鎖から抜け出せなくなってしまう。
この経済格差によって生じるさまざまな不平等は,個人のみならず,国や社会全体の成長にも悪影響を及ぼしていくことになる。
とりわけ,層の厚い外部労働市場の発達が,非熟練労働者を過剰にさせてきた結果,相対的に非熟練労働者の賃金は低下するのに対して,熟練労働者の賃金は引き上げられるので,賃金面の格差がさらに拡大する。
註記)「経済格差とはどのような問題?」『PLAN INTERNATIONAL』2023年07月21日更新,https://www.plan-international.jp/social_issues/meaning-economic_inequality/ 参照。この記述からはつぎの統計図表を借りておきたい。
※-3 社畜ということばの由来
1) 佐高 信
社畜ということばは,佐高 信の造語といわれているが,ウィキペディアで「社畜」の説明を聞くと,こう書かれている。
2) SF・SM小説『家畜人ヤプー』
a) ここまで記述したところで〔2011年当時だったが!〕,本ブログ筆者の記憶をよぎったのが,沼 正三の長編SF・SM小説『家畜人ヤプー』である。1956年より『奇譚クラブ』に連載され,その後も断続的に多誌に発表されたこの作品は,題名が実に奇抜である。
家畜人ヤプーの〈覆面作家・沼 正三〉は,奇天烈過ぎる性的倒錯と壮大な神話世界が濃厚に絡み合ったSF長編小説『家畜人ヤプー』(初版,1970年)を執筆しつづけ,稀代の奇書を,読書会の一隅にではあっても,その存在感を発揮してきたと呼ばれつづけてきた。
作者・沼 正三は正体不明の覆面作家とされていたが, 『諸君!』1982年11月号に掲載された記事が,つぎの画像でのように,とりざたされていた。ともかくその初版の出版時から数えると,今年は2024年で,その後すでに54年もの時間が経った。
『家畜人ヤプー』は,マゾヒズムや汚物愛好・人体改造を含むグロテスクな描写を含んでいる。長くなるけれども,ウィキペディアによって本書を解説してみたい。
-- 未来帝国EHS(The Empire of Hundred Suns イース:百太陽帝国,またの名を大英宇宙帝国)は,白色人種の「人間」と,隷属する黒色人種の半人間「黒奴」と,旧日本人である家畜「ヤプー」の3色の厳然たる差別の帝国である。
なお,日本人以外の黄色人種は,未来世界において滅亡している。日本人の人間性は否定され,類人猿の一種とされている。
ヤプーに対しては,EHSの支配機構は抵抗するものを屈服させるのではなく,あらかじめ白人を神として崇拝させ「奉仕する喜び」を教えこみ,服従を喜びのうちにさせる仕組である。
黒奴に対しては,巧妙な支配機構により大規模な抵抗運動はおこなえないようになっており,小規模の散発的抵抗がまれにあるだけである。ささいな過失などでも死刑に処されるなど酷使されるため,黒奴の寿命は30年ほどで,白人の200年より短い。
また,EHSでは女が男を支配し,男女の役割は逆転していた。女権主義の帝国である。EHSの帝位は女系の女子により引き継がれ,男性は私有財産をもつことすら禁止され,政治や軍事は女性のすることで,男性は化粧に何時間も費やし,学問や芸術に携わる。EHSではSEXにおいても,騎乗位が正常位とされるほど徹底している。
そして,家畜である日本人「ヤプー」たちは家畜であるがゆえに,品種改良のための近親交配や,肉体改造などを受けて おり,「ヤプー」は知性ある動物・家畜として飼育され,肉便器「セッチン」などさまざまな用途の道具(生体家具)や畜人馬などの家畜,その他数限りない方法により,食用から愛玩動物に至るまで便利に用いられている。白人たちの出産さえも,子宮畜(ヤプム)に肩代わりさせているほどである。
さらに,日本民族がもともとEHS貴族であるアンナ・テラスにより,タイムマシンの利用によって日本列島に放たれた「ヤプー」の末裔であること,日本神話の本来の物語の暴露,これにもとづく日本の各種古典の解釈がおこなわれる。
日本人青年の麟 一郎と,ドイツ人女性のクララのカップルが空飛ぶ円盤に遭遇したため,このような未来世界へいざなわれた。2人は未来世界で,さまざまな体験をする。クララは貴族として迎えられ,EHSの事物を満喫する。麟 一郎は心身を改造され,凄まじい葛藤を経て,みずからクララの家畜として生まれ変わる。その間,わずか1日であった。
b) この『家畜人ヤプー』の「ストリー(筋書)の発想」は,日本古代史から敗戦直後における日本国とアメリカ〔やその背後に控える黒幕:世界支配勢力〕との関係まで示唆している。
この作品が1956(昭和31)年に書きはじめられた時代的な前後関係から観察すれば,この奇譚小説はノンフィクションとフィクショ ンの〈はざま〉をさまようかのような筆致を特徴としていた。
c) 映画化された『猿の惑星』(1968年初作)の原本は,フラン人の原作者ピエール・ブールの実体験:「仏領インドシナにて現地の有色人種を使役していた」ところ,同じ有色人種である日本人の率いる軍の「捕虜となった〈立場の逆転〉の経験」をもとに描かれたという説もある。
しかし,実際にはブールを捕虜にしたのはヴィシー政権下のフランス軍であった。それにしても,『家畜人ヤプー』における「白人種」に対する「黒人種・黄人種」の上下関係が,『猿の惑星』では「猿」に対する「白人」の上下関係に逆転しているところが興味深い。
d) 右側に「角川文庫」版の表紙カバーを紹介しておく。本ブログの筆者は,本書『家畜人ヤプー』を1970年に都市出版社が発売した〈版〉で読んだ記憶があるが,だいぶ以前に古本として処分してしまっていた。奇譚本ということで蔵書に残しておく価値を認められず,読了後さっさと始末したものと思われる。
2) 作者は誰か
a)「沼 正三」(ぬま・しょうぞう) 日本の小説家で主に,1956年から『奇譚クラブ』に連載された小説『家畜人ヤプー』によりしられるが,覆面作家として活動し,その正体には諸説あるという。
これまでに沼 正三の正体とみなされた人物には,三島由紀夫,奥野健男,武田泰淳,澁澤龍彦,会田雄次,倉田卓次(前述の人物),そして沼 正三の代理人と称する天野哲夫などがいるとされる。
『家畜人ヤプー』の本当の作者が誰かという詮索よりも,前段に登場した人物たちの生年(年齢)と経歴をしれば,このような奇譚作品を登場させた「戦後日本社会の特徴」と併せて「考慮したい〈なにもの〉か」が,感じとれるはずである。
b)「三島由紀夫」(みしま・ゆきお,1925-1970年,本名:平岡公威〔ひらおか きみたけ〕) 日本の小説家・劇作家,戦後の日本文学を代表する作家の1人である。晩年は,自衛隊に体験入学し,民兵組織「楯の会」を結成し,右翼的な政治活動をおこない,新右翼・民族派運動に多大な影響を及ぼした。
c)「奥野健男」(おくの・たけお,1926-1997年) 文芸評論家・化学技術者で,多摩美術大学名誉教授,最高裁判事の奧野健一を父とする。1960年代前半に「政治と文学」というプロレタリア文学以来の観念をきびしく批判し,民主主義文学を否定したことで文学論争の主役となった。
d)「武田泰淳」(たけだ・たいじゅん,1912-1976 年) 日本の小説家,第1次戦後派作家として活躍する。主な作品に『司馬遷』『蝮のすゑ』『風媒花』『ひかりごけ』『富士』『快楽』などがある。
1969 年10月からは,週の半分を過ごしている山梨県南都留郡鳴沢村の富士桜公園山荘からイメージを受け,太平洋戦争末期の富士北麓の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を文芸雑誌『海』に連載し,1971年に刊行した。
兄は水産生物学者・東大教授の大島泰雄。妻は随筆家の武田百合子,娘は写真家の武田 花。 伯父に,僧侶・仏教学者・社会事業家の渡辺海旭。
e)「澁澤龍彥」(しぶさわ・たつひこ,本名:龍雄〔たつお〕,1928-1987年) 日本の小説家,仏文学者,評論家。1961年,猥褻文書販売および同所持の容疑で現代思潮社社長石井恭二とともに在宅起訴され,以後9年間にわたり,いわゆる悪徳の栄え事件(サド裁判)の被告人となる。
f)「会田雄次」(あいだ・ゆうじ,1916-1997 年。→写真) 日本の歴史学者。保守派の評論家としてしられた。専門はイタリア・ルネサンス研究である。中年以降は日本人論,日本文化論で多くの著作を出し,『日本人の意識構造』では,ルース・ベネディクトの日本論を批判した。
1943年に応召し,ビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍するが,イギリス軍の捕虜となり,1947年に復員するまでラングーンに拘留された。この時の捕虜体験をもとに書かれたのが,中公新書創刊とほぼ同時に出された『アーロン収容所』である。
g)「倉田卓次」(くらた・たくじ,1922-2011年) 東京都出身の元裁判官,元公証人で,弁護士になり,著述家でもあった。ハードSF研究所客員研究員。法律書にくわえ,裁判官生活をめぐるエッセーや幅広い分野の読書をもとにしたエッセーの著者としてもしられる。
3) 時代の影響
いずれの人物も「戦前 ⇒ 戦時(戦中)⇒ 戦後(敗戦後)」を生き抜いてきた作家・知識人たちである。「敗戦を契機=区切り」とする日本の政治社会のめまぐるしい大変動が,多情多感な青少年期にあった〈彼らの意識・精神〉に与えた衝撃は,けっして小さいものではなかった。
当時,彼らが目の当たりにした日本国は,アメリカを中心とする連合軍の占領・支配・統治に置かれており,ひどくみじめな姿に映るものであった。
敗戦という出来事を契機に, 青少年の時期をとおして,確実に舐めさせられた『敗北感・汚辱感・劣等感』は,その後における彼らの文化人としての活躍に多大な影響を及ぼした。
敗戦体験 にもとづくところの複雑に抑圧された潜在感情が,直接と間接とを問わず,彼らの意識構造の内奥に蓄積させられていたはずである。
実在の判らぬといわれる「作家の沼 正三」が,1956:昭和31年から『奇譚クラブ』誌上に小説『家畜人ヤプー』を連載してきた。その〈発表の方法〉からして,一筋縄ではいかない彼ら集団の特性を,うかがわせていた。
旧大日本帝国から新日本国への時代的な大転換のなかで,どうもすっきりさせえなかった「この国の戦争責任の果たしかた」に関しても,なにかひどく拘泥したかのような,鬱積した雰囲気がそこには匂っていた。
※-4 藤本篤志『社畜のススメ』新潮社,2011年11月
1) 「守・離・破」(世阿弥)に学ぶ
本書で藤本は,いまどき「就活」ばやりの大学生などを,しっかり念頭に置いた議論を展開する。以下は,この本の目次に沿って記述していく。
第1章「『自分らしさ』の罪」では「いきなり『自分らしさ』を欲しがるな」と警告したうえで,あえて「会社という組織の1歯車として存在すること」(15頁)を覚悟しろ,と訴えている。
「組織での生き抜きかたで必要なのは」「どのように世間を渡っていくかのノウハウでは」なく,「大切なのは」「どのように自分と組織が折りあいをつけるかで」ある。
つまり「『自分』はかえず」「世間をすり抜けていくイメージ」と「所属する組織に合わせて」「ときには『自分』のかたちを無理してでもかえていくというイメージ」(19頁)とを確実に区分・認識したおいたほうが得策と薦めている。
こういうのである。「スタート時点で」は「自分らしさにこだわらない若者のほうが」「基礎知識をすんなりと身につけ」ることができる(20頁)。
もとより「就活プロセスで手に入れた『やりたいこと』と実際に与えられる仕事にギャップが生じることは珍しく」ないのに,「そのとき『自分らしさ』にこだわる」のは,みずから「不幸を招いてしまう」こと(27頁)を意味する。
第2章「個性が『孤性』になる悲劇」は,日本式経営のいわゆる〈三種の神器〉である『終身雇用制-年功序列賃金制-企業別組合』(これを藤本は「会社人間として働く姿勢」といいかえている)』に関連させて,こう述べている。
バブル崩壊後,右肩上がりの経済環境ではなくなったとたんに,日本人みずからの手でそれらの特徴を放棄するに至った。キャリア志向を是とする転職ブー ム,360度評価や成果主義制度を導入する企業の増加など,いきづまった日本人は欧米の制度や思想に飛びついた。その結果,「会社人間」ではなく「個性人 間」をめざすサラリーマンが急増した。
しかし,それでどうなかったかといえば,会社もそこで働くサラリーマンもむだに疲弊してしまったのではないか? 「個性人間」をめざしたとき,その人のサラリーマン人生には,大きな落とし穴が待ちうけているのであるが,この点に多くの人が気づかない。とくに若いサラリーマンやこれから社会人となる若者に,その傾向が顕著である。個性とはなにか?(32頁)
藤本いわく「個性」には「弊害」があり(35頁),「個性は『孤性』に変貌しやすい」のだから,若者の「成長のヒントは模倣にあ」る(39頁)ことを踏まえたうえで,「努力を積み重ねる秀才型をめざすべき」である。天才ではないわれわれは「秀才になるチャンスはすべての凡人にある」からである(41頁)。
第3章「会社の『歯車』となれ」は,読んで字のごとくである。「侵入社員の大半は,ソフトバンクやマイクロソフトやフェイスブックの創業者みたいな人では」なく,ごく「ふつうの若者で」ある。「企業でいきなりポジティブは意味での『個性』を発揮することなんてできっこない」(55頁)。
東日本大震災のとき大活躍した防衛省自衛隊が例に挙げられ,「若者は会社の歯車から始めるべきだ」という認識をもち,新入社員にはとくに服従が求められるとも強調する(56頁)。
藤本はとくに「守・離・破」(世阿弥)に学ぶ「自分らしさの作用」を強調する。若者にいつまでも「歯車でいろ」「いつでも服従しろ」といっているわけではない。
その「守・離・破」とは「人が成長していくプロセス(過程)の需要性を説い」ており,およそはつぎのような特徴をもってその時期が区分できる(59頁)。
【参考画像】 -歯車2種-
☆-1 「守」は,師に求められたとおりの動き,かたちを忠実に守る段階である。→「入社から若手の時代」。
☆-2 「破」は「守」で身に付けた基本に自分なりの応用をくわえる段階である。→「中間管理職の時代」。
☆-3 「離」は,これまでのかたちに囚われず,自由な境地を至る段階である。→「経営側もしくは独立する時代。」
ただし「『破』には全員が進めても」「『想像力』『先天的なセンス』が要求される段階である」「『離』に進める人は,ほんのごく一握り」である(65頁)。
ここに指摘される事実は若者であってもすぐに理解できると思う。
2)「社畜のすすめ」
藤本はあえてこう主張する。「歯車になれ」「サラリーマンは社畜をめざせ」。つまり「能動的な社畜」というイメージをもて(!)というのである(80頁)。
というのは,新入社員を胎児に譬えてみればよく,この時期はまさに「守」の時代である。取捨選択〔えり好み〕をする権限がない(81頁)。
胎児が生まれて体外に出たあとも「親の方針が子どもの成長に大きく影響する」。「子どもが」「健全に成熟する確率は」「親が与える栄養そのもの」に拠っている。ここで「親に相当するのが会社,もしくは上司で」あり,「栄養とは,経験を含めた知識で」ある(82-83頁)。
「まじめに仕事にとりくんでいる人ならば,必然的に社畜の要素をもってしまうものなので」あるから,「社畜時代は成長の礎」ともいえるわけである(90頁,93頁)。
第4章「ビジネス書は『まえがき』だけ読め」は,まず勝間和代〔←天才型の経済評論家〕も,自分が「守」であった時代,「歯車=コモディティ(汎用品)」 であった時期を体験したからこそ,「そこから脱することもでき」「いまのような成功」もありえたと,藤本は分析している(96-99頁参照)。
藤本は,新入社員向けの岩瀬大輔『入社1年目の教科書』(ダイヤモンド社,2011年5月)をとりあげ,「なにがあっても遅刻はするな」「メールは24時間以内に返信せよ」「宴会芸は死ぬ気でやれ」「新聞は2紙以上,紙で読め」など,ちょっと意表を突くものものまで「(一生使える)50の指針」が挙げられていると,褒めている(101頁)。
岩瀬の本は「仕事のやり方がかわると,見える世界もかわる」と,若者=新入社員に向かっていいたいのである。
3) ウソに騙されないための社畜の心構え
第5章「この『ウソ』がサラリーマンをダメにする」がとりあげている項目(109頁~)は,「自分なりに」のウソ,「開放的で自由な職場」のウソ,「派閥は悪」のウソ(→派閥が組織からなくなることはないし,派閥がないとまとまるものもまとまらない。したがって)「派閥内の力学をしっておく必要がある」(120-121頁)。
要は「組織というものは」「正論だけでは」「動かない」(126頁)。
さらにつづける。--「社内の人と呑むな」のウソ,「公平な人事評価」のウソ,「一芸に秀でよ」のウソ,「成果主義」のウソ,「学歴神話崩壊」のウソ(☆),「終身雇用崩壊」のウソ,「残業ゼロをめざせ」のウソ,「ワーク・ライフ・バランス」のウソ,
前段で(☆)を 付した項目について若干補足したい。
「東大生(京大生)はキャリア初期において」「性能抜群の歯車になる確率が高い」
「実務のみにフォーカスしたばあい,呑みこみの早さ,仕事実務の正確さは群を抜いている」
「また,多芸に秀でてい」て「地頭が鍛えられている」
「文章の読み書きに強い,科学的な検証系の考えかたにも慣れている」
「つまりその部署に配属しても,一定レベルをクリアすると考えられる」
「くわえて,基礎問題のみでなく応用問題にも対応できるように勉強してきた経験」もあり,「知識探索力も」「すでに高いレベルに達している可能性が大で」ある。
そうかといっても,「彼らのなかには問題がある人はい」る。しかし,逆に「学歴が低いから性格がいいという法則は存在し」ない。
注意したいのは,「サラリーマンになってからの猛特訓」は「なんのことはない」「東大生が子どものときにやっていたことと同じ」なのである。彼らには「結果的に」「仕事本位でシャープに動ける体力,知力が身に付」いている。
だからといって,東大生以外にも「そのハンディはとり返せるということを信じること」が必要であって,「事実とし ての学歴と真正面から向かいあうべき」である。これは「スポーツの世界と同じで」あって,「センスがなくても猛特訓でレギュラーをとればいいので」ある。
「その」「努力の結果,サラリーマンとしての充実した事件を手に入れることができて初めて,『学歴など関係なかった』といえるようになる」(144-148頁)。
4) 藤本『社畜のススメ』の結論
第6章 「『クレバーな社畜』がベストの選択」は,「ダメな社畜にならないために」議論をし,「めざすべきは,クレバーな社畜で」あることを推奨する。以下に列挙したのがそのために守るべき諸條件である(172-182頁)。
終章「運,縁,恩」は,この表題に出ている字の意味のとおりであるから,とくに引照はしない。1箇所だけ引用する。「サラリーマンは会社から与えられたすべての知識をバトンに詰めこんで」「『縁』のある人にそのバトンを渡す役割も担っている」(187-188頁)。
もっとも,この最後に出てきた「バトン・リレー」の基本精神は,新入社員の立場にあっては,すぐにはなかなか理解してもらえないのではないか?
以上のごとき「社畜」に関した議論・説明は,つまり正規雇用の労働関係にある従業員にしか通用しない。非正規雇用の立場にある労働者たちにとって,以上の教訓的な話題は多分,すべて「蚊帳の外」に居るしかないこちらの労働者階層(階級)の立場ゆえ,すべてむなしく響く。
つまり,「社畜になりたくてもなれない」「大きな数の一群」が非正規労働に従事する人々として実在する。
新入社員は,藤本が議論し,主張している中身をなるべく早めに,それも実感が伴わなくてもよい,頭でのみ観念的にでもいいから,ともかくさきに理解しようと努めることが,なによりも一番肝要であるかもしれない。これが,本書『社畜のススメ』を読んでの〈要約的な感想〉となった。
--なお,本日の標題のなかには「国畜」という文字も入れてあったが,直接議論していない。ここで出したからには,一言だけ申し添えておく。
5) Mr. デブは唯一「あの1人しか」その存在を許されない偉大な独裁国があった
2011年12月17日,北朝鮮の最高責任者である「総書記 金 正日」が死んでいた。この似非社会主義的な反民主主義国家体制のなかでの悲惨な人民たちは,意識的にこの高度独裁国家体制のなかでは「国畜」になっていなければ,自分の生活はおろか生命じたいさえ護れないという,非常にきびしい四囲の〈政治的状況〉に置かれていた。
当時の北朝鮮に関しては「金 正恩氏,住民配慮を演出 食糧配給指示,恩恵は平壌のみ 」という報道がなされていた。
かの国では,藤本『社畜のススメ』のような議論などであっても,論外,法外,埒外あつかいされるし,実行しようとしたら,まず命の保証はない。北朝鮮という完全な独裁国に属する国畜よりも「日本」の社畜のほうが,むろん,数段マシである。あちらの国畜(奴隷?)になると家畜以下。
もっとも,最近では,日本の労働者・サラリーマン諸氏が社畜になりたいと希望しても,なかなか実現しそうにない「産業経営的な労働をめぐる情勢」に変化していた。つまり,前段でも言及したとおり,社畜になれる有資格者は正規社員に限るということであった。
なんといっても,ペットまでが生活習慣病にな〔れ〕る国,これが,わが側の日本「国」であった。世界には体重が13㎏にもなった猫がいたとかで,この種の話題にはこと欠かないものがある。
ところが,かの国では,ただ最高指導者のみが超肥満者になれる資格をもっている。
つぎの写真をみる。このオデブちゃんから少し離れてまわりに座っている全員,「いわゆる,スレンダーな〈健康体〉である」「年配:壮年の男性(軍人)たち」は,座っている座席の配置の関係でいささかみにくいのだが,ともかく,この正面に座っている人物ほどのデブ1人とはきわめて対照的な体躯の持主である。その意味で非常に健康的にみえる。上半身の一部しかみないでもそのように断定できる。
かの国においてはおそらくほかには,これほどのデブは誰1人いなかったはずである。公式見解としても「これくらいまでの肥満体の人間」は存在しえないものである,としか答えが返ってこないかもしれない。もっともそのような質問を大真面目にしたら,かの国にでは,命がいくつあっても足りなくなる。
ところで,まわりに同席しているきれいなお姉さんたちのうち,正恩の(向かって)左側にいるのは,妻の李 雪主(리 설주)。
一番目の写真のなかでの「男性:彼ら」は,あたかも「彼:デブ」の引き立て役であるかのように映ってもいた。したがって,この種の写真はコッケイを通りこして,風刺漫画の材料でしかありえないはずである。しかし,この手の写真であっても大まじめで公式に流通させられる国が,この地球上にはこのとおり存在している。
要するに,奇譚小説の創作話には及ばない実態しかないけれども,その亜種的に実現されていた国家が北朝鮮である。ヤプーを真似て,この国を「ノース・コプー」とでも命名しておくべきか。
いずれにせよこの国日本は,まさに「しっかりと・ていねいに」「落ち目の衰退途上国になるように進んできた」。21世紀のいままでのところ,この「〈神州〉日本」はその実態としてしばらくは,まだなんとか「疑似先進国」でありえるかもしれないが,
昨今にあっては,2010年代に安倍晋三流の独裁的政治がまかり通ってきた結果(これには岸田文雄の「昼間の幽霊」みたいな国家運営が連続させられてきたけれども),つまりは,彼〔アベのこと〕のデタラメ為政のせいで,前途に待ちかまえている「歴史の空間」は,単なる暗がり(暗渠)になってしまった以上,そこには事前に可視できるものが皆無になっていた。
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