社会科学方法論-高島善哉の学問(3)
「本稿(3)」は,連載している「高島善哉の社会科学の基礎理論」に関する検討である。初出は2014年11月16日,更新を一度,2020年2月 2020年2月18日)。この論稿の要点はつぎの2点にまとめておき,本日記述の本論へただちに入りたい。
付記)冒頭画像は,高島善哉『民族と階級-現代ナショナリズム批判の展開-』現代評論社,1970年の函から。
要点:1 高島善哉の学問・方法論
要点:2 現代の社会科学方法論は,高島善哉を超えられるか?
【高島善哉・画像】-1984年,80歳になる年の高島善哉・画像。
※-1「風土に関する八つのノート」1965年~1966年のための予備的考察〔その1:封建体制,資本主義体制,社会主義体制〕
「本稿(2)」が検討していた高島善哉『現代日本の考察』1966年は,その中身のうち「9,風土に関する八つのノート」については,機会をあらためて紹介・議論すると断わっていた。本日のこの「本稿(3)」が,その高島「風土・ノート」をあらためてとりあげ,吟味することになる。
共著『資本主義社会の終焉』昭和24年12月は,労働文化社という出版社が1949年12月に発行していた。大河内一男・高島善哉・木村健康・塩野谷九十九・服部英太郎・鵜飼信成・辻 清明・柳田謙十郎が執筆陣である。本書は戦時体制期の雰囲気:なごりをまだ人的に強く放つ布陣を構えており,題名の『資本主義社会の終焉』からして,当時の社会潮流を色濃く反映させる名称を付けていた。
「本稿(1)」および「本稿(2)」で論じてきた〈社会科学的な研究課題〉がすでに,本書のなかで議論されはじめている。高島は,本書の巻頭に置かれた論稿「市民社会の弔鐘」を書いていた。当時は,資本主義体制か社会主義体制かの問題が〈イデオロギーの問題〉ではなく〈実践の問題〉である,といわれていたのである。
さて「体制の原理」は,資本主義体制と社会主義体制とを問わず,インターナショナルなものである。これに対して「民族」の問題は,ナショナルなものにまとまろうとする傾向をもっている。さらに「階級」は,体制原理の外向的性格と民族の内向的性格とを正しく結合する力をもっている。このとき「第3階級」ではなく「第4階級」が問題とされる。
補注)「第4階級」とは,第1階級の王・諸侯,第2階級の貴族・僧侶,第3階級のブルジョアジーに対していわれる「無産階級」の労働者階級:プロレタリアートを意味する。
〔本文に戻る→〕 資本主義の一般的危機はいまや第3階級によって自覚されざるをない。この第3階級に残された道は,国家権力と資本の利潤追求とをより強固に結合させるほかない。
しかし,それでは新しいファシズムの勃興へと導く危険を多分に含むゆえ,第4階級と弱小民族とはもう一度,大戦中の苦杯をなめさせられる危険がある。だから,国家独占資本主義の確立につれて,第4階級的自覚と弱小民族の自立への要望が高まってくるのは必然である。
かくて階級〔=第4階級〕は,体制と民族を媒介し,結びつける役割と任務をもっている。失われた自由と平等と博愛の原理をとりもどし,これを新たな民族的基盤の上に確立できるものは,なにか。それは勤労階級としての第4階級である。階級はかくして市民社会原理の直接の後継者であって,体制と民族とを「正しき歴史的基盤の上で結合する」ものである。
註記)以上,大河内一男・高島善哉・ほか『資本主義社会の終焉』労働文化社,昭和24年12月,35頁参照。
補注)現時点,2023年6月9日になってだが,以上のごとき「体制の原理」の視点から分類・析出される「第4階級」は,なおというかむしろ鮮明に集団的現象としてこの日本社会に登場している。
以前から「格差社会の進展・高度化」に相当する現象がめだっていた日本社会は,高島善哉の表現にしたがえば「弱小民族」として,一方の「上級市民」に対する「下級市民」として顕著に可視化されてきた。
「世襲3代目の政治屋」の実に馬鹿ばかしい典型的な人物として麻生太郎がいる。この太郎(1940年9月20日生まれ,82歳)は,日本の因習重視の日本の政治のなかでは,そのもっとも糜爛した先端の部分を象徴してきた。
この太郎は1979年10月,第35回衆議院選挙に初出馬したとき,生まれて初めての選挙演説(福岡二区・飯塚駅前)のさい,その第一声で発した迷文句が「下々の皆さん!」という迷セリフであった。
21世紀になるころまでには,日本社会のなかには,太郎のその迷言が放たれるべき社会集団の一群が実際にいくらでも実在することが明白になっていた。社会学者橋本健二はとくに,その貧困問題に注目する学究であり,この国には「貧富の差が目立つ経済3流国」への途を,いまでは確実に進行中である傾向を研究してきた。
上にアマゾン通販を借りて,橋本健二の著作を紹介したが,この本の内容はつぎのように編成され,販売向けの文句だが,こう概略が解説されている。〔 〕内の補足は引用者である。
※-2 戦後政治潮流の特徴
1949年12月に刊行されていた末弘厳太郎・藤林敬三・大河内一男監修『社会労働問題辞典』(実業之日本社)は,「階級及び階級闘争」という項目を鈴木安蔵に執筆させ,こう書かせていた。
階級闘争を,資本家階級の寛容,聡明,理解による譲歩乃至退陣,労働者その他勤労大衆の謙虚,理解,議会における多数決の方法を基として,秩序であり合法的な枠内で調節し,階級利害の対立を調和せしめうると考えるのがアメリカ的民主主義の主張であり,略々同じように,この方法で労働者階級の解放・社会主義の実現が可能であるとするのが社会民主主義である。
共産主義,人民民主主義は,これに対し,階級対立は調和しうるものではなく,労働者その他全勤労者大衆の団結と圧力によって支配階級の権力を変革することなしには,社会主義の実現は不可能であるとする。これが階級闘争理論の二大流派である。
註記)末弘厳太郎・藤林敬三・大河内一男監修『社会労働問題辞典』実業之日本社,昭和24年12月,39頁。
このような引用をするのは,前段において高島善哉が「勤労階級としての第4階級」というところの「階級はかくして市民社会原理の直接の後継者であって,体制と民族とを『正しき歴史的基盤の上で結合する』ものである」と定言した事実を,あらためて確認したかったからである。
そこでは,とりわけ「正しき歴史的基盤」という表現が,共著『資本主義社会の終焉』のなかから現われていた事実に注目しておきたい。
1949年という時期は,敗戦後の日本国が米国への従属関係を固めるほかなくなったころであった。国内外における東西冷戦にもとづいた対立構造の浸透・強化が,国際政治的な枠組として強化されていく時期であった。
敗戦後における政治動向のなかでは,人民:大衆:国民側が守勢を余儀なくされた年であった。そうした時代状況のなかで「正しい歴史的基盤」を「理論的な定礎」に置くための議論をした高島の立場は,あらためてみなおされるべきものがある。
要は,その後から21世紀のいまになっても,しかいまだ「資本主義の終焉」そのものは訪れていない。むしろ,その間に「社会主義の倒壊し途絶する」現象が発生しただけであった。
ただし,社会主義国家体制として共産党が一党独裁の専制的な政治運営をおこないつづけ,それでも経済運営面では資本主義的な政治手法を用いて発展させえ,現在は経済大国になった中国(中華人民共和国)も存在する。そうであるからには,この歴史の推移に即して,高島の見解は吟味されるべき理論的に新しい課題に対面している。
※-3 高島善哉『社会科学入門』1954年
本書,高島善哉『社会科学入門-新しい国民の見方考え方-』(岩波書店,昭和29:1954年)にくわしく聞いてみたい。
社会科学者が現実の複雑な人間関係のなかから問題をみつけ,それを頭脳の実験室のなかで処理していくためには,最高度の〈哲学的な推理力〉と〈文学的な構想力〉とが必要である。現代〔昭和20年代後期まで〕のような激しい時代において社会科学を勉強していくためには,基礎的な教養なり訓練なりが必要である(同書,21頁)。
体制と階級と民族の問題は,現代人の日常の社会的経験のなかに深く根を張っているばかりない。政治学者も,法律学者も,経済学者も,社会学者も,歴史学者も,現代のすべての社会科学者がこの問題に向かって対決しなければならない(24頁)。
ここまで高島の記述を引いてくると,前項※-2 でも指摘したように,高島が1949年12月時点において「昭和20年代=敗戦後における日本の政治経済」を,いったいどのように把握していたか関心がもたれる。いまとなってはいうまでもなく,高島による「資本主義の終焉」の把握は正確ではなかったし,大きく外れていた側面をかかえている。
高島善哉『社会科学入門』1954年は,それまでの世界における資本主義の発展模様を観察して,当時こういう歴史認識を示していた。
19世紀の半ば,資本主義体制はその最盛期に達するころすでに,資本主義の崩壊と社会主義の必然を論証した思想家が現われた。科学的社会主義の祖カール・マルクスであった。第1次世界大戦後,資本主義体制の永遠性への信仰が完全に歴史の事実によって覆された。資本主義は体制としてはすでに過去のものとなりつつある。資本主義体制には原則上すでにひとつの終止符が打たれている(30頁)。
高島がこの記述を残してから,いまはもう2014〔2020⇒2023〕年であり,60〔66⇒69〕年が経過した。21世紀に入った時代において「社会主義の崩壊が必然であった」歴史の事実は,すでに歴史学の研究課題になっている。「科学的社会主義」をひたすら排他的に自称し,その政治的な理想を無条件につまり盲目的に奉戴し,問答無用的にも厚く信仰した多くのマルクス主義経済学者たちは,その姿をいつのまにか消した。
補注)参考にまで付言しておく。経営学者たちのなかにもそうしたマルクス主義信者が大勢いたが,いまでは影も形もなくなったかの結末になっている。かつて,筆者は彼らの教条・信念にまったく合わない人物だとして邪視され,いつも冷たい視線をあびせられてきた。ところが,ソ連邦の崩壊後,彼らの態度に豹変が生じた事実には,正直いって本当に驚愕させられた。
昨日までは学会の集まりなどで筆者に遭遇するたびに「冷たい目線を発していた」彼らのうち,たとえばR大学経済学部教授のS・T氏は,以前は異様に鋭いまなざしを筆者にいつも向けていたところが,「その後」は,「やー▽▽さん,こんにちは!……」などと,温顔をとりつくろい挨拶してくれるようになった。
その豹変ぶりと来たら「ナントカ演技賞」ものであったか,などと,いまでも忘れられないくらい,とても上手であった。
〔記事:本文に戻る→〕 かといって,カール・マルクス『資本論』などの資本主義体制批判論すべてがいけないのではない。「マルクスの思想と方法」をとりちがえ,無条件に権威化させ,理論的にも絶対化していた亜流社会科学者たちの側にむしろ問題があった。
ともかく「社会主義体制にどのような原則があるか」と十分に問われるまえに,その現実の歴史は1990年ころには実質終止符が打たれていた。ソ連邦が瓦解するや否や,周辺の東欧社会主義諸国も一気に滅亡した。
地球上においては,まともに社会主義国家体制を維持しているとみなせる国はない。最初の社会主義国家はソ連邦であったが,このソ連邦崩壊したあとの現在では,中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)・ベトナム・ラオス・キューバなどが,いちおう社会主義体制を標榜している。
これらの国々が社会主義国家体制を,まともにまとっているかと問われたら,実質的には〈否〉と答えるほかない。なかには世襲した3代目が独裁者として君臨する「前近代的な封建王朝国家」も残されている。例の「某国非民主主義反人民偽共和国」がある。
いまの時代となっては,マルクスの理想もレーニンの指導もスターリンの策術も,ただむなしく歴史の幕間に出没していたかのようにしか映らないのである。こうして21世紀の時代にまで通じる歴史認識を手がかりに,さらに高島『社会科学入門』を聞いてみたい。
※-4 世界発達史観-資本主義体制と社会主義体制-
資本主義体制の起源は,封建体制の終焉を意味した。ところで,日本のような後進国においては今日〔ここでは昭和29::1954年当時を前提した話〕でもなお,資本主義と封建主義との奇妙な絡みあいが絶えず問題となっている。このために,資本主義と社会主義という「2つの体制の問題」は,いやおうなしに3つの体制の問題にまで発展する。
つまり,資本主義体制の危機・社会主義革命の必然・社会主義革命に対する資本主義体制再建の問題,これらなどが現実の問題となればなるほど,私たちの関心は単に資本主義と社会主義という2つの体制だけでなく,封建体制という過ぎ去ったはずの体制にまで遡らねばならない(高島善哉『社会科学入門』31頁)。
社会生活というものは,政治や経済や法律や倫理などが相互に複雑な関連をもちながら,つねに歴史的に生成し変化し発展する。これは自然現象に対する社会現象のめだった特徴である。この点を「3つの体制の意識」に結びつけて考える。
資本主義体制は「資本の支配する体制」,社会主義体制は「労働の支配する体制」であれば,封建体制はなんと規定したらよいか。いちおうこれを「身分の支配する体制」という観点から観察できる(32頁)。
「3つの体制」は人間の歴史の生成・発展のなかなら生まれでた。封建体制から資本主義体制が,資本主義体制から社会主義体制が生成・発展する筋道を理解するさい,それぞれ人間の歴史のうえに現われた3つの個体として理解され,その特性を明らかにする。それぞれの体制にはそれぞれの原理と法則があり,体制から体制への発展にもひとつの法則が存在する。社会科学はこの法則を研究する(33頁)。
今日の社会科学的関心は,資本主義体制に対決を挑む社会主義体制であり,そして資本主義体制がかつて対決を挑んだ封建体制でもあった。高島はとくに「社会科学というものは元来資本主義体制の科学である」「なによりもまず資本主義体制の科学として理解される」と断わっていた(34頁)。
以上の高島善哉の記述を介して考えなおしてみるべき「日本の政治」は,現状においてなお「古代史的な古層」をそのまま,世襲3代目の政治屋が跳梁する実相をもって再現してきた。
それは麻生太郎だけの問題ではなく,現首相の岸田文雄が「文字どおりの愚息」を,首相秘書官に抜擢(エコヒイキの身内厚遇)したところ,この本ものの「バカ息子」が2022年12月の暮れであったが,
親族の同年齢層のいとこたちやダチを「官邸内の公邸」に連れこみ,忘年会をして騒いだ事件の発生にもつらなっていた。しかもオヤジの文雄はその事実をしっていただけでなく,自分もいっしょに集合写真を撮っていた。
まともな国であったならば,岸田文雄は即,辞職である。
縁故政治(ネポティズム)・身内ひいき主義の内政が,現に主流派的な政治的な意味あいかたちづくり,その本領を発揮してきた日本の政界であるからには,このままいったらこの国の政治品質はますます劣化・腐敗・堕落する一途でしかありえない。
日本の政治は現状において庶民の側からは,とくに税金の次元ではつぎのように,ただ,うしろむきにしか受けとめられていない。以下は「格差社会」が浸透・普及したこの社会における税金の種類を形容した各項目である。
以上が菅 義偉前首相風にいえば「公助・共助・自助」の順番を逆向きして,ごく当然と考える政府の人民収奪路線の具体的な中身である。まるで,人間が「息をしているだけで税金,生きているだけで税金,・・・」という感じ,である。上級市民にはそれほど負担感を感じないこれら税金の諸項目であっても,下級市民には肩に食いこむような重荷となっ,がのしかかってきている。
※-5「風土に関する八つのノート」1965年~1966年のための予備的考察〔その2:階級,民族の問題〕
1) 階級の問題
階級への関心は体制への関心よりもずっと直接的で身近である。日本のばあい,天皇制の運命に対する国民の関心は,この国民が明治維新以来置かれてきた特殊な境遇からして,きわめて異常なものであった。敗戦後,天皇制の運命に関する問題は,日本国民の手の届かない海の彼方において決定せられる事柄であった。
それは,私たちの日本国民の力の外にあった。敗戦後,占領政策の少なくとも最初の期間における基本方針は,根強い封建的・軍事的な勢力を一掃するために,国内におけるいっさいの民主的な思想と勢力を動員することであった。日本国民は敗戦と同時に階級の意義を自覚させられた(高島『社会科学入門』35頁)。
しかし,ここに紹介した高島の見解は,当時としての制約が課せられていた点はいたしかたないにせよ,「天皇制の運命に関する問題は,日本国民の手の届かない海の彼方において決定せられる事柄であった」などとは,絶対的にいえなかったことに注意が必要である。
21世紀になってから急速に蓄積された「日米国際政治関係史の研究」が闡明した〈昭和天皇の軌跡:その実像〉は,敗戦後においては象徴天皇になったはずの立場をはるかに逸脱する「彼による〈政治的な行為〉」を記録していた。
敗戦後もしばらく時間が経過し,気持もある程度落ち着いてき昭和天皇の表情は,観方によるが,すでにときに自身に満ちた雰囲気さえうかがわせる写真もある。
つまり,敗戦後においても天皇制そのものの「核心に居た人物=昭和天皇」が実は,自分の運命に対する政治的働きかけをみずから工作していた事実が記録されていた。
いいかえれば彼には,自分の政治的な立場を有利にするための〈私的な行為〉を,日本国外務省のみならず首相の立場さえ無視したかたちで,アメリカ政府国務省とする直接交渉としておこなっていたという〈秘密の事情〉があったのである。
敗戦直後からはたしかに,この国の進路がどのように決められるかは「日本国民の力の外に〔も〕あった」のだけれども,天皇裕仁自身が自分の手を使って切開した〈歴史の行路〉があったのである。彼は,自分の命運にみずから働きかけることによって,昭和史の未来を能動的に創造してきた。
いまとなっては,戦後日本政治史におけるそうした事実を抜きにして,高島善哉のように論じることはできない。もっとも,いまから半世紀も以前における高島の見解であったということに鑑みれば,これ以上きびしく高島を論難することはできない。
2) 階級の分化
高島の見解に戻る。「階級とは生産手段の所有と非所有とをめぐって区別される社会の二大集団」である。階級の問題はすぐれて経済学的な問題であり,資本主義体制において階級がもっとも純粋なかたちで現われる。階級への関心が社会科学への通路を扼しており,大きな意義をもつことになる。
階級と階級との対立は,資本主義体制の確立と発展につれて鋭くなってくる。そのもっとも純粋な,経済的な姿における階級というものは資本主義体制の産物である。そのなかでも「資本家と労働者の階級的対立」が,もっとも根本的なものである(高島『社会科学入門』39頁,41頁,42頁)。
日本の場合でいえば,階級対立の最初の意識はすでに日清戦争直後に現われたが,それが欧米諸国のように大衆的な運動と結びつくのは,第1次世界大戦後であった。資本家と労働者の階級関係は多分化している(つづく以下も,43頁)。
☆-1 地主と資本家の関係。
☆-2 資本家でも労働者でもない中産階級の問題。
☆-3 官僚・教師・サラリーマンなどいわゆる知識階級の問題。
☆-4 資本家階級でも,産業資本家・商業資本家・金融業者などと複雑に分化しており,その相互の利害は必ずしも一様ではない。
※-6 社会科学本来の任務
資本主義体制を階級社会として認識する理論的意味が理解されたとすれば,つぎの問題が出てくる。
「資本主義体制はいつ,いかにして階級社会として成立し発展してきたか」
「なぜ資本主義体制は今日その歴史的使命を終えて,社会主義体制の問題に対決しなければならなくなったと考えられるのか」
これらの問題に答えるのが「歴史学,経済学,政治学,法律学,社会学などの仕事であり,一言にしていえば社会科学の本来の仕事なのである」(高島『社会科学入門』45頁)。
ここに高島が明示した資本主義体制の固有とみられる問題は,30数年も前に起きた「社会主義体制の崩壊現象」を観察しえた「今日的な立場」から観るとき,かつての「社会主義体制」に通じている実質がないとはいえない。別様にいえば,だから「なぜ社会主義体制は今日その歴史的使命を終え」たのかという問題そのものも併せて,あらためて問われてなおされる価値がある。
むしろ資本主義体制のほうが,社会主義的政策要因をふんだんにとり入れた体制の仕組を工夫しながら,より高度化してきた事実に注目しなければならない。その意味では,社会主義体制は政治体制面に関しては中国やベトナムにおいてまだ維持されてはいるものの,つぎに述べられている考察の基本が社会主義体制にもほどよく当てはまるものとして,指摘されてよい。
しかしながら,21世紀になった現時点の現実問題として,中国人民共和国の「政治・経済的な実体」をみれば納得がいくように,社会主義だとはいってもその政治体制内にしこまれた〈資本主義の経済体制〉の要因が,無視できないほど重要になっている。むしろ,こちらが政治経済における〈実質の核心〉になっている。したがって,中国でおいても,前段の「☆-1から☆-4」の問題指摘は,軽重の差はあれ,そのまま妥当する。
もちろん,資本制経済=市場経済の道に遅れて参入した中国経済であるから,いままでの長い伝統がある欧米日の資本主義国とけっして同じではない。しかしそれにしても,基本的には「☆-1から☆-4」と同類の国家社会的な問題を抱えるようになっている。
それだけではなく,「政治は社会主義・経済は資本主義」という二重構造になる体制機能を許すがために,この中国に特有の問題も別個に発生させている。
※-7 民族の問題
体制と階級のあいだにみられる裏腹の関係を,さらに複雑にするいまひとつの大きな問題がある。それは「民族の問題」である。
民族は資本主義体制の発展にとり階級に劣らぬほどの重要な意義をもちながらも,「体制と民族との関係」は「体制と階級との関係」のように簡単ではない。
また「階級と民族の関係」にしても簡単に割り切れない問題がある。民族への関心は体制への関心および階級への関心と入りまじっている(高島『社会科学入門』46頁)。
民族の問題は,日本人の関心にとって一種特別である。いままで東洋における支配的な民族としての意識をもちつづけ,民族的統一は対外的進出の手段として役立ってきた。明治初年以来の日本人の民族意識のありかたは,後進国日本帝国としてはまったく異常な運命であった。しかるにこんどは,その運命の〈賽の目〉が裏返しにされたのである。
日本民族はいまや戦いに敗れた民族として,被支配民族の悲運を身をもって感じとった。かくて日本人の民族的関心のなかには,一種特別の,古い感情と新しい感情との不調和な混濁がみいだされる。このような現実にこそ,日本人・日本民族が社会科学の問題を考えるのには,格好の生きた資料となる(46-47頁)。
--高島善哉の発言について,途中で口をはさむことにする。民族の問題に関する高島の論及は,明治初年以来の日本人の民族意識をとりあげるといいながらも,実際の記述は欧米的な学問のなかで問題になってきた「民族の問題」をもっぱらあつかってきた。
日本帝国という枠組=箍(たが)が一挙に除去された敗戦後の日本国になってからの,しかも1945年8月までは「一等国民であったと自称した支配民族」の記憶・履歴を,日本人自身の「矜恃あるいは傲慢がないまぜになった歴史」を回顧し,内省する議論ではなかった。
それ以降における「敗戦後史」問題の設定に急なあまり拙速となってしまい,重大な欠落でも来したのか,1945年8月までは東アジアの支配民族であった〈この国のありかた〉,つまり〈大東亜新秩序から大東亜共栄圏〉という標語のもとで,具体的に触れていたはずの議論にまでは到達していない。あくまでも・どこまでも,社会科学論として抽象論に徹する議論,これが高島「社会科学」論の特徴であった。
もっとも高島は,民族意識にはその実際の動きからみて「明暗2つの側面」があるといっていた。
ひとつは,1民族が他民族を支配し,征服し,統治するための手段として活用される側面である。もうひとつは,1民族が他民族の進出や支配や圧迫に対抗し,抵抗し,反撃するための手段としての活用される側面である。
日本人=日本民族はこの2つの側面を,自分自身の体験からあらためてみなおさねばならない。というのは,民族意識は全体主義に役だつこともできるし,民主主義の担い手となることもできるという「生きた体験」を経てきているからである(高島『社会科学入門』47頁)。
八紘一宇・神ながらの道,この民族精神が太平洋〔大東亜〕戦争の推進に役立った。けれども,こんどは民族の自立・民族の自活において,こういった民族意識が日本民主化の一翼を担うものと考えられた。こうして民族意識は,闇の使いにも光の使いにもなりえたとすれば,民族意識は性格のないものなのか? そもそも民族とはなにか。体制や階級の問題と結びつけて論じなければよく分からない(47-48頁)。
民族「問題」に関する高島の議論は,敗戦直後の学問事情から強い影響を受けているせいか,一貫して内向的でもある。自民族以外,とりわけ大東亜戦争中までは植民地統治下に置いていた東アジア諸国やポリネシア地域の人びと=民族・人種たちに対する関心は,希薄なのである。社会科学の基礎概念として高島が提示した〈民族問題〉は,過去においては日本帝国が旺盛に議論していた現実であった。
だから,つぎの ⑧ で記述する内容がもしも身近において実感的に議論されるとすれば,それはかつてにおける日帝の姿容にもそのまま乗りうつって考究されてもいなければ,社会科学論としては不十分であると批判される余地を残す。
※-8「風土に関する八つのノート」1965年~1966年の本格的議論 〔その1:民族の問題の基本的性格〕
1)「血と国土」(Blut und Boden)
民族は体制と階級と同じように,人間の集団のなかでもっとも基本的なものである。民族は「血と血のつながり」をもった特定の人びとが一定の風土の上に築きあげた共同生活であるから,体制や階級に比べてもっとも自然的な,もっとも基礎的な人間の集団である。
「血と血のつながり」は民族の一番基本的な要素をなしている。それゆえ,現代社会科学の1部門である社会学では,民族をもって「血縁によって結ばれた人間の共同体」だと説明してもいる(高島『社会科学入門』48頁)。
そしてまた,民族は血縁を基盤としつつも,民族として自立し自活していくためには「一定の国土」がいる。これは,独立の生計をもった家族が血と家とを基盤にして成立する場面とよく似ている。その点でいえば,民族は家族を拡張し拡大したものである。
国土のない民族がさすらいの民族であって,本当に生きた・自立した民族とはいえない。だから,ひとつの民族がひとつの国民となり,ひとつの国家を形成したとき,この民族は本当に生きた民族となる。その意味でも「民族自決の要求」が出てくるのはきわめて自然である(48-49頁)。
さて,高島がここで強調するのは,「血と血のつながり」=民族の基盤の上に「一定の国土」が備わった体裁で「国家が形成された」とき,この民族は「本当に生きた民族」になる,と記述した論点である。
しかし,本ブログの筆者は,このように抽象論による論理構成を蓄積してきた「高島の社会科学論」の方途そのものはひとまず認められるものの,それでもその論理の展開をいったん止めておき,再考してみたく感じることがある。
補注)なお,誤解のないように断わっておくが,高島善哉がナチス・ドイツの支持者であったのではない。しかし「血と国土」という組みあわせに関する記述をするとなれば,Blut und Boden に関する Ideologie 問題を避けて通るわけにはいかない。
2) 日本帝国植民地支配史を欠落させた高島「社会科学史観」
かつての「日本帝国」を想起しながら議論する。以上に引照した高島による議論の内容は,意識的なのか無意識的なのか判然としない。過去の歴史とは距離をとったかのような体裁で「理論的にのみ考察されて」いる。
戦前から戦時中,東アジア諸国において実際に生起していた「日本帝国の占領・支配・統治政策史」に注目し,具体的に説明したい。
かつて『台湾(中国)』そして『朝鮮(韓国)』および『満洲国(中国東北地方)』は,日本に軍事的に制圧され,占領・統治・支配され,そして植民地や属国になっていた。その時代,これら国々や地域における「血と国土」は,植民地経営のもとに置かれていたのであるから,いったいどのような存在様式をもって実在させられていたのか,あらためて検討されねばならない。
日本帝国による植民地支配史は,被植民地側の「民族:血縁」に対して,いかなる政治社会の諸現象史をもたらしてきたのか。それはまた,いかなる正体:支配実体となって出現していたのか。
社会科学の見地でいえば,被植民地側の各民族に固有であるはずの「血と国土」が存在していたにせよ,本当のところは,被植民地側の「国家を形成する」基盤造りに,宗主国側が本当に協力するわけはなかった。
そこでは,被植民地側における「民族の発展」とか「国民の形成」とかに向かった歴史上の諸努力は,基本的には軍事的に暴圧され阻止されてきた。その関連で判断すれば,植民地において独立運動が起こされてきた歴史的な理由は,これをどこに求めればよいのかといえば,あまりにも自明な論点である。
3) 小熊英二『単一民族神話の起源』1995年の問題提起
本書,小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社,1995年)は,1895年に台湾を,1910年に朝鮮を併合して以来,総人口の3割におよび非日系人が,臣民として日本帝国に包含されていた歴史の事実に言及する。
戦時中の「進め一億火の玉!」という名高い標語に謳われた「一億」とは,朝鮮や台湾を含めた帝国の総人口であり,当時のいわゆる内地人口は7千万ほどであった。それゆえ,小熊が問うたつぎのような「疑問が発生」して,当然であった。
「朝鮮や台湾を喪失し,非日系人が一気に少数となった戦後の日本で単一民族神話が通用したとしても,多民族帝国であった戦前において,単一民族という意識が成立しえ〔てい〕たの」か?(小熊,前掲書,5頁)
ひるがえって考える。高島の立論ははたして,「この問い」に対してただちに答えられるのか? 高島流の社会科学論が構成する「国家-階級-民族」論におけるとくに〈民族〉論は,歴史科学の見地から観察する民族問題も,当然のこと「不可欠の理論構成要素」とする。
歴史的な時間の流れでみれば,1962〔昭和37〕年生まれである小熊の『単一民族神話の起源』(1995年)からの《問いかけ》が,1904〔明治37〕年生まれの高島『社会科学入門』(1954年)に,どうしても届かないのはしかたないことであったか。
しかし,だからといって,高島が壮年期〔敗戦の年で41歳になっていた〕以降の学問形成において,少年期から青年期にかけて彼の眼前に繰り拡げられてきた〈日本帝国史の実相〉を想起するとき,彼の「社会科学論」の観察対象に〈それ〉が無関係であったとは思われない。
もとより,小熊英二に指摘されてから気づくような問題だとは思いたくないが,実際には高島が意図せずに理論構成から外していた重要な論点があった。小熊英二にいわせれば,こういうことである。
「日本人」は,いったいいつから,自分たちを単一で均質な民族として描きだしたのだろうか。それはどのような状況のもとで,どのような動機でなされたのだろうか。こうした研究は,日本の歴史をしるうえで重要なばかりでなく,民族の純血意識や均質な国民国家への志向,異民族への差別や排斥といった,現代の国際社会の大きな問題にも通じることはいうまでもない(小熊『単一民族神話の起源』5頁)。
小熊英二はその後も『〈日本人〉の境界-沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮-』(新曜社,1998年),『民主〉と〈愛国〉-戦後日本のナショナリズムと公共性-』(新曜社,2002年)という大著などを公刊し,以上に提示した論点をさらに深く追究していく。
4) 玉城 肇『民族的責任の思想-日本民族の朝鮮人体験-』1967年の問題提示
たとえば,玉城 肇『民族的責任の思想-日本民族の朝鮮人体験-』(御茶の水書房,1967年)から,このように問われることがなければ,高島は自身の社会科学論に全面的に欠落している〈特定の論点〉に気づかないのか?
高島は,この玉城が問いかけてきた方途は想定外であったと判定されていいのかもしれない。
高島「社会科学論」の発想は,「日本人の『血と土〔国土〕』の同一性は保持されている」範囲内に収まってはいる。たかが,せいぜい半世紀から1世紀の歴史における「民族」問題に対する認識であるのだが,そのように狭く制約された思考回路に終始していた。
それだけではなかった。彼の歴史観においては実は,民族観そのものが希薄なのである。そもそもからいうに,5百年から千年の期間に対峙して考えるさい,これに耐えうる「社会科学」論でありうるのか?
ここで考えたいのは,こういう論点である。
「現代日本人と日本石器時代人の差異は軽視され,両者の連続性が強調され」ても,「その起源が問われることもは」「ない」。というのも「これを明確に主張することは,日本人の土地との結びつきを危うくするから」である。すなわち「こうしたことによって初めて,日本人の『血と土』の同一性は保持されている」からである。
註記)坂野 徹『帝国日本と人類学者 1884-1952』勁草書房,2005年,146頁。
ナチス・ドイツ流の「血と土地」(Blut und Boden)論が,他民族を差別し,排斥してこそ成立しえていた歴史的な事情は,われわれがよくしるところである。
敗戦後,昭和20年代における日本国は,過去からの経緯があって形成されてきた〈異民族をとりこんできた歴史過程〉の実態とは別個に,それほど遠くではなかった過去の世界から「単一民族神話の世界」を,それもごく自然に呼びもどしていた。
その反面において忘却したかったのが,昭和20年代の在日韓国・朝鮮人史であった。かつての「一億火の玉」の仲間たちを,つぎのようにして排斥,差別し,日本社会の片隅に押しやり,封殺していこうとする国家政策を繰りだしていったのである。
最後に。なお本日,2023年6月9日には国会で,出入国管理及び難民認定法の改正問題に関して,つぎの事態が起きる予定になっている。
くわしくは,この以下の記事を参照されたい。関連するその最新の報道にくわえて,さらに参考となる知識を教示する解説記事からひとつを挙げておく。
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