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経営学者の現実認識をめぐる根本的な吟味(3)

 ※-1「前 記」-最近のアマゾン・書評から-

 2022年中に伊丹敬之が公刊していた本のなかからであったが,前回の記述「本稿(2)」の末尾に,「当日の参考文献紹介」の役割と「アマゾンの本の通販情報」とを兼ねて,伊丹敬之『なぜ戦略の落とし穴にはまるのか』日本経済新聞出版 ,2022年4月を挙げてあった。

 ところがアマゾンの「ブックレビュー」には,伊丹敬之が出版した最近の本になればなるほど,つぎのような基調で感想を寄せる読者が目立つようにもなっていた。

 もちろん,伊丹敬之『なぜ戦略の落とし穴にはまるのか』については,あたかも無条件に褒めあげる感想も書かれていた。だが,その感想とは鋭角的な対照を示し,内容的に異質である文章も書かれていた。

 まず,「伊丹先生の著作は過去にも読んだことがあり,それなりに分かりやすいと思っていました。が、これはダメです。抽象論が多く(=具体例が少なく),しかも同じようなことを,いろいろないい方でなんども繰り返す。シンプルに書くと、2 / 3~半分で済むのではないでしょうか。途中から苦痛になってきました」という感想。

 つぎに,「一部,実際の企業の具体例が書いてあるけど,全体の3%くらい。残りの97%は筆者の持論を抽象論でだらだら書いてあるだけなので,途中で飽きました」という悪評。

 さらに,「このレビュータイトル〔『人間には限界がある』『ゆえに失敗する』がこの本のいわんとしていることでしょう。全編を通して抽象的で分かりづらいです。当たりまえのことを理屈でダラダラと説明されているような気分になり,苦痛になってしまいました。この本に読む価値を見出すとすれば,普段なかなか明文化しない当たりまえのことを再確認することができる,といったところでしょうか」という指摘。

 伊丹敬之はもちろん,天皇が明仁の時代に皇居にいって御進講を担当したことがある「権威筋」の経営学者の1人である。しかし,なんといっても御年が1945年3月16日の現在,年齢 77歳で,もうすぐ78歳の誕生日を迎える人である。

 その年齢の関係上,平均的にはどうしても回避しがたいなんらかの影響が多少でも現象したせいでもあってか,「当たりまえのことを理屈でダラダラと説明されているような気分になり,苦痛になってしま」うような「筆者の持論を抽象論でだらだら書いてあるだけ」の本だなどといわれたら,大学の教員の立場としては,正直いって「耐えがたい感想」が開陳されていたと観るほかあるまい。

 いまとりあげている『なぜ戦略の落とし穴にはまるのか』日本経済新聞出版 ,2022年4月が本当に,この本が「取り上げている事例が古い」ので,「あえて購入して読む価値がない」とまで酷評されたとなれば,これはもう身も蓋もない。

 ただし,念のためのことわっておくが,現在でもこの本をきちんと,べた褒めする評者がいることも,確かな事実であった。

 ※-2 「本稿(3)」は「経営学者の現実認識をめぐる根本的な吟味(3)」という題名をかかげ,本日で連続する第3回目の記述となっている。

 「本稿(3)」としての今回における議論は,2016年ころに観察できた「東芝の企業統治問題をめぐる考察」である。当時からはすでに7年が経過した現在になっているが,2015年に入るころにはすでに,東芝の経営状態は苦境にはまりこんでいた。

 この記述は,その時期からひとっ飛びに「今年(ここでは2022年)の今月(12月)の時点」に移っている。「当時:2016年の東芝」がどのような話題を日本経済・産業経営の舞台に提供していたか,その問題に密着して事例研究的分析をおこない,いうなればあらためて「経営学に関する現実的な勉強」をする素材とみなし,掘り下げてみたい。

 最初にここでは,『時事通信』の報道からつぎの記事を参照してみる。「見出し」だけでも,当時において東芝という日本を代表する製造業が,そのような窮地にはまりこんでいたか感じとれる。

 「東芝,再建案公募で現状説明 『可能な限り早い時期に結論』」2022年12月16日 10:19

 「国内ファンドに1.2兆円融資へ 銀行団,東芝買収資金で」2022年12月15日 21:43

 「PE(プライベート・エクイティ)ファンドに存在感 東芝買収で交渉権」2022年12月15日 07:10

 補注)国内で「プライベート・エクイティ(PE)」と呼ばれる投資ファンドの存在感が増している。機関投資家らから集めた資金を非上場株などに投資し,企業価値を高めた上で売却や再上場を図る。

 東芝再建をめぐっても,日本産業パートナーズ(JIP)が優先交渉権を獲得した。PEは市場で欠かせない役割を担いつつある。

筆者補注。

 「PE,事業再構築の手段に 東芝再建,政府の意向不透明-伊藤彰敏一橋大院教授」2022年12月15日 07:11

 つぎに,当時の〔2015年以降表面化した〕東芝が経営危機に瀕していた具体的な会計事情については,前もってつぎの記述を紹介しておく。題字だけでもその意味はよく伝わってくるはずである。

 大前研一稿「東芝を沈めた原発事業『大誤算』の責任 米子会社破産なら損失1兆円」『PRESIDENT Online』2017年4月17日号,https://president.jp/articles/-/21710 は,こう批評していた。

 アメリカの原子力事業で巨額損失を計上し,一気に経営危機に陥った東芝。これは日本企業が陥りやすい世界化の罠の典型的なパターンだ。

 初期投資が巨額なうえに,フクシマ以降,安全基準がきびしくなって建設コストが上昇したために電力会社の資金繰りがつかず,なかなか完工まで至らない。

 東芝がWH〔ウェスティングハウス・エレクトリック斜〕を6000億円で買った時点(2006年)では5,6基の原子炉は造れるみこみだったが,いずれの原発もまだ竣工していない。工期が延びれば人件費は膨らむし,資材などの建設コストも上昇する。

 これに対応するためにWHはS&Wを買って,捌いてみたら内臓が腐っていたというわけだ。WH買収ののれん代を損金としてきちんと償却してこなかったうえに,孫会社であるS&Wのロスが重なって,東芝が抱えた損失リスクは1兆円に上る。

大前研一,前掲稿。

 いうなれば,東芝はババ抜きさせられる要領でアメリカ産業界から原発事業を譲渡されていた。だが,日本ではその直後から原子力規制委員会指導のもと,安全対策にかかる経費が急上昇するという原価計算次元の不利な状況も生まれていた。 

 以上のように,かなり長めであった「今日:2023年2月21日時点での断わり」を入れておき,ようやく本論に入る。以下の記述は,2016年4月中を時間軸に展開されている。

 ※-3 『本題』-経営学者が〈理論と実践の谷間〉に落ちた瞬間-東芝における伊丹敬之の場合-

  副題1 違和感を抱かせる「経営学者の理論発言」と「経営の実際への関与」との関連性

  副題2 伊丹敬之流「経営学の理論と実践」の真価が問われた瞬間があった

ここではまず,伊丹敬之・東京理科大学大学院イノベーション研究科教授「一流の経営者はデータの向こうに』現場が見える(下)-経理・財務の経験者には『名経営者』に化ける可能性がある-」,「プロ経営者の教科書」CEOとCFOの必修科目 第5回」『DIAMON Donline』2015年4月13日をとりあげ吟味する。なお,伊丹敬之の肩書きは当時のもの。

 補注)CEOとCFOについて簡単に説明しておく。

 CEOとは「Chief Executive Officer」の略で,日本語では「最高経営責任者」と訳される。 経営責任者であるCEOは,会社の経営方針や事業計画など長期的な経営事項の責任を負う。 ときには「CEO」を「代表取締役」と訳すこともある。

 CFOとは「Chief Financial Officer」の略で,日本語では「最高財務責任者」と訳される。具体的には,企業の財務・経理の戦略立案,執行の総責任者として企業のお金にかかわるすべてを統括する。

CEOとCFOの説明

 この伊丹敬之・寄稿「第5回」のなかには,以下のごとき《ご託宣》が披露されていた。

 ◆-1 CFOは,CEOの参謀役の1人です。CFOにこそ「現場想像力」が求められるのではないでしょうか。

  --CFOや経理担当役員は,経理や財務といったお金にまつわる職能の責任者であり,そのほか税務や監査をつかさどったり,株主や証券アナリストなど市場関係者への説明責任を果たしたりといった仕事もしていますが,もうひとつ重要な役割を担っています。

 それは,さまざまな投資案件の判断,各事業の業績や業務プロセスの生産性の測定と評価など,全社の管理会計システムを構築・運用することです。ここには,もちろん会計データの捕捉・収集,加工,蓄積,共有といった情報システムとしての機能も含まれます。

 ですから,会計データから現場の状況を読みとる現場想像力に優れているべきなのですが,現実はそうでもない。逆に,その業務や立場の性格上,CFOは不利な状況にあったといえるのではないでしょうか。

 これまでずっと会計データとつきあってきましたから,必然的に役員のなかでもっとも財務リテラシーが高い。だから,どうしても会計データに偏ってしまう。しかも,会計データという「とくに努力しなくても手に入る」データを中心に扱っているから,情報や感情の流れという手に入らないものへの感度が鈍くなる危険がある。

 ただし,ひとつ確実にいえるのは,会計の修業を積んでいる人は,そうではない人に比べて,会計データと現場の動きの対応を深く意識しさえすれば,現場想像力の習得は速いと考えられます。会計数字の生まれる計算的からくりをしっているからです。

 だから,賢い経営者になれるポテンシャルが高い。その偉大な前例こそ,稲盛〔和夫〕さんでしょう。
 
 彼は27歳で会社を興した当初,資金繰りをはじめ,お金のことで大変苦労したことはよくしられています。だからといって,易きにつくことなく,会計の理解についても本質を追求する姿勢を貫いた。

 ◆-2 CFOといえば,オラクルのサフラ・カッツ氏が注目されています。彼女は10年ほど,社長とCFOの2つの要職を兼務し,今年2015年1月,共同CEOの1人に指名されました。社長兼CFO時代には,創業者のラリー・エリソンに代わって,財務のみならず,製品や技術についてプレゼンテーションをおこなっていたりしました。   

 --女性でそういう人が出てくるというのは心強いですね。現場想像力という点では,イノベーションの優秀企業といえば必らず名前が挙げられる3Mの中興の祖もすごいですよ。ウィリアム・マックナイトという人です。
 註記)以上,http://diamond.jp/articles/-/69032?page=3

 ※-4  2015年夏,不正経理事件を起こした東芝の社外取締役だった伊丹敬之

 ツイートで以下のごとき発言があった。柿原正郎(Google シニアリサーチマネージャー)が 2015年08月18日に,こういっていた。   

 「……氏も書いているが,社外取締役の改革も必要なことだとは思うが,それよりなにより社内の役員-経営幹部体制の刷新の話がみえてこないほうがよほど問題。なんだか順番が逆なんじゃないかと率直に思う」

 まだ,この引用だけでは話の筋が分かりにくいが,東芝の不正経理事件のさいこの社外取締役に就いていた伊丹敬之の立場(出処進退に関するもの)を問題にしていた,柿原正郎の発言である。 

 「〔2015年ころの東芝で〕この社外取締役のメンツも,なんの新鮮味もない,いわゆる「財界大物のご意見番」型の人ばかり。伊丹先生は,今回の問題が発覚する前からの社外取締役だが,なぜ残ったのか」

 「もちろん,大学教員として専門性の提供が主な役割の社外取締役が,財務会計的な面での責任を多大に負っているとは思わないが,会長・社長含めほぼすべてが退陣したなか,筆頭の社外取締役だった伊丹先生が残るのは正直違和感がある。どうせ人数を増やすのなら,なぜ30~40代の若手経営者やコンサルや大学教員を入れなかったのか」

 「企業としての不正会計処理の問題は,このまま司法の手に委ねられないままうやむやになってしまうのだろうか。胸の奥にずんと重いものがのしかかる。
 註記)「東芝 取締役の過半数を社外取締役に」『NEWSPICKS』2015年08月18日,https://newspicks.com/news/1112937/ へのコメント。

 以上の,柿原正郎の伊丹敬之に向けられた評言は,東芝の経理不正事件がも起きた時点からすでに75日以上の時間が経過したころ,発せられていた。

 既述の「本稿(1)(2)」は,2015年5月ころに伊丹敬之自身が執筆した論稿の内容を検討したうえ,どうしてもチグハグさを感じさせるほかなかった,つまり彼なりに記録していたはずの「理論と実践」の同時的な背負い方,換言すると,経営学者として大企業の社外取締役に就いていた対応いかんをめぐり,遠慮容赦なしに批判してみた。

 しかもそれは,伊丹敬之の理論編の問題ではなくて,もっぱら実践編の課題に関した批判であった。別の表現をするとしたら,経営学の事例研究としてとりあげてみたい「経営学者が企業実践に参与すると,どのような働き方をするか」という問題になっていた。

 東芝の社外取締役に就任していたこの経営学者が,実際面において分かりやすく披露くれたのは,地位にしがみつきたがる〈人間一般の習性〉であった。  

 出処進退のありように関していうに,けっして好ましくは映らなかった事例を残した「伊丹敬之の軌跡」をとらえて,柿原正郎(Google シニアリサーチマネージャー)は,前段のごときに「伊丹先生は,今回の問題が発覚する前からの社外取締役だが,なぜ残るのか」と,2015年08月18日のツイートで発言(意見)していた。

 経営学者の立場にとっても,やはり「言う〔=理論〕は易く行う〔=実践〕は難し」である。経営学者自身が経営現場に立ち入り,しかも「事例研究」的な具体的状況をみずから提供するなかで,なんとなくであっても明確に発露させてしまった「問題のある本性」があった。

 つまり,本当は理論しかよく判らない経営学者の立場に終始していたためか,その東芝不正会計事件発生後も役員(社外取締役)の仕事を継続していた点に関して,伊丹敬之は事件後においても「なぜまだ残っているのか」と疑問を投じられていた。

 結局,その疑問点は,伊丹敬之自身における生涯の記録のなかに永遠に刻みこまれたと解釈しておく。

 ※-5 東芝不正会計問題に関する各種意見

 1)「刑事告発が噂される東芝不正会計事件の本当の問題点」『HARBOR BUSINESS online』2016年01月05日,http://hbol.jp/74656 は,つぎのように,関連して湧いてくる疑問を突きつけていた。

 総論すると,東芝の不正会計は会社から第三者委員会,当局まですべて “グル” になって,問題を矮小化させた事件といえます。これを「悪意をもった粉飾決算」といわずして,なんというのでしょうか?

 2)「東芝不正会計 市場守る監査に立ち返れ」『産経ニュース』2015. 12. 27  05:00,http://www.sankei.com/column/news/151227/clm1512270003-n2.html は,こう批判していた。

 新日本は前身の会計事務所時代から60年以上も東芝の監査にあたってきたという。新日本にとって東芝は,年間10億円の監査報酬を支払ってくれる優良な顧客でもあった。そこに企業と監査法人の「なれ合い」はなかったのか。
 
 わが国では,監査責任者の公認会計士が5年で交代すれば,同じ監査法人であっても,ずっと同じ会社を担当できる。欧州では一定期間で監査法人を交代させることが検討されている。なれ合いを防ぐ仕組づくりは日本でも必要である。

 今回の問題を,新日本による個別の事案として終わらせてはならない。なぜ不正を見抜けなかったかを検証し,監査手法のあり方なども含め,再発防止のために抜本的な見直しを図るべきだ。

 3)原発事業体制と東芝会計不正問題
 郷原信郎「最終局面を迎えた東芝会計不祥事を巡る『崖っぷち』」『郷原信郎が斬る』2016年3月14日,https://nobuogohara.wordpress.com/2016/03/14/最終局面を迎えた東芝会計不祥事を巡る「崖っぷち」 の記述内容は長文である。ここでは,最後の段落のみ引用する。

 郷原の引用をする前に一言。要は,東芝会計不正問題の闇は,その藪的に入りこんだ空間の様相に注目する余地があった。問題は,国家のエネルギー政策にもかかわる問題の次元にまで広がっていた。

※引用に先だっての断わり※

 --東芝会計不正の背景に,国策としておこなわれてきた原発事業を守るためであれば,会計不正もやむをえないという考え方による歴代経営トップの経営倫理の弛緩があったとすれば,東芝の会計不正の核心が原発事業をめぐる問題であることが明らかになることが,逆に,刑事責任追及のハードルとなる可能性もある。

 原発事業をめぐる会計不正も含め,背景・動機について徹底した捜査をおこない,真相解明することは,国内の原発の再稼働や海外での原発事業を積極的に推進しようとしている安倍政権にとって,けっして歓迎すべきことではない。

 証券取引等監視委員会が告発できるかどうかも,検察当局が告発を受け入れ積極的に捜査に乗り出す方針を固めるかどうかにかかっている。検察に,そのような安倍政権側の意向を忖度することなく,原発事業をめぐる会計不正を含めて東芝の粉飾決算事件に積極的に斬りこんでいくこと,適正かつ厳正な捜査をおこなって真相を解明することが期待できるか。

 『文芸春秋』〔2016年4月号〕が東芝の記事を含む特集を「アベノミクス崖っぷち」と題しているように,東芝会計不祥事は,コーポレートガバナンスの強化を柱として位置づけるアベノミクスにとっても,避けては通れない問題だといえる。

 「東芝会計不祥事をめぐる闇」はあまりにも深い。しかし,その闇の真相を明らかにし,責任を明確にしないかぎり,日本企業のコーポレートガバナンスに対する信頼の回復・確立はありえない。

 検察が,国民の期待・社会の期待に応えて,国の経済社会にとってもきわめて重要な経済事犯の真相を解明する使命を果たすことができるかどうか。最終局面を迎えつつある東芝会計不祥事から目が離せない。(引用終わり)

 伊丹敬之は著作のひとつに『日本型コーポレートガバナンス』(日本経済新聞社,2000年)がある。だが,伊丹は「持論の学説」であるはずの「人本主義主義」で理論武装をしていたものの,東芝会計不正事件を社外取締役の立場からは,まったく認知できていなかった。

 結局,この経営学者は,実践の舞台に経ったさい,その種の事件発生を事前に感知し,予防する機能を発揮できなかった。つまり,東芝の社外取締役に要員化されていたけれども,肝心なときには単なる「お飾り用の学識経験者」である以上の存在価値を発揮できていなかった。 

 ※-6 なんのための東芝社外取締役であったのか

 いうなれば,日本国内において産業経営スキャンダルとなった東芝会計不正事件は,原発という製品の介在によって,国際経済の関係領域にまでその影響範囲がおよぶ問題であった。

 伊丹敬之はまた,この日本を代表する電機製品製造会社の社外取締役に就いていた経営学者として,その地位・役職を根幹より問われる顛末になっていた。

 それでも伊丹は,大学教員の職位も同社の社外取締役の地位も捨てる気はなかったらしく,その後も「理論と実践の両界」にまたがった「処世術らしき要領」をこなしつつ,従前どおり自分の地位を保守することになっていた。

 以下に紹介する 1) から 3)までの記事は,そのまま引用するだけとなるが,前後する記事に対して深く関連する議論をしていた。

 1)「〈経済気象台〉社外取締役の報酬」『朝日新聞』2015年10月15日朝刊

 上場会社に適用される「コーポレートガバナンス・コード」のなかで,もっとも話題となっているのが,独立社外取締役を複数選任すべきだとする原則である。会社の持続的な成長と価値向上を図るため,経営監視機能を高める必要があるからだ。

 しかし,社外取締役が複数選任されていたにもかかわらず,経営者主導の不正行為などに対してまったく機能していなかったという事例は,東芝だけでなく複数ある。

 2001年に経営破綻した米エンロン社の場合は,高名な社外取締役を多数選任し,公開会社のなかで最高額の役員報酬を支払っていた。そのために,社外取締役みずからも認めていることだが,判断が鈍ったとされている。会社が高額報酬と引きかえに社外取締役の名声と信用をうまく利用していたことになる。

 ただ,独立社外取締役の重要性を主張する米国でも,無報酬に近いかたちで職責を果たしている者も多くいるという。貢献に社会的なリスペクト(尊敬)や栄誉を与える環境が定着しているからだ。企業価値を毀損し,市場の信頼を失墜させるような不正を見逃すことがあれば,自身の名誉に傷がつく。そのため,経営監視の役割を最大限に果たそうとするのである。

 わが国の場合,社外取締役の報酬は有価証券報告書に開示のとおり,庶民感覚からすると,一般に高額である。経営者の暴走に対しては,職を辞する覚悟で臨むこともあり,報酬の誘惑を断ち切る気概と責任感こそが社外取締役の原点である。

 実際に財団法人や社団法人などの評議員や理事,監事の場合,社会的にも地位が高く高名な人たちが無報酬で重責を担い,広く尊敬の念をえている例がある。これに倣いたいものである。(引用終わり)

 2)「〈大機小機〉東芝事件の教訓」『日本経済新聞』2015年10月24日朝刊

 東芝の不適切会計事件は,東芝以外の企業にも貴重な教訓を残している。なによりも明白な教訓は,社外取締役による経営監視はむずかしいということである。ちょっと考えるだけでもこのむずかしさは理解できる。

 まず社外取締役は企業内部についての知識をもっていない。内部のさまざまな動きに関して詳しい情報をうることもむずかしい。経営執行部から提供される情報に依存せざるをえず,執行部がしられたくないことは容易に隠すことができる。監視側に知識も情報も不足しておれば,効果的な監視が期待できないのは当然である。

 さらに,社外取締役に経営監視のための追加情報を積極的に収集しようとする意欲をもたせることもむずかしい。その結果,粉飾が簡単に見逃されてしまう。これらの限界を考えれば,金融庁などの規制当局が推奨する社外取締役や監査委員会よりも,伝統的な監査役会のほうがよほど有効である。

 社内監査役は内部についての深い知識と情報をもっている。社外の監査役も,監査役会で社内監査役から深い情報をうることができる。調査権もある。東芝事件を受けて,社外取締役に監査役会の傍聴を求める企業も出てきた。

 考えてみれば,日本の監査役は効果的な制度だった。経営監視に専念できる。4年とはいえ身分保障があるため,経営執行部に苦言を呈することもできる。取締役会での議決権はないが,株主への監査報告の内容しだいで株主総会を不成立にさせることもできる。議決権をもつが,情報をもたない社外取締役に監査させるよりは効果的だ。

 こう考えれば,監査役会を廃止し,監査委員会を設置させるという当局の制度設計は正しかったのかという疑問がわいてくる。社外取締役の増員を求めたコーポレートガバナンスコード(企業統治指針)も再考の余地がある。増員しない企業には説明責任が求められるが,増員を求める側にはもっと重い説明責任があることを忘れてはならない。

 東芝では不祥事への対応として,社外取締役を過半数に増やすという。この対応は正しかったのだろうか。監視機能はますます弱くなる。社外取締役を増やすのなら,強力な監視補助組織を設置するか,監査役会を復活させた方がよいかもしれない。真摯な再検討が必要だ。(引用終わり)

 3)「〈経営の視点〉相次いだ企業の不祥事 20世紀型経営から脱皮を」『日本経済新聞』2015年12月28日朝刊

 不祥事がもうすぐ発覚する。そんな状況下で経営者はどう動いたか。東芝の田中久雄前社長は今〔2015〕年4月6日,東京都内で新規事業の記者会見を開いた。事業は水素の製造,発電のための大規模システム開発。不適切な会計処理があった可能性があると公表した3日後だった。

 排ガス試験を不正に逃れていた独フォルクスワーゲンのマルティン・ヴィンターコーン前社長。9月15日に電気自動車への思い切った投資を発表している。辞任を表明する8日前。米当局から約1年前に不正ソフトの使用を指摘され,発覚したあとの段取りを念入りにシミュレーションしていたという。

 不祥事と先端技術。偶然の一致というみかたもできるだろう。だが両社には会社の継続性を強調すべく,自社の存在意義や技術の将来性を示しておこうとの思惑もあったはずだ。

 2社に共通する不祥事の背景とはなにか。コンサルティング会社,クオンタムリープ(東京・港)の出井伸之最高経営責任者(元ソニー社長)は「20世紀的な価値観をぬぐい切れていなかったこと」とみる。個々の技術は優れているが,パソコンやテレビ,小型車と,モノだけで規模を追求する経営を変えられなかった。

 水素は脱温暖化に向けたエネルギー革命,電気自動車はインターネットと接続しつつ,付加価値の高い事業モデルを実現できる技術だ。だとしたら,新しい経営の方向性をもっと早くに打ち出し,事業の入れ替えを周到に進めておくべきだった。

 「デジタル・ビジネス・トランスフォーメーション」。そんな言葉が海外で広がっている。ビッグデータ,人工知能などIoT(モノのインターネット)の技術を活用し,企業を再創造する手法だ。

 スイスのビジネススクール,IMD〔 International Institute for Management Development 〕と米シスコシステムズの共同研究によると,そうした動きがこれから加速すれば,20世紀から存在している主要12業種で,上位企業の4割がいまの地位を追われる可能性があるという。単純な規模追求の経済が終わりを告げ,デジタル化で新しい事業モデルを築いた企業が版図を拡大するわけだ。

 日本の経営者にも変化の兆しはある。企業買収で空調世界一になったダイキン工業の井上礼之会長は「数量の規模は今後も追いたいが,これはという異業種やベンチャー企業を機動的に中にとりこむ買収も必要になる」と話す。めざすのは異業種とのオープン・イノベーションやビジネスの融合だ。

 日産自動車は今〔2015〕年,米航空宇宙局(NASA)と自動運転車の共同開発を始めた。トヨタ自動車も米大学と提携する一方,人工知能研究の新会社をつくり,5年で1200億円を投資することを決めている。先端技術を集めた自動運転でも,業種の垣根を越えた連携が進む。

 今年(2015年)は大企業の不祥事が続いた。時代の移行期を象徴する出来事だったとするなら,来年はしっかりと前を向き,21世紀型経営へと脱皮を急ぎたい。立ち止まってはいられない。世界中の企業が一斉に変化を模索し始めている。(引用終わり)

 4)いま,伊丹敬之という経営学者に存在意義はあるのか?
 はたして,経営学者伊丹敬之について思うに,その21世紀型経営学者へと脱皮するためには,どのような変貌を遂げられる可能性をこの人に期待すべきだったのか? それとも,時すでに遅しというべきか?

 伊丹敬之稿「〈経済教室〉資本市場と企業統治 最終回-問い直される『企業支配』 問題起こす『投機家』会社法の理念強化は疑問」『日本経済新聞』2006年6月20日朝刊)は,こう述べていた。

 「企業の支配権とは,たんに企業財産の処分権だけに止まらない意味をもつ。企業とは,財産の集合体であると同時に,そこに働く人びとの人間集団であり,共同体でもある。だから企業支配権は,その人間集団の運命を左右する権力をも意味することになる」

 けれども,この理論としての著述:口上が,社外取締役としての自身の実践(出処進退の問題も識者はとりあげていた)とは,はたしてどのような関連性がありえたのかについて,ぜひとも訊いてみたく思うのは,本ブログの筆者1人だけではあるまい。

 伊丹敬之も実際に東芝という「企業支配権」の枠内に深く関与し,「その人間集団の運命を左右する権力をも意味することに」対して特定の関係を保持しつつ,大なり小なりになんらかの寄与(関与あるいは参与)をしてきたはずである。

 その様相についてとなれば,「自身の抱いてきた理論」の構想に対する「自身の実践」行動との突き合わせが,いったいどのような形跡を記録することになったのか,いまからでも遅くはない,自己検証が必要不可欠ではなかったか?

 伊丹敬之という「経営学者の立場」は,ちまたにおいては大歓迎されていたはずの,すなわち「〈人本主義〉という経営思想」が形成不全であった事実,その理論的な機能の発揚も中途半端に終始していたのではないか。この指摘はむろん,「理論と実践」が邂逅する舞台で,経営学者として一定の演技(企業管理への参画)をしてきた人物に対してなされている。

 伊丹敬之はとくに,自分の本を買って読んでくれた人びと,そして社外取締役を担当していた東芝の従業員たちに対してだけでもいい,以上に言及してきた「理論者の実践体験」から,なんらかの有益な示唆を送ることができていたか?

 伊丹敬之は現在,国際大学の学長職にある。入学式や卒業式では新入生や卒業生に対しては,自分自身の体験を存分に活かしえた訓話を与えているものと拝察する。

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