場違いな人間は場違いらしく生きていくしかないという話
はじめに
前の記事でも書いたんだけど、4月に入ってから私が住む地域では天気が悪い日が続いていた。
そろそろ日光を浴びたいなぁと思っていた矢先、4/28に良さげな屋外イベントがあることを思い出し、雨が降らない予報が出ていたからバイクに乗って一人で会場に向かった。
イベントは最高に楽しくて、会場内の誘導が全然うまくいっていないこと以外は満足だったんだけど紫外線の量を甘くみていて腕がひどく日焼けしてしまった。
顔はアネッサの日焼け止めを塗っていたんだけど、量が少ない割に値段が張るので顎から下は塗っていなかった。
顎から上はあまり日焼けしていなかったので、さすがアネッサだ。
どうやら汗や摩擦で壊れた日焼け止め層を自己回復する機能がアネッサの日焼け止めにはあるらしい。
取り戻せないライフステージの差
イベント会場では家族連れが多く、よくわからん子どもの絡みにうまく返す保護者を見ていたりすると、やっぱり家族っていいなと思った。
すでに高校の部活の同期のほとんどは結婚した。
子どもを育てている者がいる一方で、私はアラサーにもなって二度目の学生をしている。
学内で募集されるボランティアに応募する際に、学部・学年や年齢を書くんだけど、書くたびにとても恥ずかしい思いをしている。
恥ずかしく思うのは、私が無意識にライフステージに応じた理想像をイメージしているからであって、読者の中には「いや考えすぎでしょ」と思う人もいるだろうし、もしかするとそっちが多数派なのかもしれない。
結婚観の変化
20代前半のときなんて自分が家庭を持つとか、持ちたくなるとか、全く想像できなかった。
前いた大学では卒業研究と就活の傍ら本を読んだりしつつ(特に実験の待ち時間に)色々考えていたんだけど、そのときくらいから「結婚は幸せのお裾分け」だと思っていたような気がする。
結婚とは婚姻を通じた幸せな人間関係を新たなに構築することであり、そのためには、まず自分が幸せにならないといけないと思っていた。
不労所得だけで食べていける資産家や地主でもない限り何かしら仕事をしないと生きていけず、だからこそ自分に合った仕事に就いて、色々苦労がある一方で自己肯定感を保てるようにするのが私にとって幸せへの第一歩であり、結婚へのベビーステップだと考えていた。
いま振り返れば「なんて馬鹿げていたんだ!」と思う。
確かに、ある程度の経済的な基盤と心の余裕が結婚には必要なのかもしれない。しかし自分が幸せでなくとも、相手と付随する人たちと幸せになろうと努力するのがよっぽど大事だ。
まあ正直、当時は心が疲弊していたようにも思うから、自己中心的思考に陥っていたのも無理ないし、「昔の自分は馬鹿げていた」と思うことは精神的に大人になった証左なのかもしれない。
多様性の時代?
日本では投資家たちの戦略によってSDGsがもてはやされるようになり、各大学でも「うちもSDGs頑張ってまっせ」とこぞってウェブサイトでアピールしている。
弊学も例外でなく(むしろ振り切った方の例外かもしれないが)、大学ウェブサイトや「この記事はSDGsのn番に該当しています!」みたいな感じでゴリ押ししている。
大学のシラバスでさえそんな感じで「この授業はSDGsのn番を意識しています!」みたいな書き方がされているし、授業を担当する先生たちも本当に大変だなと思う。
正直、目がチカチカして見にくいし不気味だし、誰のためにやっているか謎だし大学での過度なSDGsのゴリ押しは早いところやめてほしいと思っているが、一番の問題は「質の高い教育をみんなに!」とのたまっている一方で3浪以上を給付型奨学金ならびに授業料減免の対象から除外していることである。
2020年度入学までは高校卒業から入学までの年数に制限がなかったが、2021年度入学から区別(差別?)されるようになっている。
政府・文部科学省主導で大学での学びに制限がかけられ、ライフステージに応じた生き方を求められるようになったことについては、法の下の平等(憲法第14条)ならびに学問の自由(憲法第24条)と照らし合わせて不合理であり、遺憾の意をここに表する。
ポリコレなどで尊重される多様性ってのは社会を管理する側の都合で決まるんだなと思うとちょっと悲しいというか、寂しい気持ちになる。
高校卒業から大学入学までの年数も「多様性」であって良いはずだ。
文句を言っても仕方がないし、授業料減免に関する事務手続きについて所属する大学に定期的に開示請求をやること以外にできることが見つからないから、いわゆる「普通の」ライフステージを歩めないことに後ろめたさを感じつつ、ひっそりと生きていくしかなさそうだなと。
以上です。