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最高裁長官時代の田中耕太郎は,この「敗戦した日本国」を対米従属路線に投錨させ,亡国官僚となった確かな記録

 

 ※-1 敗戦後史のなかで政治家として行動した最高裁長官田中耕太郎は,対米服属国家体制の構築と固定化に尽力し,日本国憲法を溶融させた              

 最高裁長官田中耕太郎の非行「解釈指示論」に関する批判的検討を,「1950年から10年間,最高裁長官を務めた田中耕太郎の無法ぶりに即して議論する。以下に田中の画像と略歴を紹介しておく。
 付記)なお,本記述は初出 2014年2月21日,更新 2022年5月3日,そして本日 2023年4月19日に再更新している。冒頭の画像とはだいぶ印象が異なるが,つぎの写りのたいそうよい田中耕太郎の画像を,以下に紹介しておく。

田中耕太の肖像的画像
田中耕太郎・略歴

 ※-2「ホワイト・パージ」から「レッド・パージへ」

 2013年8月,明神 勲『戦後史の汚点 レッド・パージ-GHQの指示という「神話」を検証する-』大月書店,という著作が公刊されていた。

 同書は,1950年代史における最高裁長官田中耕太郎の軌跡,すなわち,「砂川事件裁判指揮」にもかかわっていたその「司法行政長としての行為」を,「非行」だと論断する立場からレッド・パージ史を解明していた。敗戦後における日本の政治社会史を大きく左右したレッド・パージの展開において,田中耕太郎の残した「重大な責任:汚点」を追究したのである。

 【断わり】 本日の記述中においては,明神『戦後史の汚点 レッド・パージ』の引用箇所は,あえて示さず,読みやすさを優先するために,そうしてみた。

 明神の同書は,戦後史の汚点であるレッド・パージ史を,以下の4期に区分している。

  ◎-1「1949年の〈行政整理・企業整備〉」
  ◎-2「1949-1951年の教育界におけるレッド・パージ」
  ◎-3「1950年7月,マスコミ関係から民間産業,官公庁に
        及んだレッド・パージ」
  ◎-4「公職追放によるレッド・パージ」 

 そして,このレッド・パージの終期を1951年9月,つまりサンフランシスコ講和条約調印の時期まで繰り下げている。また,日本政府側においてその間,レッド・パージの推進者になった主な人物として,とくにつぎの3名を上げている。なお( )内は任期など。

 ☆-1 芦田 均 第47代内閣総理大臣(1948年3月-1948年10月)

 ☆-2 吉田 茂 第45代内閣総理大臣(第1次吉田内閣 1946年5月-1947年5月),第48代内閣総理大臣(第2次吉田内閣 1948年10月-1949年2月),第49代内閣総理大臣(第3次吉田内閣〔改造3回〕 1949年2月-1952年10月) ,第50代内閣総理大臣(第4次吉田内閣 1952年10月-1953年5月),第51代内閣総理大臣(第5次吉田内閣 1953年5月-1954年12月)

 ☆-3 田中耕太郎……文部大臣(1946年5月-1947年1月),最高裁判所長官(1950年3月-1960年10月)

 敗戦後占領初期の1946〔昭和21〕年から始まった軍国主義者・超国家主義者のパージ=「公職追放」,いわゆるホワイト・パージは,GHQの同年1月4日付覚書による公職追放指令を起点とし,さらに追放対象を拡大した,翌1947〔昭和22〕1月4日公布の第2次公職追放令にもとづき実施された。

 その結果,職業軍人,政財界指導者,高級官僚,マスコミ関係者,企業・金融関係者から町村長次元に至る約21万名が公職から罷免され,官職から排除された。公職追放は,ポツダム宣言に基底に基礎を置き,「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」(1945年9月22日)においても,日本の非軍事化・民主化を達成する主要手段のひとつに位置づけられていた。

 しかし,このホワイト・パージは,公職追放者が軍人・超国家主義者および戦時政府の協力者に偏り(全体の97%超),「官僚,事業家・金融関係者・産業人・言論報道関係者の指導者クラスとして追放されたのは,総数の約2.5%にも及ばなかった」

 くわえて,追放解除が当初の計画に反して数年を経ずして開始され,1949〔昭和24〕年以降,急速に進行し,講和条約発効までに解除されなかったのは,21万名中わずか8710名に過ぎなかった。講和条約発効とともにこれら残る全員の追放も解除され,公職追放は廃止されてその歴史に幕を閉じた。

 結局,1948〔昭和23〕年から1951〔昭和26〕年にかけて,一方における「右に対する公職追放である〈ホワイト・パージ〉」の停止・解除と,他方における「左に対する追放である〈レッド・パージ〉」の開始・展開が逐次に進行し,公職追放という戦後日本の政治史の舞台に登場する人物たちを交代させていった。これは,占領政策の転換を象徴的に物語っていた。

 ※-3 レッド・パージの概要

 レッド・パージとは,冷戦の激化と占領政策の転換を背景に,占領後期の1949〔昭和24〕年7月から1951〔昭和26〕年9月まで,GHQの督励・示唆のもとに,日本政府や企業が共産主義者および同調者とみなしたものを,「政府機構の破壊者」,「生産阻害者・企業破壊者」「社会の危険分子」「アカ」などの名のもとに,

 民間企業や官公庁から約3万名の公務員・労働者・労働組合幹部・共産党幹部・在日朝鮮人団体幹部などを一斉に追放(罷免・解雇)した反共攻勢であり,「思想・良心の自由」(憲法第19条)を蹂躙した戦後最大の思想弾圧事件である。

 第2次大戦後に形成された米ソ冷戦,この国際的緊張が高まるなかで,この時期はアメリカ主導による反共攻勢により,世界的にレッド・パージ現象が現われた。

  ♠-1 イタリア・フランスが,マーシャル・プランとの関連でのレッド・パージ。
  ♠-2 イギリスは,アトリー首相の「治安に関する声明」(1948年3月)によって,共産党員・同調者が国の安全に緊要なる性質の職に就くことを禁じた。

  ♠-3 オーストラリアの共産党解散法(1950年10月。1951年3月連邦高等法院で無効判決)。
  ♠-4 南アフリカにおける共産党非合法化法(1950年6月)。

  ♠-5 ベルギー政府による公務員のレッド・パージ声明(1950年9月)。
  ♠-6 西ドイツにおける共産主義者の就職禁止法(1951年)の制定。

  ♠-7 アメリカでは早く,1947年から「前マッカーシズム」の動きが台頭し,1950年マッカーシーの登場によって頂点を迎える。
  ♠-8 日本は,アメリカ主導によるこれら世界的反共攻勢の一環をなしていた。

 このレッド・パージは2次にわたり実施された。

 まず,1949年の「経済9原則」=「ドッジ・ライン」にもとづく「行政整理・企業整備」の実施過程において強行された。これは,大量の人員整理のなかに意図的に,共産主義者と同調者とみなした者を含ませるかたちで遂行した「事実上のレッド・パージ」であった。

 ついで,1950年,共産党幹部の公職追放を指示したマッカーサー書簡を起点に,法で報道機関から始まり民間企業・官公庁に及んだ「公然たるレッド・パージ」(第2次レッド・パージ)が朝鮮戦争下で進行した。

 さらにまた,公職追放というかたちでのレッド・パージ(事項※-4の◆)が,1949年9月から1951年9月にかけて実施された。これは,占領初期に超国家主義者・軍国主義者の追放の根拠とされた SCAPIN-550「公務従事に適さざる者の公職からの除去に関する覚書」にもとづく,

 前述にあった「公職追放令」(勅令109号「就職禁止,退官,退職等に関する件」1946年2月),および SCAPIN-548「政党,協会,及その他の団体の廃止に関する覚書」にもとづく勅令101号「政党,協会その他の団体の結成の禁止等に関する件」(1946年2月)などを改正した「団体等規正令」(政令第64号,1949年4月)を,共産主義者に向けたものである。

 補注)SCAPIN とは,連合国最高司令官指令(Supreme Commander for the Allied Powers Directive)を指し,連合国最高司令官(SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers)から日本国政府宛てに発せられた,基礎的施策を定めた指示およびそれを拡充する訓令である。 

 当該指令にかかわる文書には SCAP Index Number と呼ばれる番号が「SCAPIN-○○」というかたちで付されており,「SCAPIN」(スキャッピン)と通称された。「連合国軍最高司令官指令」や「連合国軍最高司令部指令」と呼ばれることもあるほか,「対日指令」とも略称される。

 なお,行政的(administrative)な指示であり,「SCAPIN-○○A」という形で SCAP Index Number が付される「SCAPIN-A」とは区別される。
 註記)以上,補注の説明はウィキペディアの「SCAPIN」による。
 

 ※-4 レッド・パージの5つの類型とその段階

 前段の後半に言及されたレッド・パージ(◆)は,つぎの5段階(5類型)に整理(分類)される。

 ◎-1「1947年7月-12月」
 「行政整理」(官公庁・地方自治体等で17万名余)で約1万名,「企業整備」(約43万名)で数千名以上の共産党員・同調者とみなした者を追放した。これは,大量の人員整理のなかに共産党員・同調者を含めた,事実上のレッド・パージであった。

 ◎-2「1949年9月-1950年3月」
 初等中等学校教員レッド・パージで約千百名から千2百名を追放した。これは「不適格教員整理」の名目によるレッド・パージであった。

 ◎-3「1949年9月-1951年3月」
 イールズ声明を起点とするCIE-連合国軍総司令部幕僚部民間情報教育局 (Civil Information and Education Section) -主導になる,大学教員のレッド・パージで,数十名を追放した。旧制高校・専門学校から新制大学の移行にさいし,共産登院とみなした者を排除した,事実上のレッド・パージであった。これは,国鉄からJRへの移行のさいの不当差別差別と同類であった。

 ◎-4「1950年6月-12月」
 マッカーサー書簡による共産党中央委員の公職追放を起点に,新聞・放送から全産業に拡大したレッド・パージで,約1万2千名を追放した。公務員については「共産主義者の公職からの排除に関する件」(9月5日閣議決定)にもとづき約千2百名を追放した。これは,公然として文字どおりのレッド・パージであった。

 ◎-5「1949年9月-1951年9月」 
 公職追放によるレッド・パージである。在日朝鮮人連盟および在日朝鮮民主青年同盟幹部28名(1949年9月8日)をはじめに,マッカーサー書簡による共産党中央委員24名(1950年6月6日),『アカハタ』編集委員会幹部17名(1950年6月7日),全労連幹部12名(1950年8月30日),谷口善太郎共産党衆議院議員(1950年6月29日),そして,共産党臨時中央委員会幹部19面(1951年9月6日)で,合計101名を追放した。これは,公職追放令を逆用したレッド・パージであった。

 以上に参照してきた明神 勲『戦後史の汚点 レッド・パージ-GHQの指示という「神話」を検証する-』は,もちろん,以上の「レッド・パージの5つの類型とその段階」を,さらに詳細に究明している。ただしここでの筆者の関心は,こうした1949年から1951年にかけてのレッド・パージの概要をしれば,十分である。

 とくに関心を向けたいその時期における問題の焦点は,1950年3月に最高裁長官に就任していた田中耕太郎が,このレッド・パージの歴史的な展開にどのように関与していたかを,前節までの論及と関連させて検討するところにある。

 レッド・パージという歴史の記録に関した明神の議論全体にまでは言及しない。ただ,田中耕太郎に関する論及に当たっては,明神がこう指摘することに注意しておきたい。

 「戦後の吉田 茂」は,いわば「不逞の輩」に対峙した「臣 茂」であり,そして「対米従属・協調的帝国主義者」であったと同時に,戦後「改革に面従腹背」でもあった点を強調している。
 

 ※-5 マッカーサー書簡

 占領期においてマッカーサーが出した指令や書簡に関する解釈が問題となる。マッカーサー書簡の場合,共産党中央委員会委員の追放や『アカハタ』などの無期限発効停止などの直接の指示事情だけでなく,「公共的報道機関」や「その他の重要産業」のレッド・パージをも指示したという〈公権解釈〉が問題となる。

 というのは,この解釈では,すべての分野のあらゆるレッド・パージの措置が有効とされ合法化されるゆえ,「解釈指示」の存否は,レッド・パージ裁判において大きな論点になっていた。

 肝心な要点は,「1950年7月18日付マッカーサー書簡」を,報道機関を越えて重要産業のレッド・パージにまで拡大したことにあり,これについては,法学者はもとより下級審においても批判的であった。

 どの書簡にあってもまったく言及のない,重要産業におけるレッド・パージの法的規範の設定を,マッカーサー「書簡の解釈」から導出するには,「逆立ちしてでも読まないかぎり広言できない」至難の業であった。

 報道機関経営者に対する「ネピア談話」と民間産業経営者・労働組合幹部に対する「ユーミス談話」があったものの,この2談話は,レッド・パージの法的規範の設定論にとっては十分ではなかった。

 そこで,「マッカーサー書簡」と「ネピア談話・エーミス談話」の限界を補い,すべての分野におけるレッド・パージを有効とする論拠として登場したのが,『解釈指示』の存在と,これを「顕著な事実」とする判示であった。

 この「解釈指示」の存在は約10年にわたるレッド・パージ裁判においては,まったく問題にされず,この最高裁決定で突如として登場した新たな「事実」であった。

 われわれはここで,当時の最高裁長官が田中耕太郎であり,任期が「1950年3月-1960年10月」であった事実にあらためて注目したうえで,明神 勲『戦後史の汚点 レッド・パージ』に記述されている,以下のような段落を参照することになる。

 さて,マッカーサー書簡の適用範囲をめぐる1958年までの判例の動向について,宮島尚史(1928年生まれ,学習院大学教授・労働法)はつぎのように述べている。

 レッド・パージがなされた昭和25年末頃と,昭和29年以降と時期的ならびに内容的に大きく2つのブロックに分かれる。

 前者すなわち昭和25年末頃のものは殆どが一般論としてマ書簡の超憲法性,したがってマ書簡に基づくレッド・パージが国内法の適用を排除する旨を説き……使用者側を勝利せしめた……。

 これに対して昭和29年以後のレッド・パージの判例は,多くはマ書簡の超憲法性を認めず……したがってレッド・パージについて憲法以下の国内法令,特に当該企業の労働協約,就業規則,解雇基準等の違反や該当性を問題にし……結果としては労働者の勝敗は半々位であった。

 こうした厳しい判例動向のなかで突如もち出されたのが,最高裁の「解釈指示」の存在であり,これは事実認定の争いを無用化し,すべての分野におけるレッド・パージを有効とするジョーカー(切り札)であった。

 さらに最高裁は,レッド・パージ裁判に決定的な影響を及ぼす「解釈指示」を,民事訴訟上証明を要しない事実とされる「顕著な事実」(「裁判所に顕著な事実」民事訴訟法第247条)として,いっさいの立証をおこなわなかった。

 これに対しては,法学者から多くの批判や疑念が出され,また下級裁判所や弁護団からの開示請求もなされたが,最高裁はいっさい応えなかった。そのため,裁判の行方を左右する重要な事実である「解釈指示」は,「神のみぞしる」という存在とされ,その存否を含めて多くの批判や疑念を起こさせた。

宮島尚史のレッドパージ・批判

 なかんずく,「解釈指示論」は論拠も説得力もとぼしい牽強付会の論であった。
 

 ※-6 ホイットニー・田中会談

 GHQの幕僚部民生局長コートニー・ホイットニー(Courtney Whitney)は,最高裁長官田中耕太郎を招致して会談し,そのさいノートや記録の残すことを禁止して,こう告げていたという。

 「経営者による共産主義者の指名解雇に疑義を差しはさんではならない」し,「経営者から解雇指名を受けた者は,それじたい共産主義者と考えられるから,裁判所はその事件に関与してはならない」。これを受けて田中も,高裁・地裁など下級裁判所にも口頭で,その趣旨を徹底させたのである。

 ホイットニーの高圧的な態度の背景には,こういう事由があった。

 当時の朝鮮半島における事態の緊迫性のもと,日本司法当局によるレッド・パージの合法性に対する疑義--日本国憲法第14条,同19条,労働基準法第3条違反であるから--,したがってレッド・パージをやるとすれば,共産主義という思想ゆえにではなく,非能率・勤務成績不良・就業規則違反・非協力・健康状態などの理由により解雇できる,という見解が提示されていた。

 レッド・パージによって裁判が起こされ,最高裁で決着をみるまで少なくとも2~3年がかかるとすれば,その間に反共派が指導権を握ってしまい,日本は共産主義の魔手から解放されている。レッド・パージ裁判をすすんで引き受けようとする弁護士も少ない。以上が,GHQ民生局の意図は十分に貫徹できるという成算であった。

 この記述は,竹前栄治『戦後労働改革-GHQ労働政策史-』東京大学出版会, 1982年に依拠している。

 竹前栄治が,GHQ幕僚部ESS(Economic and Scientific. Section:経済科学局)の元労働課労働関係係長〔兼課長代〕ヴァレリー・ブラッティ(Valery Burati)にインタービューをしたさい,レッド・パージ時における労働課の資料提供を受けた。

 そのなかに,当時ブラッティがアメリカ国務省国際労働課員フィリップ・サリバン(Philip Sullivan)に当てた何通かの書簡にひとつに,「ホイットニー・田中会談」にかかわる内容が含まれていた。この書簡をもとに竹前栄治は前段のような記述をしたのである。

 要は「法務局は,田中〔耕太郎〕が下級裁判所に文書によらずに指示しているものと考えている」というのであった。

 さて,さらに別のGHQ文書にみる「解釈指示」は,ホイットニー・田中会談に関して,ブラッティ書簡とは相当異なった様相を記録していた。

 1950年8月7日付「ホイットニー将軍と田中最高裁長官との会談」と題するネピア用の覚書(メモランダム)がそれであった。この覚書の現物(英文)は,明神『戦後史の汚点 レッド・パージ』の末尾に写真版で収録されている。

 この文書の冒頭には「田中最高裁長官の要請により行われた」と書かれていることに注意したいが,その要点は以下のように整理できる。

 a) ホイットニー・田中会談は,「解釈指示」をいい渡すためにホイットニーが招致したものではなく,1950年7月28日に実施された報道機関におけるレッド・パージについて協議するため,田中側からの要請により開催されていた。田中側の要請ということであり,田中の側からまず状況と問題点を提示し,これに応じてホイットニーが見解を述べるという関係で進行した「会談の記録」となっている。

 b) 田中が,報道機関のレッド・パージ裁判については,マッカーサー書簡にもとづき実行したい意向を示したのに対して,ホイットニーは同意を明言しないで,裁判所の「広い政治的手腕」の行使と助言(アドバイス)をしていた。しかし,それがGHQ指示による超憲法的効力論にもとづく措置までを含むものでなかったことは,ホイットニーが法的手続の遵守に発言から明らかであった。

  c) 田中はまた,これから始める重要産業における話題についても,自分の側からホイットニーの助言(Whitney's advice)を求めるかたちで語りかけていた。つまり,田中耕太郎は,これから始まる重要産業におけるレッド・パージに備え,新たなマッカーサー書簡の発出を求めていたのである。それまでのマッカーサー書簡によってだけでは,重要産業のレッド・パージを遂行するための法的根拠を与えられないことを,田中自身が認識していたことを示している。

 d) c) に対してホイットニーは,「1950年7月18日付のSCAP書簡は,法的根拠をもってはいるが,日本政府に対する指令ではない,と繰り返し述べた」とされている。その記録の趣旨は分かりづらいが,7月18日付マッカーサー書簡は,田中が問題にしている重要産業におけるレッド・パージを日本政府に指令していないと読みとるのが,記録の前後の記述からして,もっとも自然な解釈である。
 
 e) ホイットニーは,新たにマッカーサー書簡を発することには同意を与えず,「書簡の法的性格に注目して,広い視野に立った公共政策を定式化すべきである」と助言した。

  f)  最後に田中最高裁長官が「ホイットニー将軍の助言(his consul)に謝意を表し,問題をさらに検討するつもりである」ことを約して,会談は終了している。
 

 ※-7 ホイットニー・田中会談に関する2つの文書

 以上までの記述の内容・性格とは相当異なった文書が,GHQ参謀部の「GS文書」である。「ブラッティ書簡」は,ホイットニーが田中長官を招致して,高圧的にレッド・パージ裁判に関する口頭指示をしたとしているが,こちらの「GS文書」は正反対の様相を記述している。

 第1に,ブラッティ書簡は伝聞にもとづく間接的証言であり,歴史学においては第2次資料とみなされるほかなく,別の資料によって信憑性が検証される必要がある。それに対して「GS文書」は,会談に同席したGS職員が直接体験にもとづいて記録した公式文書であり,こちらは第1次資料と評価される。

 第2に,GS文書は,ネピアがその後の執務において活用することを目的に作成された「ネピア用の覚書(メモランダム)であり,事実関係における正確さを要求されていた。

 また,ブラッティ書簡は,裁判所がレッド・パージ有効の判決を下すことを指示したというけれども,「解釈指示」には直接言及していない。ここから,明神『戦後史の汚点 レッド・パージ』はGS文書に依拠して論述することを断わっていた。
 

 ※-8 『解釈指示』の実相

 田中耕太郎が最高裁長官として事後,レッド・パージ裁判向けに悪用していいった「解釈指示」について明神 勲『戦後史の汚点 レッド・パージ』は,以下の理由を挙げて,1950年8月7日のホイットニー・田中会談に源泉があったと特定する。

 第1に,8月7日の会談内容からして,それ以前に「解釈指示」がなされたことはありえない。もし,それ以前に「解釈指示」がなされていたなら,田中が電力産業などのいわる重要産業のレッド・パージに,マッカーサー書簡の発出を求めることはありえないからである。

 第2に,それ以降も「解釈指示」がなかったことを,1950年12月2日付「GS文書」が示している。

 1950年11月30日,最高裁判所樋口渉外部長は,レッド・パージ問題に関して裁判所が直面している諸問題について,ネピアの助言を求めてGS(参謀部)を訪れた。その問題のひとつは,民間重要蚕業におけるレッド・パージであったが,これに関連してホイットニーが8月7日に田中最高裁長官に述べた一文が再録されていた。

 この8月7日の「解釈指示」とされるホイットニーの談話がそのまま再録されているのであるから,その以降に「解釈指示」がなされたとは考えられない。

 a) この会談は,ホイットニーの招致ではなく,田中の要請があってもたれたものである。

 b) 重要産業のレッド・パージ遂行のために,田中は新たなSCAP指令を求めた。

 c) ホイットニーはこれを拒否し,重要産業については,これまでのマッカーサー書簡に対する裁判所の解釈によって,レッド・パージを遂行すべきであるという見解を表明した。

 d) それは「指示」ではなく,あくまで田中最高裁長安の「助言」(advice)の求めに応じた,ホイットニーの「助言」(his advice)に過ぎなかった。

 e) 全体を通して,マッカーサー書簡とGHQの権力にもとづき,レッド・パージを実施したいとする田中の要請に対して,ホイットニーはこれに同意を与えず,GHQの権力にむやみに頼らず,日本側がみずから工夫をして有効な策を考えるべきである,と応じている。これがこの会談の特徴である。

 つまり,報道機関のレッド・パージは7月18日付マッカーサー書簡で,重要産業のそれは新たなマッカーサー書簡で実施するという田中のもくろみは,ホイットニーの同意をえることに失敗していた。

 このホイットニー・田中会談は,最高裁決定が大上段に降りかざす「指示」ではなく,田中の求めに応じた単なる〈助言〉あるいは〈示唆〉であった。

 したがって,最高裁決定が判示したような性格の「解釈指示」は存在しなかった。最高裁が「解釈指示」なるものを証明を要しない「顕著な事実」としたのは,その証明がそもそも不可能であったからではないかと推測される。
 

 ※-9 田中最高裁長官の魂胆

 ホイットニーの「助言」=「示唆」が,なにゆえ,「解釈指示」に転じたのか。これについては,『最高裁でレッド・パージ裁判を指揮した』田中耕太郎最高裁長官(1950年3月-1960年10月在任)の役割と影響に注目する必要がある。

 主権回復前のレッド・パージ裁判ではたとえば,1952年4月2日の共同通信事件の最高裁決定があった。主権回復後それでは,1960年4月18日の中外製薬事件決定があった。この中外製薬事件の最高裁決定で原告敗訴が,以降の関連訴訟の判決の判例となった。

 10年前の亡霊のような「解釈指示」を援用したのは,最高裁長官としてこの裁判を指揮していた田中耕太郎であったと推測される。田中はなにせ「解釈指示」の当事者であった。

 田中は,すべてのレッド・パージをマッカーサー書簡,あるいはSCAP(連合国軍最高司令官)の指示にしたがい処理することによって,日本の裁判権の管轄外のものとしてとりあつかうことを強く望んでいた。

 彼は,1950年8月5日名古屋でのレッド・パージ裁判の問題に関して,「新聞,報道関係の追放については日本に裁判権があるかないかの問題もあり,解雇無効の仮処分申請も出ているので,帰京の上慎重に考えたい」と語った。だが,その真意は,1950年8月3日付「GS文書」が明らかにしている。

 要は,レッド・パージ裁判が共産主義の宣伝に使われないために,この事案を日本の裁判所からは管轄外に置くことが,同年年7月18日付のSCAP書簡の解釈から充分に適切なものと読みとることができる。

 1970年8月7日の「ホイットニーと田中長官との会談」における田中の意図は,こうであった。報道機関のレッド・パージ裁判は,1950年7月18日の「SCAP書簡」に拠っている。これに着目した田中は,その他の重要産業のレッド・パージ裁判も,この種の「新たな書簡」の発出によって実施したいと提案した。だが,この提案は実現できなかった。

 しかしそこで,1950年7月18日の「SCAP書簡」の延長線上において,その他の重要産業のレッド・パージ裁判がなされるように,みずからが裁判所全体に指示を,それも記録を残さない口頭の指示を出して,徹底させていた。ここには,田中最高裁長官の狙い目がのぞけている。

 つまり,GHQの指示を使用し,すべてのレッド・パージ裁判を超憲法的効力論を援用し,「法の支配」から排除する。これが,まさしくレッド・パージ裁判に秘めた《田中の魂胆》であった。
 

 ※-10 田中耕太郎の反共精神の《犯罪》

 田中は繰りかえし,共産主義に対する異常ともいえる敵愾心を表明していた。彼の信念は,ガリオア・プロジェクトの一環として派遣されたアメリカでの司法研究によって,さらに強められた。

 田中をはじめ,最高裁裁判官らの司法関係者は,1950年9月27日から11月18日の52日間,おりから「マッカーシー旋風」が吹き荒れていたアメリカで,「反共と法廷秩序維持」のための司法研究を受けたが,田中はこの体験を通して,「田中コート」の推進にいっそう邁進することになった。

 布川玲子(山梨学院大学元教授)は,アメリカ国立公文書館から入手して,ダグラス・マッカーサーⅡ駐日アメリカ大使から国務長官あての秘密書簡を明らかにし,当時において最高裁長官田中耕太郎が記録した驚くべき行動を報告していた。

 補注)この記述を更新するに当たり,ここでは,つぎの書評を紹介しておきたい。

 渡邊 健「布川玲子・新原昭治編著『砂川事件と田中最高裁長官 米解禁文書が明らかにした日本の司法』日本評論社,2013年11月刊,菊判,179頁,2,600 円+税」『アーカイブズ学研究』第20号,2014年5月。  ⇒ https://www.jstage.jst.go.jp/article/archivalscience/20/0/20_137/_pdf

 関連しては,この秘密書簡の存在を報じた2013年4月8日NHK朝のニュースには,「判決は良心にしたがい,純粋にアカデミックな観点から判断した」(要旨)などと,まるでなにごともなかったかのように,平然と「自身の過去」を語る〈当時の田中最高裁長官〉の顔が映しだされていた。

 明神『戦後史の汚点 レッド・パージ』は,「司法の独立」「裁判の中立性」を強く訴えていた田中最高裁長官が,実際にはみずからのことばを裏切り,完全に放棄していた《裏の顔》をとらえて,これを「裁判官,とりわけ最高裁判所長官としての『非行』そのものであった」と指弾する。

 「田中は現体制維持と反共主義という強い信念と使命感を抱いており,その点から彼にとっては安保体制維持という『政治部門が設定する秩序」が司法にとっても最優先すべき課題であり,このためには『憲法的秩序の犠牲』はやむをえないということであった。目的は手段に優先する,司法の独立性や裁判の中立性の放棄は安保体制維持という国家の大目的のために我慢しなければならない瑣事であると田中は考えたに違いない」。

 約10年にわたるレッド・パージ裁判においてその存在が語られることもなく,亡霊のごとく突如登場した「解釈指示」,それはレッド・パージ裁判の厳しい判例動向に危機感を抱いた田中が手にして「魔法の杖」であった。ホイットニーの「助言・示唆」が「解釈指示」に転換させられたのは,反共の立場からレッド・パージの積極的推進という強い願望を田中が抱いていたことと無関係ではないと考えられる。

 反共という政治的立場から,レッド・パージのスムーズな推進のためにGHQに指令の発出を求めた政治性,それと引き換えにえたのが件の「解釈指示」と称した「助言」ではなかったのか。ホイットニーの「助言」が,田中の強烈な反共主義という政治哲学とレッド・パージ推進という政治的願望を媒介することによって,「指示」に変換させられたものと考えられる。

 こうまで書いた明神 勲は,田中の「解釈指示」を「野蛮な情熱」が生みだした政治的虚構であり,その存在の言説は,レッド・パージをめぐる「ひとつの神話」であったといい,そして,つぎのようにも田中を指弾していた。

 最高裁をはじめとする日本の裁判所は,法と事実にもとづき正義を実現し人権を救済するとう本来の役割を放棄し,数万人の被解雇者を「法の支配」の埒外に追いやった。そのことによって裁判所は,GHQ,政府,企業経営者が犯したレッド・パージという「犯罪」を正当化し,彼らの責任を免罪するというもう一つの「犯罪」をこれに加えたのであった。

 そのさいに,最高裁長官として10年にわたり日本の裁判所のトップの座にあり,この間にレッド・パージ犠牲者を「法の支配」から排除する2つの最高裁決定を主導する中心的役割を果たしてきた田中耕太郎の責任はとりわけ厳しく問われなければならない。これまで明らかにしてきたように,2つの決定を支えるSCAPの指示という論拠は田中が創作した虚構であり事実にもとづくものではなかった。

 ホイットニーとの会談でそれを十分に承知のうえで,あえて非情な決定を主導した田中は「確信犯」であり,それは先に紹介した砂川事件裁判における裁判官としての「非行」と共通するものであった。2つの最高裁決定は,その後半世紀以上にわたりレッド・パージ裁判を支配する絶対的存在として君臨し,レッド・パージ犠牲者の名誉回復の願いを閉ざす「天の岩戸」となってきたのである。
 

 ※-11 ジキルとハイドの田中耕太郎が仕えた主人

 以上,だいぶ詳細に引照した明神 勲『戦後史の汚点 レッド・パージ-GHQの指示という「神話」を検証する-』は,最高裁長官として田中耕太郎が果たしてきた日本国家への彼なりの貢献を,間違いなく「非行=犯罪」だと断罪していた

 ただし,敗戦後日本の政治過程のなかで,田中が用意した「天の岩戸」の光景を,もっともうれしく観劇していた人物がいた。それはいうまでもなく,昭和天皇であった。

 戦前・戦中の治安維持法がなくなっていた敗戦の昭和20年代史前半期において,社会主義国家体制の拡大していく国際政治情勢は,昭和天皇にとってみれば,非常な恐怖心を抱かざるをえなかった。そのなかでも,1949年から国内において確実な政治動向となった「逆コース」は,彼にとって歓迎すべき状況の変化であった。

 田中耕太郎は,文部大臣のときは元号制の廃止を意見として提示するなど,リベラルの立場を顕示させてはいたものの,最高裁長官になってからは,「天皇制擁護」→「占領下日本国の体制維持」のためならば,あらゆる努力を惜しむことなく傾注してきた。

 あげくのはてが,占領軍の指令には元来なかった独自の「解釈指示」を創作しては,公正・中立を完全に欠いたレッド・パージ裁判を指揮していた。このレッド・パージ裁判の進行をお膳立てした最高裁長官田中の立場や思想は,砂川事件裁判においても十二分に発揮されていた。

 田中がアメリカGHQ当局に対しておこなった駆け引きは,ある意味では,当時において彼のような日本人としては,当然の気持であったかもしれない。だが,それはあくまでも,戦後版の天皇・天皇制に対する忠誠心を推進力にしていた。

 「反共精神が旺盛」なあまり,自身の立脚点であるリベラルな立場は溶解させていた。「天皇への忠誠」のあまり,敗戦後の民主化に対しては堂々と「歴史への反動者たる立場」に嵌りこんでいた。

 それも司法権力の最高責任の立場に立つ者が,最高裁判所を牙城にそうしていたのだから,始末が悪いこと,この上なかった。

 日本の知識人としてリベラルだといわれたこの人物に特有だった〈闇〉は,いまでは,十分白日のもとに曝されている。その闇のなかに長期間埋もれて隠されてきた「〈真実〉の重さ」は,田中耕太郎の人間・人格性の「軽薄さと同時に面妖ぶり」を,反面から否応なしにあぶり出している。

 文部大臣の田中耕太郎(1946年5月-1947年1月)は,敗戦後における公職追放の仕事において,アメリカの意向に追随し,迎合するための業務の遂行を能動的に果たしつつ,そのなかで,天皇の置かれた立場(戦責問題の回避・除去)に対しても,側面より秘かに協力する方途で奉仕していた。

 しかし,敗戦後における民主化の改革動向が,明確に逆コースに向かっていた1950年3月から10年間,最高裁長官に就任した田中は,自身が体制内の司法界における重鎮として,反動勢力を方向づけ牽引するための第1人者へと変貌する姿をかいまみせた。

 その姿は,敗戦直後における民主化路線からこの逆コースへの変転していくさい披露した,まさしく「高級官僚」としてカメレオン的な〈行動見本〉であった。その行動の影絵となってはっきりと透視できる事実は,GHQならびにマッカーサー元帥を,虎の威(隠れ蓑)として最大限に利用してきた「彼の暗躍ぶり」であった。

 布川玲子や明神 勲が公表した研究業績によって,半世紀以上も暗闇のなかに隠されていた,カトリック教徒でリベラルだと誤解されてきた法哲学者田中耕太郎の虚像は,化けの皮を剥がされるがごとく暴露された。白日のもとに晒されたのである。

 その点でいえば田中は,「ジキル博士とハイド氏」のような二重人格の,それも20世紀的に偉大ななどいう余地などなくなった,その負の側面だけの体現者であった。しかしまた,そのヤーヌスのうちでもハイドの側面が,昭和天皇のために奉仕する役割をになっていた。天皇もまた,自分の用意した裏面史の舞台においてこのハイドに密通した政治的な行動を敢行していた。
 

 ※-12 日弁連「勧告書」

 2010年〔平成22〕年8月31日,日本弁護士連合会の会長宇都宮健児は,最高裁判所長官竹﨑博允宛に,レッド・パージ裁判史に関して,つぎのような文節を含む『勧告書』を出していた。 

 日本国憲法のもと「法の支配」の担い手であることを期待されている司法機関,その頂点に位置する最高裁による人権侵害事件である。申立人は,侵害された自己の人権救済のための「最後の砦」として当連合会に対し,本件申立てを行った。

 レッド・パージという歴史的大事件について,当連合会が,法律家団体として政治的観点を排し,あくまで法的観点から人権擁護の視座に立ってこれを検証し,申立人の侵害された人権の回復を図ることは大変重要な意義がある。

 本件は今から60年以上も前に起きたものではあるが,この国に真の法の支配を根付かせるということは,依然として,現代的な人権課題である。  

 とりわけ,占領下という特殊な状況下における人権侵害,しかも,法の支配の担い手たるべき最高裁による人権侵害に対し毅然とその非を指摘して個人の人権回復を求めることは,どのような状況下におかれても人権は保障されなければならないという,人権の固有性・普遍性・不可侵性をあらためて確認するという意味においても重要な意義を有するものである。
 

 ※-13 2022年5月3日「後記」

 a) 本日(ここでは上記の年月日)「若干の手直しをくわえて更新したこの元の記述」は,2013年2月21日に書かれていた。

 安倍晋三の第2次政権が発足したのは,それより1年2ヶ月ほど前,2012年12月26日であった。その後における日本の政治過程は,内政面の基盤となるべき経済次元ではその足場をいちじるしく沈下させ,また外交面では「アベの子どもの〈はだかの王様〉」ぶりならば,遺憾なく存分に発揮させてきた。

 安倍晋三がようやく首相の座を降りたのは2020年9月16日になったが,このころのこの国は,もはや惨状というのが当たっている国情に追いこまれていた。同年は当初からコロナ渦が襲来し,国家運営に対する基本的な能力を欠いたこの「世襲3世の政治屋」の手に余るために,経済と社会が大混乱した。

 そのせいでこの国はいまや「政治は3流である」どころか,その〈格付けじたいが不能〉なくらい「品質も評判も劣化・低下した国柄」にまで落ちこんだ。かといって,かつて「経済1流」だった時期を誇れたこの国が,いまでは,これからいったいどこまでこの趨勢がつづくのか,それを心配していなければならない国になった。

 b) 2021年の「世界の名目GDP(USドル)順位」は,アメリカ,中国につづいて日本3位である。だが,その「世界の購買力平価GDP(USドル)順位」のほうは「中国⇒アメリカ⇒インド⇒日本」の4位となっている。

 しかし,われわれの生活実感としては,経済的な水準として豊かであるとは感じられないで生きている人びとのほうが,多数派になっている。子どものうち6から7人のうち1人が1日3食を満足に摂れていないとか,また,単身の女性たちが生活苦に追いこまれやすく,簡単に困窮化していく事例がいくらでもあふれている。

 したがって,この国の「GDPが名目で3位であり,購買力平価で4位である」といわれても,全然ピンとこない。

 アベノミクスという暗愚をきわめた経済政策の不徹底(?)は,スカノミクスからキシダメノミクスへと継承されるだけで,この国の隆盛を少しでも取りもどせるような為政につながっていない。

 要は,無策・無能・無為であるほかなかったこのところ3代つづいている首相「連」は,この国の政治・経済の舵取りがまともにできていない。安倍晋的な三流の手法で蓄積されてきた「自民党政治の負の遺産」ばかりが肥大化してきた。

 c) さて,2022年2月24日に開始された「プーチンのロシア」によるウクライナ侵攻(戦争)は,5月9日(旧ソ連・ロシアにとって)の「対独戦勝記念日」になると,正式にロシアがウクライナに対して宣戦布告するのではないかと観測されている。

 「ロシアのプーチン」はいまだに,ウクライナ侵略戦争の事実を「特別軍事作戦」を呼んでいるが,実質は通常の戦争形態に近い。すくなくともその侵略戦争の被害を受けてきたウクライナ側は,全面戦争に匹敵する緊急事態を余儀なくされてきた。

 こうした国際政治情勢に浮き足立った日本政府や与党あたりは,早速防衛費(軍事費)を倍増させたらよいと「酒を飲む以前に二日酔い」になったみたいにして,見当違いの〈妄言〉を吐いている。
 
 しかし,2022年8月下旬段階になると岸田文雄政権は,2023年度から軍事費(防衛費)を5年間かけて倍増させ,GDP比率で2%にまで上げると決めていた。

 国民たちの生活苦などどこ吹く風かという調子でもって,この「世襲3代目の政治屋」のボンボンは,原爆を投下された広島市を自分の選挙区にもつにもかかわらず,戦争という事態の悲惨さ残酷さとは完全に無縁の雰囲気をだけと,いつも漂わせる人物であった。

 安倍晋三元首相であった時期の話をしておく。「ロシアのプーチン」との外交でみせてきた「日本国の拙劣なその迷交渉ぶり」ときたら,めったに鑑賞できない暗愚さを披露してきた。プーチンには終始一貫して徹底的に舐められていたあげく,北方領土問題など,いまでは存在しえないとまで開きなおられる始末にあいなっていた。

 d) 本日の記述でとりあげた田中耕太郎は最高裁長官を務めた人物であった。が,けっして「人民(People,市民としての国民)の立場」を尊重する精神は,みじんももちあわせていなかった。敗戦という時代の区切りを,結局,中途半端に跨ぎつつ生きてきた高級官僚の小賢しさならば,田中の場合は,実にみごとだったといえなくはない。

 田中耕太郎は,21世紀のいまにもなおつづく「日本の対米服属関係」を創造した作業に関してであれば,大きな貢献をした。しかしながら,とりわけ,敗戦後における民主主義の国家体制を積極的に前進させる任務をおこたり,むしろ,それを削ぐための反動形成の役目のほうを遺憾なく果たしてきた。

 ここでは以下に,国営放送のNHKが公開しているとして,「砂川事件の伊達判決が最高裁で覆される」という「ニュース放送の録画」を紹介しておく。これに添えられている解説の文章はごく短文であるゆえ,どうしても「舌足らずの説明」になっていた。

上段の真ん中に田中耕太郎がみえる

 また,このニュース放送の動画には,安倍晋三の祖父:岸 信介も登場する。ともかく,日本が対米属国の関係性を深めていく「歴史の事実経過」に関して,その重要な道筋を教えうる「教材」になる。

      ★ 砂川事件の伊達判決が最高裁で覆される ★
 =『NHK放送史』放送年:1959年,https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030451_00000 =

 「アメリカ軍の駐留は憲法に違反する」という伊達判決をめぐって論争が続けられた砂川事件に対し,最高裁判所は〔1959年〕12月16日,判決をいい渡した。最高裁の判決は伊達判決を全面的に覆し,「アメリカ軍の駐留は憲法に違反しない」と認め,これとともに戦争の放棄を決めた憲法9条は自衛権を否定しないこと,裁判所は安保条約のように高度の政治性をもった条約を審議する権限までもたないことなど,注目すべき解釈を下した。

伊達判決,最高裁で覆される

 当時,日本国の最高裁長官であった田中耕太郎は,いろいろな意味あいで結局は,「売国奴」の役目を果たすための「実際の采配ぶり」を「敗戦後史」に記録した。

 その田中耕太郎がなぜ,敗戦後において日本初の国際司法裁判所判事になれたかといえば,その論功行賞であった。ただし,この行賞を授けてくれたのは日本国ではなく,これとはまた別の「特定の国際政治勢力」であった。

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