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電車と檸檬とパイナップル


最近、やることに追われています。
平日も土日も関係なくやることが山積みで息つく暇もないのです。
もともと時間の使い方が上手とは言えないこともあり、本当に常に何かに追われてます。

本当は趣味のハンドメイドをやりたいし、イラストの練習だってしたい。好きなゲームについて延々と考えていたい。

やりたいこと、やってみたいことが多いのに、やりたくないのにやらなければならないことがそれ以上にある。

学費を稼ぎたいからバイトをしたいのに余裕がない。

学生の今でこんなに何もこなせないのに就職なんてできるだろうか。

そもそも自分はなんでこんなことをしているのだろうか。

ゴールはどこにあるんだろう。

親に無理をさせてしまっているのに、自分で決めたことなのにこんなことになっている自分が情けない。

そんなことばかり考えてここ最近はメンタルの調子が良くないのです。何をしているときでも常にもやもやとしたものがあるみたいで気分が全く晴れない。

こういうときによく思い出すのは梶井基次郎の「檸檬」という小説です。

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。
青空文庫 梶井基次郎「檸檬」より

この部分、なんとなく共感できる気がするんです。初めて読んだときはいまいちピンときませんでしたが、最近はやけに納得できるような、そんな気がする。
ネタバレになってしまいますが、この主人公は最後に、行きつけだったが今はただ気詰まりな店で本を積み上げ、その上に檸檬を置き、帰り道でその檸檬が店ごと大爆発する妄想をするんです。
気詰まりな場所が綺麗さっぱり大爆発する様はさぞかし愉快なんだと思います。

…と、ここまでぐるぐる考えたところで電車が来たので、愛用しているトートバッグにスマホを仕舞おうとしました。そしてふと思いました。

「私のトートバッグ…パイナップル柄だ…」

別になんてことないことです。でもこの10月も後半に差し掛かり気温も下がってきた今、私はド派手なパイナップル柄のトンチキなトートバッグを持っている。結構深刻な顔をして考えているときもその手にはパイナップルがいる。
なんだか、それだけで愉快な気持ちになれたんです。もしかしたらあの主人公も、ピカピカの檸檬を見てこんな気持ちになったのだろうか。

でもパイナップル1つで愉快になれる自分は、なんとなく好きな気がしました。

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