アニメ版『僕の心のヤバイやつ』批評①ー思春期の躓き編ー
1.はじめに
アニメ版『僕の心のヤバイやつ』を見終わった。12話、ずっと充実しっぱなしだったよ、ホントに。皆、このアニメ見ようね。
僕がこの作品と最初に出会ったのは書店だった。
引きニートだった頃、僕は図書館と書店を巡り続ける修行をしていた。書店では、お金がないので、本を買うわけではなかった。
だけど、どんな本が出ていて、どんな本が人気なのか。そんなリサーチをしては、ちょっとした批評を頭に浮かべて、楽しんでいた。
「ほう、これはあれだな。あれ」
で、そんな痛いやつだった僕は、漫画の棚に、このタイトルの作品を見つけて、目が引かれた。刺激的なタイトルだと思った。
脳科学者の中野信子が出す本のタイトルと同じ匂いがした。『サイコパス』『脳の闇』『不倫』。そんな物騒さがあった。
僕が第一巻を手に取ると、表紙絵は、
こんな感じ。
うん、主人公が手にしている本以外は普通だ。何も物騒な所がない。だけど、そうした、日常の中の狂気こそ、物騒とも言える。
漫画の裏表紙には、確か、ちょっとした物語の紹介文があって、主人公がクラスのマドンナを殺す妄想をしているとか何とか。
「いやぁ、ぐいぐい物語に引き込もうとしてくるなぁ」
僕は感心した。感心して、でも、お金がないので、それを買わずに、書店を立ち去った…。
そして、アニメ化決定の朗報を受けて、僕は、
「絶対に見る!」
そう思ったね。
それで、見てみたら、まぁ、なんと大当たり。そうだよ、こういう青春ラブコメを欲してたんだよと歓喜する始末。そして…。
「二期、決定?マジ?」
で、今回から、ちょっと、のんべんだらりと、批評のようなものを書いて行こうかなって。軽く猫パンチしていくみたいに。
今回から?
複数回にわたって、だらだら書いて行くから、興味のある話を読んで行ってくれればいいさ。所詮、この世は暇つぶし。
今回は、思春期の躓きをテーマにして、書いて行こうと思う。第一話の冒頭シーンと第十二話の主人公過去編を参照するから、ネタバレには注意。
まぁ、気楽に読んでよ。
2.傷ついてたんだよ、京太郎
第十二話の主人公過去編から。
主人公市川京太郎(以下、京太郎)は小学校高学年の頃、二人の友だちがいた。塾が同じで、仲良しだった。しかし、同じ私立の中学校を受験するも、京太郎だけ不合格に。
二人とは小学校卒業式の時に、中学になっても仲良くしようと約束するが、疎遠に。京太郎の方から、離れて行ったものと思われる。
中学に入ると、学校を休みがちになり、一年生入りたての頃に行われる林間学校にも行かなかった。人間関係を作ったり、仲を深めたりするのに、うってつけの機会なのに。
学校にはヤミ本を持って行き、休み時間はそれを手にして、自分から人を遠ざけていた。学校に馴染めない理由を、本のせいにして、自分を守っていたのだった。
私立中学の受験失敗。これを起点に考えると、整理がしやすい。これは、思春期の躓きを象徴的に表している。思春期の躓き。それは、一体、どういうことか?
京太郎は、小学生の頃、幾つかの賞をもらっている。文章、自由研究、ポスター等々で、賞を取っている。大活躍だ。
小学生の卒業アルバムに移っている京太郎は、姉の市川香菜(以下、香菜)に「生意気フェイス」と評されてもいる。
賞と「生意気フェイス」が象徴しているのは、前思春期的な万能感だ。
その万能感が思春期に突入する際に、砕かれる。「挫折」を経験する。誰にだってあることだ。万能感の否定が起こって、「過去の栄光」と時間的な距離化が図られる。
思春期の躓き。一つには、前思春期的な万能感の否定ということ。
そして、自分から友だちと疎遠になった理由を深堀すると、別の相、そして、もっと深い層が見えてくる。つまり、「格」の問題、そして、社会意識の問題である。
思春期に入ると、社会意識が発達する。
社会意識?
社会を、ここでは簡単に、三人以上の人の集まりとでも言っておく。社会意識、ここでは、自分と誰かの関係(二者間の関係)を、もう一人の誰か(第三者)が見ている、それを、意識する能力としておこう。
この社会意識が京太郎に友だちとの距離を取らせた原因だろう。自分と彼らとは「格」が違う。だから、つるむべきではないと判断する。
これも、よくある話だ。小学校の頃、仲良くしていたあいつと疎遠になってしまった。同じ中学校で、たまにすれ違うけど、あいつとは「格」が違ってしまっていて…。
そう、思春期への突入は社会意識の発達だ。そして、社会意識の発達が、「挫折」と「格」を生み出し、前思春期的な万能感の否定とスクールカーストによる疎外化に繋がる。
さて、中学校に入った後のことを考えてみよう。
思春期の躓きを経験した京太郎は、学校を忌避し、人間関係からも撤退して、自分を守るようにして、自分の殻に閉じこもった。
「挫折」してしまった、弱い自分。「格」が低さが決まった、醜い自分。自己肯定感が低くなり、自己愛も傷ついた。
本編を通じて、京太郎が人前でおどおどしがちなのは、そんな自分を引きずっているからだ。自分に自信がなくて、人前でどう振る舞えばいいか分からないからだ。
学校に馴染めない理由。本編を見て、京太郎自身の人格やその周辺的な環境に何か馴染めない決定的な理由があるとは思えなかった。
本当の理由は京太郎の心理的な傷つきだったのではないか?
第一話の冒頭シーンへ。
休み時間の学校の教室。京太郎は『殺人大全』を手にしている。ムカついた相手を殺すイメージを浮かべたりしているが、特に、殺したいのはクラスメイトで学校のマドンナ山田杏奈(以下、杏奈)。
夜な夜な杏奈を殺す妄想をしては自己嫌悪しているという。「僕は頭がおかしい」。タイトルや裏表紙通りの始まりでぞくぞくするシーンだ。
このシーン。かなり示唆に富んでいる。
自分の尊厳を回復するために、暴力を振るわざるを得なくなった人たち。そんな人たちがニュースに躍り出たりする。その典型。
「自分だってやれる…。目にもの見せてやる!」
「まるで存在しないかのように扱われる」自分を社会に示したり、「見下されている」苛立ちや憎しみを晴らしたり、自分がいかに強いかを示したりする最後の手段。
それが、彼らにとっての殺人なのかもしれない。
京太郎が「まるで存在しないかのように扱われる」「見下されている」苛立ちを覚える相手に対して抱く殺意はそれだったのだろう。
また、「頭がおかしい」という中二病。これも、根源を辿れば、心理的な傷つきを補償するためにでっちあげた特権的なセルフイメージだ。それで、自尊心の疑似的な回復を図っている。
話を戻して、京太郎の殺意についてだ。杏奈に対してのそれは、他とは違って、少々複雑だ。
京太郎は杏奈から見下されていると思っている。その点は、京太郎の心理的な傷つきも関係する所であり、杏奈との間に「格」の上下を意識している所である。
でも、京太郎は、「だから」、殺意を抱いている、のではない。
京太郎は、杏奈を永遠に自分のものにするために、杏奈を殺したいのであって、社会意識だけに根差していない。これは、社会意識の発達と並ぶ、思春期の決定的な変化、二次性徴と関係する。
二次性徴。それは、身体が性的に発達し、性の意識が芽生え、恋愛への興味が湧いてくる、思春期の変化のことだ。
この二次性徴にも、しばしば、社会意識が入って、性的な魅力度に応じた「格」の割り振りが行われる。逆に、社会意識に、ジェンダー的色合いが入り込みもする。
美しさ。それが、今回のポイントになっている。美しさ。それは、欲望の対象であり、快楽をもたらすものだ。美しい杏奈を永遠に所有する。それは、ねじ曲がった性愛の形だ。
結局、杏奈と関係するのが怖いのだし、杏奈との可能性を感じないから、そういう形の性愛の達成を夢見る。
それは、やっぱり、心理的な傷つきによる。
まとめると、『僕の心のヤバイやつ』は主人公の京太郎が、思春期の躓きに遭って、心理的に傷つき、ねじ曲がってしまっている所から始まり、そこから立ち直り、真っ直ぐに成長していく物語として見ることができる。
色々な人との関わり、出来事を通じて、京太郎は成長していくのだが、やはり杏奈との関係は重要だ。
癒し、喜び、誰かを想う気持ち…。
特に、僕はキェルケゴールを思い起こす。『快楽と絶望ー美的生活と倫理的生活ー』。また、キリスト教の福音やgiftの概念もまた思い出す。それは、次の機会に論じることにする。
3.終わりに
いやぁ、結構書いたね。大学のレポートを思い出したよ。あの頃は、適当に書いてたなぁ。書かされるのと、自分で書くのとでは違うね。
まぁ、今、僕は書きたくて書いてるわけでもないけど。
この思春期の躓き問題。今回は社会意識の発達寄りに考えたけど、二次性徴、特に、ジェンダーの問題を切り詰めて、考えられてない。
それも、今後の課題にしたいね。
今回はどうだったかな?
思春期の躓き問題を乗り越えられてない人って、結構多そうだよね。それで、『僕の心のヤバイやつ』みたいな作品に、人が群がる。
良いビジネスだよ。
仮想的に、視聴者がその問題を向き合ったり、それの解決をシミュレートできて、癒しを調達できるってさ、画期的だと思うしさ、社会は犯罪者予備軍を駆逐できて、作者も儲かって、win-win‐winじゃないですか。
でもさ、そんなの嘘だよって、どこかで思ってるよ、僕は。
まぁ、どの道、仕方ない。仕方ないよ。
いつか僕はチェーホフの『ワーニャ叔父さん』を批評できるようになりたいよ。それが、全ての欺瞞を駆逐し、最後の尊厳を示すだろうから。
勝手な独白して、ごめんね。グッバイ。